クリシュナ・前

門部:世界の竜蛇:インド:2012.05.17

場所:インド:マトゥラー
収録されているシリーズ:
『世界神話伝説大系14』(名著普及会):「クリシュナ物語」
タグ:インドのナーガ


伝説の場所
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「インドはヘビ信仰の古代の発祥地と見なされるに違いない」とデズモンド・モリスも言っているように、太古から現代に至るまで他を圧倒する蛇信仰を持つのがインドだ。ヒンドゥー神話の中でその蛇たちは多く「ナーガ」と呼ばれ、一族を形成しているのだけれど、何となれば個別の名を持つナーガだけで五百以上もいるのだそうで、一度に「インドの竜蛇」などとはとてもまとまるものではない。また、大変おおらかなようでいて、実は細かな所が緻密に連絡しているというのがインド文化でもあるので、そもそも神話・伝説の全体的な流れから外れて個々のナーガだけ見てもあまりよく分からないものである。そこで、今回はインドでも一二を争う人気の神格「クリシュナ」の物語を前後編で追いながら、登場するナーガたち(ではない竜蛇もいるが)を通し、とりあえず「どんなものか」を物見遊山的に見聞していくことにしよう。

まず、歴史というほどではないけれど、少しバックグラウンドのことを知っておこう。紀元前十六世紀ごろにアーリア人が北西よりインド亜大陸に侵入し、以降千年をかけて思想を洗練させていき、バラモン教を作り上げる。この経典がヴェーダ。ヴェーダにはナーガはおらず、神的な竜蛇は「アヒ」と呼ばれていた。同アーリア文化のゾロアスター教で言う世界を滅ぼす竜蛇「アジ・ダハーグ」の「アジ」と同じ言葉だと考えられている。ではナーガはどこにおったのかというと、アーリア人に押し込められて南インドにいた。

ナーガたちの石像物
ナーガたちの石像物
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インドにおける蛇崇拝が、アーリア人の侵入以前の土着のものであるという考えは正しいと思われる。つまり、インド半島を南下するにつれて蛇崇拝はますます盛んになり、南インドのドラヴィダ語族の地帯で絶頂に達するからだ。そして、その地域では上級カーストの富裕な人たちは、みな屋敷の南西隅を、聖なる蛇の住処としてとっておくのである。

東京美術『蛇の宇宙誌』より引用

いきなり横路にそれるが、この南インドの蛇を祀る次第が興味深い。先の屋敷神のような「屋敷の南西隅を、聖なる蛇の住処としてとっておく」というだけでなく、次のようでもあるという。

南インドでは、この信仰に高度に形而上的な意味がくわわるが、かれらはいまだに崇拝されており、彫像はきまって木のしたにある。木のまわりの土地が耕されずにのこされているのは、ヘビが自分の特別な領域として制約のない一画のジャングルをもっていれば、人間を攻撃しないらしいという考えにもとづいている。

R.&D.モリス『人間とヘビ』より引用

日本の田の神や薮神と一脈通じるものがある。ともかくこのような土着の蛇信仰がアーリア文化外にあったとされ、これが非アーリア文化の復活とともに表舞台に立ち上がって来るわけだ。これはガウタマ・シッダールタやジャイナ教を開いたマハーヴィーラの活躍した紀元前六・五世紀のことである。

マトゥラーの水辺
マトゥラーの水辺
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これに少し先行し、紀元前七世紀以前にクリシュナのモデルとなった英雄・宗教的指導者がマトゥラーあたりにいたのだろうと見る向きもある。上村勝彦は『インド神話』(東京書籍)の中で、古代インド学のパイオニア、辻直四郎の説を次のように要約している。

クリシュナはなかば遊牧に従事していたヤーダヴァ族の一部ヴリシュニ族に生まれた。父はヴァスデーヴァ、母はデーヴァキーという名であった。……(中略)……クリシュナはバラタ族の大戦争に参加し、パーンダヴァ軍を助け、アルジュナ王子の御者として決戦に挑んだ。クリシュナはヤーダヴァ族の精神的指導者であり、新宗教の創始者でもあった。それは、その神をバガヴァットと称し、主としてクシャトリヤ階級のために説かれた通俗的宗教で、実践的倫理を強調し、神に対する誠信の萌芽をも含んでいたと想像される。クリシュナはその死後、自ら説いた神と同一視されるにいたったようである。この新興宗教は次第に勢力を拡張したので、バラモン教の側もそれを吸収しようとして、バガヴァット(クリシュナ・ヴァースデーヴァ)を太陽神ヴィシュヌの一権化と認めた。

上村勝彦は『インド神話』より引用

かくして地図上ポイントしたマトゥラーには強力にクリシュナを信仰する人々がいたのであり、このクリシュナと同一化することによってヴェーダ上ではあまり活躍のなかったヴィシュヌはシヴァと双璧をなす神格へとのぼりつめるのである。

クリシュナ・ジャナムブーミ(マトゥラー)
クリシュナ・ジャナムブーミ(マトゥラー)
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いずれにしてもこれら脱バラモン的な宗教改革が行われ、結果的にはマウリヤ朝に、その後クシャーナ朝に保護された仏教の隆盛をみるのだが、水面下ではバラモンたちが自らの思想を脱アーリア化(ヒンドゥー教化)させていき、紀元四世紀のグプタ朝の登場とともにヒンドゥー教が広まることになる。ここにナーガたちが活躍するヒンドゥー神話の世界がインド標準の世界観となり、クリシュナの伝説などあらゆるインドの神話伝説を巻き込み吸収し、連絡させていくことになるのだ。

ところでナーガナーガと言っているが、形状的には(多くは多頭の)コブラのことだと思って良い。「インドで崇拝の対象となる蛇は、事実上コブラに限られている。伝説に現われ、美術作品に描かれるコブラは、やはりふつうは頭が一つだが、雄の場合は時には五頭のときがあり、これに反して雌はいつも頭が一つである」(『蛇の宇宙誌』)ということである。

しかし(また脱線するが)、歴史上の特に外部からの視線においてはインドニシキヘビの類も脅威に見られたようだ。プリニウスはインドではニシキヘビらしき竜蛇が日常的に象を襲い、特に夏の暑い盛りには象を丸呑みにすると書いているそうな(象の血液は冷たいと考えられていた/『人間とヘビ』)。中国の『山海経』の「海内南経」には「巴蛇(ハダ)」という大蛇が描かれ「巴蛇は象を食い、三年してその骨を排出した」とあるが、プリニウスのいう大蛇に大変近い。海内南経というと今の福建省の以南となる地のことだとされるが、インドから東南アジアにもそのような話が広まっていたのかもしれない。また、アレクサンドロス大王の兵は、インドに侵入した際、自分たち「マケドニア軍の楯のように、大きな光る目をした怪物(大蛇)」の話を持ち帰っているという(『人間とヘビ』)。このように、もしかしたらインドの蛇信仰も古代にはコブラ一辺倒というわけでもなかったかもしれず、この辺りは少し頭の隅に置いておいても良いだろう。

ヴィシュヌと光背のナーガ
ヴィシュヌと光背のナーガ
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話を戻すと、先のような歴史の流れの上でクリシュナの伝説が立ち上がってきたのであり、そこに登場する竜蛇は概ねコブラが巨大化したような存在だということだ。以上のようなイメージを踏まえつつ、ではそのクリシュナの誕生から見ていこう。

誕生:
月世界の王ヤドゥの後裔にヴァスデヴという聖者があった。この人は既にロォハン王の王女なるロォヒニーを娶っていたが、暴虐無道のヤーダヴァス王カンスが無理やりに自分の妹のデヴァキー姫をヴァスデヴに妻わせたので、彼は二人の妻を持つことになった。が、この婚儀が終わると間もなく天の一方から声がして、カンスは妹の第八王子の手にかかり命を落とすだろうとの託宣があった。そこで暴虐なカンス王はヴァスデヴの子供を次々に殺していった。
デヴァキーが七回目の受胎をした時に、蛇族のシェッシュまたの名をアナンタが胎内に乗り移った。ヴィシュヌはこの子供はカンス王の手にかからせまいとして、自分と同じ姿を今一つ造ってこれをマツフラーのロォヒニーの胎内に与えた。さらにヴィシュヌはその分身を娘として牛飼いの妻ヤソダーに授けると、三人の子を巧みに入れ替えカンス王の目をくらました。
このようにして、ここにアナンタの化身バララーマが第七子・ロォヒニーの子として、ヴィシュヌの化身クリシュナが第八子・デヴァキーの子として生まれた。

名著普及会『世界神話伝説大系14』より引用

これがクリシュナの誕生である。クリシュナの神としての行動・教えは『マハーバーラタ』の『バガヴァッド・ギーター』に語られるが、下ってクリシュナ自身が英雄となる伝説が広まり、『バーガヴァタ・プラーナ』としてまとめられた。今回の話は『世界神話伝説大系』からだが、その『バーガヴァタ・プラーナ』を簡略にまとめたものである。しかし、簡略化されすぎている所もあるので適宜補おう。例えば、そもそも順序としてはカンサ(カンス)王の暴虐に耐えかねた人々の祈りが回りまわってヴィシュヌにとどき、ヴィシュヌがカンサ王を討つ存在を地上に出現させようとした、という背景であったりする。そして、バララーマとクリシュナという兄弟が生まれるのである。

バララーマ(耜がその象徴)
バララーマ(耜がその象徴)
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バララーマはクリシュナの兄であり、実質クリシュナの二重存在・ダブルであり、終生変わらぬ友であった。クリシュナほど神々しくはないものの、人間離れした力を持ち、悪鬼の類を討伐してもいる。この兄弟が、クリシュナがヴィシュヌの化身であり、バララーマはナーガ・アナンタの化身であるというのだが、より詳しくは次のようであるという。

ヴィシュヌは、七番目の娘デーヴァキもまたヴァースデーヴァと結婚するという運命をあらかじめ定めた。彼は自分の身体から一本の黒い毛を、蛇アナンタすなわちシェシャから一本の白い毛を抜きとった。彼はとぐろを巻いたシェシャの上に横たわっているのであった。彼は白い毛はデーヴァキの、バララーマと呼ばれる七番目の息子に、黒い毛はクリシュナと呼ばれる八番目の息子になる、という運命をあらかじめ定めた。

ヴェロニカ・イオンズ『インド神話』(青土社)より引用

よりその繋がりの濃さが伺えるだろう。さて、ここに最初のナーガ「アナンタ」が登場している。「シェーシャ(シェッシュ・シェシャ)」であるとも書かれている。アナンタは「無限」を意味し、シェーシャは「持続時間」を意味する。もとは別だったかもしれないが、下っては同一の存在とされる。

ヒンドゥー神話上、竜蛇族ナーガは聖仙ダクシャの娘カドゥルーが千のナーガを生むことを望み、彼女から生まれた。ちなみに姉妹のヴィナターからガルダが生まれており、故に仇敵のナーガとガルダはいとこにあたる。アナンタ(シェーシャ)もこの千のナーガのうちの一である。

アナンタ
アナンタ
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シェーシャ:あるいはシェーシャナーガ。ナーガ(蛇)族の王。パーターラと呼ばれる下界の主。一〇〇〇の頭を持ち、世界創造のあい間にヴィシュヌを上に乗せて眠らせる。彼は世界を支えるものとも、七つのパーターラ(地獄)を持ち上げるものともいわれ、彼があくびをすると地上に地震が起る。

菅沼晃『インド神話伝説辞典』東京堂出版より引用

すなわちアナンタは「永遠の蛇」でも見たインドの世界蛇である。千の頭が世界を支えているというのだが、これは本質的にはこの世のあらゆる事象が根本の蛇から枝分かれしているのだ、というイメージであるのじゃないかと思う。

古代インドの宇宙観
古代インドの宇宙観
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ともかくこのアナンタが、兄弟やいとこのガルダが争ってばかりいることをはかなんで苦行ばかりするので創造神ブラフマーが世界を支える役割を与え、シヴァによる世界の解体の際には次の創造までヴィシュヌのベッドになることになったのだ(ヴィシュヌはシヴァの破壊に対して「継続」をつかさどる神)。さらにアナンタ・シェーシャは、ヒンドゥー神話における天地創造である乳海攪拌の際にマンダラ山を回すロープ代わりになるナーガ・ヴァースキとも同一であるとされるのだけれど、それはまた稿を改めよう。

このような巨大なナーガ・アナンタとヒンドゥーの神々でも頂点にいる一柱のヴィシュヌの組み合わせが、地上に化生したのがバララーマとクリシュナの兄弟なのである。いずれ単なる「暴虐の王」を誅するためにしては大げさなのだが、この王も只者ではない。暴虐の王カンサ自身が、悪魔によってこの世に生み出された存在なのである。このあたり、単なる暴虐の王を倒す英雄神という枠よりも、アーリア・ゾロアスター的な光と闇の戦いのひな型が地上の戦いに現れる、という感覚に近い。世界を支える神と蛇の化身というのも大げさでもないのだ。

そして、そうであるので悪魔の力を存分に振るうカンサ王はこの後、一度は騙されたものの、予言された自身を討つ第八の王子が既にこの世に出現していることに気付き、同時期生まれたマトゥラーの子どもたちを皆殺しにしようとする。こうしてカンサ王とクリシュナの戦いの物語がはじまるのだ。前半の今回は背景とクリシュナの誕生までとなったが、後半でそのクリシュナの活躍と、まつわる竜蛇たちを見ていこう。

ヤムナー川(マトゥラーあたり)
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クリシュナ・前 2012.05.17

世界の竜蛇

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