三島神社

索部:伊豆神社ノオト:2011.08.31(追記:2011.09.03)

祭 神:大国主命
配 祀:中筒男命
創 建:康永年間(伝)
    式内:竹麻神社三座(論社)
    式内:多祁富許都久和氣命神社(論社)
    (合祀の武峯神社)
例祭日:十月十五日
社 殿:流造二社/南西向
住 所:下田市柿崎

「玄松子の記憶(web)」様など

三島神社
三島神社
フリー:画像使用W840

下田市柿崎、下田湾の奥まった所である。下田駅から歩くと30分くらいだろうか。135号線から須崎の方へ向う県道116号線に分岐すると程なく弁天島があり、道の対面に三島神社が鎮座する。バス路線が通っており、神社前のバス停は「柿崎神社前」となっていた。

合祀されているという式内:多祁富許都久和氣命神社の論社である武峯神社に関しては後で述べる。

ここ柿崎三島神社は、実は御祭神がよく分からない。元三島大明神であり、住吉神社を合祀した、という点ははっきりしているのだが、それぞれに具体的にどの神名をあててきたのかが複雑なのだ。三島神に大国主神をあてていること自体異例だが、近代の神社改めの際には住吉神を素盞鳴命(八雲神)として申告したりもしている。『増訂 豆州志稿』には「祭神不詳」、『南豆神祇誌』には「祭神:事代主命」とある[資料2] [資料4]

もっとも深い意味があってのことではなく、「三島大明神・住吉大明神」であったものが、近代になって「神名」を申告しなければいけなくなって混乱した、ということだと思う。雰囲気としては以下のような感じだろう[資料6]

三島神社は、町の要覧には大国主尊を祀ると書いてあるが、町の人は首をかしげるだけである。住吉神社はスサノオノ尊だといっている。住民は、氏神さんだというだけで、それ以上に考えようとはしていない。

『伊豆 下田』より引用

基本情報部は「玄松子の記憶」様をはじめネット上で柿崎三島神社を紹介されている方達の表記にならった。

本殿覆殿
本殿覆殿
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上写真本殿覆殿の背後は茫々たる社叢だが、この社叢及び脇の岩山を「シャダン」と言って、木を刈ると罰があたるとされ、手入れもいけないのだそうな[資料6]

棟札記録を辿ると正保に再建の札が現存する(中で読めるもので)最古のもの。天保の棟札に三島・住吉と併記されるので、この辺りで合祀があったようだ[資料5]。近世の下田は住吉の神をよく祀っていたようで、稲生沢川河口を渡った現在の下田一丁目のあたりにも住吉の小字が残っている。

式内:竹麻神社三座の論社にに名をあげるものもあるが、これは竹麻神社三座が下田にあったとしたら、という思考実験の枠を出ないものだ。本郷高馬の竹麻(八幡)神社や下田富士浅間神社、須崎の両神社等と組み合わせて論じられるが、あたらぬだろう。しかし『増訂 豆州志稿』にも「コレ往古ヨリノ土神也(伊豆納符)」とあり、古くからの鎮守であったことは間違いないだろう[資料2]

境内社:厄神社
境内社:厄神社
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境内社に「厄神社」があり、ここも宝永からの棟札がある[資料4]。もとは所謂疱瘡神だったが、今では厄除の神として地元ではむしろこちらの方に人が集まるようだ。住吉神を素盞鳴命としたのはこの疱瘡神を八雲神としてみての混同だろうか。創建時のお話が伝わっているので引いておこう[資料6]

昔、柿崎の浜に首だけの像が打ち上げられていた。それをミオノサキで拾ってきて、縁に放り出しておき、子供のいたずらにまかせておいた。すると厄病(流行病)がひろまって、みんな患ってしまった。そこでこの首を祀ったところ、厄病はすっかり癒った。そこでその後、この首を厄神大明神として、きちんとまつるようになった(村の人の話では、この胴体が北海道にあるそうである)。

『伊豆 下田』より引用

境内社
境内社
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その他厄神社の右手岩壁に三基の祠があるが、委細不明。『伊豆 下田』でも祭神は不明となっている。しかし、「そのあたりに古くなった陶製のキツネなどが沢山捨てられていた」とあるので朱鳥居はお稲荷さんだろう[資料6]

武峯神社

柿崎三島神社に合祀された式内:多祁富許都久和氣命神社の論社とされる武峯神社について。

下田寝姿山の南端にそびえる岩壁部分を「武山」と言い、多祁富許都久和氣命(たけほこつくわけのみこと)とはここを祀った武山権現(武峯神社)の神だろうとされる。「武峯」は本来「たけふ」と読むと言い、神名の遺称であるとされる。しかし、大正までに荒廃し、大正四年(五年?)の大火により灰燼と帰してしまった。以降は跡地もはっきりせず、神格は柿崎三島神社に合祀されたとされる[資料1]

武山
武山
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近世はここは修験者達の集う所であった。武山は一名萬蔵山とも言うが、その由来となる修験寺・稲生山萬蔵院が武峯神社含む一切を取り仕切っていたようだ。萬蔵院は今の武ガ浜にあったという。武峯神社の往時の様子は各資料でもよく分からない、となっているが、『下田市の民話と伝説』の「武山の役行者」によると……[資料7]

多郁富許都久和気命(たけほこつくわけのみこと)を祭った武山権現は、南方の中腹にあり、鋼瓦葦の壮麗なもので、下田奉行今村伝四郎正令が深く尊崇し、社殿を修造したと伝えられている。その後いつか廃されてただ僅かにその址が残っていたが、大正四年町の大火の際この山にも飛火して、あとかたもなく焼失してしまった。武山の名はこの多郁富許都久和気命の神名から出たものであるが、山麓に、稲生山萬蔵院(修験宗、今は天台宗)があって武山神社を支配しておったので一名萬蔵山(まんぞうやま)ともいわれている。

『下田市の民話と伝説 第1集』より引用

と、揮っていた様子が伝わる。もっともこれが『南豆神祇誌』になると「微微として振はず」で解説は終了してしまっているのだが[資料3]

また、『増訂 豆州志稿』には次のようにある[資料2]

隣地中村ニ御室神社アリ又本郷村一岩山ノ半腹ニ武彦神社アリテ上梁文ニ御牟漏御所竹彦明神ト誌ス孰レモ本社ノ分祠ニシテ武峯山頭ニ石窟アルヨリ本社ヲ御室ノ神又御牟漏御所ト称ヘシナラム武彦ノ社号は神名ノ多祁富許ノ転訛ナル可シ此二祠今至テ小祠ニシテ公簿ニ載セズ。

『増訂 豆州志稿』より引用

今この御室神社なり武彦神社なりがあるのかどうかはまったく分からないが、この様に近在に分祠をもつ程に盛んに信仰を集めていた、ということではあるだろう。山頭の石窟は上の役行者の伝説では小角が住んでいた洞窟であるとされる。

なお、棟札資料としては柿崎三島神社が一部保持しており、元文二年の札に「武山大権現建立」、寛政十年の札に「行者堂再建」等と見える[資料5]

いずれにしても今に残る史料・口承は皆修験のものである。これを受けてか『式内社調査報告』では武峯神社を式内:多祁富許都久和氣命神社に比定することに疑問を呈している[資料1]。武山の岩壁を祀るにしても、古代三嶋信仰に関する神祀りだったとしたら洋上からの目印として遥拝・祭祀されるような位置にあったはずで、武峯神社が武山中腹にあったというのはいかにも修験的に過ぎるのではないか云々、ということだ。

修験の神社となったからそうなったのだ、とすれば問題ないようにも思うが。あるいはその「本来の祭祀地は」柿崎三島神社だった、なんてこともあるかもしれない。

参拝記

柿崎三島神社へは平成二十二年の十月二十三日に参拝している。すぐ近くに吉田松陰が渡航を企んで身を隠したという弁天島もあり、三島神社境内にも吉田松陰の立像があるのだが……写真撮ったつもりが撮ってなかったようだ。

社頭
社頭
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上に述べたようにあれこれと大変な神社さんなのだが、専任の御神職もおらず、氏子さんたちの管理による神社。本当はわりと開放的で本社殿も厄神社も勝手に開けてお参りできるようになっている。簡単な留め具で「常に閉めておくように」と貼り紙があるが(近くの弁天さんにもそうある)、これは「猿がいたずらをするから」なのだそうな。何とものどかな所である。

さて、で、結局この三島神社が「どういう三島神社なのか」はさっぱりわからないのだが、私は近くの「ささげ弁天」が気になっている。詳しくはそちらで述べるが、その社名は伊豆諸島の船霊信仰にまつわる可能性があるのだ。位置関係からしてこの三島神社と弁天島が無関係とは思えず、そちらから何かのヒントもあるかもしれない。

何と言っても下田湾という特異な地勢に鎮座する「三島神社」はここだけなのだ。古代三嶋信仰において下田がどのように関係していたのか、この柿崎三島神社に関してはもっとその文脈で考察が重ねられて良いように思う。

補遺

『伊豆 下田』に、柿崎三島神社の特別な氏子の名称と祭の次第が記録されているのであげておこう[資料6]

まず、絶家となってしまったようだが、かつて祭を取り仕切った総親方を「ヘイエモヤ」と言った。そして、祭のとき榊を自分の持ち山から切ってきてあげる役を独占していた家を「チュウエモヤ」、また、少し離れた外浦の祭のときの榊調達の担当を「モヘエヤ」と言ったのだそうな。

ちなみに、その当時の祭ではまず前日に「ヘイマツリ」という宵祭りがあり、まず「カミウツシ」という次第で神輿に御神体を乗り移し、その後「ミヤイリ」という次第で神輿は三回海へ入って浄められたそうな。ここにも浜降り祭様の祭祀があったのだろう。今どうなのかは分からない。

脚注・資料
[資料1]『式内社調査報告 十』式内社研究会:編 皇學館大学出版部
[資料2]『増訂 豆州志稿』秋山富南・萩原正平著(寛政十二年/明治二十八年)
[資料3]『南豆風土誌』静岡県賀茂郡教育会:編(1914)
[資料4]『南豆神祇誌』足立鍬太郎:著(昭和3年)
[資料5]『下田市社寺棟札調査報告書 3』下田市史編纂委員会:編(1988)
[資料6]『伊豆 下田』地方史研究所:編(1962)
[資料7]『下田市の民話と伝説 1』下田市史編纂委員会:編(1975)

三島神社(下田市柿崎) 2011.08.31(追記:2011.09.03)

伊豆神社ノオト:

参考:

下田行
下田行(神社巡り編)
2010.10.23日の下田市の神社巡りの模様。後半下田市街から柿崎まで歩いております。
▶下田行