五十嵐小文治

門部:日本の竜蛇:中部:2012.01.10

場所:新潟県三条市
収録されているシリーズ:
『日本伝説大系3』(みずうみ書房):「五十嵐小文治」
タグ:蛇聟入・苧環型/王と竜蛇/太郎の系譜


伝説の場所
ロード:Googleマップ

日向の緒方氏とよく似た蛇祖伝説を持つ家が越後にもあった。生まれた子の名を五十嵐小文治といい、以降五十嵐家は一帯を治めたという。王は竜蛇から生まれる。それを土地の王(豪族)のスケールで示した代表的な例だ。

五十嵐川源流:笠堀湖
五十嵐川:笠堀湖
レンタル:Wikipedia画像使用

五十嵐小文治:引用
昔、笠堀の村の村長甚右衛門の娘のもとに、若い男が訪ねて来て褄重ねをする。男は夜毎通うが、名を名乗らず、所も告げぬ。ある夜、娘は男が帰る時に男の裾に針を刺し、夜明けにその糸をたよりに尋ねて行く。
八木山下の川の淵に着くと中から苦しそうな声がする。覗いて見ると大蛇がいる。大蛇がいうには、毎晩通っていたのはこの俺だが、昨夜思わずも針を刺され、今は死ぬほかはない。お前の家は末長く守る、といい残して大浪を立てて姿を消す。
その後、村長の家には腋の下に三枚の鱗が生えた男の子が生まれて当主になる。南北朝時代の勤王家五十嵐小文治が、その子孫だという。(『日本伝説集』)

みずうみ書房『日本伝説大系3』より引用

引いた話では子孫が小文治だとなっているが、他の類話を見ると概ね小文治自身がこの大蛇を父とする子なのだ、という了解で良いようだ。また、ディティールに異同のある類話が周辺多いのだが、一件興味深い記述のあるものをのせておこう。

小文治誕生伝説は、このほか竜神の棲みかが真生が池であったり、生家は笠堀村の治右衛門といい、その一人娘(小文治の母)の親は熊倉喜内と名乗ったというのもある。また、一人の娘が真生が池の神霊に神がかりして、竜神の子を生んだとも伝えられている。(『下田村史』)

みずうみ書房『日本伝説大系3』より引用

今回この点は言及しないが、「池の神霊に神がかりして、竜神の子を生んだ」と、つまりはそういうことである。

さて、この五十嵐家が居を構えたという「五十嵐館」はその遺構が下田郷土資料館のすぐ東南側にあり、北東側には「五十嵐神社(式内:伊加良志神社)」も鎮座される。五十嵐神社はしかし小文治を祀ったものではなく、もっと古くから垂仁天皇第八皇子・五十日帯日子命を祀っていた神社である。

「五十嵐神社」(webサイト「玄松子の記憶」)

この伝がとても重要なので紹介しておこう。

垂仁天皇の王子に、嵐王子という人がいました。父天皇の命令で、越後を治めることになり、五十嵐川流域に居をかまえました。そして住民を指導して原野を開墾し、水田をつくり、道を切って農耕を教えました。
しかし、北国の気候は悪く、それに疲労も加わって、王子はついに病気になってしまいました。そして、この開墾事業のことを心配しながら死亡しました。住民たちは王子の死をいたみ、この川を王子の名にちなみ、五十嵐川と呼ぶようになりました。」(小山直嗣『越佐の伝説』)

webサイト「地域神話の風景とフィールド」より引用

嵐王子が五十日帯日子命なのだろう。こうなると五十嵐小文治伝説は、古代の時点でその原形がすでに語られていたのではないか、ということになる。この様に「土地の開墾」というモチーフがもとは重要であったとなれば、信州の小太郎伝説にかなり近い話だったのではないか。

先の「地域神話の風景とフィールド」の著者佐々木高弘氏(京都学園大学教授)はこの点、「(五十嵐と三輪の位置関係のパタンの類似をあげ)そしてその王権を支える神の、降臨地の位置関係の妥当性が、人々を支配する論法の根拠になっていたのではないか、と思えるのです」と述べられている。

小文治は怪力であり、「小文治が力試しに投げた石が今でも五十嵐神社の杉の大木に挟まっている」と伝わる。この辺りも「太郎の系譜」であると言え、単に「豪傑・小文治」という底には、五十嵐川流域を開拓した祖の姿があるのだと思われる。

memo

五十日帯日子命とは五十日足彦命であり、愛媛県今治市五十嵐の式内社「伊加奈志神社」にも祀られている。そして、そちらでは物部氏の社だったのではないかという話になる。

「伊加奈志神社」(webサイト「玄松子の記憶」)

あるいは新潟の方でもその線はあるかもしれない。

五十嵐小文治 2012.01.10

中部地方: