HUNTER's LOG on PORTABLE

2009.07.31 沁さん

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HUNTER's MAIL vol.4

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ドキドキしながら沁ですと名乗る

文字数制限なんかじゃ語り尽くせねえんだよ分かってくれよアニキー、という人です。
というか毎回毎回文字数制限に引っ掛かりまくってもう……ゴメンナサイ。

今回も例によって引っ掛かりまして……折角新しいサイトの方から送ってみたというのに!ごめんなさい。毎回話が長くてごめんなさい。長いわりに内容が薄くてごめんなさい。
……こういう部分を減らせばいいのでしょうか。無理!

そういう人なので、今回の措置は非常にありがたかった次第です。さてここまでで何文字ですか?(笑)

えーと、メールフォームで送ろうとした内容は以下からです。

title:怖い話の真相とか
name:沁

本文:
早速のお返事ありがとうございました。やはりお便りというものは緊張しますね。単に私がビビりなだけ?
さて、前回のメールにつきまして、色々補足をば。

・怖い話
クリスチャンも読んでんぞーということでそちらさまも怖いかもしれませんが、実はクリスチャン側からしましても結構"怖い"話なのですよ。別に怒り心頭というようなことはありませんのでご安心(?)を。

宗教なんてものは、人知の及ばない存在である神様が主体になるもの(であると信じておりますが汗)であり、それを人間の知恵だけで解体してしまうことは、解体出来てしまうことは、それ自体が間違っている。しかしそれでも人間ですから、"わかる"ということは非常に魅力的なのですよ。強固な信仰を持って、その立ち位置からそれこそ学問を志してしまえばいいのでしょうが、多くの一般信徒にとって、"わかってしまう"というのは非常に魅惑的な"悪魔の囁き"となりかねないんです。

信仰を保ったうえで、なおそれを楽しむことができるのか?
それを楽しんだうえで、なお信仰を保つことができるのか?
いやー、信仰の試練だ!ということになるのですかねぇ。というか、こういう方向に話が進んでしまいそうな点も怖かったのです。あらま焦点ズレてるじゃない、みたいな!

それとは別に、自分がクリスチャンだということを明かすというだけで、実は結構怖かったりします。怖いのよ。怖いんだってば!

まだまだな私です。

・ルターの思想の方がイエスの思想に近い様に〜
全面的に同意します(笑)。とかいうと宗派間対立がどうのとか面倒くさいことになるようなむにゃむにゃ。私はどんな宗教にいようとも、信仰というものの根っこは変わらないんじゃないかと思っていますので……もうね、神様スゲェ!でいいじゃない……。

・聖人列伝
あー、なるほど。もうね、自分の信仰しているものについてすらよくわからない始末。恥ずかしながら日々勉強です。勉強……してるか?(笑)

・『エッダ』はどうしたんです?
私がキキタイデス……。いや、なんか偉そうに書いてしまったかもしれませんが、あれですからね。完全に趣味で書いている小説の資料にしたかったのがそもそもの始まりでして……片手間ですと資料が集まらない(泣)。やっぱり本は一度手にとって確認してから買いたい、とか思っちゃいますのに、近所にはその手の本が置いてあるような規模(分野?)の本屋がないんですよね。いや、イイワケですごめんなさい。

いや、それでもちまちまと調べてはいます!毎回楽しみな今回のおまけに書かれていた「馬-蛇」のコードあたりもあーあーあーというくらいには!……これはちょっと違う方向の知識な気がしてきました。
ドンピシャな「ヨーロッパのドラゴン2」の項は、読み込んで資料の一部にさせていただく気マンマンです。(笑)

お返事への返事がまた長くなってしまいました。色々と不作法ではありましょうが、どうかお目こぼしくださいませ。

では。

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HUNTER's LOG

沁さんこんにちはー。
あー、これはオオモノが来ましたね(笑)。
いや文章量じゃなくて中身がね。順番にいきましょうか。

> 自分がクリスチャンだということを明かすというだけで、実は結構怖かったりします。

そうでしょうね。昨今はなにがしかの信者だというだけで色眼鏡で見られますからね。んが、結論から言いますと信仰を愚かだと断定できる知性はあたしの知る限り人類史上登場していません。そこは「バカというヤツがバカだ」の路線が通用します(笑)。

しかし「だからあなたも神様を信じなさい」と言ったらヒステリックな攻撃を受けることになるのもご存知の通り。こりゃ一体なんなのか。

これは一種の「宗教間のギャップ」なのだと思います。アタマの中で起こっていることを示すならこうです。宗教を勧められてアレルギー起こした様に反抗反応を起こす人というのは「反宗教」という信仰の信徒なんだと考えて大体遠からずです。キリスト教信者がイスラム教信者に「オマイらはおかしい」と言って「ふざけんな」と返ってくるのと、「現代人」に信仰を勧めて「ふざけんな」と返ってくるのは構造的にはほぼ同じです。

「現代人」とやらが信仰という頭の使いかたの「先へ」進んでいるなどということはまったくない。信仰対象が神様から「反宗教」という神様に変わったことに気がついていないだけです。以上をふまえてなお「その上で信仰は糞だ」と理論武装する人も多いですが、要するにそれは「強硬な反宗教教の信徒」だというくらいのものです。決して本人が思い込んでる様な「脱宗教」などではない。

宗教者であることの告白や布教の生み出す軋轢も、その辺です。宗教を勧めるという状況は「無信仰の人に信仰を勧める」という状況を意味していないのです。反発されるのはその人が無意識に「反宗教」という信仰を持っているからです。宗教の勧めはその人の無意識的な信仰の否定になっているのですね。

そういった意味では宗派の信徒も「現代人」も立ってる地平は同一、仲は悪いですがそれは今までも宗派間が仲悪かったのと同じです。が、沁さんも薄々イメージしておられる真に厄介な人々はもっと穏やかなところにいる(笑)。

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人知

> "わかってしまう"というのは非常に魅惑的な"悪魔の囁き"となりかねないんです。

ガクモンの厄介さというのは実は "わかる" ことを捨てた上に開き直ってるところにあるのですよ。白黒つけようという発想そのものが「たまたま人間の脳がそういう仕組みになっているだけ」のことだと知ってしまった。

彼らは宗教を "解体" しようなどとは思いませんし、"神" を否定しようなどともしない。逆にあらゆるものを解体し、あらゆるものを否定しようとすることもある。どっちだって良いのです。そこではすべての突出・傾向はヴァーチャルなものとなります。ヴァーチャルとは非現実の意味ではありません、現実可能性、「どのような形態をとり得るのかのリスト」のことです。「サンプルそのいち」ですね。

その殿堂の入口にはこう書かれています。

「"世界" は "現実" の棚に押し込むことも "幻想" という棚の上に棚上げすることもできない」

かといって不可知論のニヒリズムでもない。やっかいでしょう?
これは以前も少し書きましたが、世界の実体がなんであれ、少なくとも人間がそれについて述べる言説は次数(次元)が落ちてる、ということにあります。二次曲線に接線を引くという微分が、その接線の無限集合で表されることからも分かる様に、次数が落ちたものが上の次元を語るなら、捉え得るポイントの数は無限になります。つまり、あらゆる言説(一本の接線)は「1/∞」となる。ゆえにあらゆる突出・傾向は「1/∞」のサンプルになるのです。

ここでは「唯一の信仰」という思想も「唯一の信仰という発想をある個人がした場合の1サンプル」となりますし、「あらゆる価値観の相対化」も「あらゆる価値観の相対化という発想をある個人がした場合の1サンプル」となります。「神は人の考え出したアイテムである」だって、「神は人の考え出したアイテムである、とある個人が発想した1サンプル」となるのです。

手のつけ様がない(笑)。

このポジションは非常に超越的・脱領域的な自己イメージをもたらしてくれるので人気ですが、しかし、彼らが「先へ進んだ」思想を展開しているのかというならば "NO" です。ポストモダンというのは別段一歩抜け出た状態であることを意味しません。

> 人知の及ばない存在である神様

文字通りそういうことです。20世紀末に人のあらゆる思想はゼノンの矢の様に的の直前で止まってしまった。知性の次数が一段落ちるとしてじゃあその先どうするのかなど誰も知らない。数千年かけてとんできた宗教の矢は的を前に止まったかもですが、百年でぶち抜いてきた現代思想の矢もまた、的を前に止まっているのです。人は神様どころかその手前の世界の実体という的すら撃ち抜けないのです。そこに差はない。

人類は発揮すべき知性をまだ発揮していない、という空想的なイメージにすがるのでもない限り、要するに知性というのはその程度、ということでしょう。この世の最高の知性が馬車馬の様にフル回転したって、それによって何かが "わかって" 信仰が崩れる、などということはあり得ません。数千年の歴史に渡って宗教を工夫してきた先人の知恵は、その基盤を「それによっては崩れない」ポイントへ置いているのです。そこは「カラマーゾフ」でゾシマがイヴァンに示した光景から何も変わっていません。

ぶっちゃけますれば(笑)、「神」は発生したものです。ヒトの脳が左右に分化した際、左の認識を右が「自己同一的な」ものとして捉えることができなかった。外から声が聞こえてきたのです。やがて前頭前野が発達し、分化した脳を再統合して自己の再統合が果たされます。脳本来のシミュレーション機能の果てが「より完成された自己(人類)像」を示す指針に、「外からの声」が統合され、神は生まれた。

言説をもって以上の言説の整合性を覆すのは困難でしょう。
しかし、こういう言説を信仰者が「怖れる」こと自体が根本的に間違っているのです。間違っているというより、それを「迷い」と言うのです。

なぜなら、言説がゼノンの矢状態の失速をするであろうことなど、現行の信仰の発生した数千年の前に既に予想されていたからです。良いですか?宗教は現代思想以前の古い頭の使いかた、ではないのです。そんな予測はとっくに突破した上で、じゃあ何がなし得るのかを考えてきたのが宗教なのです。

神とは記号にすぎない、なんてことは小学生のあたしだって思った(笑)。イエスもシッダールタもそんなの当たり前に認識していたのです。しかし彼らは信仰を持てと言う。信仰とはなんでしょう。

それは決して不可侵の領域ではありません。

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信仰とは何か

端的に言いましょう。
信仰とは複数の接線を同時に扱うためのアプローチです。

言い切るのもあれですから、現代において信仰が重要な働きを示す一つの視点、としておきましょうか。あたしはこれが最重要だと思っていますが。

「信じる」ということは情報が足りない状況を思い込みで納得するという行為「ではない」。もとより情報の過不足というのは一本の接線、一本の言説の整合性を保つためのものです。接線を複数とり、それを同時的に語ろうというときに、その整合性の要求はまったく意味をなさない。
例えましょう。

時に現実に起こる状況に「現代思想」は糞の役にも立たないことがしばしばです。歩いていておっかない兄ちゃんに肩がぶつかって「ゴルァ」となったときに、「物理的に今の状況を説明しますと………」とか「いや、他者との接触というものが意味するものは………」とか御託を抜かしていたら、ぶん殴られておしまいです(笑)。

彼が言おうとしたことはあるいは彼が状況に引こうとした一本の接線の整合性という意味では正しい。しかし、それは「兄ちゃん」側から引かれる接線を度外視している上に現実の移行スピードにまったく間に合っていない。

ここで物腰柔らかく「はい、ごめんなさい」とおさめることができたとしましょう。ここに言説的な思考は一切働いていません。その文化圏において必要とされる「その場をおさめる」複数の接線の交錯する「型」が即時的に上手に示されただけです。

つまり、人の論理的な思考が示すものなど目の前の現実の要求する即時性にはまるで追いつきはしないのです。言説を操ることのバカバカしいイメージというのはここにあります。寅さんが出てきて「おめえ、インテリだな?」と揶揄されるのです。

それは人類誕生以来ずっとそうでして、当たり前の様に早くからその即時性に耐えうる手法が研鑽されてきました。信仰というのもその一つなのです。複数の人間が接する状態、複数の接線が交錯する状態、すなわち「社会」においてコミュニケーションを円滑にとる事のできる即時的に効果のある方法を精錬してきたのです。

「信じる」というのはこういった複数の接線にまたがって発動し、さらに目の前の現実に即応するスピードを持つ、ハイフローな速度を持つ言語化を超えた思考の束のことです。そこに頻出するパタンは単純には「常識」として共同体が共有します。そして、それを一定の「型」として選択し、精錬していくことが「宗教的共同体の存在理由」にほかなりません。

単純に二点をとった二本の接線ですら、交錯する一点以降に再度交錯することはない。そのような無数の接線の無限延長上の無数の点の集合を何と言ったのかというと「神」と言ったのです。その「神」を一本の言説の上の整合性として捉えようなどという試みほど馬鹿げた話はない。

神は思考に保証されなきゃならない様なものではないのです。

言説を怖れることが迷いであると言ったのはそういうことです。

ですから、「神」の整合性が示せないことや、「それが示せる可能性」を囁く悪魔など「何の試練でもありません」。

それは単なるカテゴリミステイクなのです。

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現代において

といったことを何の信仰も持たないあたしが鼻息荒くして語ってもイマイチ説得力がないので(笑)、このくらいで。

先頭にも述べた様に、今宗教者が直面するつらさというのは「最大宗教」が「反宗教教」であるという点にあります。それは「科学と宗教」という文脈よりもむしろ、上で述べた様な複数の接線を容認できない現代人の有り様に因があります。どんな状況でも一本の接線(言説)上で整合性がとれないと気持ち悪い、という。

逆に言ったらそこに現代の宗教者が取り組むべき大きな課題があるでしょう。沁さんが腰掛けてるそれは複数の接線を引くことにかけては数千年の知恵を持つのです。幾多の通時的な文化の変遷をくぐり抜け、あるいは共時的に他地域の文化へ打って出ても通用してきた伝統宗教には、必ずそれはあります。

信仰と学問を両立させるなら、そのようなコミュニケーションの方法への思想をひらくこともできるでしょう。しかし、そうでなくても普通の日常にそれは展開していけるのです。信仰とは相手を折伏することではありません。その信仰が目の前の現実として起こった波乱を上手にまとめてのけるなら、それが本当ではないでしょうか。キリストを持ち出さなくても、ブッダを持ち出さなくても、あるいは神や仏を持ち出さなくても、その信仰が日常的な一言を持ってその場をおさめる知恵となるならば、それが最上だ思います。そしてそれは現代思想がまったくできていないことなのです。

ということで、「焦点がずれる」ということですが、確かにあたしは「ドラゴン」にそんなメッセージはのせてないです(笑)。しかし、読んだ方がそこに書かれたものを「自分の問題に引き寄せて」考えていただけるなら、それこそ書いた甲斐があるというものなのです。単にあそこであげた情報・思考の枠組みを示すだけなら1/10の分量で十分です。ネットでは普通「そうしろよ」と言われる(笑)。

でも、あたしは長々と(長きゃいいってもんじゃないですが)書いたものが誰かの何かを触発することの方が重要だと思っています。情報の提示だけならWikipediaがあれば良い。今回も絵に描いて額に入れた様な無信心者の勝手な御託ではありますが、それが少しでも沁さんご自身の問題へのヒントを含んでいたらと思うのです。

ですんで、うちはこのくらいの「ズレ」では動じません(笑)。また何か「あのオヤジ突っついてなんか言わしてみよう」と思いましたら、いつでもどうぞ。

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