鷺島神社・龍神宮

索部:伊豆神社ノオト:2011.09.01(追記:2011.09.03)

鷺島神社(ささげ弁天)
祭 神:不詳
創 建:天正年間(伝)
例祭日:十月十五日
社 殿:不明/南南東

龍神宮
祭 神:龍神
創 建:幕末期
例祭日:不明
社 殿:流造/南南東向
住 所:下田市柿崎

『南豆風土誌』など

鷺島神社(ささげ弁天)
鷺島神社(ささげ弁天)
フリー:画像使用W840

下田市柿崎三島神社から道を挟んだ対面に下田湾上に岩山が突き出していて、鷺島ないし弁天島という。今は陸続きになっているが、昔は小島だったそうな。この岩山の海側に鷺島神社(ささげ弁天)が鎮座され、お隣に龍神宮も鎮座される。神社の管理も柿崎三島神社さんの氏子の方々でおこなわれている。

鷺島神社は神社庁にも届けのある神社なので、いずれ御祭神も公的に申告されているはずだが、『南豆風土誌』には「不詳」となっている[資料1]。通例なら市杵島姫命だろうか。要するに弁天さんなのだが。

天正年間の創建であるという伝承と、後述の吉田松陰が弁天島の窟(祠)に潜んだ、という話のほかには、各資料ともほぼ何も記載がない。名称に関しては、神仏分離に際して「鷺島神社」と登録されたが、今も昔も「ささげ弁天」の名で通っている。写真の社の扉を開けた中にも「ささげ弁天」の扁額がかかっていた。私見だが「鷺島」ももとは「ささげ島」ないし「ささぎ島」のだっただろう。

鷺島(弁天島)
鷺島(弁天島)
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もとより伊豆半島東側の港・漁師町では海につき出た岩山小島なり岩礁なりを弁天・龍宮の名で祀るのは一般的なことであり、ここささげ弁天もそういう意味では珍しい所ではない。しかし、その「ささげ」という名が非常に重要だと私は考えており、ここが特記事項となる(全面的に私見なので後半に)。

龍神宮
龍神宮
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ささげ弁天のお隣には「龍神宮」がならんでいる。龍神宮は幕末に下田城主の肝いりで勧請されたようだが、以下に見るようによく分からない。

開運下田龍神宮御由緒:
この龍神宮は子育ての神として有名な鬼子母神様の神授の詞によって下田城主の御守護神であられたと教えられ観光の発展海上の安全、家内安全はもとより福縁の神として法華経により勧請した霊験すこぶるあらたかなる龍神です……

社頭掲示より引用

以下本邦における仏法守護の龍神の解説が長く続くが割愛。神社庁に登録はないようだが、どういう扱いとなっているのかもよく分からない。

なお、何と言ってもここ鷺島・弁天島は幕末吉田松陰にちなむ話で有名である。安政元年下田に停泊していたペリーの艦隊へと密航を企て、夜までこの弁天島の窟(祠とも)に潜んでいたという。松下村塾は座学に加え登山や水練もあったそうだが、松陰自身もともとアクティブな人だったのですな。

弁天島の窟
弁天島の窟
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ちなみにこの窟は私が訪れた際には落石の危険があるとのことで進入禁止になっていた。本来は神社からこの窟をぐるりと潜って巡る一種の胎内潜りのような結構だったようなのだが。

参拝記

ささげ弁天・龍神宮へは平成二十二年の十月二十三日に参拝している。柿崎の三島さんのすぐ隣り(というか「前」という感じ)。鷺島神社とかささげ弁天とか鷺島なんだか弁天島なんだか資料地図によってまちまちなので、社殿の扉を開いて「ささげ弁天」の扁額を見てようやく落ち着いた感じがしたものだ。

弁天と龍神
弁天と龍神
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さて、そしてこの「ささげ」とは何ぞやという話なのだが、私はこれは伊豆諸島に見られる船霊信仰に連なるものではないかと考えている。

船霊ササギ:
ここで取り上げる船霊ササギは、船の安全と漁撈生産の豊漁を願っての信仰である。八丈島では、ごく最近まで、少女が担い手となる船霊信仰が海の生活に大きな役割を果たしてきた。たとえば、新造船の建造を企てた船主は、その建造に着手する前に、自分の近親者の中に(適任者がいなければ、同じ地域の人々のなかに)、初潮前の少女を捜し求める。少女の親の承諾をえられれば、船主は礼をつくして、正式にその少女を船霊ササギとしてあがめ、儀礼をもつ。船霊ササギとは、一説によれば「船霊捧げ」といわれ、船霊様になるには、何よりも初潮前、つまり無経少女であることが絶対条件である。もしこのような無経少女を見出せなかった場合には、閉経後の隠居女性をその役にあてることが許された。

『海と列島文化7 黒潮の道』より引用

おそらくこれだろう。八丈島以外で船霊ササギというのかどうか分からないが、伊豆諸島全般で頭上運搬のことを「ささげ」と言う(同『海と列島文化7』[資料2])。捧げる、だろう。なお、船そのものには船霊ササギの少女の晴れ着と同じ布で作った人形が込められる。船と船霊ササギの少女は一体のものとされるのだ。

船霊信仰全般を論じるとまた膨大なこととなるのでそれはいずれ稿を改めるが、この信仰が伊豆半島側にも伝わっていた残滓が「ささげ弁天」なのではないかと思うのだ。

下田湾(左:鶚島/右:犬走島)
下田湾(左:鶚島/右:犬走島)
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そして当然ながら、これは古くは弁天ではなかった、はずだ。このような海にまつわる女神が皆弁天とされて行くのは中近世の話である。では何だったのか、と言うと現状まだよく分からないが、古代伊豆三嶋信仰にまつわる多くの女神達は無関係ではあるまい。

かつて、下田湾に浮ぶ島嶼は三嶋大神の眷属に見立てられ、信仰されていたと言う[資料3]。鷺島・弁天島ささげ弁天の奥にもそのような伊豆三嶋の姫神が眠っているのかもしれない。

補遺

『伊豆 下田』[資料4]に、いくつかささげ弁天に関する民俗調査が上がっていたので紹介しておこう。

弁天様:
村の人たちがべんてん様といっている社は、要覧には鷺島神社と書いてある。湾の中に出た半島的な小さな島で、(べんてん島とよばれる)そこに祀ってある。神主はなく三島神社の氏子総代が管理している。もと一〇月一五日が祭であった。御神体は現在はない。それは安政の前の津浪の時に流されて、河津に打ち上げられた。それを河津のスズキヤが拾って自分の家においたら盛えたので、返すのをやめたのでとうとう弁天さまの御神体はなくなってしまったといわれている。

『伊豆 下田』より引用

漁師達の神はよく流されたり盗まれたりする。各地のエビスさんも隣村に流された・かっぱらわれた云々という話がつきものである。かつて海からの富は「エビス鯨」のように来訪する神であった。これが神体を持ち、陸に固定されて祀られるようになったことにより発生するギャップを埋めるのがこれらの話だろう。ささげ弁天さんにもその様な「エビス」の側面があった、ということである。ちなみに河津の見高にも非常に良く似た湾につき出た岩山に弁天を祀る場所がある。

もう一点、海の暮らしにも見る狐火のことも覚えておきたい。

かつて、弁天のところに提灯がずらりと並んだことがあった。それは狐が泡を提灯にしたものだったそうである。

『伊豆 下田』より引用

漁師町の神威の現われるところにこのような狐火・狢火の話がよくあるが、狐や狢という怪異のコードを海の民が持っていたかというと疑問である。これらは「龍燈」の伝承がかつてあり、狐火・狢火に変化して語られているのではないか、とも思う。「泡を提灯にしたもの」とあるので、火は海中より生じたのだろう。これらの怪火は要するに人魂と近いもので、「その行く先(来る先)」が海か山か、すなわち他界がどこにあるか、という問題があり、海に生きる人たちが山との連絡のコードを担う狐・狢を持ち出すのは本来不自然なのだ。この点は他の海浜地域でも度々問題となるだろう。

脚注・資料
[資料1]『南豆風土誌』静岡県賀茂郡教育会:編(1914)
[資料2]『海と列島文化7 黒潮の道』網野善彦:編 小学館(1991)
[資料3]『南豆神祇誌』足立鍬太郎:著(昭和3年)
[資料4]『伊豆 下田』地方史研究所:編(1962)

鷺島神社・龍神宮(下田市柿崎) 2011.09.01(追記:2011.09.03)

伊豆神社ノオト:

参考:

下田行
下田行(神社巡り編)
2010.10.23日の下田市の神社巡りの模様。後半下田市街から柿崎まで歩いております。
▶下田行