癩王とネアク

門部:世界の竜蛇:カンボジア:2012.05.11

場所:カンボジア:アンコール
収録されている資料:
『蛇の宇宙誌』(東京美術):「インド・東南アジアのナーガ」
タグ:王と竜蛇


伝説の場所
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今回のお話はカンボジアの中世に栄えた王国、クメール王国(アンコール王国)の創建神話を語るもの。このために、少しインドシナ半島の歴史をおさらいしておく必要がある。

およそ紀元前三万年くらいには現生人類は東南アジア一帯に広まっていたと見られ、以降旧石器時代・新石器時代と順当に文化を積み重ねていた。特徴的なのは渡海技術で、島嶼を結んで同様する人骨が見られるため、旧石器時代すでに百キロを超える航海をしていたらしい、ということだ。

イモ・バナナの栽培は早くから行われていたと見られるが、革命が起ったのは紀元前二千年頃。この頃長江下流域の稲作文化が東南方に伝播したと見られ、以降今に至るまで稲作米食の文化である。また、紀元前四世紀頃からヴェトナム・タイに見られるドンソン文化の青銅器は雲南から中央・北アジアまで連なるルートを示している。特に「銅鼓(下写真・図)」に見られる造形は大変興味深い。

ドンソン文化の銅鼓
ドンソン文化の銅鼓
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日本の弥生時代と同時期に稲作・金属器の使用が広まったようで、かなり類似する点があるようだ。この点は、あとで問題となる。ともかく、このあたりまでは華南の方との連絡が大きい文化だったということである。

これが紀元前後からインドからの航海者が頻繁に訪れるようになり、ヴェトナム南部のオケオ遺跡などからはヒンドゥー教の神像からローマ皇帝の金貨まで、西方の文物が見つかっている。一世紀のギリシアの記録にはこのあたりのことが見られ、すでに「海のシルクロード」は開かれていたのだろう。無論中国側の記録にも見え、中国への朝貢も行われていたのだが、二世紀頃からはインド文化の影響のもとに港市国家群が成立して行くことになる。タイ湾に面した扶南、東岸の林邑(チャンパ)などが知られるが、このうちクメールとは近縁であるらしい扶南があとで問題となる。

ミーソン聖域
ミーソン聖域
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この後、中国で隋・唐が、イスラームではアッバース朝が成立し、東西帝国間の文物人の経由地としてインドシナはにぎやかになる。土地の文化的にはこの頃も全般的にインド由来のヒンドゥー教・仏教文化であり「インドの飛び地」という観が強い。このあたりまでがインドシナの古代と位置づけられる。

十世紀に入り、唐が崩壊するのにあわせるように海の路も安定を失い、インドシナは次代に入る。古代港市国家群勢力が衰退し、それぞれの地でやや内陸に入り王国が立ち、富国強兵策をすすめた。古代に中国・インドから得た文化を独自のものとして再編集する時期だったとも言える。ここでカンボジアの地に起こったのが今回の主役、クメール(アンコール)王国である。一足早く、九世紀にジャヤヴァルマン二世によって創建され、四代ヤショヴァルマン王の治下で拡大した。

アンコール・ワット
アンコール・ワット
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十二世紀から十三世紀にかけてこの王朝が築いたのがアンコール・ワット、アンコール・トムの大伽藍である。しかし、十三世紀を過ぎると(またもや)モンゴル大帝国出現の波を受け、これら中世王国は瓦解していき、インドシナは新しい世界規模の東西交易の時代へと巻き込まれて行くことになる。こうして見るとクメール王国の時代とはカンボジアの中世そのものであることが分かるだろう。

ここが重要な点で、アンコール遺跡=ヒンドゥー教寺院という図式で「インド文化」と見られがちなのだけれど、見てきたように前代のインド文化を自前のものとして咀嚼・再編集するという、中世の所産、ということなのだ。以上のような大雑把な流れを踏まえつつ、では実際の神話を見ていこう。

カンボジアではナーガはネアクと呼ばれ、とりわけ王権をめぐる伝承に重要な役割を果している。たとえばクメール族は彼らの王朝の起源を、初代の王とネアク(ナーガ)族の王の娘との結婚にもとめている。ふつう語られている形式では、初代のカンボジア王プラ(プリヤ)・トンは、アリアデシャの地からやって来て、トロクの島に着いた。ここは地下道でバトバダル、つまりネアク族の海底下の滞在地とつながっており、ネアクたちはこの島にふざけにやって来るのだった。プラ・トンはそこでプション王とその娘に出会い、この王女に恋し、結婚してトロクの島を支配した。するとこの島は神の恩恵によって拡大し、巨大な王国になった。しかし、そのあとで致命的な失敗にあってプラ・トンはネアク王プションを殺してしまい、この岳父の血を身体に浴びた。プラ・トンがネアク王を殺したのは故意にではなかったのだが、殺した罪の罰として、この返り血によって彼は癩病になってしまった。この癩王こそが、あのアンコール・ワットにある〝癩王のテラス〟の彫刻の人物なのだという(モノ・二四九〜五〇)。

東京美術『蛇の宇宙誌』より引用

癩王のテラス:癩王(とされてきた)像
癩王のテラス:癩王(とされてきた)像
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引用部の一章は大林太良による「インド・東南アジアのナーガ」の章。三島由紀夫が「癩王のテラス」という戯曲を書いているが、そのもとネタがこれというわけだ。もっとも実際の「癩王のテラス」の像はどうもヤマ神であったようだが。

異伝ではネアク王が若夫婦のためにトロクの島の上にアンコール・トムを作ってやったのだとあり、舞台はアンコール遺跡の土地に他ならないようである。実はアンコール遺跡ばかりが紹介されるが、この地の南側は東南アジア最大の湖、トンレサップ湖のある土地であり、水の土地なのだ。

トンレサップ湖の暮らし
トンレサップ湖の暮らし
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Wikipediaによると「トンレサップ水系で採れる魚は、カンボジア人のたんぱく質摂取量の60%を占める」というのだからまったくの所「母なる湖」であろう。伝説の舞台としてこれは良く覚えておかねばならない。

ここでさらに注目したいのは、すでにクメール族に先立って古代の港市国家から大きくなった先の「扶南」に、同様の創建神話があったという話である。大林は東南アジア市の泰斗セデス(ジョルジュ・セデス)によれば、と引いている。

その伝説のものがたるところでは、カウンディンヤ(これはインド北西部の有名な氏族名である)というインド人バラモンが、ある事情からこの国に渡来し、その地方の土侯であったナーガ(竜王)の娘ソマーと結婚したという。

東京美術『蛇の宇宙誌』より引用

「扶南の建国説話によると、バラモンの混填が来航し、現地の女王柳葉と結婚して国をつくったという」などと並の歴史書ではあっさり書かれるが、この柳葉がナーガの娘ソマーなのだ。ともかく、扶南とクメール(もともと同系とも言われるが)双方に共通するのは「外来の僧・英雄が土着のネアク(ナーガ)の娘との婚姻により王権を得る」というモチーフであり、これは次のような祭儀として、当時も履修されていたらしい。

十三世紀にカンボジアを訪れた周達観が、アンコールの都で聞いたところによると、王宮の中に金塔があり、王は夜ごとにその下に臥す。土地の人の話では、塔のなかは九頭の蛇の精がいて、この一国の土地の主であって、女身である。夜ごとに国王に会い、これと同衾するのだという(周達観・『真臘風土記』)。
インドシナ研究者ルイ・フィノーが論じたように、この民間の信仰によれば、始祖王がネアク王の女と行った結婚を、国王は毎夜更新しているのである。寺院や王宮のテラス、階段、鏡板に彫刻されたおびただしい多頭のナーガは、国民の母たるネアク女の主権を視覚的に宣言しているのである(マルシャル・一六八)。

東京美術『蛇の宇宙誌』より引用

周達観は伝記不明だが、元代の中国の役人である。アンコールへの使節団に随行して見聞録を書いた。ともかく、このような次第から「インド文明波及以前のインドシナの古層文化に置ける竜蛇の信仰がなかったか否か(大林)」というテーマが生ずるのだ。

かくしてアンコール遺跡はネアクだらけなのだが(下写真)、私はここにもう一つ考えておきたいことがある。それはインド神話の水の女神・精霊である「アプサラス(アプサラ)」のことだ。

アンコール・トムのヤマとネアクたち
アンコール・トムのヤマとネアクたち
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インドのカジュラホの寺院に見られるエロティックな女人像はアプサラスである。これはカンボジアでも神に仕える巫女・アプサラ(下写真)として今に続いており、ネアクとそっくりだ。

アプサラの祈り
アプサラの祈り
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インドにおいてはナーガは別段水神格に特化しているということはまったくないので、アプサラがネアクとして(ないしネアクに仕える巫女として)「水の女」の性格となっているとしたら、それはインドシナの信仰の性質を反映していると言えるだろう。そもそもこの話は、日本の海幸山幸神話とインドシナの王権神話との類似を指摘し、「東南アジアから東アジアにかけての海域で広く語られていた王朝の始祖の冒険譚であり、王朝起源説話であった(大林)」とするところがキモであるわけだが、王権を支える巫女に類似する所があることも見逃さないようにしたい。

さて、このようなことでクメールの創建神話は王と竜蛇と蛇巫の連なりを追う上できわめて重要なポジションに来るのだが、ここにクリティカルにかかわってくる一つの「説」を最後に紹介しておこう。

国語学者の大野晋は、その晩年にいたって古代日本語にインド南方のドラヴィダ系のタミル語と著しく類似する面があることを指摘し、日本文化の起源を南インドに求めた。無論言いだしたのが『岩波古語辞典』を編纂した「大野晋」でなかったら一顧だにされなかっただろうが、かなり騒ぎとなった。当初の論調ではドラヴィダ人が弥生時代に大挙して日本列島にやって来た、という感じだったので、それはもう大変な批判を受けて、後、インドからの商人たちと交易をするための「クレオールタミル語」が形成され、これが日本語の起源だとやや軟化した。

もっとも今に至るもトンデモ説とする人が多いが、額面どおり取るわけにはいかないとしても、そうそう笑ってすむ話でもないのではないかと私は思っている。それは、インドシナに今回見たドンソン青銅器文化のこともあり、下っての王朝起源説話のこともある。

ドラヴィダ文化と直結するのは難しいとしても、インドシナに展開した南インドと親和性の高い文化とはよくよく比較してみる必要があるのだ。大体古代クレオール語が形成されたのだとしたら、その舞台はまさにインドシナに他ならないだろう。

アンコール・トムのナーガとネアクたち
アンコール・トムのナーガとネアクたち
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「龍学」としてはナーガが(仏教以前に)日本まで来ていたのかという実に大きな問題と直結する話であり、まことに目が離せないインドシナなのである。なぜかその神話・伝説は他地域と比べて紹介されていないようなのだが。私が「龍学」として最初に実地を踏まねばならない海外の地はここかもしれない。アプサラの巫女たちにすっかり参ってしまったのじゃないか、という話もあるが(笑)。

memo

癩王とネアク 2012.05.11

世界の竜蛇

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