番外編:伊豆の道祖神(二)

索部:伊豆神社ノオト:2011.09.29

伊東の道祖神(二)

〜叩かれる道祖神さんたち〜

伊東市鎌田の道祖神
伊東市鎌田の道祖神
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前回述べたように、伊豆の道祖神さんは子どもらに叩かれまくるので、写真のようになってしまう(中央立像は馬頭観音)。この「叩く」行為が道祖神さんへの願掛けなのだ。願掛けは内陸部では主に病気平癒の祈願として行われた。実際の様子を見てみよう。

先ず病人の家の者は、塞の神の頭(かしら・年長の子供)に祈願を依頼する。この時、病名をはっきり伝えた。頭は輩下の子供に通知し、夕方、塞の神の前に子供を集めた。集まった子供は、てんでにしなやかな青竹を持ち、頭の音頭に合わせ、「ナーム、セーの神さん、○○の○○という子の○○という病気を、ちゃあっと、よくするようたに、早くなおらねえと、川の中に放り込むぞ」、と持った青竹で、ビシャビシャ塞の神をところかまわずにたたいた。祈願が一段落すると川の中に入って川砂を集め、砂だんごを作り、依頼された家の庭から雨戸に団子をぶつけ、前と同じく囃した。四、五日して、病気が治らないと、川の中に塞の神を放り込んで、水漬けにして置いた。

木村博・鈴木茂:著『せえの神さん』より引用

伊東市岡の記録だが、どこもこのような次第である。子供達は「塞の神の子供(頭・ガキ大将)」というリーダーのもとに統率された「子供中」という組織を作っており、塞の神への祈願にしても後述のどんど焼きにしても、それなりに厳格な「掟」に従って行動していた。

しかし、基本的にはこのように「願いを聞いてくれないとひどいことをするぞ」という全体の構造となっており、これはどこも同じである。所によっては三角に削った薪の上に座らせたりもすることは前回紹介した。

そのようにして見ると、この子供たちの道祖神祭祀は「道祖神を痛めつけ言うことを聞かせる」ないし「道祖神を身代わりとして痛めつける」という理のもとにあるもののようだ。実際、現在記録されている段階のものはその理由で行われていただろう。

しかし、よくよく見ていくと、必ずしもそれだけではない、という面が見えてくる。特に海側に行く程興味深い点が増えて来るのだが、その様子も見てみよう。

松原八幡神社の道祖神
松原八幡神社の道祖神
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病気平癒祈願は病人の出た家から、塞の神の子供頭に、「ユエを落してくれ」と頼みがあるのだ。「ユエ」とは、何のことだろうか。祈願が行われるのはたいがい寒中が多かった。頼まれた塞の神の子供は塞の神の前に、パンツや褌の裸姿で集まり、まず浜に行き、波打ち際の人に踏まれない砂で幾つかの砂だんごを作り、再び、塞の神の前に取って返し、「ツイ塞の神さん、○○の○○という人の病気を、早く直して、くれるように、ツイヨー、ツイヨー」といいながら手に持っている砂だんごを塞の神めがけて投げつける。そして再び海岸に行って、砂だんごを作り、こんどは、依頼の家の庭に集まって、前と同じことをとなえ、雨戸目がけて砂だんごを投げた。

木村博・鈴木茂:著『せえの神さん』より引用

これは伊東市松原の海の方での話である。ちなみに道祖神さんへの祈願の掛声は「ナム」と「ツイ」があるのだが、「ツイ」の方は漁師町のみに見られるそうだ。今はこの道祖神さんは少し内地に入った八幡神社に遷されている。私はこの「砂だんご」に注目する。先の岡の方でもあったが、もとはおそらく海浜に暮らす人たちが持っていた民俗で、こちら松原の海へ行って砂浜の砂で作るのが本来だろう。より海に近い新井の方では、海草を拾って集め、これをぶつけたという。それが何かを言う前に、もう少し海浜の事例を見ていこう。

富戸・三島神社前の道祖神
富戸・三島神社前の道祖神
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富戸はボラの漁獲量の多いところでボラの豊漁祈願は欠かせない塞の神の子供の役目だった。不漁が続くと漁協や船主たちは、子供に大漁祈願をするよう頼んだ。子供は依頼に応じて青竹で塞の神を叩いたものだった。 「セーの神さん、セーの神さん、ボーラーたあんととらせろ、ボーラーたあんと、とらせろ」と大声で唱えた。 ボラが獲れると漁協や船主からボラの最も大きいのを一本、子供へお礼にくれた。子供たちはこれを「なます」や「さしみ」に自分たちで作って食べた。この魚を「かけの魚」といった。食べてしまった残りのボラの頭や骨を塞の神の頭に出来ているくぼみに入れ、拳大の丸石でそれを小突きながら、「塞の神ボーラーとらせるように」と再度祈願をくり返した。

木村博・鈴木茂:著『せえの神さん』より引用

こんな具合で富戸の道祖神さんはすっかり頭がすげ変わってしまっているのだが、「かけの魚」とは「縣の魚」とも書き、広く腹合わせにしてエビスさん等に供えられる魚のことである。これが子供らがもらうボラのことを言っているというのだから、子供らはすでに半分神であろう。この時点で、道祖神さんを叩くという行為が「人間が神を叩く」という行為とは少し違うということに気付く。

赤沢・三島神社脇の道祖神
赤沢・三島神社脇の道祖神
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ここで、伊東といってもずっと南に下った赤沢の様子を見てみよう。ここの記録には大変興味深いことが述べられている。

ここでは、部落が小さいので競争しあう子供相手がなかった。全員一つの塞の神の子供として育った。赤沢は古くから秋刀魚漁が盛んで、大漁祈願がよく行われた。また、子供の病気平癒祈願も行われ、祈願の時、子供たちが塞の神へ塩花をふった。

木村博・鈴木茂:著『せえの神さん』より引用

「塩花をふる」とは榊等を海水に浸して、ついた海水をふりかけることを言う。これは伊豆沿岸下田の方まで、たとえばお産明けの際、産小屋(納屋)から本宅に移る際に、座敷に「塩花(汐花)をふる」ということをしていた。いずれにしても、この様に隣接地区との競争のない土地では、道祖神さんの扱いも穏やかだったのだ。これは、小正月のどんど焼きがともすれば隣同士の地区の子供らの大喧嘩になった(どちらの火祭りが優れているかを競った)、という点に呼応しているかもしれない。

もし、道祖神さんの扱いが荒っぽくなっていった理由が隣地区との競争にあり、本来はそうでもなかったとしたらどうなるだろう。「酷い目にあわせる」という理由ではなくて叩いていたことになる。私はここで、二つの方向性を考えておきたい。ひとつ目は先に指摘した「砂だんご」が問題となる。道祖神さんと発願したものの家の雨戸に砂だんごをぶつける。これは、「そこに神威が発現するように」という一種のマーキングではないか。

西相模のゴロ石(秦野市)
西相模のゴロ石(秦野市)
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西相模、神奈川県大磯町には国重要無形民俗文化財の左義長(土地ではセエトバレエ・サイトバライという)があり、要するに道祖神祭のどんど焼きなのだが、この一連の行事の最初、12月8日あたりに「イチバンムスコ」という行事がある。

道祖神さんの脇に置かれている「ゴロ石」という石(上写真)に縄をつけて引きずっていき、未婚の若者のいる家の前で「〇〇さんにいいお嫁さんがきますように、イチバーンムスコ」と言って、ゴロ石を搗きまわす。病気平癒祈願や大漁祈願等も依頼によって行う。

これもゴロ石を「小さな塞の神さん」という場合もあるので、「搗く→痛めつける」とも見えるが、私は「ここに神威が発動するように」という意味合いだと思う。ちなみに大磯は相模だが、伊豆の海で竜神(竜宮)を祀るリューゴンサンもあり、漁師の文化としてはおそらく伊豆と連続している。これは次回述べるが、そもそも小正月の火祭りの次第などはほとんど同じだった(今は伊豆地方ではあまり行われないが)。

ゴロ石が道祖神さんの所に常備されていたのは伊豆も同じで、伊豆では「ゴリン石」と言った。写真に見たようにもともと五輪塔の一部なので、伊豆の「ゴリン(五輪)石」の方が本来だろうか。そして、双方このゴロ石・ゴリン石を「(小正月の祭への)寄附を渋る家・船に投げこむ」という点でも共通している。ここが面白い。

子供たちの道祖神祭祀には「神威のマイナス方向への発動」すなわち呪術もちゃんとあったのである。場合によっては道祖神そのものを皆で担いで投げ入れることもあったという。これをやられると家運・船運はガタ落ちになる、と伊豆でも相模でも大変嫌われる次第であった。事実、大人たちのもめ事を子供中が「塞の神を投げこむぞ」と脅しておさめた、という話しが伝わっている程である。さて、「投げ入れる」という行為はすでに「痛めつけて言うことを聞かせる」「身代わりに痛めつける」という観点からはほど遠い。端的に「神威の現われる場を決定する」という行為である。

松原八幡神社の道祖神(二)
松原八幡神社の道祖神(二)
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そして、伊東の松原では、同様の呪術として、寄附を渋る家の角に道祖神を運び、「青竹でビシャビシャたたき、そこの家の悪口を、大声でいい合った。」という。記録には見ないが、本来は病気平癒祈願等も同様にその家の角に道祖神さんを持ち運んで行ったのではないか。

私は「道祖神を叩く」という行為の根底として、先ず第一にこの「神威の発現する場を決定する」という要素を考えるべきだと思う。そしてこれはふたつ目の方向性とも関係してくる。

タマシイをウブと呼ぶ地方がある。タマシイが身体から抜けると活力を失う。ウブも同様であるが、ただウブ(オブ)はウムと関係のある言葉で、それからも分かるように誕生時から子供の守護神の役を果たすという点で、ウブはタマ、サチ、セヂ、イツなどに見られない人間的な側面をもっている。
……中略……
土佐清水市では、子供たちが石蹴りに興じていて、持ち石が負けつづけると、石に息を吹きかけたり、唾をつけたり手にのせたりしてまじないすることを「オブを入れる」と呼んでいる。
……中略……
高知県の例として、船足が重くなると、船霊さまのオブが抜けたとして「性根を入れる」ために、船べりを竿で叩く。この場合のオブはタマシイと同じである。

谷川健一:著『日本の神々』より引用

伊豆の道祖神さんを子供らが叩く行為の原形として、私はこの観点がもっとも近しいものではないかと思う。先に見た赤沢の「塩花をふる」と「道祖神を痛めつけて言うことを聞かせる」とは直線では繋がらない。しかし、叩く行為が神霊の高揚への期待を意味するのならば、両者は同一の意味を持つ行為、すなわち「オブを入れる」行為として繋げることが出来る。

さらに一歩進めて、「川に漬ける・放り込む」次第でさえも、本来はこの枠組みなのではないかとすら私は考えている。これは全編を通じての検討となるが、私は伊豆型道祖神は本来「海の神」であったと考えている。ならば、海・水に浸かる、近接することによって神威を発動させる、という発想はあり得るだろう。砂だんごや海草を集めて投げつけていた事例を思い出されたい。

以上、伊豆の道祖神さんが叩かれる理由について考察してみた。多く考えられる「言うことを聞かせる・身代わりに痛めつける」という意味合いが果たして本来か、というとそうとは言えないのだ。無論、下ってはそうであり、実際叩いていた子供らもそのつもりでやってはいたのだろうが、その原形にはまた別の姿も見える、ということである。そして、その透けて見える原形の方にこれから論じていく「海の神」としての側面がよく現われている。しかしその前に、もう一方の「虐待」である「火にくべられる道祖神」についても考えないといけないだろう。先にも少し述べたが、伊豆の海ではこの火祭りはあまり行われなくなってしまった(大火事が起きたことがある)。そこで、相模湾に連なる大磯の祭祀を横目に、この点を考えてみることにしよう。

湯川の道祖神
湯川の道祖神
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脚注・資料
[資料1]『せえの神さん』木村博・鈴木茂:著 サガミヤ選書(1976)
[資料2]『日本の神々』谷川健一:著 岩波新書

番外編:伊豆の道祖神(二) 2011.09.29

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