月間神社

索部:伊豆神社ノオト:2011.09.19

祭 神:事代主命
相 殿:天照皇大神
創 建:嘉祥三年(伝)
    式内:竹麻神社三座(論社)
例祭日:十一月二日
社 殿:流造/東南東向
住 所:賀茂郡南伊豆町手石

『静岡縣神社志』など

月間神社
月間神社
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青野川の河口、手石湾の奥に鎮座される。伊豆急下田駅から石廊崎行きのバスに乗ると、途中手石を経由する。下賀茂方面行きのバスで途中(「日野」バス停で分岐)降りて歩いても30分くらいである。ただし、大通りには面していないので、きちんと地図を確認して行く方が良い。

ここは式神名帳に見る竹麻神社三座の本座に比定される所であり、もっぱらその一点が重要となる。土地が古くから月間の名であり、また、中世神階帳には「月まの明神」とあり、「つきま」ないし「つくま」がもとであるとされる。式内:竹麻神社の読みも「つくま」である(現社号は「つきま」神社」)[資料1]

狛犬
狛犬
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そもそもこの社の創建は『続日本後紀』承和七年九月のこととして記される、伊豆諸島神津島の噴火(誌上は「造作島」と描かれる)にまつわる。これは六国史上の伊豆三嶋大神の初見である。神津島(上津島)の噴火はこの島にいます后神・阿波神の怒りであるとされ、大々的に報じられている。『続日本後紀』上、この記事に割かれている紙幅からして尋常ではない[資料6]

ここでは阿波神は伊豆三嶋大神の正后であり、後の后である三宅島にいます后神・伊古奈比咩命が三嶋大神とともに阿波神に先んじて叙位を受けたことに嫉妬して怒り狂ったのだとされている(后神たちの正後は時代によって、伝系によって異なる)。これを畏れた伊豆国在庁官人等の解状により、阿波神(阿波命)とその御子神・物忌奈命(ものいみなのみこと)は同年従五位の授階がなされている(後しばしば昇叙)。

阿波命・物忌奈命共にいずれ本地は神津島であるが、この大噴火の一事を受けて、半島側に遥拝所をもうけたのが竹麻神社であると伝わり、三嶋大神・阿波命・物忌奈命の親子三柱を祀るので竹麻神社三座となる[資料1]。往時は手石湾はもっと深くに入り込んでおり、「鯉名の大港」と呼ばれていた。竹麻神社も初めはその大港の奥、現在の青市との境近くの・南伊豆東小・中学校のあたりに鎮座していたと伝わっている[資料4]

本殿覆殿
本殿覆殿
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この古・竹麻神社が鯉名の大港の縮小に伴い、現社地へ遷座。さらに分裂遷座したと考えられているのだが、この点に関してははっきりとした伝承・記録がある訳ではない。主に以下の考えがある。

1. 三嶋大神・阿波命・物忌奈命の三座が三社に分裂した。最有力とされる比定社は月間神社(三嶋大神)・下田市吉佐美八幡神社相殿(阿波命)・湊の若宮神社(物忌奈命)。
2. 月間が手石と湊に分裂するのに併せて湊に物忌奈命のみを分霊した[資料4]
3. 竹麻神社三座の主体は現在の月間神社そのものであり、分裂はしていない[資料4]

私は「2」(+α・後述)だと考えているが、一般的には「1」とされる。鯉名の大港と呼ばれていた頃の海水の浸入を見込んで描いた当該地区の地図は以下の通り。

手石湾周辺
手石湾周辺
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下田市吉佐美・八幡神社
下田市吉佐美・八幡神社
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湊・若宮神社
湊・若宮神社
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また、月間神社には上の神津島遥拝の地である、という伝とは別の、直接神々が上陸されたのだ、という伝もある。

当社伝ニ云三島大神神津島ヨリ当所弁天島ニ渡御アリテ字笑戸ヨリ上陸当社ニ鎮座シ給フト

『増訂 豆州志稿』より引用

という社伝があったというのだ[資料2]。笑戸は「わらふど」と読み、「笑止」とも書かれるが、現在どこにあたるのかはよく分からない。弁天島は手石湾の西の端の先で、いま弁財天岬と言われる。この伝から月間神社はまた「三島大社ノ旧地ナリト」とも言われてきており、すなわち三島大社は神津島→手石→田方三島大社、なのだとこの土地の人たちは思って来たのだろう。

実際月間神社には「正一位三島大明神」を刻した古額が伝わっており[資料3]、これは治承元年源氏追討祈願により称せられたのだともあり、馬鹿にした話でもない。南豆から田方への三島大社の遷座というのももっと柔軟に考えた方が良いのかもしれない。

「竹麻神社」とある扁額
「竹麻神社」とある扁額
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合祀の神明社に関しても述べておこう。これは「日野神社」として古くから奉祭されてきた神社で、明治八年に合祀されている[資料3]。日野とは先の竹麻神社旧社地とされる辺りのことだ。そして、そこから青市の方へ遡った土地は古く蒲谷郷と言ったそうで、伊勢神宮の御厨であったとある[資料7]。あるいはその頃から伊勢神宮を祀っていた末裔であるかもしれない。

境内社:水神社
境内社:水神社
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また、境内社として水神社(祭神:水速女之神)が神池に祀られている。

参拝記

月間神社へは平成二十二年の十一月二十三日に参拝している。怪しい雲行きの中上でも述べた竹麻三座の一座に比定される下田市吉佐美の八幡さんから手石まで歩いたのだが、最後ここ月間神社で土砂降りとなり、撤収している。

社頭
社頭
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さて、以下少し気になる所に関して私見を述べておこう。まず、上に紹介したように、ここ月間神社には三嶋大神・その后神・その御子神が上陸して鎮座されたの伝があり、また、ここから田方の三島大社に遷座されたの伝がある。これは下田市白浜の伊古奈比咩命神社の伝える所と同じである(一般に伊古奈比咩命神社が三島大社の元宮とされる)。そして、こちら手石湾の東側に「遠国島(おんごくじま)」という岩島があり、その上から焚火の遺構が発見されている。

再掲・手石湾周辺
再掲・手石湾周辺
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下田白浜・伊古奈比咩命神社では今に至るも島嶼へ向って火を焚く「火達祭」が執り行われおり、遠国島や下田須崎の恵比寿島上から発見された焚火遺構も同様の古代祭祀の痕跡であると考えられている。

もし、この遠国島の火祭りの主催社が竹麻神社であったとするならば、式内:竹麻神社三座の比定議論ではまったく名のあがらない田牛(とーじ・とうじ)から遠国島にかけての海岸線にもっと注目すべきだろう。思うに竹麻三座に関しては三嶋大神・阿波命・物忌奈命がどこに祀られたか、という議論に汲々とするよりも、三宅島─白浜・伊古奈比咩命神社に対する、神津島─阿波命の信仰空間がどのようであったかをもっと漠然と想定した方が良いのではないか。

手石御前の祠
手石御前の祠
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もう一点。月間神社の南東2〜300mほどの所に「鬼女手石御前の祠」というものがある。「手石」の由来伝説の地である。

鬼女の手形:(前半略)そのころ伊豆の海岸地方に、鬼女がすんでいて、いろいろ悪行のかぎりをつくし、里人をこまらせていました。
八丈島に流されていた役の行者は、この噂をきいて、あるときこの地にでかけてきて、鬼女に呪文をかけて修伏しました。
鬼女は、もだえくるしんで、行者の前にふしころびながらゆるしを乞いましたので、行者は、
「二度と悪業をせぬと誓って去れ、そのしるしに手形をのこせ」
と、命じました。
鬼女はうなずいて、かたわらの石に手をあてたかと思うと、いずこともなく逃げ去っていってしまいました。
あとの石には鬼女の手形がはっきりのこっていました。
この石を手石とよび、このときから地名を手石というようになったということです。

『伊豆の民話』(未来社)より引用

もとより手石は「手磯(ていそ)」であり、磯の字画の多いのを嫌って石になったとされるので[資料7]、昔話は昔話だが、この手石御前の祠が式内:伊波比咩命神社の論社として名があがるのだ。もっとも最有力論社は同南伊豆町一色の姫宮神社であり、名の意味の類似で手石はあがったのだろうが、私はむしろ手石御前の祠は長浜御前とも呼ばれる阿波命に関係するのじゃないかと考えている。

阿波命は本地の神津島では今でも「祟る女神」と畏れられる神格である。かつて手石側でも阿波命を祀る為に強力な物忌みが課されていたとすると、先の昔話に変化してもおかしくないような気がする。詳しくは吉佐美八幡のところで述べるが、上に見た三社分裂の次第で、どうにも吉佐美は遠い、というのが実際歩いてみての感想である。そのような意味でも、月間神社に近いこの手石御前の祠には注目しておきたいのである。

脚注・資料
[資料1]『式内社調査報告 十』式内社研究会:編 皇學館大学出版部
[資料2]『増訂 豆州志稿』秋山富南・萩原正平著(寛政十二年/明治二十八年)
[資料3]『静岡縣神社志』静岡県郷土研究協会:編(1941)
[資料4]『南豆神祇誌』足立鍬太郎:著(昭和3年)
[資料5]『伊豆の民話』岸なみ:編 未来社(1957)
[資料6]『増補六国史7』佐伯有義:編 朝日新聞社(1940)
[資料7]『大日本地名辞書』吉田東伍:著(1907)

月間神社(賀茂郡南伊豆町手石) 2011.09.19

伊豆神社ノオト: