番外編:伊豆の道祖神(一)

索部:伊豆神社ノオト:2011.09.28

伊豆半島の東側、賀茂郡東伊豆町から伊東市・熱海市、そして西相模小田原の海側まで、「伊豆型」と呼ばれる独特な道祖神(サイノカミ・サエノカミ)像が分布している。「伊豆神社ノオト」の番外編として、この道祖神さんのことをまとめておこう。何となれば、この像には伊豆の海にまつわる大変重要な秘密が潜んでいると私は考えているのだ。そこへの考察はきっと、それぞれの神社を見ていく視線にも大きな影響をもたらすはずである。

周辺地区との比較

西相模の双体道祖神(小田原市)
西相模の双体道祖神(小田原市)
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まず、周辺地区の道祖神さんとの比較を見てみて、大まかな特色をイメージしておこう。

西相模から内陸では双体道祖神と呼ばれる像が一般的である。これは大体「祖」を表している。その村の一族の祖というものが想定され、それを男女像で表している訳だ。特に写真のような立った人物が二人並んでいる造形は小田原辺りが発祥ではないかともされ、確かに小田原を中心に頗る多い。

南豆の道祖神(河津町)
南豆の道祖神(河津町)
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反対側は、賀茂郡東伊豆町と河津町を境にぱったりと人型像が消滅する。河津町・下田市・南伊豆町は里辻に祀られるものはほとんど石祠一色となり、道祖神さんも石祠となる。金毘羅さんだろうが愛宕さんだろうがみな石祠になるので、見分けるのは至難である。資料があるか、近隣の方に聞かないことには分からない。例えば先の写真は河津町の天川神社の社頭だが、『河津町の神社』に道祖神と記録されていたのでそれと分かったのであり、見た目では何が祀られているのかさっぱり分からない。

伊豆型道祖神(熱海市)
伊豆型道祖神(熱海市)
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その間にあって、賀茂郡東伊豆町から小田原市の西側の海側にかけて写真のような「単座丸彫り」という作風を特色とする道祖神さんが分布しており、これが他地域に見られないので「伊豆型」などと言われる訳だ。伊豆型と言っても、だから伊豆半島全域に分布する訳ではない。

「伊豆の道祖神」ではこの型の道祖神さんを紹介しながら、その独特な作風の意味を考えて行こうと思う。

伊豆型道祖神さんとの邂逅

私は「伊豆型道祖神」というものを資料等で知った訳ではない。実地見聞で「あ、これは独特なのだ」と気がついて調べるようになった。もちろんそれ以前からこの造形が独特であるのは世に知られたことであったので、私が知らなかっただけだが。ほとんど私事だが、この「邂逅」に至るまでが少なからず現在の考察にまで影響を及ぼしていると思うので、書いておこうと思う。

さて、まず私はこの像を子供の頃から「知っていた」……はずなのだ。

風祭の道祖神(小田原市)
風祭の道祖神(小田原市)
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上の像は小田原市風祭にある。「道祖神」の標識が立っているのでまごうことなく道祖神である。そして間違いなく「伊豆型」である。私は西相模で生まれ育った人間で、「風祭」という土地が個人的に好きでもあり(宇宙一の地名である)、民俗だの神社だのと言いだす前からこの像の前を脇をと幾度となく歩いていたのだ。

加えて、子供の頃から夏で海といったら真鶴の磯に通っていた。このシリーズの続編でも紹介するが、真鶴にも伊豆型道祖神さんの像はたくさんあり、それらも何度となく見ているのである。しかし、龍学において神社巡りをはじめ、伊豆に至っても、しばらくはこの像の特異性に無頓着だったのだ。上で見た熱海の道祖神さんは伊豆山神社の大鳥居の前にあるが、伊豆行直前の予習のような段階で前を通っているにも係らず、その時は写真も撮らなかった。

下多賀神社の道祖神
下多賀神社の道祖神
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それは正式な「伊豆行」初日前半の下多賀神社の道祖神さんの写真にも如実に現われている(上写真)。当時私は「石仏の列」を見かけるとこの角度で撮ってしまう癖がついており、つまり石仏だと認識していることが分かる。実際、思い返しても伊豆行初日の伊豆多賀から網代までの行程中で「伊豆の道祖神さんはどんななのか」と考えた記憶はない。そんな具合であったのだ。下写真の鳥居に至るまでは。

網代の道祖神
網代の道祖神
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網代港脇の弁天さんへの参拝をすませ、大通り沿いに戻って来て、民家の並ぶ間にこの鳥居を見つけたのだ。さて何でしょうねと近づいて中央の像を見た時の衝撃と行ったらない。大袈裟だがまさに雷にうたれたようなものである。ここに至って、ようやく私はこの像が「姫神」であることに気がついたのだ。

網代の道祖神
網代の道祖神
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私はここに至るまでに、鎌倉の弁天はどこから来たのか、相模湾岸の弟橘媛伝説はどういう意味を持つのか、という問題を抱えていた(伊豆三嶋大神の后神たちのことはまだ実感が薄かった)。そして、その問題の鍵は伊豆にあるのだろうと見込んでの伊豆行開始だったのだ。私は、おそらくこの伊豆行初日の網代の道祖神像を前にして、その解答にとどいてしまったのだと思う。だから、以降の探求はすべてその確信を言語化するための手続きなのだと言えなくもない。

このような次第で、これから数回に渡ってお届けする「伊豆の道祖神」とは、単に伊豆地方の一民俗の紹介にとどまるものではなく、私にとっては「それを十分に語ることが出来るならば、伊豆半島東部の核心を語ることができる」というものなのである。では、その具体的なひとつひとつの事例を順番に見ていくことにしよう。

伊東の道祖神(一)

第一回目の今回は、道祖神さんの単純な外見的特徴をまとめておこう。それぞれの意義等はまた別途論ずる。参考資料としては木村博・鈴木茂:著による『せえの神さん』が伊東市の道祖神に関して詳しく網羅しており、これを導きとして伊東の道祖神さんたちを主に紹介していこう。

宇佐美熊野神社周辺
宇佐美熊野神社周辺
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まず、伊豆の道祖神さんを見ていく上での基本として、多く「破損が著しい」という特徴がある。伊豆の道祖神さんへの祈願は「竹、薪等でめった打ちにし、その上、ところによっては、川、海、あるいは火中に投じ、神に対し、あるまじき虐待を加える」という次第だった。そんななので写真左から二番目の道祖神さんのように、首がとれてしまい、自然石で代用している像が大変多い。また、そうであるので「そうならないように」という石工たちの工夫もこれから随所に見られることと思う。

もっとも、道祖神さんの祭祀権をもっていたのは子供達で、そんな荒っぽい扱いをしていたのも子供たちなのだが、あるとき大人がそれを止めたら、道祖神さんは怒ってその大人の方に祟ったと言う。その様な不思議な子供と道祖神さんの関係も、この先見ていくことになる。

宇佐美比波預天神社
宇佐美比波預天神社
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次に代表的な形状について。伊豆型の道祖神さんは写真のような「単座丸彫り」という独特の形をしている。『せえの神さん』のここ天神の道祖神さんの頁に、「かげはどうろく神十三夜のぼうたもち」という影踏み唄が紹介されている。ひとの影が「どうろく神」(道陸神・道祖神)やぼた餅のようだ、という唄だ。

石祠や相模の双体道祖神の形ではこのような唄は生まれなかっただろう。また、逆に伊豆型の道祖神さんの形を知っていないとこの唄の感覚も分からないのだ。ちなみに、この道祖神さんはもとは烏川のほとりにあったそうだ。現代になって神社に集まってきている道祖神さんというのもやはり多い。

宇佐美水神社周辺
宇佐美水神社周辺
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また、装飾上の外見的特徴として、この様に赤い前掛けと頭巾で「お地蔵さん化」している道祖神さんが大変多い。しかし、これがひと口に地蔵化かと言うとそう単純でもない。

同じ伊東の萩の方では、「赤え紙を十枚買って呉れるから」願い事を聞いてくれ、という道祖神さんの囃子言葉があるそうな。道祖神さんは赤いものが大好きなのだ。これが何かというと、疱瘡神と習合している側面があるのだ。実際昔は疱瘡団子を道祖神に供えていたと言う。

この疱瘡神が「赤」にまつわるのである。赤い旗を立てた船でやってくる、などと言われる。そして面白いことに、その疱瘡神を赤い紙で「誘き寄せる」という次第があった。その赤い紙の下には三角に削った薪が並べられたと言う。三角薪に座らせるというのは伊豆の漁師たちの若い衆の間で恐れられた刑罰法である。赤い紙に惹かれてやってきた疱瘡神がそこに居座ろうとしても三角薪が敵わんでどこかへ行ってしまう、という次第だそうな。

興味深いことに、この三角薪に座らせる、という次第は道祖神さんでも行われていたそうな。願いをきかなきゃおろしてやらない、という訳だ。この様に赤のコードは疱瘡神への対応であったものが道祖神へと習合している節がある。その線というのを見落として「地蔵化」ではすまないのである。

宇佐美八幡神社
宇佐美八幡神社
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そして、この様に荒っぽい仕打ちを受ける伊豆の道祖神であるので、それに耐えられるように次第に石工たちが頑丈な造形に進化させて行った。上写真中央の像を見るとよく分かるだろう。もうほとんど前衛芸術のようである。

ここはもう昔は浜際で、小正月の道祖神祭のどんど焼きも海岸で盛大に火を焚いたと言う。その際、小さな道祖神さんは、はじめから燃やす正月飾り等の中心に置かれたと言う。火祭りのあとは、その灰を集めて灰団子をつくり、大きな道祖神さんになすり付けたものだそうな(実際は多分投げつけていた)。

祭祀の次第については別途詳述するのでここは端折るが、ひとつ目小僧からあずかった帳面を返さないために、「丸焼けになったから」という言い訳を道祖神さんはするのだ(帳面に翌年の里人の厄が記されているのだ)。その話の再現として火にくべられ、また、灰をなすり付けられるのだと宇佐美八幡周辺では言う。いずれにしてもそのような荒っぽい扱いに耐えられるようにこのような形状になって行ったのである。

このような所が外見的特徴だろうか。姫型・尼僧型・男僧型の(これに関しては全般を通じて見ていく)座像で、「単座丸彫り」という手法で造られ、荒っぽい扱いを受けた所が多く破損が著しい。また、地蔵と習合し、または疱瘡神と習合し、赤い装飾をされる所も多い。そして、特に荒っぽい祭祀のあった所では、どっしりとした抽象的な形状になっていった。これが伊豆型道祖神である。では、次回からはより興味深い祭祀の内容等も併せて紹介していくことにしよう。

脚注・資料
[資料1]『せえの神さん』木村博・鈴木茂:著 サガミヤ選書(1976)

番外編:伊豆の道祖神(一) 2011.09.28

伊豆神社ノオト: