東伊豆の力石

庫部:ノート:2012.05.07

東伊豆の海に暮す人、特に海女さんたち(今はもういませんが)は、伊勢・志摩の方と頻繁に行き来しており、戦後まで一年のうち季節で伊勢・志摩でもぐったり、伊豆でもぐったりという生活だったようです。双方で親戚付き合いのような気安い関係であったらしく、ごく最近まで文化の行き来もあったと思われます。

近世には太平洋の黒潮を利用した漁師たちの行き来が紀州と房総で頻繁にあり、また、千石船の行き来もあり、間の伊豆半島も含め、紀州・伊豆・房総には海に関する同様する地名・民俗がままあります。もしかしたら、東伊豆の力石にもそういった一面があるかもしれません。

下田市:

伊豆半島南端の下田市は、信仰の中心としては東の海に面して元三島大社と言われる白濱神社(伊古奈比咩命神社)が鎮座しますが、漁師たちが気軽に鎮守さんとして祀ったものとしては、下田湾の奥に鎮座される下田八幡神社などが主となります。

下田八幡神社
下田八幡神社
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八幡神社ではあるのですが、古くは下田湾に浮ぶ小さな島嶼にそれぞれ祀られていた伊豆三嶋大神の御子神たちを寄せ宮にした社とも伝わり、海の信仰の社であります。ここの参道に、奉納者と年号の記録のある力石があります。

下田八幡神社の力石
下田八幡神社の力石
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写真はクリックすると拡大します。文化十二年・愛宕丸清兵衛船、とあります。これが網元の船なのか、行き来していた千石船のものなのか分からないですが、船乗りたちの力石だったことが分かります。伊豆半島の海岸は、海からすぐに急峻な山地となるので田畑の耕作があまりなく、かなり純粋に漁師たちの世界でした。また、近世の大街道(東海道)ともあまり縁がなく、雲助たちの力石文化との関係も薄いと思われ、このように漁師・船乗りたちの文化に限定できそうなところが特徴でしょうか。

波布比咩命神社
波布比咩命神社
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波布比咩命神社は伊豆大島の伊豆三嶋大神の后神・波布(はぶ)大后を勧請した社で、上八幡に同じく下田湾奥に鎮座する漁師たちからの信仰のあつい社です。

波布比咩命神社の力石
波布比咩命神社の力石
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ここの拝殿前にも力石がありました。そう記した何かがあるわけではないですが、おそらく力石でしょう。波布比咩命神社は往昔は船戸明神とも呼ばれていたお社で、ここも漁師たちの力石だと見て良いところだと思います。

賀茂郡河津町:

河津八幡神社
河津八幡神社
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下田の北は河津町になります。町の中心部には河津(川津)八幡神社が鎮座されます。ここは仇討ち譚で有名な「曾我兄弟」の出身地であり、この神社は八幡に曾我兄弟とその父、河津三郎を併せ祀ります。

河津三郎の力石
河津三郎の力石
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河津三郎は相撲の決まり手「河津掛け」を編み出した合力無双の武士であったと伝わり、河津八幡神社境内にある力石もその伝説と併せて語られます。河津掛けは足を掛け倒す技ですが、実質的には相手を引っこ抜きに持ち上げてしまう技ですので、力石を持ち上げていたイメージとぴったり合うように思います(真疑はともかく)。このあたりの平末鎌初の武士団、伊東(河津)、北条、中村(土肥・小早川)の各氏は重ね重ね婚姻を重ねて来た姻族と思われ、陸戦よりも海戦を得意とする海の民でした。

賀茂郡東伊豆町:

山神社
山神社
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さらに北は東伊豆町です。伊豆半島も観光地化が進み、漁業の方は縮小傾向にありますが、ここの稲取は今でも活発な港のあるところです。しかし、稲取は港周辺に力石は見えず、地図に見るようなかなり内地に登ったところの山神社に力石がありました。

山神社の力石
山神社の力石
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しかし、ここ山神社も農民の社かというと(勿論そうではありますが)、漁師たちからの信仰もあったと思われるところです。その丘は「飯盛山」という名の特徴的な形の丘で、海上で位置を知るために山を目印とする「山アテ」の指標となった丘と思われます。

山神社の陽根棒
山神社の陽根棒
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山神社には写真のような陽根棒が祀られ、たくさん奉納されているのですが、往昔はこの形状の御神体が港際の素盞嗚神社からここ山神社へと渡御するという次第が稲取の重要な祭祀でした。このように海文化との繋がりの強い山神社さんであり、また、今回見る範囲では内に入った農村部には力石がまったく見られなかったこともあり、この山神社の力石も漁師たちの持ち込んだものであるのじゃないかと考えています。

伊東市:

富戸三島神社
富戸三島神社
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伊東市に入ると富戸(ふと)の三島神社(式内の可能性の高い古社)に昔からの漁師文化が伝わる土地で、この神社の前にも力石が見られます。この周辺に東伊豆の漁師文化と力石の関係の興味深い側面があると思われ、少し詳しく述べます(ほぼ私見ですが)。

神社前の力石と伊豆型道祖神
神社前の力石と伊豆型道祖神
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写真にも見る「道祖神」ですが、所謂東国に見る道祖神と大きく異なる単座丸彫りという独特な形体を持ち、農民文化で辻・境の神とされた神格と異なり、海に通じる神格であるという側面が強いのが東伊豆の道祖神です。詳しくは拙稿「伊豆の道祖神」をご覧下さい。

私は(東伊豆の漁師文化では)、力石と道祖神はかなり相通じるアイテムなのだろうと考えています。この地の道祖神の石像は乱暴に扱われることが本懐という文化なのですが、祭祀権を持っていた子どもたちは小正月の道祖神祭りの前に家々や船を回って寄付をせびり、渋った家や船にこの道祖神の石像を「担ぎ上げて運んで行って」放り込む、ということをやった。逆に言えば、おそらくこの像を持ち上げることができる、というのが子供中の頭の基本条件だったと思われます。力石の文化は一つ上の若者組世代のものでしょうが、似たところがあります。

富戸三島神社の参籠石(浜石)
富戸三島神社の参籠石(浜石)
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また、この神社には「参籠石(浜石)」というものがあります。今は写真のようにさざれ石状にコンクリで固まってますが、もとはただ積み上げられていたものと思われます。不漁が続いた際に、若衆が夜中海に潜り、暗い海中見えぬ中、一番最初に指に触れた石を持ち帰って神社に籠る、という民俗があったと伝わります。似たような民俗に九州の「エビス石」を潜ってとって来るものなどがあるのですが、このように海底の石を漁をもたらす存在として陸に揚げて祀るという次第が漁師の民俗にまま見られます。私は漁師たちの力石にはこのような浜石・エビス石の一種の面があると考えます。

このような「海の道祖神」や浜石・エビス石という、それへの祈願を通じて漁を得ようとする「エビス」を表すアイテムと漁師の力石との関係を象徴するかもしれない話が富戸の北の川奈湾の漁師たちの間に伝わっていました。

川奈湾はかつて、イルカの群れを追い込んで狩る追い込み漁が盛んだったところですが、その漁において、「一人でイルカを抱え上げてみせることができる臂力」というのが若衆の誉れであったそうです。私には、その光景は力石を抱え上げている様に非常に通じるように思えます。あるいは先の河津三郎の編み出した河津掛けも、イルカを抱え上げる力量が生み出した技であったかも知れません。川奈の調査では力石そのものを見る事はなかったですが、このイルカ漁の話は力石のもっともプリミティブな意味合いに繋がるかもしれないと思います。

力石を持ち上げる行為は、漁の結果を占う予祝儀礼の側面と、漁師たちが臂力を鍛える鍛錬の側面がありますが、イルカなど大型の「魚」を「エビス魚」と言い、漁をもたらす吉兆の存在としていたことからも、その双方は漁師にしてみれば「エビスを上げられる力」ということで同じことであるかもしれません。それはこのような周辺民俗との連絡を通してよりはっきりと見えて来るように思います。

その他 伊東/熱海網代:

天照皇大神社
天照皇大神社
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伊東市の市役所の北東海側に鎮座される天照皇大神社は近代の合祀神社ですが、伊東湾一帯の式内論社クラスの社も合祀されていると見られる社です。

天照皇大神社の力石
天照皇大神社の力石
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ここの境内社の一群の中に力石もありますが、ご覧のようにそうと彫られていなければ自然石の文字碑と変わらず、なんであるのか分からないという石です。道辻にはこのような文字部の摩滅した文字碑の立石もままあり、そのような中には力石を転用したものもあるかもしれません。

天照皇大神社の力石
天照皇大神社の力石
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さらに北、熱海市の方では今のところそれらしいものを見た記憶はないです。しかし、漁師のたちの信仰と絡んで少し興味深いものがあります。

和田木神社
和田木神社
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熱海市の南側、網代の港に近い山腹に和田木神社が鎮座されます。そして、ここの本社殿真裏に「ご隠居」と地元の方たちに呼ばれている奇妙な石像物が祀られています。

和田木神社の「ご隠居」
和田木神社の「ご隠居」
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おそらく船霊を模したものと思われる五角の船形石の中に、写真のような石がはめ込まれており、なぜか「ご隠居」であるそうです。中におさめられている石は力石としてはかなり小ぶりとなりますが、形状的には似ていると思います。相模大磯の曾我兄弟に絡んでの虎御石などは力石と言っても陰陽石のようなもので「力自慢」から少し離れるものであり、そのような御神体系の力石というのもあるのかもしれません。

このようなところが実際目についた東伊豆の力石でしょうか。ここから相模・関東に入るとまた雲助たちの文化も在り様相が違ってくると思いますが、概ね東伊豆では力石は漁師・船乗りたちが体を鍛え、漁を予祝したアイテムであるように思います。

東伊豆の力石 2012.05.07

ノート:

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