火牟須比神社

索部:伊豆神社ノオト:2011.10.15

祭 神:火産霊命
創 建:不詳(天正年間遷座・伝)
    式内:火牟須比命神社(論社)
例祭日:十月十五日
社 殿:流造/東北東向
住 所:伊東市鎌田

『田方神社誌』など

火牟須比神社
火牟須比神社
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伊豆急南伊東駅の南南西500mほどの所に鎮座される。大通り沿いではないのでよく地図を確認して行った方が良い。火牟須比神社は愛宕神社であること、来宮神社であること、伊東氏の八重姫伝説にまつわることが交錯する神社であり、そのそれぞれは基本的には独立した話になる。天正年間に愛宕神社と来宮神社が合祀され(後述)、明治期に火牟須比神社の号となった(おそらく近世間の社号は来宮)。一部当社(この愛宕神社)を式内:火牟須比命神社の論社とする説があり、その説とセットで社合が変更されたのではないかと思われる。しかし、式内:火牟須比命神社は熱海伊豆山権現が修験勢力となる前にその地に祀られていた火の神であると衆目の一致する所であり、これを動かすのは難しかろう。こちら伊東鎌田にその根拠となるような話は特になく、火牟須比神社も今は式内であることは謳っていない。

本殿覆殿
本殿覆殿
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御本殿は覆殿の中にあり、写真のように少々仰々しい石垣の上に構えられている。これは近在の産霊神社なども同様で、土地の好みかもしれない。さらに周辺では富戸三島神社や湯河原五所神社も似た所がある。いずれも西相模から東伊豆の源頼朝の旗揚げにまつわり活躍した東国武士の流れと近しい神社なので、そのあたりも関係する所があるかもしれない。

ではまず、愛宕と来宮の合祀に関して見ていこう。社伝によればこの合祀は天正年間のことであると言い、神社に伝わる最古の棟札(元和三年)より以前のこととなる。愛宕神社に関しては次のようにある[資料1]

元和三年(一六一七)・寛保元年(一七四一)の棟札や、安政四年(一八五七)にできた鎌田村鑑によると、当神社の神霊は昔、伊豆国上大見村原保の地より鎌田の里御幣畑(現在の阿原ヶ沢)に遷され、当時は愛宕神社と称して信仰崇敬されていた。交通上不便を理由に天正年間(一五七三〜一五九二)御幣畑から現在地伊豆ヶ木(厳神垣=神聖な所の意)に遷座し、従来この地に祀られてあった来宮明神とともに合祀した由が記されている。

『田方神社誌』より引用

一方の来宮に関してはその来歴はよく分からない。来宮はキノミヤと読み、これは伊豆半島東側から西相模の(多くは)海側の「キノミヤ(来宮・木宮など)」と称する神社の点在であり、「海より流れ来る神(来宮)」「樹木の神(木宮)」「忌み事を課す神(忌宮)」の意が交錯している信仰である。ここ伊東鎌田の来宮がどのような特徴を持っていたのかはまったく伝わっていないのだ。

しかし、寛政十二年の『豆州志稿』[資料2]・嘉永二年の『伊東誌』にはこの土地の社は「来宮明神」となっており、江戸中〜末期は間違いなく「来宮」であったことが分かる。さらに、『伊東誌』[資料3]に「来宮明神(鎌田村)八幡を配祀す。寛保元年の札に云往古原保より遷すと。」とあり、『増訂 豆州志稿』(増訂部は明治)に「往昔原保村ヨリ来宮ヲ移シ天正中本村字御幣畑ヨリ愛宕社ヲ遷シテ同林ニ鎮座セシヲ近年合祀ス」とあり、少々問題である。

先の愛宕神社の由来では愛宕神社が原保→御幣畑→現社地と遷ったとしているのだが、来宮の由来の方では原保から現社地に遷ったのが来宮で、愛宕社の遷座は御幣畑から現社地のみである(しかも合祀そのものは明治期のように書かれている)。

鳥居に見る「両社」の号
鳥居に見る「両社」の号
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この辺り、土地に独自のキノミヤ信仰に関して、来宮(キノミヤ)がどのような変遷をしたのかが非常に重要なのだが、双方の遷座の次第に関しては、にわかにはなんとも言えない。「原保」という土地は今の伊豆市東部でかなり内陸であり、もし来宮の由来が正しかったら「山から下ってきた来宮」であることになってしまう。一方の合祀に関しては上写真の鳥居に「両社」と見るように、確かに天正に合祀はされておらず、同林に愛宕・来宮が祀られている、という次第だったのかもしれない。

また、来宮が八幡を配祀とあることを反映し、大正期には「火牟須比神社・相殿:八幡神社」ともなっていた[資料4]。ここも同伊東市八幡野の八幡宮来宮神社や賀茂郡東伊豆町白田の志理太乎宜神社(来宮神社)のように「八幡宮来宮」だったというのは注目される。最も名の知れた八幡野の八幡宮来宮神社の由緒では来宮と八幡が同社地になったのは「たまたま」なのだが、あるいはそうでもないのかもしれない。

火牟須比神社となって以降は来宮の面影はほぼなくなっており、現在御祭神にも来宮からの神名は見えない。周辺キノミヤに見える忌事の神事などもなく、ズバ抜けた御神木というものも見ない。キノミヤであったことを意識して語り継がねばならない神社だろう。なお、来宮の神格に関して、『伊東誌』では、伊豆各地の来宮の祭神に関して、キノミヤとは「貴の宮」が本意であって、大己貴命の「貴」に由来する、と主張しており(杵築大社の「杵の宮」のことでもあろうと)、鎌田来宮明神も大己貴命を祀るとしていることを付しておこう[資料3]。しかし、その仮説以上の根拠はない。

御神紋は「○に橘」
御神紋は「○に橘」
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さて、次に伊東氏の八重姫にまつわる側面を紹介していこう。なんとなれば愛宕や来宮の話とはまったく関係なく、ここ火牟須比神社の御神紋は「○に橘」なのだ。社頭の橘の木と八重姫の伝説が、この神社にとっては大変重要な点なのである。周辺各所でこの伝説が顔を出すのだが、ここが「本地」であるので少々詳しく述べる。

八重姫とは平安時代末のこの地の豪族伊東祐親の娘(三女)。当時この地では平治の乱に敗れて伊豆流罪となった源頼朝が伊東氏にあずけられていた。頼朝は祐親が上京している間に八重姫と通じ、二人の間には千鶴丸という男子が生まれる。千鶴丸三才の時、祐親が京より戻り、事の次第を知って激怒。千鶴丸を松川上流の轟ヶ淵(火牟須比神社から上流に川なりに1.5kmほど、荻に近い)に沈め、殺害してしまう(この伝説を受けて「稚児ヶ淵」となる)。続けて祐親は頼朝も討とうと迫ったが、頼朝は北条時政を頼って匿われたとも、伊豆山権現に逃れたとも言う。八重姫はその後気が触れてしまったとも自害したとも言う。いずれ物語である曽我物語に記されていることなので、そのまま史実かと言うと難しいが、頼朝挙兵に合力した西相模・東伊豆の武士団(おそらく皆同族)のなかで伊東氏のみが反頼朝となったことは事実である。

おとどいの橘
おとどいの橘
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この千鶴丸の沈められる場面とここ火牟須比神社の地は深く関係するのだが、以下神社にある「おとどいの橘」の説明案内の記述を引いておこう。

頼朝の愛児千鶴丸と、おとどいのタチバナ
源頼朝と、伊東の領主祐親の娘八重姫との間に生まれた千鶴丸は、平家を恐れて、この上流の稚児ヶ淵へ沈められたといわれます(曽我物語)。その途中、千鶴丸をあやすために、このお宮のタチバナの枝を千鶴丸の手ににぎらせました。千鶴丸の遺骸は、富戸へ流れついて、富戸の三島神社の若宮になったといわれ、三島神社の社前のタチバナは、千鶴丸が握りしめていたタチバナの枝が根づいたものだと伝承されています。そこで、この二つのお宮のタチバナは「おとどい(兄弟)」のタチバナといわれています。

社頭掲示より引用

この様に、話は頼朝の若き日の過ちといったものから一気に神話の様相を呈するのだ。富戸の三島神社若宮が式内:許志伎命神社の論社であり、富戸がそもそもエビス信仰の強力な土地であることとも大きく関係するだろう。

これは明らかに貴種流離譚の骨格を持った話の展開であり、実際「千鶴丸は死んでおらず……」という話ともなる(この稿とあまり関係しないので割愛するが、甲斐から日向国へ、島津氏の祖、島津忠久こそ千鶴丸その人なのだという話にもなる)。この伝承の意味する所は、ここが海より寄り来る神の社・来宮であることと必ずや関係してくる。

来宮であり、愛宕である火牟須比神社のご神紋が橘であることには、このような伝説が関係していたのだ。そして、私はこの部分がおそらくこの神社の核心だろうと踏んでいる。ここ、火牟須比神社の社殿は母・八重姫を祀る神社と言われる音無神社の方を正確に向いているのだ。しかし、その話はここ火牟須比神社の解説というよりも伊東(松川流域)全体の信仰空間に関する話となる。轟ヶ淵・稚児ヶ淵は別名「蜘蛛ヶ淵」と呼ばれてもいた。そこに棲んでいた白蛇を祀る厳島神社が火牟須比神社近くにはある。それらは上記の伝承をまた別の角度から見るための舞台装置だ。

ここ「伊東の来宮」がなんだったのかは、このような松川流域全体のピースが揃った時に明らかになるのではないかと考えている。

境内社:稲荷社
境内社:稲荷社
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後は簡単に境内社に関しても述べておこう。あまり詳しい資料がないので列記するだけだが。まず、本社殿向って右手に朱の小祠があり、稲荷社である。別格という風だ。伊東氏の氏神が稲荷であることと関係するだろうか。

境内社
境内社
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本社殿向って左手の社叢の中に他の境内社がまとめられている。おそらく写真の一棟にまとめられていると思うのだが、周辺石祠もあり、詳細は解らない。『伊東町誌』に「神明、津島、風神、稲荷二、煩神、秋葉」とあるのが妥当だろうか(現代の『田方神社誌』には「神明、稲荷、他三社」とある)[資料4]。風神は志那都彦・姫神である。煩神は「わずらいのかみ」といい、簡単に言うと塞の神の一種のような神である。また、社頭には道祖神も三基おかれているが、この鎌田付近は伊豆東側に見る道祖神信仰の漁師たちのそれと農民たちのそれの境あたりに来る所であり、面白い所でもある。道祖神に関しては「伊豆の道祖神」を参照されたい。

道祖神(サエノカミ)
道祖神(サエノカミ)
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参拝記

社頭
社頭
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火牟須比神社へは平成二十二年の八月十三日と二十八日に参拝している。十三日に参拝したときは火牟須比神社が宇佐美・伊東と回ったラストで、何とカメラのバッテリ(二本目)が切れてしまうという強勢終了でもって消化不良だったのだ。もっとも境内社を稲荷社しか見つけられず、そんなはずはない、ということでの二十八日再訪でもあったが。

そのような訳で境内社は大変分かりにくいので参拝の際は気をつけたい。下写真の手水屋や売り場の背後に、その後ろの鬱蒼とした社叢に分け入る細い道があるので、そこを進む。

川を渡る境内
川を渡る境内
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ちなみにこのような「川を渡る」ことが明確に意図されてる神社は御霊を祀るとかあれこれ言われるのだけれど、伊東の産霊神社(もと第六天社)もまったくそんなだったので(本殿を石垣の上に構えるのも一緒)、単に土地の好みかもしれない。先に述べた千鶴丸に関係するとなると、そこに意味のある社地構成という気もするが。

ここは来宮・木の宮としての来歴は急速に失われつつある所なのだけれど、社叢の樹々は見事である。出来れば上天気であり、緑の美しい時期に訪れるのが良いと思う。伊東のキノミヤがどのようなものだったのか、できる限りの探求をもって、ここ火牟須比神社が来宮であったことが忘れられないようにしたい。

社叢
社叢
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社叢の中の石祠
社叢の中の石祠
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脚注・資料
[資料1]『田方神社誌』静岡県神社庁(1985)
[資料2]『増訂 豆州志稿』秋山富南・萩原正平著(寛政十二年/明治二十八年)
[資料3]『伊東誌』鳴戸吉兵衛:著(嘉永二年)
[資料4]『伊東町誌』伊東町:編(大正元年)

火牟須比神社(伊東市鎌田) 2011.10.15

伊豆神社ノオト: