三浦半島の大蛇

門部:日本の竜蛇:相模周辺詳細:2012.02.19

場所:神奈川県三浦半島
収録されている資料:
『三浦半島─その風土と歴史を訪ねて』辻井善弥(有峰書店新社)
『日本の伝説20 神奈川の伝説』(角川書店):「三浦・鎌倉」
タグ:向く先に障る神/竜蛇のわたり


伝説の場所
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三浦半島から浦賀水道を望む海辺に少なくとも五頭もの大蛇伝説がある。この大蛇どもが水道を船がいくと見るや白浪を立てて泳ぎ寄って挑み掛かり、船を転覆させてしまったというのだからたまったものではない。一体この海に何があったのだろう。今回はこの中から、剣崎・雨崎・長沢の大蛇の話を紹介しよう。「三浦半島」ではあるが、剣崎・雨崎は三浦市、長沢は横須賀市となる。

剣崎の大蛇

剣崎の磯鼻に小山と呼ばれる丘がある。関東大震災後地盤が隆起して陸続きとなっているが、それ以前は島であった。その頃はこの山に登ることはもちろんのこと、この島に近づくこともできなかった。それゆえ、この前を通る帆前船も、この前面を通るときは帆を下げて通ったとも伝えられる。それは、この小山には恐ろしい大蛇が住んでいて、この大蛇が一度あばれ出すと、沖を通る千石船をも転覆しかねないからであったといわれる。
剣明神社は、その大蛇を祀ったものとも、また草薙の剣を祀る熱田の神を勧請したとも伝える。そして不思議なことに、この地に神を祀ってから大蛇は見られなくなり、沖を通る船は安心して航行できるようになったそうだ。現在、龍宮さまを祀った小祠があるが、これが剣明神社であろう。

辻井善弥『三浦半島─その風土と歴史を訪ねて』 より引用

剣崎・小山
剣崎・小山
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実際の「小山」を見てみてすぐに「この山自体が大蛇のトグロに見立てられたのだろう」と思った。多分写真を見ていただければ「なるほど」となることと思う。

そして、剣と大蛇の関係だが、「剣崎の名称は、江戸時代初期ごろ、徳川幕府の官財を積んだ船が岬の沖で難破した時、岬の突端から海南神社の神主が剣を海に投じ、龍神の怒りを鎮めたことに由来する」ともある(『三浦半島再発見』神奈川新聞社)。いずれにしても「剣」は竜蛇と関係しているようである。この社は、引用の伝説にあるように竜宮を祀る社として今もある。小山でなく、剣崎そのものの先端、灯台の真下あたりに鎮座されている。

剣崎・竜宮祠
剣崎・竜宮祠
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さて、ここでひとつ留意しておきたいのは熱海初島の「竜神社」の伝説だ。「港の傍の森の中にひっそりと佇む竜神宮には海の中から現れた剣が祀られており、大漁祈願の神として島民の信仰を集めています。 昔不漁が続いたとき、海の中から剣が現れて、それ以来、島には大漁の日々が続きました」と伝わる。熱海は三浦半島の相模湾側のさらに反対だが、三浦半島を統べていた三浦氏は西相模から東伊豆の氏族と縁が深く、海路という点では連続していたものと思われる。

東伊豆には独特な竜宮信仰があり、西相模大磯の方までのびているが(「ボラのヨーバミ」を参照さいれたい)、おそらく三浦半島へも入っていると思う。もしかしたら剣崎にも初島竜神宮のような伝説が下敷きにあったのではないか、という点を頭の隅に入れておきたいのだ。

雨崎の大蛇


伝説の場所
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雨崎にはいくつかの伝説が語り伝えられている。なかでも雨崎に大蛇が住んでいたという話が、その中心となっている。酒樽ほどもあったこの大蛇は、たびたび雨崎と房州の間を往復し、海上で巨大な鎌首をもたげ、白浪を立てて走る大蛇を見た漁師は、みな熱病にうなされたという。また五月雨の頃は浅間様(大蛇)がお通りになるので、邪魔になるから雨崎には行くなという伝えがあり、妨げる者は命を失うと恐れられていた。
雨崎の名は、この岬が古くは村人の雨乞いの地であったからとも、またこのあたりに驟雨がおそうとき、まずこの岬に雨が降ることから起こったとも伝える。

辻井善弥『三浦半島─その風土と歴史を訪ねて』 より引用

お次は雨崎。こちらは「大蛇のわたり」と、それを見たものに障るというモチーフに重点が置かれている。剣崎よりもより深く「そこが〝あちら〟に近接する場所」なのであることが語られていると見て良いだろう。そして、それは次の点に関係するかもしれない。

(雨崎には)海岸に弥生時代の遺物や人骨が出た洞穴がある。洞穴といっても浅い穴なので岩陰と見すごしてしまうような穴である。この洞穴はこの近くに古代村落をつくった人びとの埋葬場所として使用されたものと考えられている。

辻井善弥『三浦半島─その風土と歴史を訪ねて』 より引用

そういう場所なのだ。三浦の海南神社とも縁が深い安房の海南刀切神社には死者を舟で海に流す葬儀があったと言い、大雑把に「海にかえす」というイメージならば、伊豆諸島・伊豆半島にも類似の葬儀形態があったと思われる。

雨崎
雨崎
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文字通り雨崎は「あちら」への岬というイメージを後世にまで引いていたのであろう。そしてまた、この大蛇が「浅間様」と呼ばれていることも大いに注目すべき点である。と、いってもこの点はまだ私のほうがあれこれ語れるほどの準備がないのだが。

どうも「勘」では富士塚(浅間さん)と弁天さんにはセットになる側面があるような気がするのだ。あるいは富士塚は蛇を意味するところがあるのかもしれない。雨崎に富士塚があったのかどうかは分からないが、「金堀塚」といわれる塚があったそうな。埴輪などが出土したというから古墳だったのかもしれない。

実際雨崎に行ってみても、ちょっとかつてあったという祠などは見つからなかったが(崩落がひどい)、三浦半島の信仰空間を考える上で大変重要な場所なのだということは間違いないだろう。二度三度の実地見聞が必要な所かもしれない。

雨崎の海岸
雨崎の海岸
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長沢の大蛇


伝説の場所
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長沢海岸の沖合いに三つ磯といわれるところがある。昔、長沢の本行寺の裏山に雄の大蛇が棲んでいて海をへだてた房州の鋸山の雌の大蛇に恋いをしたという。雄の大蛇は、なんとかして会いに行きたいと思ったが、潮の流れが速く泳ぎきる自信がなかった。
それでも雌の大蛇が鋸山に登ってしきりに招いているので、雄の大蛇は、飛び石づたいに海を渡ろうと石を運びだした。しかし、あまりに重いので投げ捨ててひき帰し、結局房州行きを断念した。三つ磯は、その大蛇が運んだ石という。

角川書店『日本の伝説20 神奈川の伝説』より要約

最後は微笑ましい長沢の大蛇のお話。かつて本行寺裏(脇)には沼(溜め池)があったといい、いまも湿地となって痕跡はある(しかし完全に封鎖されている)。その沼の主だったのだろう。本行寺の方は人がおらずお話を聞くことができなかったが、境内に「八大龍王社」が祀られており、大蛇伝説を持つお寺が八大龍王を祀ることが多いことを思えば、先の伝説の大蛇を祀った祠であるのかもしれない。

本行寺:八大龍王社
本行寺:八大龍王社
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さて、微笑ましい話ではあるのだが、私は存外この伝説は面白い側面を伝えているのではないかと思ってもいる。この大蛇は、明らかに剣崎や雨崎の大蛇とは性質が違う。岬の先の磯に海に望んで棲む大蛇と、浜奥の丘沼に棲む大蛇という違いがある。

長沢の海岸
長沢の海岸
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長沢の海は「砂浜」なのだ。もしかしたらこの違いは「岬の持つ神性」を語っているのではないだろうか。岬の「〝あちら〟へと突き出された」神性を備えない大蛇は「わたることができない」。長沢の浜に立って即座に思ったのはそのことだった。

なぜ、それを語る必要があったのかというと分からないが「岩を海に放り込んで……」というモチーフはこの話に限らず、また、大蛇の話と限らず多くの海に語り継がれる。よりシリアスな「あちら」への指向を持った話も多い。おそらく、これは「岬を形成しようとした話」なのだろう。

このように大蛇たちが軒を(鎌首を?)連ねているのが三浦半島なのだ。この他、走水の南側の観音崎にも洋上の船にアタをなす大蛇がいたというし、城ヶ島の「楫の三郎神社」の丘も大蛇が住みついていて祟りがあるので昔は誰も登らなかったという。

そして、これらの三浦半島の大蛇たちの伝説は、よくよく見ていくとこの土地の海と人との関わりを色々な形で伝えるものであるように見える。それは、より深く三浦半島の信仰空間を見通して行くための強力な指標ともなるだろう。

memo

三浦半島の大蛇 2012.02.19

相模周辺詳細:

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