蝮の銀右衛門

門部:日本の竜蛇:中部:2012.03.04

場所:山梨県上野原市
収録されているシリーズ:
『日本伝説大系5』(みずうみ書房):「蝮の銀右衛門」
タグ:蛇遣い/蛇巫


伝説の場所
ロード:Googleマップ

蛇遣い、というのは洋の東西を問わずいる訳だが、無論日本にもいて、戦後であっても祭の香具師には蛇を体に巻きつけ、怪しい傷薬を売る蛇遣いがいたものである。さらに少し遡った江戸時代には「蛇に咬まれた際の療法を持つ/蛇を操る(寄せる・除ける)」の双方の技術を操る家筋がたくさんあったのだ。殊に関東周辺では甲州街道筋に色濃く、中に、代々銀右衛門を名乗る有名な家があった。

昔、上野原の新町に里吉銀右衛門という百姓がいた。大変な気丈夫で、評判の働き者だった。ある時、銀右衛門が谷間の道を稲田へ向う途中、三メートルを超えるような大入道がたち現われた。しかし、銀右衛門は恐れず大入道を睨み据え、ゆうゆうと稲田を見回った。
この後度々大入道が現われるようになったが、銀右衛門はいっこうに恐れる様子もなく、日々の仕事を続けた。すると、今度は白髪髭髯の仙人がたち現われて、「お前にはこわいものがないのか」と銀右衛門に問うた。
「道でマムシに咬まれやしないかと、それだけがこわい」と銀右衛門が答えると、仙人は笑いながらマムシの毒を消す秘法を教えてくれた。この療法は不思議な卓効があり、たちまち評判となった。これは今でも同家に伝えられている。

みずうみ書房『日本伝説大系5』より要約

『蛇の宇宙誌』(東京美術)に、下ってのこの里吉家のことが紹介されており、その呪い(まじない)の方法も紹介されている。

里吉家には、弁天さまがまつってあった。五月二十五日がお祭りである。この日、弁天さまのおカサ(椀)を洗ってあげておくと、それに水が溜まる。その水で墨をすって、お守りの字を書く。呪いのときに用いる経典は、布で縫いぐるみになっていて、だれにも見せない。呪いは、その経典を手に持って、蝮にかまれた患部をなで、「チガヤ畑に昼寝して、ワラビの恩を忘れたか、アビラウンケンソワカ」と三度唱えながら、金盥に入れたワラビとチガヤの根を煎じた湯へ傷口を浸させる。たえられないほど痛んでいたものも、すぐに止まるそうである。

東京美術『蛇の宇宙誌』より引用

弁天さんが中心にあるということで、伝説にある秘法を教えた白髪髭髯の仙人とは宇賀神のことに相違あるまい(「出流原の竜神」参照)。そうなると蛇の神が効能のある療法を教えているわけで、これは後で重要となる。また、里吉の家の者は患者が来ると、唐鍬を担いで裏山へチガヤの根を掘りに行ったので、まわりのものはそれを見て、また「蝮っくい」があったか、と分かったそうな。

『まんが日本昔ばなし』「わらびの恩」
『まんが日本昔ばなし』「わらびの恩」

なお、このまじないにもある「チガヤ畑に昼寝して……」というのは全国で語られる「わらびの恩」という民話そのものである。

春が来て、野の生き物たちがにぎやかに動き出す頃、一匹のマムシもまた土の中から這い出して来た。マムシは毒を持っている俺よりも強い奴はいないだろうと日ごろ暴れ回り、ネズミやカエルを追いかけ回していた。
そんなある日、ネズミを追いかけ回すのに疲れたマムシが暖かいカヤ原で一眠りしていると、その下からツバナ(カヤの芽)が伸びだし、マムシを押し上げてしまう。しまいには鬼の目を突くと言われるほどのツバナの先が、マムシを串刺しにしてしまった。
手も足もなく引抜く術を持たないマムシは、何事かと見に来たカエルやネズミの手前必死に強がってみせるものの、痛くてかなわず、もはやこれまでと観念した。するとその時、今度はツバナの脇から「三本まっか(三ツ又)」のワラビが伸びはじめた。
ぐんぐん伸びたワラビはマムシの体を押し上げ、見事にマムシはツバナから抜け出すことが出来た。それから「マムシ、マムシ、カヤ原で昼寝して、ワラビの恩を忘れたか、アビラウンケンソワカ」と唱えると、山でもマムシに出くわさぬようになったという。

『まんが日本昔ばなし』より要約

実に広く全国津々浦々マムシ棲む所この民話あり、という具合で語られる。これは別段「秘法」ではなく、普通に全国でマムシ除けに「ワラビの恩を忘れたか」と唱えられた。このようなまじないの頭領格が里吉家のような家であり、「俺は銀右衛門だ」と名を出すだけでもマムシは寄ってこないとまでされたのだ。

そして、頭領格はさらに上を行き、蛇たちを呼び集めることも出来たのだそうな。同じ甲州街道沿い八王子には志村伴七なる蝮除けの家があったというが、伴七が「集まれ」と命令するや数里の間の蛇たちが集まってきた。遠くから馳せ参じた蛇は腹がすれて赤くなっていたという(『蛇の宇宙誌』)。

ここが銀右衛門や伴七が単に治療行為が出来たというにとどまらない所である。彼らは蛇遣いであり、日本のポリュイドスであり、アスクレーピオスなのだ。療法をつかうのはその験力の一部にすぎないのである。

本土では蛇巫の系統がおそらく早くに没落して行ったが故に、その技はあるいは蛇神筋へ、あるいは屋敷蛇へ、あるいは蝮除けの家へと分化し細々と伝えられることになったが、そのもとにはそれらが統一された「蛇の知恵」を用いる蛇巫たちがいたはずである。宇賀神は、あるいは弁天はそのような蛇巫たちの記憶を継いでいる神かもしれない。銀右衛門の前に現われた仙人は、まだまだ多くの「蛇の知恵」を蔵していたかもしれない。琉球やアイヌに残った蛇巫の伝承を伝いながら、銀右衛門の向こうに、そのような蛇巫の姿をかいま見たい。

memo

蝮の銀右衛門 2012.03.04

中部地方: