掃部長者

門部:日本の竜蛇:北海道・東北:2012.01.19

場所:岩手県奥州市胆沢区
収録されているシリーズ:
『日本伝説大系2』(みずうみ書房):「掃部長者」
タグ:佐用姫伝説


伝説の場所
ロード:Googleマップ

人身御供の姫の代名詞である「さよ姫」伝説の典型が奥州胆沢に伝わる。実に多くのモチーフを内包する伝説であり、また派生話も多く一筋縄には行かない。今回はもっとも基本的な話系をあげ、探求の一歩としよう。「掃部長者」と通称されるが、伝説そのものが複数の話をつなぎあわせてできている、という側面があり、少し分けて見ていこう。

掃部長者:要約1
近郷一番の大福に掃部長者があったが、その妻は欲深く、何百人もの下男下女に朝早くより夜遅くまで重労働を強いていた。ある日、一人の下女が井戸で水を汲んでいると赤い魚がまじった。味噌をくるみ焼くと良い香りが漂った。これを嗅ぎ付けた長者の妻が出て来て赤魚を食べてしまった。
すると妻は喉が渇いたと下女に水を運ばせた。何度も運ばせるので下女は力つきてしまう。そこで妻は自ら井戸に行き、顔を突っ込んで水を飲み出した。井戸端の石が崩れ、妻は水に入り、遂には大蛇となってしまった。これより後、上葉場村を湖となし棲みついた。
この大蛇は毎年作物を荒らすようになり、年毎に順に女一人を生贄として要求した。ある年、郡司兵衛の番となったが、娘は一人娘だった。郡司兵衛はやむなく代わりの娘を買うことにし、旅途についた。

みずうみ書房『日本伝説大系2』より要約

これが前段である。「掃部長者」というタイトルなのだが、長者はどの伝系でもほとんど出てこない。長者の妻が強欲であり、それも行き過ぎ遂には大蛇となる、というところからはじまる。この妻は雨の日に下人を休ませるのを惜しむあまりに傘やケラを発明したという笑い話なようなところもある。

「赤い魚」を喰って大蛇となっているが(もともと蛇性だったので強欲だった、というものもある)、東北一帯に赤い魚(ジャコ・雑魚)を口にして人外のモノに変貌してしまうというモチーフがある。このあたりは拙稿「赤い魚にまつわる話」を参照されたい。

そして後段、郡司兵衛は九州まで赴く。

掃部長者:要約2
肥前松浦の貧しい一軒家を訪れた郡司兵衛は、そこに暮らす盲目の母と佐夜姫に事情を話した。母は止めるが、佐夜姫は自分が身代わりになればその金で母の暮らしが楽になろうと承諾する。こうして郡司兵衛は佐夜姫を北国へ連れ帰った。
生贄になるときが来て、松浦佐夜姫は尼坂で髪を刈り、化粧坂で化粧をし、道伯森の頂上に四柱を組んだ台の上に座禅をした。にわかに嵐が起り、大蛇がやってきた。佐夜姫は守りの薬師如来をとり出し、法華経を誦読した。
すると大蛇が弱り出し、姫が読み終わるやそれを大蛇に投げつけると、その角にあたり、角は頭から落ちた。嵐が治まると、大蛇は死んでいた。里人は角を角塚に、大蛇の体は大塚に埋めた。さらに佐夜姫を加護した薬師の堂を建立し、佐夜姫は肥前へと帰った。(『南都田郷土史』)

みずうみ書房『日本伝説大系2』より要約

角塚
角塚
レンタル:wikipedia画像使用

この話が伝説の主体である。佐夜は伝系により小夜・佐用・佐与など様々だが、肥前松浦と言えば「佐用姫伝説」が風土記の頃より伝わる地であり、おおいに関係するだろう。

ただし、伝系により「買われて来る娘」の出自は様々である。概ね肥前松浦のさよ姫が多いものの、塩釜からであったり、遠州小夜の中山は大鹿の長者の娘小夜だったり、(これが重要だが)奈良の松浦長者の娘だったりもする(後述)。

後半は姫が落ちた大蛇の角で筏を組んで乗って帰ったり(塩釜の娘)、大蛇は昇天し、その礼に姫の母の目を治したりと様々な展開を見せる。関連地名に関してもさらに姫が行水をしたところだとか、大蛇が水を貯めようと動かした岩だとか伝系によって様々に語られるが、細かなところは稿を改めよう。

ここから目を移したいのは琵琶湖の弁天さん、近江竹生島である。なんと竹生島の弁天縁起のうちには、奈良松浦長者の娘小夜が奥州に引かれ、戻って生涯を全うした後、竹生島弁才天として顕現された、というものがあるのだ。

詳しくは竹生島の方で扱うが、奥州胆沢地元の現在の看板話型でも「肥前に帰って母とめぐり会い、父の供養も心残りなく果たし、竹生嶋弁財天となって近江国に現れたという。」と、そのあたりを織り込んでいる。

▶( 「佐用姫伝説」(webサイト「胆沢ダム通信 ササラ」)

つまり、最終段に弁天縁起となるような仕掛けがあったのじゃないかということである。弁天と習合する市杵嶋姫命はまたの名を狭依毘売命(さよりびめのみこと)という。これは偶然とは思えない。

しかし、弁天講(巳待ち講)などを広めようとした人々がマスターストーリーとして「さよ姫伝説」を伝え、各地で土地にあわせた派生話が生まれた、と行けばきれいなのだが、そう簡単でもない。胆沢にしても特に該当するような弁天社は見えない。

いずれ各地の「さよ姫伝説」を丹念に見ていって再度考えることになるだろう。柳田翁は「さよ」という名に「神を迎える巫女性」を見たが(『妹の力』「人柱と松浦佐用媛」全集9)、どうなるか。奥州と九州、そして琵琶湖と長大な距離を結んで見てゆかねばならぬ伝説なのである。

memo

式内:於呂閇志神社(於呂閇志胆澤川神社)
式内:於呂閇志神社(於呂閇志胆澤川神社)
リファレンス:あさくランド画像使用

ところで掃部長者伝説の土地やや西には於呂閇志胆澤川神社が鎮座されている。謎の多い「於呂閇志神社」なのだが、掃部長者がどこを鎮守としたのかと言ったら於呂閇志神社だったのじゃないか。もとはさらに西奥の「猿岩」を祀ったものだったと言うが、同地区の式内社であり無関係とは考え難い。掃部長者伝説と関連づけて考えているものを見たことがないので、メモしておく。

「式内:於呂閇志神社」(webサイト「玄松子の記憶」)

掃部長者 2012.01.19

北海道・東北地方:

関連伝承:

弟日姫子と狭手彦
弟日姫子と狭手彦
佐賀県唐津市
『肥前国風土記』にみる松浦佐用姫伝説。
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