弟日姫子と狭手彦

門部:日本の竜蛇:九州・沖縄:2012.01.16

場所:佐賀県唐津市
収録されているシリーズ:
『日本伝説大系13』(みずうみ書房):「松浦佐用姫」
『日本の伝説38 佐賀の伝説』(角川書店):「松浦佐用姫」
初見:『肥前国風土記』
タグ:佐用姫伝説


伝説の場所
ロード:Googleマップ

娘が水神・竜蛇神への人身御供となる話には「さよ(小夜・佐用など)」という名の娘が出て来ることが多い、という傾向がある。

そして、これら全国の「おさよ」たちの伝説をたどっていくと、肥前松浦の佐用姫伝説から広がっていったのではないかという話となる。これは実に『肥前国風土記』に遡る話なのだ。各地の「おさよ」伝説を見る前に、まずこの根本の話を見ておきたい。

鏡の渡 郡役所の北にある。

昔、檜隈の盧入野の宮に天の下を治められた武少広国押楯(宣化天皇)のみ世に、大伴の狭手彦連を派遣して、任那の国を鎮めさせ、かたがた百済の国を救援させ給うた。狭手彦は命を奉じてこの村まで来て、篠原の村の弟日姫子を妻問いして結婚した《日下部君らの祖である》。
この姫は顔かたちは端正で美しく、人の世にすぐれた絶世の美人であった。別離の日になると、〔狭手彦は〕鏡をとり出して愛人に渡した。女は悲しみ泣きながら栗川を渡ると、贈られた鏡の紐の緒が断れて落ち、川の中に沈んだ。そのことによってここを鏡の渡と名づける。

平凡社ライブラリー『風土記』より引用

鏡山(褶振の峰)の佐用姫像
鏡山(褶振の峰)の佐用姫像
レンタル:Panoramio画像使用

前段がこの「鏡の渡」の話である。弟日姫子は若い女子、という程度の意で、『万葉集』には「松浦佐用比売夫恋ひにひれ振りしより負へる山の名」以下に数首あり、次の褶振の峰をうたうことから、弟日姫子は佐用姫のことだとされる。そして後段にその褶振の峰の話として、実に奇怪な伝説が語られるのだ。

褶振(ひれふり)の峰 郡役所の東にある。烽(とぶひ)のある場所の名を褶振の烽という。

大伴の狭手彦連が船出して任那に渡った時、弟日姫子はここに登って褶(肩布)をもって振りながら別れを惜しんだ。そのことによって名づけて褶振の峰という。
さて弟日姫子が狭手彦連と別れて五日たった後、ひとりの人があって、夜ごとに来て女(弟日姫子)とともに寝、暁になると早く帰った。顔かたちが狭手彦に似ていた。女はそれを不思議に思ってじっとしていることができず、ひそかにつむいだ麻〔の糸〕をもってその人の衣服の裾につなぎ、麻のまにまに尋ねて行くと、この峰の沼のほとりに来て寝ている蛇があった。身は人で沼の底に沈み、頭は蛇で沼の岸に臥していた。たちまちに人と化為って歌っていった、

篠原の弟姫の子ぞ さ一夜も率寝てむ時や 家にくださむ
(篠原の弟姫子よ 一夜さ寝たときに 家に下し帰そうよ)

その時弟日姫子の侍女が走って親族の人たちに告げたので、親族の人はたくさんの人たちを連れて登って見たが、蛇と弟日姫子とはともに亡(失)せてしまっていなかった。そこでその沼の底を見るとただ人の屍だけがあった。みんなはこれは弟日姫子の遺骸だといって、やがてこの峰の南のところに墓を造って納めて置いた。その墓は現在もある。

平凡社ライブラリー『風土記』より引用

これが、「おさよ」をめぐる伝説群の根本の話である。佐用姫は狭手彦を見送りながら嘆きのあまり石になってしまった、という「望夫石」伝説が並行してあり、そちらのイメージの方が強いが、実はその話は『風土記』には見ない。

さて、蛇神と(巫女である)佐用姫の神婚譚であるとか、蛇神に人身御供として佐用姫が捧げられたのだとか簡単に言われるが、私には「わけの分からない話」に見える。少なくとも人身御供譚には全く見えない。ここが重要な所で、むしろこの話は下ってそれぞれのテーマとして分化していく以前の竜蛇と人の関係を語るコードの束が未分化のまま語られていると見た方が良い。

そして、「おさよ」の伝説群もそう簡単に何の話だと決めてかかるのは危険だということだ。今の人にはそう見え、近世の人にはそう見えたかもしれない。しかし根本が何を語っていたのかというのはそう簡単ではないのだ。

伝説の源流がわけが分からないものだったときは眉をひそめるのではなく「ニヤリ」とするのだ(笑)。天平の昔がわけの分からない話を佐用姫伝説の古型として書き残してくれた。この僥倖に何度でも立ちかえってそこからの筋を追っていきたい。

memo

一方の佐用姫が石となってしまったという伝説の流れで、その「望夫石」を祀るのが唐津市呼子町加部島の式内社「田島神社」の境内社「佐與姫神社」だ。社殿の奥に実際石が見えているそうな。

佐與姫神社
佐與姫神社
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弟日姫子と狭手彦 2012.01.16

九州・沖縄地方: