釜無川

門部:日本の竜蛇:中部:2012.05.08

場所:山梨県南アルプス市 釜無川
収録されているシリーズ:
『日本伝説大系5』(みずうみ書房):「釜無川」
タグ:女人蛇体/竜蛇と鐘


伝説の場所
ロード:Googleマップ

「釜無川」というのは概ね甲府盆地を流れる間の富士川のことを言う。河川台帳にはなく(台帳上は皆富士川)、俗称ということになるのだけれど、甲州の人にしてみれば釜無川は釜無川だろう。北東から来る笛吹川との合流の様子を地図上見るだけで予想されるように大雨が降れば氾濫するところであり、ここに「信玄堤」でも第一の竜王堤が築かれた。

釜無川:信玄堤
釜無川:信玄堤
リファレンス:Japanese Scene画像使用

この辺りは竜王町の名のとおり、また別の竜伝説のあるところなので別途稿を立てるが、このような氾濫源のすぐ下流に位置したのが今回の伝説の舞台だということを知っておこう。

場所は今南アルプス市になった旧・中巨摩郡若草町のあたりのことである。大水に苦しんだ土地故に、まつわる不思議なモチーフがてんこ盛りとなっている話がある。そのほとんどは今つきつめてどういう意味だと言いきれないような謎なものだが、ともかく実際の話を見てみよう。

昔、浅原村に親子三人暮らしの一家があった。その家に、ある年巡礼娘が濡れ鼠になって飛び込んできて一時の雨宿りを乞うた。しかし、娘は雨がやんでも立ち去らず、両親を探して諸国を巡礼しているという身の上を話した。家の者は可哀想に思って、いつまでも逗留しているようにすすめた。娘は気だても良く、良く働くので、息子の浅吉も年頃ということもあり、二人を夫婦にしようということになった。娘も快く承諾し、浅吉は所帯を持った。ところが二、三年したある夜、浅吉が行灯の灯で髪の毛をすいている妻の障子に映る姿を見ると、人間ではなかった。
一家の者は怖くなり、暇をやるのでまた親を探すようにと、さとした。嫁もそうしたいと言って、ある暴風雨の日、日ごろ勝手で使っていた釜の蓋を貰い受け、土砂降りの中を出て行って釜無川の濁流の中に蓋を投げ入れ、その上に飛び乗り、たちまち蛇身と変じて逆巻く怒涛の中に姿を消した。するとにわかに洪水は引いて、水害を免れた。そしてその後も水害は起こらなかったという。
後、この村はもちろん、沿岸の人たちも恐れて釜を使わなかったので、川の名を釜無川と呼ぶようになった。また蛇のことを方言で「アザ」というので、この村を「あざばら(浅原)」と呼ぶようになったという。(「甲斐路のあない」『甲斐路』二号所載)

みずうみ書房『日本伝説大系5』より要約

釜無川の決壊
釜無川の決壊
リファレンス:土木図書館デジタルアーカイブス画像使用

表題話によったが、この地のこの話の広がりとしては「浅原村の旧家・五味四郎右衛門の妻が年々の釜無川の水害を除こうと心痛し、釜の蓋に乗って蛇身となる」という筋が基本的なものであるようだ。「今から二百七、八十年前」と語られる。

さて、まずは「釜」からいこう。河川に関して釜とは淵・滝つぼのことである。釜無川のこの流域は流れがまっすぐで淵がないので釜無川と言うのだという説もある(基本的には巨摩の地を貫流する大河川ということで「巨摩の兄(せ)川」が訛ったものだろうとされる)。釜(淵)がないということはそこを住処とするヌシがいない、ということでもある。これが大水の際には淵に類する逆巻き渦を巻く濁流が出現するわけで、この話はその「釜」をふさぐ(水害を封じる)ために釜の蓋に乗り自らが川を制御するヌシとなろうとした女人の話である、とひとまずはとれる。

釜無川
釜無川
レンタル:Wikipedia画像使用

参考となる論文をあげておこう。千葉大の井上孝夫氏が、房総鋸山のふもとの「金谷神社」に伝わる日本武尊由来(と、考えられた)の大鉄鏡と釜・釜の蓋への信仰の関係を考察されている。

「金谷神社大鉄鏡の由来について 」
 (井上孝夫:PDF)

これはまた三浦と房総を結ぶ大変な一件なのだが、それは今回はさて置き、釜無川に通じるポイントを拾ってみよう。この大鉄鏡は地元の人が「釜の蓋様」と呼んで拝してきたものなのだが、これについて次のようにある。

より決定的なことは鉄板が引き上げられた7月1日というのは「地獄の釜の蓋が開く日」とされているということである。だから伝説にいう6月末の暴風雨というのも地獄の釜の蓋の開く前兆現象だったのであり、7月1日に引き上げられた鉄板とはまさしく地獄の釜の蓋だったというれっきとした「意味」が存在するのである。地元の民衆が「釜の蓋様」と呼んで信仰しているのは、そうした宗教的観念が反映しているからだろう。

井上孝夫「金谷神社大鉄鏡の由来について」より引用

きっと釜無川の暴風雨も六月末だったのだろう。この後、付近の人々が釜を恐れ、使わなくなった、という件が今ひとつよく分からないのだが、概ね金谷神社の「釜の蓋様」同様の意味合いを釜無川の釜の蓋は持っているのだと思う。

そして、「金谷神社大鉄鏡の由来について」では引き続いて釜の蓋、釜、釣鐘と結ぶ連絡を富津の北、君津の神将寺薬師堂を紹介して検討しているが、ここが大変重要なので少し長いがまた引用しよう。

釜の蓋への信仰について思いをめぐらせてみるとき、浮かび上がってくるのは君津市釜神(旧君津郡貞元村釜神)にある神将寺の存在である。この寺の本尊である薬師如来を安置する薬師堂の屋根上には「釜」が祀られている。実際には写真にみるように、釣鐘型の逆さにしたような釜なのであるが、それには次のようないわれがある。『房総志料続編』から引用しておこう。
「土人曰、釜上薬師如来は、むかし釜の蓋にのりて、小絲川を流れ来り此所に着き給ふ。故に此処を釜上といふ。別当神将寺、小絲川の南岸にあり。」
この寺の本尊薬師如来は釜の蓋に乗って小糸川を流れて来て、この地で釜神薬師如来として祀られた、というのである。実際にこの寺は小糸川に隣接し、周辺の地名も釜神となっている。ただし、釜の蓋、釜、釣鐘の区別は明確になされてはいない。当初の釜の蓋への信仰はいまでは逆さに祀られた釜(釣鐘)への信仰へと変化しているようである。

井上孝夫「金谷神社大鉄鏡の由来について」より引用

神将寺薬師堂
神将寺薬師堂
リファレンス:仏像1万2千体画像使用

神将寺薬師堂の釜とは写真のようなものだ。釜・鐘というより「甕」である。ここで皆を繋げて話すと大変なことになるので端折るが、これまでに「日本の竜蛇譚」で鐘だ甕だと言っていたのはやはりどうも連絡するようだ。

いずれにしても釜無川の巡礼の娘ないし五味四郎右衛門の妻が釜の蓋に乗って濁流に身を踊らせたという話は以上のようなモチーフの連なりの上にあるのだということである。この辺りは現状漠然とその並びを紹介するにとどめ、今ひとつの「乗って下る」の方にも少し注目しておこう。釜無川(富士川)は信州諏訪湖から流れ出て来ているので、一帯は諏訪神社がたくさんある。大概蛇の社である。若草から南に下った南巨摩郡南部町の諏訪神社にも次のような由来が伝わっている。

諏訪神社の御使いである白蛇が川水の上を「麻からのくき」にのっていたのを、初めに見つけた塩沢部落の人達によって、年々4月15日に諏訪神社の祭典が行われる。その際には神輿の渡幸があり、祭りの前に富士川の河原に御小屋をたてるが、ある年、これを建てなかったことがあった。すると、この部落に伝染病が流行したことから神様の御怒りに違いないというので、その翌年から再び建てられるようになった。(『甲斐路』 第11号)

「怪異・妖怪伝承データベース」の要約

この他にも白蛇が勝手や座敷にまで上がり込んできて困るのでお明神さん(諏訪神社)を祀った、とか、このあたりではとにかく諏訪の神のお使いが白蛇故に白蛇が出たといったら諏訪を祀るのである。こういったことなのだが、ポイントは「麻からのくきにのっていた(乗って流れてきた)」ところである。表題話では「蛇のことを方言で「アザ」というので、この村を「あざばら(浅原)」と呼ぶようになった」とある。麻原であろう。

蛇を「あざ」と呼ぶというのはこれ以外寡聞にして聞かないが、おそらく「麻」の方が主となる話なのだと思う。しかし、諏訪神の眷属が麻からのくきに乗って川を下る光景と、釜の蓋に乗って川を下る光景がどう結びつくのかは分からない。諏訪と麻の関係から何かが浮ぶのかもしれない。

ともかく、これらのような方向へと釜無川の女人蛇体の話は連絡していくということだ。もう、この話の意味が真に理解できるならば、釜・鐘・甕と竜蛇との関係が理解できたと言える、くらいのものではある。そして、この話、さらにカーテンコールがあるのだ。以下を読まれたい。

慶長年間の頃、五味四郎右衛門の妻は、生涯を通じて湯を嫌って水を用いてきたので、人々に竜女といわれた。また、この人は陰毛が竜神となる前触れの毛の丈だった。この一子は出家させられたが、それが日実上人だという。その後、婦人は妙な霊夢を感じて陰毛を3筋切り取り、女に与えて我に祈願をすれば、水難をのがれ、安産になるようにする、もしこの祈願に偽りがあれば、何年か経って不思議なことがある、その時には身延の常経と御嶽山と妙伝寺に必ず献納するようにといい、雨がはげしく降る日に釜無川に消えるように入った。その長毛を子安大明神として帯那の妙伝寺に祀ってある。(『甲斐路』 第2号)

「怪異・妖怪伝承データベース」の要約

どうも南に下った西八代郡ではこうなるらしい。竜蛇と女人の長い髪というのは良く結びつく話だが、なんと下の毛の方と結びついて語られているのである。すでに今回長くなっているので詳細は割愛するが、これは所謂「七難の揃毛」と呼ばれるモチーフで、今でも「秘宝館」がある所ではおなじみかもしれない。詳しくは中山太郎『日本巫女史』の「性器利用の呪術と巫女の異相」の稿など読まれたい。讃岐の水主神社の伝説などが古いのだろう。

しかし、このモチーフは群馬の方から東京の毛長川(これは毛髪だが)へと連なるのかもしれず、「面白い話」ではすまないかもしれない。いずれにしても色々な水神と竜蛇・女人蛇体譚の舞台道具の揃った釜無川のお話なのである。

memo

釜無川 2012.05.08

中部地方: