七面天女

門部:日本の竜蛇:中部:2013.04.03

場所:山梨県南巨摩郡身延町
参照した資料:
『身延町誌』『早川町誌』など
タグ:女人蛇体/七面天女


伝説の場所
ロード:Googleマップ

七面(しちめん)天女はまた七面大明神ともいい、日蓮宗のお寺の守護神として祀られる竜女である。総本山の身延山久遠寺が、その西方に聳える七面山の山頂付近に七面天女を守護神として祀るので、皆これに倣っている。この竜女が日蓮聖人の前に現われたお話が今回の伝説なのだけれど、以下かなり込み入った色々な話が絡んできて問題となるので、ざっと日蓮の足跡から見ていくことにしたい。

日連(龍口寺)
日連(龍口寺)
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日蓮は安房の小湊(現鴨川市小湊)で「海人の子」として生まれ、当時天台宗の寺であった古刹清澄寺に入門する(今清澄寺は日蓮宗の大本山だが、天台→真言寺院として時代を経、日蓮宗の寺となったのは昭和の話である)。若き日の日蓮は比叡山をはじめ近畿の名だたる寺院に遊学し、三十代のとき安房に戻る。そこで一念発起し、日蓮を名のると、よく知られるように法華一乗を説く思想の布教を鎌倉ではじめる。しかしその過激な思想は鎌倉北条氏をはじめ各方面より危険視され、再三の迫害を受けたという。

弘長元年には伊豆の伊東に流罪となり、三年後に赦免となり鎌倉に戻るが、戻っても襲撃をされるなど、反対派の危険視はおさまらなかった。文永八年には戻る者はいないといわれた佐渡流罪となる。しかも、これにも飽き足らない反対派は流罪に乗じて日蓮を亡きものにしようと江の島の対岸龍口の刑場で処刑しようとする。が、このとき奇跡が起り処刑は中断されることになったという(後述:所謂「龍口の法難」)。また三年の後、文永十一年に赦免となり鎌倉に戻るが、すでに法華一乗で国を教化しようという思いは軟化し、鎌倉を去り、身延山へと活動の拠点を移すことになる。またさらに有名な話としては蒙古襲来の予言など色々あるが、そのあたりは今回は良いだろう。

と、いうよりも、これらの大変ドラマティックな逸話の数々は、日蓮自身の書き残した文物にそうあるということであり、『吾妻鏡』をはじめ鎌倉方の記録には見えない。ここが重要な点で、おそらく日蓮の活躍のイメージと、中世社会に与えた実際の影響というのは大きなギャップがあると思われるのだ。これは各所の具体的な七面天女に関する民俗信仰を見ていく上で、それがどこまで遡るのかという点で重要である。もし中世に遡るような事例があったら、それは余程の理由がある、ということだ。いずれにしてもこうして日蓮は甲斐の武士・波木井実長の後見により身延の山に隠棲することになる。

この波木井(はきい)氏というのは当時の身延地方の領主で新羅三郎義光から連なるという甲斐源氏の加賀美氏から出た南部氏(後の奥州南部氏)の一氏族である。故に波木井実長は南部実長ともいう。この波木井氏が身延山を考える上では非常に重要だ。なんとなれば身延山の五世から九世は波木井氏の出身者なのだ。波木井・南部氏が甲斐南部を治めている間、身延山はこの氏寺という感じであったと思う(南北朝末に同氏族は奥州へ去る)。身延山が法華経団の総本山として活躍をはじめるのは近世中期以降のことである。

身延山久遠寺
身延山久遠寺
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ともかく、このような日蓮の生涯において、身延山への隠棲をはじめた頃に姿を現したというのが今回の七面天女と呼ばれる竜女である。これは近世中期に書かれた『身延鑑』という書物に出てくる。そのままではちょっと堅苦しいので、先に地元の昔話として語られるものを見ていこう。

「高座石と七面天女」:
七面山参道の第1の関門、山と山との峡、ここに昔は七面山一の鳥居があったという。水は淙々として響き、杉の緑はしたたるばかりのところ、苔むした大岩…この上で、ありし日、日蓮聖人は法の道を説いておられた。土の上に、樹のかげに、坐って聴問している信徒の中に、ただ1人の年若い少女がいた。初めのうちは、だれも気にとめなかったが、日数を経るにつれて、人々の目はこの少女にあつまるようになった。どこから来たか、どこの人か、しかしだれも知る者はなかった。
それで村人は、聖人と結びつけてあらぬ噂をたてるようになった。ある日、波木井公は高坐の上の聖人に少女のことを問うた。聖人は微笑して少女に「本体を現わして人々の疑いを晴らせ」と言われて、花瓶の水を少女の髪にそそいだ。すると、黒雲にわかにあたりにたちこめ、嵐が木々の梢を鳴らし、驚く人々の目の前で少女は竜と化して黒雲に乗って、はるか七面山の方角へ飛んでいった。
少女が残したことばは、「有難い説法を承りました。私は七面山に住む蛇神です」これがやがて、七面天女として祀られる因縁となったのである。(『身延の伝説』)

『身延町誌』より引用

『身延鑑』によると波木井実長の不信に応じて日蓮が垂迹の姿をあらわし給えというと、少女は「水に影を移せば、壱丈あまりの赤竜と」なった、というので竜女であろう。そして、我は厳島弁才天なりと名のっている。弁天さんなのだ。こうして竜女は身延山を守護するものとして七面山に祀られることになったのだという。今も山頂には七面天女を祀る敬慎院があり、竜が住まうという池がある。

七面山敬慎院(身延山久遠寺公式サイト)

七面山敬慎院
七面山敬慎院
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さて、七面天女の伝説というだけだと以上なのだが、実は周辺この神格が色々様々に祀られており、単純に日蓮宗の守護神という枠では捉えきれない所がある。なぜ、弁天ではなく、わざわざ七面天女といって祀る必要があるのか、もう少し視野を広げて、この竜女の性質を見ていく必要がある。

特に二つ程例を挙げれば、まず、甲斐郡内から相模川流域に(寺の守護というのでなく)七面天女を祀る例がままある。これは「弁天さんが七面さんになりたがっているから」そう祀った、などという特異な伝を語るものであったり(都留)、養蚕の守護神に白蛇を祀る七面さんであったりもする(綾瀬)。相模川流域の民俗信仰の解題は私の住む地元エリアというということもあり、これらの流れが重要なのだ(というよりそれらの地元探索編の記事から参照することを目的にこの稿を今書いているわけです)。

また、二点目として、上記のように南部(波木井)氏は奥州に移住していて南部藩などを形成するのだが、その地における竜蛇伝承に身延・七面山由来の竜女信仰の影響があるのかどうかという点も大きい。これは前後関係から見ると、この信仰がそもそも誰のものだったのか、ということでもある。

『身延町誌』では、この点に関して、日蓮入山以前の当地方に修験のもたらした弁天信仰があったのだろうと見解している。詳しくは「日蓮聖人入山以前の身延」を参照されたい。

デジタル版『身延町誌』(から第三編三章二節を参照)

大まかには大峰山周辺にも七面山という山があること、身延は日蓮入山以前は「蓑夫」と書き、これが古くから弁天を祀る摂津箕面山の滝安寺という修験寺との関係が考えられることなどから、大和の修験が甲斐山中にもたらした弁天信仰があったのだろうという見解である。ちなみに「七面」とは元々山の名であり、七面山には大きく崩れた所(「なないたがれ」という)が七ヵ所あるのでそういうそうな。七面天女ありきで七面山なのではない。伝説中七面天女は自分は厳島弁才天だといっているが、このような流れがあったとするならば、山中の弁天ということもあり、天川弁天に近い存在といえるかもしれない。この点に関しては以下の天川の伝説も参照されたい。

「大蛇嵓の怪女」「竜泉寺の白蛇」

七面山
七面山
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もっとも、中世前期の弁天信仰の記録が身延にあるというわけではないので証すのは難だが、さらにもう一段ややこしい伝説もある。七面山の頂にはまた「池大神」という神が祀られており、その神像は役行者小角のようだというのだが、この池大神(池太神・いけたがみ)について上記の線と関わるかもしれない重要な地元の伝説がある。これは身延町の方ではなく、七面山からは西側になる早川町雨畑の方に伝わった話だ(七面山全体は早川町域にある。身延山と関係する文物が連なる参道域が飛び地で身延町となっている)。

「池大神」:
遠い昔のこと、京の都に立派な殿様と奥方があった。何一つ不足のない暮らしだったが、子宝に恵まれなかった。方々の神仏に願をかけ、中でも殊に厳島神社に深く祈願したところやっと美しい姫を授かった。姫は両親の深いいつくしみの中で成長して行った。
その頃同じ京に池の宮という若者があった。宮は或る折、(姫を)一目見て忽ち恋のとりことなり、是非とも奥方にしたいと願った。
そんなことは露知らない姫は成長するにつれ、世のみにくさを見聞したり、病気にも取りつかれたりして世をはかなみ、老女を供につれて甲斐の国は早川入にやって来て、七面山に分け登り、淋しがる老女をそこから都へ帰してやった。
一方池の宮は姫の家出を聞いて是は大変と、唐の国から苦心して入手した高貴薬を携えて、姫の歩いたと思われる道をたどって早川入に来た。とある家で姫の消息を尋ねた処「そのような人はコナア(来ない)」という答えである。今そこを小縄(こなわ)という。そこから更に先に行って又聞いたら「そんな人はミナイ(見ない)」と云う。宮はすっかり諦めて携えてきた薬の袋を破りそのあたりに薬を捨ててしまった。それが今の薬袋(みない)だという。
斯くして宮は悲嘆の極、死に場所を求めて尚も奥深い雨畑川の上流、深淵に入水して果てた。その霊は永い間その渓のあたりを、さまよい続けていたが土地の人々によって、七面山に合せ祀られたということである。

『早川町誌』より引用

もともとこの「池の宮」の霊と思われる池大神は雨畑の滝淵にいて、今もそこが祀られているというが、下って土地のタカギシゲンザエモンなる人に拾われ、七面山の上に遷されたのだという。この話もたくさんある。

「池太神」検索結果
 (webサイト「怪異・妖怪伝承データベース」日文研)

またこの姫は病気になったので弁天さまに祈願したところ、甲斐の七面山の七つの池があるからそこに浸かるようにといわれたともいうが(結局力つきて死んでしまう)、ともかくこのように都の姫と池の宮という男と薬袋(みない)という不思議な地名の由来を語る話となっている。

薬袋に関してはまた話が長くなるのでさて置くが、引用した話では厳島神社の申し子である姫がどこへ行ってしまったものかよく分からない。ここが痛恨だ。この話はたくさん雨畑で語られるのだが、どれも入水した池の宮がその後「池大神」として祀られたという話で、姫の行方が語られないのだ。しかし、この姫の行方が語られない理由が、七面山の姫(弁天)が身延山の守護神・七面天女となってしまったからだ、としたら逆に筋が通るかもしれない。

弁天の申し子だった姫は(語られないが)七面山上の池に入水しており、弁天として祀られていた。だから、入水した池の宮は池大神となって、ゲンザエモンに七面山の上へと運んでもらったのである。そして弁天の由来の方は七面天女としての伝が浸透してしまったので消えてしまったのだろう。そう、考えるとつじつまは合う。最終的に「池大神」といって祀られる像が役行者の像であることを思えば、この伝説が日蓮宗守護となる前の七面山弁天の縁起伝説である可能性は高い。七面山の竜女にはこういった背景があるのだ。

七面天女像(千葉県本光寺)
七面天女像(千葉県本光寺)
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大まかには「七面天女・七面大明神」というイメージが形成されたのはおそらく十六世紀後半のことだと思われ(『身延町誌』)、その伝説は先の近世中期の『身延鑑』が多分初出である。順当に考えたら七面天女信仰はそれ以降の産物であるわけだが、これらの背景がそれ以前に広まっている可能性、というのは少し気にしておく必要がある。殊に波木井・南部氏がそもそもその信仰を持っていた可能性、という点ではそうだろう。

また、「日蓮以前」の可能性とは別に、日蓮自身がその信仰感覚を持っていた可能性もある。何となれば日蓮の生涯最大の危機であった「龍口の法難」の件は、見ようによっては江の島の弁天が助けている話にも読める。先述のように、佐渡への流罪が決まった日蓮だが、鎌倉武士の中にはこの機にいっそ亡きものとしてしまえとする一派があり、日蓮は龍口の刑場にて斬首される寸前に追い込まれる。しかしまさにその刀が振り下ろされようかというときに、江の島から「月のように光る円板が」飛び立ち、度肝を抜かれた武士たちは腰砕けになってしまい、日蓮は九死に一生を得たというのだ。それは次のような感じである。

「江のしまのかたより月のごとくひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる」「大刀取目くらみたふれ臥し兵共おじ怖れけふさめて一町計りはせのき」 (『種種御振舞御書』建治二年)
「月の如くにをはせし物江の島より飛び出て使の頭へかかり候いしかば、使おそれてきらず」(『妙法比丘尼御返事』弘安元年)

龍口寺
龍口寺
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どちらも日蓮自身が書き残したものであるので、実際何があったのかは分からないが、自身が書いている、という所が重要で、つまり「江の島弁天が怪光を発して日蓮を救った」と読めるということだ。日蓮自身に自分には弁天の守護がある、という感覚があった可能性がある。さらに、その経歴全体を見ても、安房の海・鎌倉江の島・伊豆伊東・佐渡と、いずれ劣らぬ竜女信仰・伝説の見られる土地を転々としてきたのが日蓮である。そういう視点というのはあって良いのじゃないかと思う。

長々と述べてきたが、実際に相模川周辺に見られる七面さまなど、日蓮宗のお寺の関与がある、とはっきりしないものに関しては、もうそこで何の為に祀られたのかお手上げになってしまう場合もある。そのような七面さまを「ことほぐして」いくためには、その根本にはこういった話が積み重なっているのだということを弁えている必要がある。そうして辿っていけば、もしかしたら重大なヒントを示してくれる小さな七面さまに出会う日もくるかもしれない。

memo

甲斐の相撲人・大井光遠とその妹のこと:
直接七面天女や日蓮宗のことに関係するわけではないが、波木井・南部氏などと同じ、甲斐源氏の甲斐の大井氏と関係するのかどうか、大井光遠(みつとお)という甲斐の相撲人の話が『今昔物語集』にある。大井光遠は一条天皇のころの人だといい、そうだとすると甲斐源氏の創始より少し前になってしまうので、今ひとつ前後関係が不明なのだが、ともかく、その大井光遠に恐るべき強力を持った妹がいたというのだ。

大井光遠の妹が住む離れに賊が押し入り、彼女を人質に取るが、なよやかな美女のその妹は、実は兄の相撲人の光遠に倍する力を持つという女で、賊はあまりの強力(ごうりき)を目にして逃げ出し、光遠に大笑いされることになる。より詳しくは以下参照。

相撲人大井光遠が妹の強力の語(『今昔』)

一見マンガのような話だ。しかし、同巻少し前には道場法師の子孫の強力の女と、美濃の狐というこれまた強力の女の力比べの話もある。

尾張の国の女、美濃狐を伏する語(『今昔』)

そう思うと単にコミカルな話というだけでなく、何らかの「強力な女人」とう枠があるのだろうと思われる。すなわち、この大井光遠とその妹も、雷神の縁で頭に蛇を戴いて生まれた道場法師の子孫や狐女房の子孫である美濃の狐と同じような特異な一族のことを語っている可能性がある。

電の憙を得て、生ましめし子の強力在りし縁(『霊異記』)
狐を妻として子を生ましめし縁(『霊異記』)

先にも述べたように大井光遠が甲斐源氏の人なのかどうかというのも現状よく分からないのだが(祖に近い加賀美氏には加賀美「遠光」という人がいる)、波木井・南部氏が日蓮に先んじて持っていた信仰、という件に関しては、この話もひとつのピースになるかもしれないと思っている

七面天女 2013.04.03

中部地方: