沈堕の滝の主

門部:日本の竜蛇:九州・沖縄:2012.03.16

場所:大分県豊後大野市大野町
収録されているシリーズ:
『日本の伝説49 大分の伝説』(角川書店):「沈堕の滝の主」
タグ:女人蛇体/ヌシの更新


伝説の場所
ロード:Googleマップ

娘が入水する人身御供を思わせる話の中には「ヌシの更新」というテーマが見えるものがある。その時の手に負えぬヌシに対し、自らが「次のヌシ」になってしまうことで土地をおさめようとする娘の話が、ある。

私はこれはあるいは額面通りの話だったのではないかと思う。水神に仕える巫女が最後にきる手札がこれだったのではないか。文字通り「自分がヌシに成り代わる」と宣言して入水する話もあるのだが、今回は少し遠回しながらあるいは核心かもしれない沈堕の滝の話を紹介しよう。

昔、佐賀関町の早吸日女神社の神主が沈堕の滝近くを通りかかると、童たちが一匹の小蛇を捉えて殺そうとしていた。神主はなぜか胸が痛く思い、小蛇を助けた。その年の暮れ、長らく子に恵まれなかった神主夫婦にかわいい女の子が生まれた。娘は美しく育ったが、背中には蛇の鱗のようなものが三枚並んで光っていた。両親が鱗をはぐときれいにとれたが、すぐにまた新しい鱗が生えてきてしまう。不憫に思ったが、両親は諦め、数年が経った。
ある嵐の夜、旅の六部が神社に宿を求めてきた。細く光る怪しい六部の目が気味悪く、母は断ろうとしたが、娘が出てきて是非泊めるように言う。ところが翌朝、起きてこない六部の部屋をのぞくと、その姿はなかった。礼も言わずに……と母が思っていると、娘が思いがけない話を始めた。娘は、自分は実はかつて神主に助けられた沈堕の滝の蛇なのだと言う。六部は滝からの使者で、すぐに滝に帰ってきてほしいと言ってきたのだと。両親は悲しんだが鱗のこともあり、覚悟を決めると、娘を美しく飾り、赤い櫛を持たせて沈堕の滝へ送ってやった。
滝壺に身を踊らせた娘のあとを、両親は立ち去り難く見つめていた。すると水面が逆巻き、再び娘が姿を現した。娘は、滝壺に別の主が住みつき、これを殺さねば住むことが出来ない、と言う。そして、父に刀を貸してくれるように頼んだ。父は大急ぎで神社に戻り刀を持ってくると娘に与えた。娘は刀を口にくわえ、再び滝壺の底へ沈んだ。しばらくすると水底から赤い血の水が湧いた。心配する両親がしきりに呼びかけると、まもなく水底から「一年に一度、必ず会いにいきます」という娘の返事が聞こえた。
その後、毎年六月の大祓の日になると、一匹の大蛇が沈堕の滝から大野川を下り、早吸日女神社の宮の池に姿を見せるようになったという。それで、この日は雨が降らなくとも大野川の水は濁るのだそうな。

角川書店『日本の伝説49 大分の伝説』より要約

雪舟作『鎮田瀑図(複製)』
雪舟作『鎮田瀑図(複製)』
リファレンス:九州朝日放送画像使用

沈堕の滝というのは雪舟が描いたことでも有名な(「鎮田瀑図」今は模写のみ残る)名瀑で、柱状節理による落差を水が流れ落ちる特異な滝だ。タイトルイメージの雄滝の他にやや下流に雌滝がある。問題なのはこの数キロ西が「緒方」だという所だ。沈堕の滝のすぐ上で大野川に合流する川を遡ると沈堕の滝と似た原尻の滝という滝があるのだが、そこに緒方三社の二宮が鎮座しており、この川の名は緒方川である。ここでは詳しくはあたらないが、三輪伝説に同様する蛇祖伝説を持つ九州緒方氏の本地すぐそばに沈堕の滝とその伝説もあるということなのだ。

一方の早吸(はやすい)日女神社というのは佐賀関半島の式内:早吸日女神社のことなのだが、沈堕の滝からは直線距離で40km以上離れた大野川の河口の東方である。父の神主はちょっと戻って刀を取ってきてるようになっているが、歩きでは一日で往復できる距離ではない。

早吸日女神社
早吸日女神社
リファレンス:~風の宿り~画像使用

「式内:早吸日女神社」(webサイト「玄松子の記憶」)

つまり信仰空間として象徴的にこの二点を接続することが重要なのであり、そうであれば早吸日女神社そのものが重要なのだと思われるが、現状どういった意味があるのかはよく分からない。

さて、そのような舞台なのだが、今回は話の筋のみを見ていきたい。そのままだと娘がもとからの蛇のヌシで、留守の間に他のヌシに居座られた、ということなのだが、これはお話としてのものとしてさて置き、やはりこれは娘(巫女)が従来からのヌシ(自然神としてのヌシ)に取って代わる話なのだと思う。

川が氾濫したら巫女はその水神を鎮めるべくあれこれ神事を執り行ったのだろうが、万策尽きてなお収束しなかったらどうなるか。ここで入水譚が発生すると、役を果たせなかった巫女が贄となるのだ、という捉え方をされることになるのだが、そこに微妙な齟齬がある。自分がヌシに成り代わると宣言する娘や、刀をくわえて成敗に向う娘のイメージが、自己犠牲なり贄なりのイメージと噛み合ないのだ。実に微妙というか起こっていることは同じなのだが、どちらと捉えるかでかなり周辺の意味合いまで異なって来るようにも思う。

このあたり、供儀を水神に捧げる、自らを犠牲として水神を鎮める、というニュアンスよりもむしろ入定のような感覚に近いのではないか。自己犠牲と言えばそうなのだが「巫女が最後に使う大技」という少し違うニュアンスがあるように見える。実際話の流れとして娘(巫女)が従来からのヌシを倒して次のヌシとなっているわけで、従来からの水神を鎮めるという話とは明らかにその後に祀ることになる対象も異なってくる。女人蛇体が単に人身御供の話なのか、という問題には、このような「ヌシの更新」の話も関わって来るのだ。

話数としては多いとはいえない事例なのだが、私が感じる齟齬が確かな違いを示すようになるとしたら、おそらくこの話型は大変重要なものとなって来るはずだ。巫女と水神の竜蛇の関係も中々一筋縄にはいかない。

memo

沈堕の滝の主 2012.03.16

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