常中行:旧友部・茨城町

門部:陸奥・常陸編:twitterまとめ:2011.12.10

「常中行:友部・茨城町」の模様を。涸沼に注ぐ涸沼川流域の探索ですな。
朝8時ちょいには友部駅に着きまして、華麗に8時25分発のバスに飛び乗る……はずだったんだけどなぁ……土日運休でなぁ。あれぇ?
これの旭台循環なんだけどね。赤字が運休だと書いてある。でも右に「土日祝は全便運休」とさらに書いてあった。くっ、これがキタねえオトナの世界のダブスタって奴か……(違います)。
はい、間抜けなあたくしはてくてくと歩くのであります。寒かったね。これだもんね(写真参照)。なぜか話しかけてきたお嬢さんに聞いたところ、この辺でもこんな風に霜がおりたのは今年初だそうな。
行く道に「寄って行きなさいな」と言っておるようなお宮が。寒さできしむ背筋も緩む良い日差し。一体何の神さまが祀られているのかもわからないが。
鳥居脇には二十三夜碑や馬頭観音碑などがずらりと。この辺りも多くの神社が合祀でまとまっていった土地故に、そんな中の元宮さんであるのかもしれない。
そんなしみじみとしたスタートだったものの、「しかしまぁ良い天気よ」と空を見上げた刹那にいつもの如くの「ふぅおぉぉ〜?」状態へ突入ッ!喝ッ!ぐおお、出た「これ」。出島村で見かけて以来見なかったが二例目だ。
お彼岸の時期に出島村で見たのはこれ(左写真)。同一の何かに相違あるまい。出島では一件しか見なかったので尋ねるのも遠慮したのだったが、こうなったらそうも言っておられるまい。
てなわけで道で井戸端会議をされてたおばちゃ、もとい、お姉様方に半ば強引に突入して(笑)、尋ねてみましたところ、「あれはなぁ、鯉のぼりを揚げる棒なんよ」とのことだった。うん、その棒の上の飾りなんだけどね?ダガシカシ、そうか、鯉のぼりか。なるほど。
言われてみれば確かに鯉のぼりのポールの先に揚げる「矢車」と同じような発想で作られたものに見える。そして帰って調べてみるとありました、出島の「駕篭玉」というのだそうだ(個人ブログ「カメラの記憶」様より)
条件的には、小学生くらいまでの男の子のいる古くからの家、というところじゃないとないだろうから、中々探すのも大変な一品ではあるだろう。常陸にはまだこんなものが残っていたわけです。

テンションがうなぎ上りになりつつ、予定一社目の「二所神社」さんへ。社名にあまり深い意味はない。二社が合祀したら二所神社、三社合祀したら三所神社。とくに常中にはこのタイプの名の神社が多い。
ここ湯崎の二所神社は鈴神社に熊野さんが合祀したのだけれど、問題なのがそのベースとなっている鈴神社・鈴大明神だ。天鈿女命を祀る。東国で天鈿女命を祀る神社というのは珍しい(なぜか西相模には何社かあるのだが)。 『神社誌』には応永十年の勧請とあるが、どこから、などは書いていない。「鈴」の名からして熱田の外宮「鈴之御前社」からだと思われるが、何故?というとよく分からない。
境内には大杉が。常中は社叢内の古株がなんとなく御神木になってる観があったが、ここは立派な玉垣がついていかにも別格、というように祀られていた。
周辺少し木立の有り様が独特だ。写真のように「壁」のようになっているところがままあった。通りの左側が二所神社で、右の壁状の林は参道の様でもある(右曲りで道もないが)。土地の区切り方と神社の立地に何かがあるかもしれない。
社地の造りも少し気になった。全体的に「円」を意識しているようなのだが、その境は薄く堀状になっている。社殿後背側は完全に小川が流れていた。大きな円墳状で周囲に堀のある形が本来だったのかもしれない。

で、この鈴神社がまったくイレギュラーな一社なのかというと、二キロ程東のお隣長兎路(ながとろ)地区の鎮守さんもまた元鈴神社なのだ。これまた今は三島さんと合祀して「二所神社」なのだけれど。
もとは湯崎のほうの今北川根小学校のあるところにあったというのだが、湯崎の鈴神社さんと分裂したものか、もともと複数社祀る程に土地の人のルーツと関わるのか、うーむ。
神社近くの婆ちゃんと話していたのだが、小学校建設による移転、という経緯から「昔は小学校の子供らが全員でお参りにきたんだ」なんて逸話はあったものの、それ以上特に御祭神に関する何かはなかった。
ま、もっともなんであたしはこの「鈴大明神」が気になっているのだというと、自分でもよく分かんないんだけどね。涸沼川の何かを示す側面かもしらん、と言えばそうなのだが。
道行きはさらに東進しまして、ここはもう柏井という笠間旧友部町でも東の端になる。ま、例によって道に迷ってたんだけどね(笑)。すると公民館とお堂と祠があってイチョウの木が。こりゃすごいですなぁ。
過去の大樹の切株に植えたイチョウがまたでっかく育った、ということだろう。切株にまた木を植えたものはよく見るが、こうばっちりとした光景になっているのは記憶にない。里の歴史、である。

そしてたどり着きましたのは「加志能為神社」さんというところ。不思議なお名前である。「かしのい」と読む。承久三年。親鸞上人伝説を持つお社だ。
この里に親鸞上人が来られた際、白髪の老翁が現われ、「鹿島大神なり」と名乗ったと言う。上人は驚き里人に伝え、鹿島神宮から御分霊を迎え、社地の井を「鹿の井」と呼んだという。もとは「鹿の井大明神」だったのですな。
鰐口が下がっておるところも親鸞上人縁のなんかなのかしら。近くに寺院はないが、そのような側面もあったのかもしれない。で、要はここは鹿島さん……のはずなのだが、問題なのは御祭神に武甕槌命が見えないという点だ。
祭神は弥都波能売命・鳴雷神、である。八雷神の一、鳴雷神を武甕槌(建御雷)命とリンクさせているのだろうか。実は、笠間の佐白山にはタケミカヅチを思わせる名の雷さんの伝承があり、あるいはそういう流れがあるのかもしれないと思ってここにも来たのだ。
実際には常陸最強の雷神社で八雷神も祀る西方・桜川市真壁町の加波山三枝祇神社の影響で……とかなんだとは思うのだけれどね。しかし先の創建伝承を伝えながら武甕槌命を祀らないというのはどうにも不自然ではある。
まー、にわかには何とも言えないが。で、ふーむふーむと振り向いてギョッとするあたし。いやマジで白蛇かと思った。こういう経験を通して、蛇神バカの脳はより一層傾いていくのであります(笑)。
ひゅうるりぃ〜、ひゅうるりぃらら〜。という感じの空模様。下界はそうでもなかったですが、上空は鋭く風が吹きまくっていたようで、素晴らしい雲アートの堪能できた一日でもありました。
さて、この辺で笠間市旧友部町は終わりまして、東茨城郡茨城町に突入。あたくし茨城町に入ったのは生まれてはじめてであります。しかしまー、この火の見櫓きれいに塗り直されておって……現役なのだろうか。

まずは野曽(のそ)というところの「鹿島神社」さんを目指したのであります。ていうかこれ……あー、すごいですねー。肉眼だともう見えているのです。
日本人たるもの一年に一度はこの景色を堪能せねばならんと常々思っているものの……御社殿に近づけなひ……
こちらが下手人の御神木殿でありまするな。町指定天然記念物でもある。ご本人はなんかもうすっきりさっぱりという風情(笑)。
で、この鹿島さん。今は公民館の裏手にひっそりと他所の人の知るでもなくという感じでありますが、神鏡・神剣その他諸々の宝物を伝え、かつては「年七度の祭りを古来厳修」されていたという社。こういうところは何かある。
具体的に言えば、このすぐ隣に「宝塚古墳」という、四〜五世紀の「前方後方墳」があり、首長級の人の墓と考えられているのだが(後述)、それにまつわる祭祀を継いで来た社なのではないかと思うのだ。
涸沼川流域にその時期展開した氏族が誰であるか、まだその話をする段階ではないが、この鹿島さんと宝塚古墳はそこを考える上で大変重要なところになると考えている。

宝塚古墳はちと後回しにしまして、先に一キロ弱東、駒渡の「駒形神社」さんへと。単立の小さなお社がひっそりと、なのだけれど、大変興味深い伝説を伝えるところなのだ。
あるとき、この地に真っ白な馬が突然現われたのだという。その馬が余りにも美しく輝いていたので、里人は神馬に違いないと社を造り、白馬を模した像を御神体にして祀った。その神馬が渡ってきたので土地を「駒渡」と言い、神社を駒形神社としたのだと言う。 で、土地ではこの白馬の像が御神体であることから、白馬はもちろんのこと、ニワトリやウサギにいたるまで白い動物は一切飼わなかったと伝えられている。実際昭和二十年頃まではその風習が残っていたそうな。

そしてこれがですね、笠間市に多氏の足跡を伝えるかもしれない「大井神社(左に地図)」に、同様の禁忌があったのですな(当日の神社巡りレポはこちら「常中行:笠間」)。御祭神(神八井耳命)が白馬にまたがり土地に来られたことから、「白色の動物、殊に馬は一部分白色のものや犬鶏に至るまで飼ふのを嫌ふ風習あり」と『神社誌』にある。こちらも終戦まではこれが堅く守られていたそうな。
この辺りの「神馬」伝承は扱いが難しい。既に、東北のほうに濃い蒼前信仰や、竜馬伝承と関係するのかもしれない。ま、ちょっと失礼して覗いてみたところ御社殿の中にはもう白馬の像は見えなかったけどね。
いずれにしても駒渡周辺さらに馬渡・越安などの字名が連なり、必ずや「馬のコードが」先へ行ってクローズアップされてくると見ている。写真は境内の石祠さん。周辺の礫は、「何か」であるね。
あ、地勢のことを指摘しておこう。今は後にも見る細い涸沼川が流れるだけだが、この一帯例によってだいぶ水が入り込んでいたと思われるのだ(7mの海面上昇図)。駒形神社さんも山中のように見えるが、かつては水辺の話となるのであります。
行く道に。獅子唐だろうか。立木にこれでもかと掛けられていた。出島村のほうでミチキリの飾り房に獅子唐を混ぜて吊るす例がままあったという話を読んだが、こういう日常風景の延長、というところもあるのでしょうな。

近くに「熱田神社」さんが鎮座されている。江戸の勧請で……それしか記録もないので、ご挨拶だけ、と思っていたのだけれど……鳥居前に……ん?っんん〜?あたしはこれを以前も見ている。
こちらのほうがわかりやすいか。二本の竹筒を紐でヌンチャクのように結んだものが供えられている。鳥居・拝殿とすべての境内石祠のそれぞれに供えられていた。なぜか手水の脇にも吊るされていた。

旧常北町(今は城里町)は下古内の「鹿島神社」さんの境内社に同様のものがあった。鹿島さんそのものが清音寺という古刹の敷地内ということもあってお寺絡みのなんかなのかと思っていたが、そうではないようですな。
熱田神社さんそのものは御祭神が「大物主命」という点が「?」ではあるものの、何もわかりそうもないお社なのだけれど、気になっていた一件の二例目を提供して下さいました。鯉のぼりといい、そういう日なのかね。
ここまでは涸沼川の北の丘陵をずっと来たので、林の中、という感じだったが、ここで川岸へおりることに。開けたところから昨夜の「宝塚古墳」を見るとこのような。 先の海面上昇図と併せて見れば、水辺に臨む古墳であったことがよく分かるだろう。しかしなぁ。ここ前方後方墳で(ま、関東には少なくないが)、その形状がよく分かるのじゃないかと思って来たのだけれどねぇ。
二年前はこうであったというのだ(「埼群古墳館」様)。あたしの目には大変な藪で入るに入れないようにに見えたが(写真右が看板)。うーむ。違う入口があったのかな。
しかし……EXPO'85……行きましたよあたしは。コスモ星丸うぅぅ〜。時間が止まってんのかここは。
そして開けた視界で存分に見渡すTHE茨城町。きれいさっぱり(笑)。いや、役場のほうはそれなりに街になってますが。この水田が皆水中だった、という土地なんでしょうな。
そして涸沼川。この十二月の頭(多くは一日)に、「川浸り餅」という行事があちこちで行われる。要は餅を搗いて川(の神)に流す(供える)。茨城町では「カワッピタリ」などと言う。
あたくしこの「カワッピタリ」に関しては妙な連想癖を持っている。何となれば、相模の丹沢から秦野のほうでは昔、「男衆だけ亥子の日にケツをまくって尻だけ川に浸すと無病息災、という風習」としてこの「カワッピタリ」が行われていたのだ。で、あたしはそれのほうを先に知ってしまっていた。後に「川浸り餅」という行事が広くあることを知ったのですな。そんなわけでいまだに「カワッピタリ」と聞くと男衆がケツをまくるところを連想してしまうわけです(笑)。
閑話休題。で、この辺りは川根というのだけれど、「カワッピタリ」の由来をどう伝えているかというと、河童と絡んで伝えている。この辺では「カアパ」という。
かあぱが毎年子供を川に引き込む。家の軒下に住むかあぱは、食べ物を乞うようになったが、家人は食べ物の代わりに子供を川に引き込まないことを誓わせた。冬になると食べ物を求めてやってくる。子供を引き込まなくなった河童を稲荷として祀った。
ということで、この子供のかわりの食べ物が餅なんですな。そして、この「河童を稲荷として祀った」という稲荷が、ここ川根に実際あったというのだ。過去形なんだけどね。具体的に「保育園のところにあった」と記憶されている。ま、行ってみたけどとくに元地のような祠も見えなかったですな(残念)。

んが、とは言っても河童稲荷さんもまったく消滅してしまったというわけでもない。おそらくは地域の鎮守「鹿島神社」さんに合祀されたものと思われる。配祀、倉稲魂命とあるのがそうだろう。
うーん、目に見えて「これだっ」ってのはわからなかったですが。この石祠二基だけ妙に新しいお供えの痕跡があるのが気にはなった。
もっともこの鹿島さん自体が大同三年の創建を伝え、神葬家四家を擁するこの土地古来の重要な鎮守様でありますので、境内社・祠も多く、どれがどうとかは御神職にでも聞かないとわからないでしょうが。
鹿島さんのちょっと変わった境内石祠。右のほう。鍋ぶたのような……なんでしょね。炉のような?竈神とかと関係するものか(プチ伏線)。
参道入口にも謎物件が。参道両脇にあって、写真左が社殿の側。なんだべいか。幡竿を立てる石柱は別にある。
行く道に。牛魂碑とな。そんなのがあるんかね、と帰ってから検索したら結構あるみたいですな。これは古くはないが、まぁ、馬は馬頭観音さんで、じゃあ牛は何だというと特にないか。
飯沼の川根を後にしまして、さらに東へと進むと「下土師」という土地になる。まず地名自体がまことに興味深いが、今回はさて置く(ちなみに飯沼辺りは昔「上土師」だった)。今回は『神社誌』に掲載されているこの土地の雨乞いの次第を追ってみたのだ。非常に詳しく載っているので掲載しよう。
雨乞ひ:長い日照りのあとの雨乞ひに下土師部落では「お諏訪さま」の前で若者等が火をたく。立木に大太鼓をつるして雨乞ひの太鼓を打ち鳴らす。その一方では若者等はお諏訪さまに伝へられる奇石を持ち出し、近くの涸沼川の橋の上から投げ落とす、それを拾ひ上げてまた投げ込む。これを何回もくりかへす。石は長さ三三・五cmのだ円形で、表面に十三ヶのくぼみのある石器時代のくぼみ石。昔から「この石を冷やすと雨が降る」といひ伝えられ、部落の人は「お諏訪さまの石」と呼んでゐる。
まことに興味深い。ダガシカシ、『茨城町史/地誌編』の下土師の稿にも同様の記述があるのだが、『神社誌』ともに肝心の「お諏訪さま」の所在がまったく書かれていない。『茨城町史/地誌編』の緻密さからすると既にない、というのは間違いなさそうなのだが、そう簡単に諦めるのならわざわざ出張っては来ないわけで、エェ(笑)。
何か記憶してる人がいないかと聞いて回っていくと、もう東の端の息栖神社さんの近くで「そりゃ、ずっと戻ったとこだっぺ」と知っているおとっつあんがおられた。調べてみるものですな。で、戻って飯沼との境のほうの公民館脇の小さなお宮がそうだと言う。一キロ弱戻ることになるが、あるとわかりゃあしめたもの。うほほほほ、と飛んで行くあたくしなのでした。
ここがその「公民館脇」になる。確かに鳥居があって小さな祠がありました。
でもね?なんか祠のカゲにお狐さんがいたよ?ということでお稲荷さんではないのかという感じが。むむむむ。 という感じでさらに祠周辺で聞き込み調査をしていきますと、やはりここの人は「いやぁ?ありゃあお稲荷さんだっぺ?」と言う。三人程に聞いたが皆お稲荷さんだと言った。あれぇ? あれ?あれ?とまた東へと戻りつつ、最初に話を聞いたところまで来ると今度は九十絡みではあるがかくしゃくとされている婆ちゃんがお掃除されておったので、さらに尋ねてみた。ここで謎が解ける。 「お諏訪さんはなぁ。あっちの公民館のところにあるよぉ。行っできた?稲荷?そうだよう。昔はなぁ、そこの岡の上さあっだんだけど、新しい道路が出来て、稲荷さんと寄せ宮になったんだ」そういうことか。最初のおとっつあんもあってたわけだ。

ということで改めまして、下土師の「稲荷神社」さんに、雨乞いのお諏訪さんは合祀されていたのでした。写真右奥の石祠かもしらんね。しかし「寄せ宮」っていうのか。良いね。
もっとも残念ながら婆ちゃんにも石の行方等はワカランそうな。写真奥がかつての小字「諏訪」の岡。「昔は岡上を諏訪っづって、下って来たとこを諏訪下って言っでだなぁ」ということだそうな。
「新しい大きな道路の脇さ古い細い道があっぺ?昔はその道しかなくて横の竹薮の奥に……」お諏訪さんは鎮座されていたそうな。竹薮はまだ少しだけ残っている。

そんなこんなでこの日はもうおしまいかな、という日差し。最後によったのは同下土師の「息栖神社」さんであります。言わずと知れた神栖の息栖さんの勧請(仁和元年・伝)。
ここが特にどうというのはないけれど、東国三社の中で息栖さんを勧請する土地というのはやはり水に絡んだ土地なのかな、という感じはしている。一社の伝より全体的な分布がモノを言うお社かもですな。
で、ここにも先の鹿島さんで見たような炉のような祠が……祠なのか?今まで他所で目にしていないので土地に独特なものかもしれん。気をつけておこう。
独特と言えばここには「神農」が祀られている。写真の六角堂だ。昭和七年に青年会が建てたと『神社誌』にあり、古いものではないが、どういう脈絡なのか気にはなりますな。『神社誌』もなぜか写真入りで紹介しているしね。
といったところで。当初の予定では写真の先の橋を渡ってさらにいぃぃ〜、という腹づもりではあったのだけれど、例によって日が暮れるのであります。朝のバスの件もあるけど、実は各所でお話を聞いた時間がすごいんだよね、この日は。なんせ農閑期なので爺ちゃん婆ちゃんが閑で、「いや、どうもありがとうございました」と言っているのに「そんでよ……」と話が続くのだ(笑)。
まー、ありがたいことで一気にこの土地に親近感ができたのではある。いずれ茨城町の本命はこの先涸沼周辺となるのだけれど、中々よろしいスタートが切れたと言えましょう。/「常中行:旧友部・茨城町」・了

補遺:

常中行:旧友部・茨城町 2011.12.10

陸奥・常陸編: