樟の巨木

門部:日本の竜蛇:九州・沖縄:2012.05.23

場所:佐川県佐賀市大和町
収録されているシリーズ:
『日本伝説大系13』(みずうみ書房):「樟の巨木」
タグ:竜蛇と大樹/ハハキ


伝説の場所
ロード:Googleマップ

與止日女神社の大楠
與止日女神社の大楠
リファレンス:佐賀の名木100選画像使用

神社を巡っていて巨大な楠に行きあたる度に惚けてしまうものだが、このような巨木への信仰というのはそれは古くからあった事だろう。巨木信仰は一方で諏訪の御柱祭祀などへ通じたり、また一方でその木から造られる船・船霊(ふなだま)信仰へと通じたりもすると思われる。場合によってはそのスケールは「世界樹」の域にまで達する事だろう。

しかし、これらは「龍学」の管轄だろうか。これがよく分からない。分からないのだが、予感させる事例はあり、そのあたりは紹介していきたい。ややとっ散らかるが、表題話を起点に今繋がりがありそうだと思っているものを見ていきたい。

樟の巨木:
佐賀郡大和町──川上の淀姫神社境内に焼けた楠の大木がある。この楠は枝大いに栄え、其の枝が川上川を横切って向うの都々城に迄伸んでいたという。又朝はこの木の影に西の諸部落はおおわれたと伝えられる。この楠に関して一つの伝説がある。かの名高い鎮西八郎為朝が名護屋の橋より彼方上流川上の方を眺むればうねうねとして一匹の大蛇が今将に川を横切らんとしているのを見すばやく弓に矢を番えて、きりきりと引きしぼりひょうと放てば矢は真一文字に進み、大蛇の腹にぶすりと当たった。しかし異常はなかった。それで不信に思い川上へきて見ればそれは楠の大木の枝であったという。しかしこの楠も大友軍と竜造寺軍と戦った時に神社の壮大なる建物と共に焼けて今は焼け木になっている。(『小城地方民間説話』)

みずうみ書房『日本伝説大系13』より引用

鎮西八郎為朝は良いだろう。為朝は九州にあっても伊豆諸島八丈島にあっても大蛇と見たら矢を射るものなのだ(「黒髪山の大蛇退治」参照)。ここではその為朝の「蛇と見れば射る」性質がこの大楠を蛇と見た事に期待したい。

淀姫神社というのは肥前国一宮式内:與止日女神社のことである。今も楠の古樹が有名だが、伝説では更に途方もない大楠があったという事になる。

與止日女神社
與止日女神社
レンタル:Wikipedia画像使用

「與止日女神社」(webサイト「玄松子の記憶」)

この事は色々な資料に見え、『大系』の類話も一つ見ておこう。

神饌所の西側に大楠の古株がある。この楠は文化十三年(一八一六)に焼けたが、神木として人々は拝んでいた。明国の僧・如定は、「珍しい大木である。大唐四百余州広しといえども、恐らくかかる大木は見られまい」と驚嘆したという。(『佐賀の伝説』)

みずうみ書房『日本伝説大系13』より引用

さらにこの大楠の記録は『肥前国風土記』の記述にまで遡る。何となれば「佐賀」の(無論伝説だが)由来もこの楠の様にあるのだ。

佐嘉の郡:
郷は六所《里は一十九》、駅は一所、寺は一所。/昔、樟の樹が一本この村に生えていた。幹も枝も高くひいで、茎葉はよく繁り、朝日の影は杵嶋郡の蒲川山を蔽い、夕日の影は養父の郡の草横山を蔽った。日本武尊が巡幸された時、樟の茂り栄えたのをご覧になって、勅して「この国は栄(さか)の国というがよい」と仰せられた。そういうわけで栄の郡といった。後に改めて佐嘉の郡と名づける。

吉野裕:訳『風土記』(平凡社ライブラリー)より引用

『肥前国風土記』の同佐嘉の郡の箇所には「世田姫(逸文に与止姫)」鎮座の記述もあり、すでに與止日女神社の大楠のイメージはあったものと思われる。ともかく郡を跨いでその影が朝夕に差したというのだから、これはもう「世界樹」のレベルであろう。

ここで思い起こされるのが、『山海経』を嚆矢とする「扶桑の国」に関する中国側の各種記録である。この影響は大きく、実際日本を「扶桑」と称する例もあった(『扶桑略記』)。『史記』から史書にも取り上げられているのだが、とりあえず大本になっていると思われる『山海経』の部分は見ておきたい。「海外東経」と「大荒東経」に記述があるが、「大荒東経」を引いておこう。

大荒東経:
大荒の中に山あり、名は孽揺頵羝(ゲツヨウインテイ)。山の上に扶木(扶桑)がある。高さ三百里、その葉は芥菜(からしな)のよう。谷あり、温源の谷(湯谷)といい、その湯の谷の上に扶木があり、一個の太陽がやってくると、一個の太陽が出ていく。(太陽は)みな烏を載せている。

高馬三良:訳『山海経』(平凡社ライブラリー)より引用

これが日本の九州のことではないかと思われてきた次第があり、各種柱を立てる信仰、あるいは皇祖神の高皇産霊神を一名高木神というのはこのことに違いないなど、色々影響があるわけだ。

もっとも1980年から本格的に調査のはじまった四川省三星堆遺跡から九羽の鳥を持つ神木状の青銅器(下写真:殷代晩期)が発見されたことで、これが扶桑を象ったものであろうとおおよその決着となり、話は下火ではある。

三星堆遺跡の神樹像
三星堆遺跡の神樹像
リファレンス:歴史と中国画像使用

ともかく、この「扶桑伝説」が中国よりやって来て、古くも新しくもそれぞれの日本側の伝説形成に影響を与えたのだろうということではある。しかし、「龍学」が問題とするのはただ一点、その大樹が竜蛇と関係するのか、という所だ。先の三星堆遺跡の扶桑の青銅器も竜がまとわりついており、自発にせよ外来にせよ何らかの関係はあったはずなのだが、実は「これ」という話がない。

「伝説の蛇の化身」という古樹は各地にあり、これから「日本の竜蛇譚」にも色々出てくるだろうが、もともと何かを葬って木を植えたら、その木は葬られたものの化身となるものなので、蛇という点が際立っているのかというとよく分からない。

ここで「木が蛇」であるような例として「ハハキ」の問題がクローズアップされてくる。ハハキとは箒の古語であり、ハハキ・ハバキといった。また、「ハハ・ハバ」とは蛇の古語でもあり、ここから吉野裕子は箒とは蛇木(ははき)のことであったのではないかと推察した。

この件は吉野の蛇三部作の中でも『日本人の死生観 蛇 転生する祖先神』(人文書院)に詳しいが、産喪の空間に箒神がまま登場すること、葬列の竜蛇の同位置を箒が代用すること、伊勢神宮内宮・天照大神の宮の東南(辰巳)に矢之波波木神が祀られ、その祭祀時刻が巳の時であること……等々から、アラハバキの神の問題まで繋がっていくのだが、そこまで行くと話が大きくなるのでさて置く。今回考えておきたいのは、ハハキの件では、「箒」はあくまで箒サイズであり、あまり世界樹的な大樹のイメージとは重ならないのか、という点だ。

しかし、これが信濃にはもしかしたら世界樹的であったかもしれない「ハハキ」があったというのである。

信濃国風土記逸文:ははき木:
昔、風土記という書を見たおりに、このははき木のいわれについて大略のことは見たように思う。しかし年ひさしくなっているので、はっきりとも覚えていない。その木は美濃と信濃との国の堺のそのはら(園原)、ふせや(布施屋)という所にある木である。遠くで見ればほうきを立てたように立っているが、近よって見るとそれに似た木とてもない。それで在りとは見えながら出逢わぬもののたとえとするのである。(『袖中抄』十九)

吉野裕:訳『風土記』(平凡社ライブラリー)より引用

信濃のハハキ木は竜蛇に関係するとも大樹であるとも書いてはいないのだが、国境に遠くから見えるというのだから大樹ではあるだろう。それがハハキという名であることで、ぐるりとまわって蛇木仮説と雲をつくような世界樹伝説との接続がとられるわけである。

はたして蛇木である大樹のイメージはあったのか。このことはさらにその木を用材として用いていく先で発生する伝説にも影響を与えると思う。蛇の木が諏訪の守屋家の伝えるような「神霊が伝わって降りてくる」ものを指すのか、それとも木そのものの精が竜蛇と近接して表されるのか。「大樹が竜蛇」というモチーフはこの後者の可能性を強く示唆するのだ。そしてそうであるならば、その木を用材とした船などにも竜蛇の性質がより強く持ち越されていくだろうと思うのである。

はじめに予告したようにとっ散らかった話となったが(笑)、このようなあれこれが大樹と竜蛇の周辺には見え隠れしているのだ。まだまだ五行で蛇は木気だとか、大樹の精そのものの伝説であるとか、東南アジアの高柱祭祀だとか色々考え合わせるべきことがあるのだが、とりあえずその出発点ということで鎮西八郎為朝殿の眼力にあやかってみた。

memo

樟の巨木 2012.05.23

九州・沖縄地方: