ファリーズーンの龍

門部:世界の竜蛇:イラン:2012.05.03

場所:イラン:シャー・ナーメ
参考資料:
黒柳恒男:編訳『ペルシアの神話』(泰流選書)
J・バルトルシャイティス『幻想の中世 II』(平凡社ライブラリー)
タグ:王と竜蛇/西洋の龍の図像


伝説の場所
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イランの神話伝説は11C初頭にフェルドウスィーにより一大叙事詩『王書(シャー・ナーメ)』としてまとめられた。イラン(ペルシア)のアーリア神話・ゾロアスター神話がイスラームの影響を受けてまとまったもの、と大雑把にしておこう。このあたりの経緯は「ザッハーク」に述べたので参照されたい。

今回はその魔王・ザッハークを討った英雄・ファリーズーン(フェリドゥーン/フレードン/スラエータオナ)のその後の話である。魔王による千年の統治を破ったファリーズーンは「クース」という森に宮殿を構えたそうな。現在のマーザンダラン州・アーモルを過ぎてタムミーシェに向かった、ということなのだが、分かるのはアーモルまでだったので、一応そこに地図はポイントした。同州はザッハークを封じたダマーヴァント山が南に、北はもうカスピ海というところである。

マーザンダラン州から望むカスピ海
マーザンダラン州から望むカスピ海
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そして、ファリーズーンはザッハークに幽閉されていた先の(ゾロアスター教的な)光の王、ジャムシードの娘姉妹を妃とし、三人の男児をもうける。子どもたちは名を与えられぬまま育ち、立派に成人する。三人の王子はイエメンのサルヴ王の三人の娘達を難題を乗り越えて妃とし、父王のもとへ帰ってくる。この時、王ファリーズーンは自ら龍と化し、王子たちを試すことになる。

このあたり「ザッハーク」で参照した『世界神話伝説大系』ではすっぱり割愛されて、いきなり三王子に国土が分けられる話になってしまっているので、黒柳恒男:編訳『ペルシアの神話─「王書」(シャー・ナーメ)より』(泰流選書)から紹介しよう。

ファリードゥーン王は王子たちを試す:
ファリードゥーン王は三人の王子が帰って来ることを知ると、出迎えに行き、王子たちを試すことにした。そこで王は獅子でさえも逃げられないような竜の姿をして行った。怒りに燃えて口から火を吹き、王子たちに近づくと天地に響く咆哮をあげ、まず、長男に突進した。
すると長男は「知性があり慎重な男は竜と戦わない」と言って、素早く背を向けて逃げた。そこで竜は弟たちの方に向かった。次男は竜を見ると、弓に矢をつがえ、引き絞って言った。「もし戦うのであれば、敵が荒れ狂う獅子であろうがかまわない」。
末の弟は兄たちに近づき竜を見て叫んだ。「われらの前から消え失せろ。お前は豹にすぎない。獅子の道を歩むな。ファリードゥーン王の名を聞いているなら、このようにわれらに挑むな。われらはともにその王子で、矛を振るう勇者だ。ここから砂漠に立ち去るがよい、さもないとその頭上に恨みの冠をかむせてやるぞ」
栄光高きファリードゥーン王はこれらを見聞きして王子たちの性質を知ると、その場から消え、一旦去ってから、今度は父として王者にふさわしく威儀を正して王子たちを出迎えた。

黒柳恒男:編訳『ペルシアの神話』(泰流選書)より要約

龍と化すファリーズーン
龍と化すファリーズーン
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龍となって「次代の王の出現を試す」のだ。これにより、長男は「怖れを知らぬ勇者は単なる狂人である」と褒められ、「サルム(身の安全・サラーマト)」の名を授かり、小アジアと西方を与えられる。次男はその火のような豪勇を褒められ「トゥール」の名を授かり、トルキスタンと中国を与えられる。そして末子は「思慮深く勇敢で、急ぐことも遅らすことも存じている。世で賞賛されるべきはそなたのような者だけである」ともっとも認められ、「イーラジ」の名を授かり、イランの王座を与えられた。

この次第が、「ザッハーク」で述べたような「怪物化する王」とは少しベクトルの違う様相である。確かにファリーズーンの龍も正統な獅子たる王の反面として出現し、王子たちを試すのだが、ヘブライからキリスト教に見る徹頭徹尾の悪という竜蛇像からはやや離れているように思う。また、ゾロアスター教にしてもその属性が悪というならひたすら悪・闇のはずなので、その象徴アジ・ダハーグの龍などとは様相が異なる。王子を試すためとはいえ、真に竜蛇が忌むべきモノだったなら、神聖な王がその形をとるというイメージは出ないだろう。

そもそもこの話は『アベスターグ』にはなかったと黒柳は言う。散逸後、別路を経由して取り入れられた可能性はあるが、イスラーム化して後に発生した、ないし拡張された話である、という感じは確かにあるだろう。イスラームではユダヤ・キリスト教程神経質に竜蛇を嫌いはしない。このような点を「ザッハーク」の補遺として見ておきたかったわけだ。イランの竜蛇といってもそのイメージには時代による変遷があるのである。そして、今回は実はそちらに絡んだ次の話がむしろ本題となる。

このあたりから西洋にかけての龍像の変遷について、主に図像的な面から見る方向に少しふれて行きたい。入門編、というくらいで、もっとも大きな変化のあった時期を概観してみよう。

ベオウルフ」でも述べたように、後に四脚(ないし二脚)で蝙蝠状の翼を持つことになる巨大蜥蜴のような西欧の怪物(つまりドラゴン)も十二世紀くらいまでは多く「ワーム(長虫)」だったのであり、要は手足も翼もない蛇だったのだ。もっとも万事というわけでもなく、同「ベオウルフ」で紹介したサットン・フー出土の兜飾りや楯飾りが有翼のドラゴンだと言うなら七世紀のゲルマン・ヴァイキングたちはそのイメージを持っていたことにはなる。また、同じくゲルマン北欧神話の所謂「古エッダ」は十三世紀以前には成立していたとされるが、この冒頭に置かれる「巫女の予言(ヴェルスパー)」には次のようにある。

下のニザフィヨル(暗い山並)から黒い飛龍、閃光をはなつ蛇ニーズヘグが、舞い上り、翼に死者をのせて、野の上を飛ぶが、やがて沈むであろう。

谷口幸男:訳『エッダ』(新潮社)より引用

ニーズヘグは世界樹ユグドラシルの最下層に棲み、樹の根を齧っている蛇だが、世界の終り・ラグナロクの際にはこのように飛び立つのだ。この記述が正しく十三世紀以前に遡るものであるならば、ニーズヘグも古くからの有翼のドラゴン、少なくとも有翼の蛇ではあるだろう。

しかし、全体的にはこのような像は見えず、後にドラゴンの位置に来る怪物たちは、やはり蛇であった。孤高の碩学、ユルギス・バルトルシャイティスは次のように言う。(J・バルトルシャイティス:著/西野嘉章:訳『幻想の中世 II』平凡社ライブラリー)

(悪魔が蝙蝠状の翼を持つに至った経緯から)悪魔の化身の一つである龍についても同様の進化が看て取れる。ロマネスク美術の龍は翼も足もない蛇か、さもなくば蜥蜴の尻尾を持つ鳥であった。


J・バルトルシャイティス『幻想の中世 II』(平凡社)より引用

リヨンのサン・マルタン=デネの彫刻
リヨンのサン・マルタン=デネの彫刻
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同書原註として「サンテニャン、モワサック、リヨンのサン=マルタン・デネ(教会堂)」とあり、リヨンのサン=マルタン・デネに見える像は上写真のようなものである。蛇であろう。

これが、十三世紀を過ぎてゴシック美術の時代に突入するのにつれて、われもわれもと蝙蝠のような翼を生やしていくのである。

この初期の形象の一つがエドモン・ド・ラシ(一二五八年殁、ビーヴァー城)の『詩篇集』で装いも新たに見られる。蝙蝠の翼手を持つ龍は十三世紀後半から次第に数を増してくる。ジャン・ピュセルからフーケまでほとんどの写本において龍は同じ姿をしている。建築装飾や聖職者席にも彫刻されたものが見出される。


J・バルトルシャイティス『幻想の中世 II』(平凡社)より引用

このうち「聖職者席」の例としてポワティエ大聖堂の聖職者席の像が掲載されているが、次の写真のようなものである(1300年頃)。獅子と取っ組み合いをしているが、確かに蝙蝠のような翼がある。これがヨーロッパの「所謂ドラゴン」の初期タイプなのだろう。

ポワティエ大聖堂の聖職者席
ポワティエ大聖堂の聖職者席
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さて、ではこの時期にこのような変化が起った理由は何なのかということなのだが、十三世紀というのは西洋が東に起こった大帝国の脅威にさらされた時代である。すなわちモンゴル帝国・タタールの襲来の時代だったのだ。西欧そのものがモンゴル帝国に侵入されることはなかったが、脅威の時代を過ぎると、冒険商人たちがこの大帝国を通過して中国の方へと進出した。その経路のひとつにイランもある。

これらの悪魔の新しい持物はどこから来たのか。その方法は西欧ほど完全なものではなかったが、イスラームも西欧と同じ頃にそれらを利用していた。一二九一年に遡るイブン・バフティーシュの動物寓意譚のペルシア語模本はモンゴル統治下の最初期のものとして知られる挿絵の一つだが、そのなかの、シャムラーシュによって打ち負かされる龍は、ゴシックの聖ゲオルギウスや聖ミカエルによって組み伏せられる怪物と大差ない。十四世紀初頭の『王書』の一写本のなかでファリドゥーンの息子を襲っている龍についても同じことが言える。これらの像は画法がすでにあまねく認知されていた時代の産物であるため、その起源を明らかにするのに充分とは言えないが、一つの方向を与えてくれるし、その性格を把握するうえでも助けになる。すなわち、龍の故郷は東アジアであり、そこではいたるところに龍がいたのだ。


J・バルトルシャイティス『幻想の中世 II』(平凡社)より引用

十三世紀のイランというのはモンゴル帝国の一翼イル=ハン国に他ならない。イランの地にアーリア人の時代とアラブ人の時代の後にやって来たのはモンゴル人の時代だったのだ。ここで、先のファリーズーンの龍の話の挿絵をもう一度見てみよう。

龍と化すファリーズーン
龍と化すファリーズーン
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これはさらに下って十六世紀、サファヴィー朝の、おそらくタブリーズ(イル=ハン国以降のイランの中心)で描かれたものだが、確かに人々はイスラームというよりモンゴル・テュルクのようであり、龍の像は中国の龍のようである。

ファリーズーンの龍(拡大)
ファリーズーンの龍(拡大)
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ここで、例えばベネツィアの冒険商人ニコーロとマフェオのポーロ兄弟などはフラグ・ハーン(イル=ハン国の初代ハーン)の外交官について中国へと赴くわけである。二度目の中国行へは幼いマルコも同行していたという。かくして(中国的文様に彩られた)元朝の、特に絹織物や陶磁器が続々と西アジア・中央アジアを経由して西欧へ流入することになり、ローマ法王ベネディクトゥス11世の遺体が元朝産の錦で覆われることにもなるのだ。

東洋の有翼龍(日本の神社)
東洋の有翼龍(日本の神社)
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適当な画像資料が見つからなかったので、上写真は日本の神社の有翼龍像だが、中国では十世紀代の龍の図画に同様のものがすでに見え、『幻想の中世 II』では同じような龍の素描(1081年)が掲載されている。

ともかく、この時代のさまざまな図像に関し、バルトルシャイティスは、悪魔・鬼神・龍の比較から樹木霊・象鼻霊・大耳一角霊……等々の比較を通じ、これらゴシック建築の壁面にミッシリと象られる怪物たちが東洋の図像の影響のもとに生まれていったものだと結論している。

聖ゲオルギウスと龍
聖ゲオルギウスと龍
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イランにおける『シャー・ナーメ』の挿絵入りの模本の多くはタブリーズで作成されたものであり、今われわれはそこにアーリア・ゾロアスターからアラブ・イスラーム、そしてモンゴル・テュルクの向こうに中国文化までが重層している様を見ることが出来る。そして、そこを経由してヨーロッパの、今ドラゴンと言って思い浮かべる龍たちも生まれ出てきたのだ。大航海時代に先駆けること二百年。すでに世界は大きな交流の流れを見せ始めていた。同時期竜蛇たちも大いに飛び交い、その子孫を遠くユーラシアの反対側まで運んだのだ。

人の流れには竜蛇の流れがある。龍学とは、つまりそういうものなのだ。ファリーズーンの龍が先のように描かれた背景に見えるもの、それを今回は見ておきたかった。

memo

ファリーズーンの龍 2012.05.03

世界の竜蛇

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