常南行:小美玉

門部:陸奥・常陸編:twitterまとめ:2012.07.14

茨城県小美玉市は小川町と美野里町と玉里町が合併し、それぞれの頭一文字を繋げて「小美玉市(おみたま)」としたという何とも大胆なところである(笑)。実際土地の人(小川にて)に聞いてみたら「はじめは何の笑い話だと思ったけどなぁ。慣れるもんだなぁ」だそうな(合併は平成18年)。とは言え、まだ感覚的には「小美玉郡小川町」位の実感のようではある(何処もそうだが)。
しかし明らかに笠間の方常中地方色の強いであろう美野里と、これまた明らかに霞ヶ浦沿岸文化の一環であり常南地方色の強い玉里の方をひとまとめに扱うってのもどうなんだ、そもそも常南なの?常中なの?という問題がある難しい地域である。

今回はそんな小美玉市へ。久々朝一始発列車でバク進しますと知らぬうちにダイヤ改正?の影響か以前よりスムーズに石岡駅へ。なんと7時半に着いてしまうという快挙。石岡からバスで小川へ。もと小川町中心部辺りから西の玉里へと小半時ほど歩きますと、役場のあたりに出ますのです。

玉里地区総鎮守である「大宮神社」へと、まずは。武甕槌命を祀る行方的な鎮守の大宮神社であって、近世はじめまでは鹿島社と呼ばれていたそうだ。要は鹿島神社である。
随分と立派な渡り廊下の設えですな。ところで鹿島さんではあるのだけれど、ここは土地の伝説としては倭武天皇縁の地でもある(後述:日本武尊は『常陸国風土記』には「倭武天皇」として描かれる)。
しかしなんだってこう鋸歯文的なサンカクウェーブが強調されているのかしらね。何かあるのかね。
境内社には「藍前神社」なる聞いたこともないような祠があると聞いていたので探してみたが、フリーダム配置のお社で、分からなかった。「染色神」だというのだけれど、なんだろうね。蒼前さまが染め物に転じたりするのか?
(※後から気付いたのだけれど、おそらく「藍前」は「愛染明王」のことだと思われます、ハイ)
資料にはないが、この辺りは「道鏡様」といって性神を祀る。この祠もそうかもしれない。ともかく色々土地の小さな神々な集まってきていて、まっこと玉里総鎮守のお社に相違ない、という感じであります。
力石も。年号も彫られているようなのだが、読めなかったですね。前に平石の台が設えられていて、その上に立って持ち上げる、という場のようだ。非常に祭事としての場の設えの感じられる力石であると思う。
社頭には聖徳太子殿も。これまで常陸であまり太子講の類は見なかったよう思うが、あるのかしらね。船大工的なものなのかしら。

茨城の郡:
郡役所の東十里のところに桑原の丘がある。昔、倭武天皇が丘の上におとどまりになり、お食事を奉ろうとしたとき、水部に命じてあらたに清い井を掘らせた。出た泉は浄らかで香しく、飲料にすると大変うまかった。そこで勅して「能く渟れる水哉」と仰せられた。《土地の人はヨクタマレルミヅカナという。》そこで里の名は今は田余という。

『風土記』(平凡社ライブラリー)より引用

さて、この『風土記』に見る倭武天皇が井戸を掘らせたら云々という井戸伝説の一つ、茨城郡「桑原の丘」の遺称地はここであろうとされ、概ね意見も一致している。そしてその「玉井(玉乃井)」が大宮神社の裏手にあるというのでそちらへ。
といっても、神社境内裏からは特に道もなくてねぇ。尋ねてみて、ようやく分かった。でも親父さんは「これまっすぐ突っ切るとよう(と森を指す)……」と言うのだが、おかみさ……もとい、奥様は「やだようそんな道、あっちまわった方が綺麗だよう」と強調する。
あたしは回り込むより近い方が良いのだが、こうなると奥様の顔を立てるよりない(笑)。ともかく、各資料「大宮神社の裏」と紹介される玉井だけれど、このように一本東の道を入って行かないといけないのですな。
もっとも玉井(碑には「玉乃井」、解説看板には「玉井」)は今はもう水は湧いていない。このような碑があるだけであります。
ちょっと白い縦長の看板があるところが玉井。奥の杜が大宮神社社叢の後端。大宮神社から一段下がったところに玉井はあったのですな。水戸元石川の手子后神社さんとよく似た風である。

玉井から「舟塚古墳」へ。玉里小川の前半部は、土地の代表的な古墳と鎮守の社が近接してあるという面白味を追うところもある。この石塔群の右奥が古墳ですな。
墳丘長74mの前方後円墳。写真奥(東北東?)が前方部。墳丘上に石碑なども見えるのだけれど、そもそも入って良いのかどうか分からない作りだったのでこの位で。美浦の方とは明らかに向きが違いますな。舟塚古墳からは多くの円筒埴輪や形象埴輪が出土し、大刀把頭などの副葬品も出たそうな。今回行かないが、玉里史料館に展示されているというので、こちら主目的でまわる際にも見逃せない古墳であると言えましょう。

また、ここは道を挟んでもう一基立派な前方後円墳が見学でき、お得である。「雷電山古墳」。照光寺というお寺の塚としてあり(埋納経などの遺物もある)、古墳が塚信仰となった良い例でもある。
お寺の守護神「雷電尊」として墳丘上にお社が建てられている。なんだろうなぁ。この先の小川にも「雷神山古墳」があるのだけれど、雷神信仰と塚は関係するのだろうか。これまでは気になる事例を見なかった。
社の前の狛犬さんポジションには雷神・風神さまが。平成のものだし、なんだかマンガチックではあるが、中々見ないものではありましょう(この雷神さんが豚さんチックなお顔なのは高木ブー氏を意識しているのかしら。雷神が豚だ猪だなんてぇ話はないよねぇ)。
小川へ戻る道すがら。戦争の慰霊碑的な石碑なのだけれど、その前に四角柱が。薮で見えないが、階段の反対側にもある。上部のスリットを見るに注連柱的なもののようだ。うーむ。
分かれ道に二十三夜さん。常陸は道祖神さんポジションに子安さんなど女人講系が多い。お話を聞く度毎に婆ちゃんたちが真っ先に集まって来ることから嬶ァ天下の土地に相違ないと見ているが、多分連続している事柄だろう。
田畑に混じってほとんどシームレスに蓮根田が出現するのも常陸であります。そういや霞ヶ浦近辺はかなり久しぶりだしね、とちょっと感慨深い感じ。
行く道に往昔の鹿島鉄道の跡が。明らかに廃線後に道路塗り直しているように見えるのだけれど、線路跡は塗り込まなかったのね。
小川地区に戻ってまいりまして、その名の由来である園部川を眺めて「いやまさに小川町ですなぁ」と洒落込みたかったのだけれど、連日の大雨で小川じゃなくなっていた(TT)。

小川の中心部から東南東に少し行くと、馬場というところに「鹿島神社」 が鎮座される。昔は馬場の宮様とも言われてたそうだが、元郷社で一帯の総鎮守格であります。実に常陸的に参道が長い。
鹿島大神が霞ヶ浦を遡り当地にて云々と、実際の神の去来を伝える古社。元は香取神子の社として創建されたという。古代道は玉造からここを通って石岡へ向っていたのだろう。
ていうかですね。狛犬さんがすてきんぐー!(アホ) 陶製なのか、素晴らしすぎる。
阿の方も。見事ですなぁ。もう今日はこれで帰っても良い気分(笑)。
ちょっと狛犬さんにみんな持って行かれてしまうところだったのだけれど、気をとり直して。ここは流鏑馬の神事が古くから行なわれてきたのだけれど、この様子が「沈黙の祭祀」であるところが目をひく。「何れも無言の業にて家族にも言を交へず」とある。忌を課す社だったのだろう。
また、神前相撲が行なわれてきたのだけれど、これを「風祭り相撲」といった。風祭の祭祀を相撲で行なっていたのだ。阿見の方では鹿島大神の神戦にかこつけて相撲がとり行われていたが、風祭と祖神と敵神の争いと、というのは繋がったりしないだろうか。そのへんに興味がわく。
ところで境内社さんが旗竿の覆い屋根の下に集まっていたのだけれど、この発想はなかったですな。
御神木は二股の大杉と欅があるが、欅を。樹齢は五百年くらいだそうだけれど、なんともすごいうねり具合ですな。この日は欅を多く見た、という気がするが、総鎮守社の影響というのもあるのかね。

この馬場鹿島神社近くにも立派な古墳があって、雷神山古墳(円墳)と地蔵塚古墳(前方後円墳)の二基が見られる。そのうち地蔵塚古墳の方を。引きで撮れないのだが、これだと墳丘の感じは分かるか。
古墳の方は後円部を全周する埴輪列が出たそうな。また、墳丘上には地蔵堂があり、ここのお地蔵さんがまた文化財指定の石像で、二重に文化財な古墳だ。
民俗的にはこのお地蔵さん信仰も興味深い。「日限地蔵」というのだ。決まった日時に願いを叶えてくれる、からそう呼ぶのだという。アヤシい(笑)。
さらにやはり子安地蔵さんとしてご婦人達からの信仰篤く、の子安さんでもあるのだけれど、境内のこれはそっち系かなぁ。どの部分も何を意味しているのか何ひとつワカラン。
小川中心へ戻りつつ、とある隧道に。愛と青春の落書き。
ここでまた注連柱状物件が目にとまるのですねぇ。えぇ、えぇ。墓地の一画のやはり戦争にまつわる石碑の前だ。うーむ。これまでもあったのか?確かに石碑の類はそうそう注目していなかったが……

そして現在の小川地区では一番盛んと言える「素鵞神社」さんへ。天王さんですな。鹿島さん系が霞ヶ浦文化圏的な色合いを伝えているのに対し、ここはおそらく笠間の方からの流れを汲んでいる。
境内社さんも星の宮(香々背男)・疱瘡守護社(月読尊)・雷神社(別雷神)と、常中的な神々を祀る。しかし一方で、霞ヶ浦天王社系に見る「浜降り」祭祀もある(霞ヶ浦まで行くわけではなく園部川に降りる)。
常中的天王社と常南的天王社の結びつきが見える大変面白いお社であると言えましょう。んが、この翌週に控える祇園祭に併せてか、かなり盛大に修復作業中でありまして、お邪魔にならないようにささっと。
また、櫛稲田姫命を祀る稲田神社が「陰宮」と言って祀られてきた。今同境内にあるが、昔は小学校の敷地にあったという。天王社が陽宮であったのであり、これらは笠間の八坂神社と稲田神社の関係を引いているのに相違ない。
さらには祇園祭を行うその年の担当の頭屋になると、「キュウリと鯉」は決して食べてはならないという禁忌が課せられたりと、中々面白いモチーフの詰まった小川の素鵞神社なのであります。キュウリはともかく、鯉食っちゃいけないってんですよ。むふふふふ。
南側へ下った大通りに看板は出ているが、北西側の旧道の方が本来の参道入り口のようだ。お祭の準備も着々と。中々にぎやかなお祭のようであります。
▶「素鵞神社祇園祭
 (webサイト「水郷山車まつり探訪」)
街中にはお祭の時に御神輿などの寄る「祭庭」というところもあった。要は御旅所なのだけれど、祭庭と言うのですな。
小川町は県道沿いは普通の郊外的な土地だけれど、県道59号線の南東側の多分昔の目抜き通りにあたるこの通りを行っておくのが良いですな。こんな感じの街並を見ることが出来る。
で、その通りから「天聖寺斎場表参道」という石碑を奥へ入るとこんなところになる。この辺の道辻に祀られる石造物集合みたいな観もあるので(車道が上まで通じてもいるが)、ぜひここを通っておきたい。

天聖寺そのものはもうなく、今は石標の通り斎場だけなのだけれど、実はここには「天妃尊」が祀られているのだ。
中国の媽祖を何故か水戸の漁師たちが祀ったという話は何度か紹介したが、その中でもオリジナルに近い一像がここにあるのであります(写真は解説看板の図像)。
この話をイチからして行くとエラいことになるでバッサリ端折るが、常陸の弟橘媛信仰はこの天妃尊信仰がオーバーラップしているところがあり(もしくは反対)、その関係をよくよく見ていかないとイカンのであります。

ここからは今度は小美玉市の北方へ向けて、土地の感じが霞ヶ浦湖畔からどのように変化して行くのか見たい、という後半となるのであります。ということで小川の街中からいざ北へ、と向った先にまず「側高神社」が鎮座される。ソバタカさんとはこれまでも何度か出てきた香取神宮摂社の謎の神ですな。
ここはその通り香取「蕎麦鷹明神(変換ミスじゃないよ)」の分霊を祀る、としているものの、祭神名は大穴牟遅命となっている。もともと香取の側高さんからして祭神不明のままなのだからこのへんは色々である。
ソバタカ神とは何ぞやというのも、これまた忌部だ何だと大物なので端折るが、ここ小川で気をつけておきたいのはその立地。他のソバタカ神社が浮島も麻生も香取も比較的霞ヶ浦(利根川)に面するように、ないし面した高台から湖水を見下ろすように鎮座しているのに対し、ここ小川は随分内地に入っているように見える。
んが、霞ヶ浦名物の海面上昇図を見ると(7m上昇)、このあたりが霞ヶ浦の高浜入りからさらに分岐する入江だったのじゃないかと考えられる。おそらくこの水面に対応してここの側高さんは考えるべきなのですな。
ここからは要衝の大きな神社でなく、その村里の鎮守さんであることが良く見える神社が続く。ここ側高さんも、もはや半ば朽ちているような先代の御神木にも注連縄を回していて、「村持ち」の良い雰囲気のみなぎるお社であります。
さらに切株となってしまった先先代(?)の御神木も、何やらまだ生きておるような。その脇に境内社というのも「かくあるべし」という風景の一つ。根の間の石も子持ちの木のような次第になっていた名残りなんかね。

社頭にはこんな石祠さんも。まったく「何事のおはしますかは知らねども……」とため息の出る光景でありますなぁ。
ところでこの側高さんは社地のぐるりがこのように土を盛って造られていた。同様のものとしては石岡から出島への霞ヶ浦湖畔の家々にあったものと、古墳を削って社地を造った神社(水戸内原の手子后神社など)に見えるものがこれまであった。どっちかね。
先の霞ヶ浦が入り込んでいたであろうところはこのように田んぼ。ていうかですね、これはもう出島村(現・かすみがうら市)の様子にそっくりですな。寝てるあたしをここに連れてきて起して「出島村です」と言ったら「あー、出島だねぇ」と疑問を持たないレベルだ。
霞ヶ浦周辺の基本的なヨコ線。

そんな中を「駒形神社」さんへ。この絵を今回タイトルイメージに持ってきていたのだけれど、お分かりでしょうかしら。この常陸の神社参道にかけるココロイキという奴が。これまでも、もはや道として意味がない「消失参道」やら何やら常陸の神社の長い参道というのを強調してきたけれど、これはまた長さだけでなくスゴイ光景でありました。舗装道まで畑にしても誰も文句言わんと思うのだけれど、「それではイカン」のだ。
ここの駒形神社さんの面白いところは御祭神が猿田彦命であること。神社の由緒はわりとはっきりしていて、佐竹氏と大掾氏の激戦の折、ここで急死した馬を弔い「陸奥国駒が岳鎮座猿田彦命の御分霊を勧請」したのだとある。馬と猿の関係というのも(厩舎の前で猿と飼うと馬が強壮になるなど)、特に小野氏と東山道のルートでは大きなテーマになると思うが、こちらに猿田彦命を祀る駒形神社があるというのは良く覚えておきたいところなのであります。
御本殿は元禄十六年のものを改修しながら伝えているという。屋根などそう古くは見えないが、元禄十六年の部分は小川地区では最古の建築物となるそうな(市指定文化財)。
境内社はこのように。茂みの中に石祠が並んでいる。鳥居脇なんですが……以前も社叢というのは一種の「巣」なのだと言ったが、そういった感覚が良く表れていると言えますな。薮神と言うか。
この辺でもういきなり真夏の日差しに襲われまして、えぇ、やめてくださいしんでしまいますというかんじなのだけれど、行く道にちょうどありました公園で一休み。まー、夏に向けての「慣らし」としてはナイスな日差しになったとも言えますが。
んが、再出発したものの、やはりボケていたらしく、道間違えた(笑)。わけの分からぬところを登ってしまっております。でも、おかげで石造物の並ぶ山中分かれ道へ。手前大きいのは猿田彦大神であります。
また「牛馬頭観世音」なるものが。馬頭観音さんからはじまって、牛頭観音さんとかもあるのだけれど、さらに牛馬頭観世音にまで発展しているのですな。なんだか地獄の鬼のような字面だが、そうではなくて、牛馬の弔いの碑だろう。

また少し曇ってきて頭もはっきり、ということで正路へ戻りまして、宮田というところの「鹿島神社」へ。
特に何がどうしたという由緒のある神社ではなく、普通の村の鎮守さんであります。常陸はやはり鎮守さんが鹿島さんであることが多く、そういった「普通の」鹿島さんを見比べて行くのも土地の類似・相違を見ていく一つの手なんですな。単純には「鹿島神社」と名のっている点ですでに行方市の方とは違う(行方では武甕槌命を祀る実質鹿島社は皆「大宮神社」である)。また、一般に国家鎮護の軍神ととられる鹿島大神も、常陸の村里では子安の神であることが多い(鹿島神宮自体が「常陸帯」を出す産育の神格だった)。
そういった側面は大神社でなくてこういった村の鎮守さんの方に色濃く見られる。境内には子安観音さんが。この赤子に乳を含ませもする観音像が常陸の産育のイコンだけれど、それは鹿島とも無関係ではない。
大体このあたりが先の海面上昇図などからしても入江の最奥であり、土地の分かれ目だと思うのだけれど、確かに「違う」という感じがしてくる。写真など先の側高さんあたりと同じようだけれど、あたしには「笠間の方の様だなー」と見えている。まー、どこか「ここが違うのだっ!」という分かりやすいところは何処なんだろうと考えつつ歩いていたのだけれど、イマイチ「違う感じがする」程度なんですけどね。あるいは森を構成する樹木に杉が増えて来るところがポイントなのかもしれない。
今回のSクラス田の神さま。川のほとりでねぇ。これはさっきの青空ののぞいた時に撮れたら良かったなぁ。
そんな田んぼの中を川沿いに進んで行こうと思っていたのだけれど、あたしは見たのですよ。ほんの木立の切れ間に、あのシルエットは!みたいな。見えますでしょうか。よくこれに反応したな、オレ、という(笑)。
うおりゃあと登って行きまして、またまた常陸名物の「駕篭玉」であります。こいのぼりの竿の先の飾り、今の矢車のようなものなのですな。出島・友部・水戸で見てきたけれど、小美玉にも。だんだん繋がっていきます。

そして「三所神社」へ。三箇(さんが)というところで、ここはもう旧・美野里町エリア。一帯の三家の氏神をまとめたので三所神社という。常中にはこういった二所〜六所神社がよくある。
要は妙見・熊野・鹿島の社を祀っていたのを寄せ宮にしたというところで、特にそれ以上の記述も『神社誌』上には見なかったのだけれど、ここは現地でのプチヒットがあった。境内の由緒に「古老の伝承に拠れば慶長以前より板宮の小祠がありその後元禄年間に現在の本殿を建立したという……」とある。板宮とはまた潮宮(いたみや)であり、すなわち潮来(いたこ)の潮(いた)である。
かつて鹿島神宮摂社に潮宮(いたみや)があったとあり、ここから板来と書かれていた〝いたこ〟は今のように潮来と書かれるようになったのだけれど、その潮宮はこの小美玉の地に遷されたと伝わり、茨城空港の南、倉数の方に潮宮神社が鎮座している。ここ三箇に板宮があったというなら、この動向と無関係ではあるまい。潮宮はまた、文字通り「塩の宮」すなわち水戸から鹿島の海がわから国府石岡へと塩を運んで来るルートを示していた、と見る向きもあり、この線との関係に興味が引かれる。
参道は写真のように灯籠が並ぶ様式なのだけれど、そこに背を向けるようにして一つの小さな石祠があった。参道からではなく外から御参りするような格好になり、こうしたものは地主の神であることが多い。あるいはこれが板宮さんかもしれない。
また、神社前には子安さんとゴミの収集場と。三家の氏神の寄せ宮というなら、ここが三地域の境だったということだろう。そういう場所であったことをよく伝えている。子安さんに二股大根あげるのはどうなんだ、という気もするが(笑)。
三箇から美野里地区の中心部である堅倉へと向っているのだけれど、途中鶴田には「諏訪神社」が鎮座されている。んが、されていると言うかされていたと言うか。寄ったのだけれど、ちょっと倒壊神社さんになってしまっておりました。ここは写真なしで。
堅倉へと入りますと、弁天さんがおりました。全く知らなかったけどね。奥に池だか沼だかが広がっておりますなぁ。まだ全然調べていないけれど、こういったところはなんかお話が伝わっている可能性高し。
さて、そんなこんなで堅倉に到達しますと、一応この日の目標はクリア。当たり前と言えば当たり前なのだけれど、北上するに連れてだんだん常南から常中へと土地の感じが変化し行く様を見て歩くことが出来たと言えましょう。で、ここからはこの先の話のさわりとなる一社へ。

小美玉市の北側から北浦へと流れ込む巴川周辺に、石船神社三社・貴船(貴布禰)神社四社が展開している。貴船神社は今多くは京の貴船神社の勧請だとされ高龗神を祀るのだが、あたしはこれはアヤシいと睨んでいる。石船神社は常陸國那賀郡の式内:石船神社(城里町)の勧請ということで、この鳥之石楠船神は鹿島・香取の神と同じく香々背男を討つべく天下られたのだと常陸でも語られるわけでなじみ深い。が、これが一方で鷲宮・忌部という流れでは日本武尊の軌跡と縁の見える神格でもある。
そして、実はこの地の貴船神社は日本武尊を本来祭神としていたようなのだ。美野里部室の貴船神社は今でも日本武尊を祭神としている……はずである。巴川を下った北浦を少し南へ行くと、例の「ナーバ流し」で話題となった「御船神社」があるが、これは日本武尊の舟が着いたと祀る社である。
どうもこれら小美玉の貴船神社は本来高龗神と関係なく、石船神社群と大きく関係して祀られた日本武尊的な、御船神社的なものなのじゃないかとあたしは考えているのだ。

その問題の端緒にもついておきましょうということで、最後に美野里総鎮守格である堅倉の「貴布禰神社」へと参ったのであります。
んが、境内の由緒にはもはや高龗神を祀るということしか書いてなかったですなぁ。『神社誌』には「初め貴船神社と書き日本武尊を祭神としたが、大正二年四月社名を貴布禰と改め高龗神を祀る」とあるのだけれど。
境内社はこの一宇にまとめられているようだった。「ちゃんと」天日鷲命の鷲神社も含まれているのですよ。ここには。いずれ巴川の石船・貴船問題はオレが解くぜ(笑)、ということではあります。
社殿脇には大杉の御神木。こうなると柱ですな。関連メモもしておくと、ここから先の石船神社に関してはその内に『三代実録』に見る式外社:飛護念(ひごねん)神(西郷地の石船神社)を含み、これまた面白そうな展開が見込まれもする。
飛護念(ひごねん)というのはおそらく「ヒコネ」であり、味耜高彦根命、宇都宮から古代新治郡にかけての賀茂系の流れでしょうな。そんな模様も入って来る土地なのであります。
そんな大ネタへの予感もありつつ、という小美玉行でありました。貴布禰神社さんにはこんな石造物も。また竹の「あれ」ですな。城里町・茨城町に続いて三例目。右の像は桑の葉持ってんのかな。赤ちゃんも抱えているが……養蚕と子安?
真裏にこんな大きな標石がある。まだ時間的にはもう一二社行けそうな具合なのだけれど、ここから日に四本というバスの最終に乗らないと大変なことになってしまうのです(笑)、という状況故に、このへんで。
午前中は霞ヶ浦的な玉里小川の古墳と神社をまわり、午後は一気に南北の土地の様子の変化を辿るという小美玉行でありました。そうしたことをやって意味があるのも、それなりに常陸への目力があるゆえと自画自賛しておこう(笑)。まだまだ先も長いのだけれど。

補遺:

常南行:小美玉 2012.07.14

陸奥・常陸編: