琴海神社

索部:伊豆神社ノオト:2011.09.08

祭 神:辯財天尊
    市杵島姫命
創 建:応永十二年(伝)
例祭日:十一月二十二・二十三日
社 殿:不明/南東向
住 所:賀茂郡河津町見高

『河津町の神社』など

例祭日に関して、『河津町の神社』では「一月二十日」となっているが、見高の方のお話だと今は十一月二十二日あたりに行っているそうだ。神社脇の由緒書きにも十一月二十二・二十三日となっている。この部分は十一月の方とした。

琴海神社
琴海神社
フリー:画像使用W840

伊豆急今井浜海岸駅前に国道135号線から海の方へ下る道が分かれており、その道沿いに見高の港へ下っていく。見高の港が見える頃には港の中央に突き出す岩隗が見え、その上に琴海神社は鎮座されている。今は社号を琴海神社というが、要するに弁天さんであり、岩隗周辺の小字も弁天町と言う。

見高の港に突き出る岩隗
見高の港に突き出る岩隗
フリー:画像使用W840

ここ琴海神社は伝わる縁起が頗る興味深い。全文を引用しよう[資料1]

安元の昔、伊東祐親の子、河津三郎祐泰が、赤沢山で逝去した後、祐泰の奥方は、子供の五郎・十郎をつれて、相模国曽我祐信と再婚した。この時奥方は、河津三郎祐泰の守り本尊であった弁財天尊をももっていった。
ところが、この御神像が祐信の夢枕に立って、「江の島の海岸に遷せ」、との御神宣があったので、家臣の久野次郎光重という侍に命じて江の島に遷し祀ることにした。
しかしながらその途中で光重が気が狂って、この御神像を伊豆国に持ち運び、伊東の鎌田池に投じた。するとその後夜になると、風も無いのに鎌田池に浪が立ちさわぐので、不思議に思い、或月夜に村人達が寄り集まって見ると、池の中から白煙が立ちのぼり、それが相模国江の島の方角に消え去って行った。この事があたりの評判になり何か池の中に委細があるに違いないと言うので、海士として、当代に名のひびいていた、見高村の兼松という海士が選ばれ池に潜ったところこの御神像が発見された。
そこでこれを江の島に祀っていたが、霊験あらたかなので林際寺開山・松嶺道秀和尚が、一山の守護神として江の島からこの御神像を迎え奉斎していたところ、この御神像が松嶺和尚の夢枕に立って、「見高村の海岸に遷せ」、との御神宣があったので、応永十二年(一四〇五)三月十六日当地に奉遷したものである。

『河津町の神社』より引用

と、いうことなのだ。ここ琴海神社の御神体はこの辯財天尊像である。三十年ごとに式年祭(御開帳)が行われてきたそうな(資料では昭和五十三年に行われたとあるから平成二十年にも行われたはずだ)[資料1]

この伝承の検討は中々に容易ではない。いずれ伊東氏と鎌倉幕府との関係を何か暗示しているのだと思われるが、今は簡単な解説をするだけにとどめよう。まず、五郎・十郎は所謂「曽我兄弟」である。兄弟はもともと伊東(河津)氏の出である(同じ河津町の河津八幡神社にも親子共々祀られている)。曽我兄弟の実父の守り本尊の弁天が主役ということだ。

そして、伊東の鎌田池という所も伊東氏と鎌倉・源頼朝と因縁の深い所である。伊豆にいた頃の頼朝と深い仲となった伊東(河津)祐親の娘の八重姫(河津三郎とは兄妹となる)は、頼朝の子・千鶴丸を産むが、これに激怒した祐親は千鶴丸を伊東鎌田の轟ヶ淵に沈め殺してしまう。「伊東の鎌田池」とはこの事と関係があると思われる。

また、相模江の島の弁才天は、その窟に参籠した北条時政に三枚の鱗を残したという話が『太平記』にあるが、北条氏と伊東氏はおそらくもとは同族である。

さらに、「林際寺」は今は河津川を遡った沢田にあるが、古くは北東3キロほどの所にあったといい、これはどちらかと言うと見高の奥地である。今見高入谷高原温泉のある辺りだろうか。この点が最終的に見高の海に話が収斂する伏線となっているのだろう。

これらを繋いで行った所にどのような物語の背景が浮ぶのかはまだ分からないが、伊豆と鎌倉の関係を考える上でも大変興味深い弁天さんなのだということは言えるだろう。

琴海神社前の灯明
琴海神社前の灯明
フリー:画像使用W840

もっとも、以上の伝説もまた一面の話ではある。詳しくは見高の鎮守、式内:多祁伊志豆伎命神社の論社でもある見高神社の頁でとなるが、ここ見高は(ちなみに昔は「耳高(みみたか)」だった)縄文時代に東日本に大規模に流通した「神津島の黒曜石」の陸揚げ地だと考えられている所である(見高:段間遺跡)。古くから海上交通の要所であったのだ。

その見高の港につき出た岩隗に祀られる神と言うならば、それはそれは古い側面がまたあるだろう。そして、それは事実、ある[資料2]

○琴海神社(◎弁天)【増】応永十二年建立スト云 ○天文元年ノ札ニ云応永中海辺ニ出現スト

『増訂 豆州志稿』より引用

この一文がおそらくより古いであろうこの土地の伝承を語っている。琴海神社の南東の岬にはかつて龍宮(龍王)神社があったが(地元の人はジューゴンさんと言ったそうな)、そこは「海中を漂う黒塗りの箱をひろって祀った」ものだったという[資料3]

ここ見高の海も、周辺の伊豆の海と変わらず、海上より来る神を祀った土地だった、ということだ。弁天伝説の背後に、この事はしっかりと覚えておきたい。

参拝記

琴海神社へは平成二十二年の九月二十日に参拝している。伊東川奈の方からずっと伊豆の海を眺めて辿った日だった。今井浜海岸駅で降りて見高の港に至る手前、前方に先出の岩隗が見えて、地図を開くまでもなく「あ、これだ」と思った感覚を今でもよく覚えている。

社頭
社頭
フリー:画像使用W840

この社頭の写真を撮っているすぐ後ろは海中である。写真に並んでいるものを見ても「港の神社」そのものであろう。港にひとたび事あらば打ち鳴らされたのであろう鐘が目をひいた。また、手前に並んでいる石造物に混じって特徴的な形の自然石があった事も強く印象に残っている。

舟形石?
舟形石?
フリー:画像使用W840

写真中央左側の石がそれだが、この後、伊豆諸島の民俗を学んで行くうちに、島嶼の漁師がこのような三角形・五角形(船霊の形)の石を海で見つけると拾ってきて神社に奉納するのだ、という話を見つけた[資料4]。多分、この琴海神社前の石も同様のものなのじゃないかと思う。

そして、この事は直ちに伊豆の漁師の船霊信仰と関係ある神社なんじゃないかということも予感させる。お隣下田市の下田湾につき出た鷺島・弁天島に「ささげ弁天」というお社があり、これが伊豆諸島八丈島の船霊信仰「船霊ササギ」なんではなかったかと私は考えているのだが、下田の弁天島とここ見高の琴海神社の岩隗は良く似ている。

下田・鷺島(弁天島)
下田・鷺島(弁天島)
フリー:画像使用W840

同じく伊豆諸島の船霊信仰として、そもそも各島共通して船霊というのは「ダブル」で作られ、一方が船に納められ、一方が陸側で祀られるのだが、下って広くはこの陸側を「浜宮」と言った[資料4]。下田に続いてここ見高も「船霊ササギ」が伝わっていた、のかどうかは分からないが、より一般的な「浜宮」の性格を持つ場所だった、ということは充分考えられるのではないか。

船霊信仰そのものに関してはこれも稿を改めるが、前半に述べたような具体的な伝承の他に、この点に関しても注意をはらっておくべきだ、と思うのである。

参道
参道
フリー:画像使用W840

脚注・資料
[資料1]『河津町の神社』河津町教育委員会(1984)
[資料2]『増訂 豆州志稿』秋山富南・萩原正平著(寛政十二年/明治二十八年)
[資料3]『静岡県史 資料編23 民俗1』静岡県:編(1989)
[資料4]『海と列島文化7 黒潮の道』網野善彦:編 小学館(1991)

琴海神社(賀茂郡河津町見高) 2011.09.08

伊豆神社ノオト: