常中行:笠間・旧友部

門部:陸奥・常陸編:twitterまとめ:2011.10.29

「常中行:笠間・旧友部」の模様を。久々の週末上天気にフル回転の巻であります。多分常陸行ここまでの中で最長。
夏場はそこそこ人も乗っていた朝四時台の列車は今の時期はこんな。なんかもう伝説の「きさらぎ駅」へと行ってしまうんではないかという勢いでありまして、えぇ。
ここからぐーぐる秘伝の宇都宮線まわりで八時半には笠間駅に到着。丁度八時半に笠間駅前のレンタサイクルがスタートしますのでママチャリゲット!日の短い期間のマストアイテムはこれだっ!ってなもんであります。
そして素晴らしい快晴の中、佐白山の南をぬけまして、笠間芸術の森公園の北東に位置します神社さんへ。地図上見てはいたものの、単立社にて調べようもなさそうなのだけれど、ちと気になる点がありまして。
ちなみに階段下にあるのがレンタサイクルの自転車。素晴らしい韋駄天走りを可能にしたこの日の相棒であります。常中快足号の称号を与えよう。わはははは。
で、階段を登り鳥居を潜ると、そこは公民館だった……な、何を言っているか分からねーと思うg(ry 神社と公民館が並んでるのは普通としても公民館しかねぇというのはあたくしはじめてのシチュエーションでありまして……

んが、公民館の背後にひっそりとお社が。「大山祇神社」さんであります。この土地西から手名椎命・奇稲田姫と祀る所が流れて来てまして、そこでの大山祇命はどうなんだという興味があったのですな。
ま、詳しいことは分かりそうもないのだけれど。お社の左手から階段が延びてまして、後背の山林の暗がりに大岩が。どうもこちらが本体らしい。そういう場所だったのだ。佐白山は磐座信仰がもとだったのじゃないかと以前思ったが、その流れかもしれん。
その佐白山。あの天辺の「佐志能神社」へと七月末に参っておりますが、ここからは山の形がよく見える。うーむ、ヘビクサイ(笑)。

お次は東進しまして「星宮神社」さんへ。前回の友部行で雷に追っ払われて参りそこねた所ですな。
「【祭神】天之可可背男命」の社である。縁を伝承する社はたくさんあるが、境内社とかでなく、ズバリ天之可可背男命と祀っている社はそう多くはない。しかも、「古来眼の神と称へられ、又漁業の神として崇敬されてきた」とある。こんな内地で。
境内に梵鐘の矢倉が。実は星宮は一度次の鹿島神社さんに合祀されたのだけれど、一年もせずに復祀されたという社。合祀中も境内はそのままだったのだろう。星宮さんがなくなるなんてとんでもない、という地元の方たちの顔色が見えるようだ。
高皇座霊尊を祀る山倉神社という境内社があるのだが、本社殿真後ろに直交して構えられている。これは見たことのない構えだね。第六天だったのだろうか。何だろう。
そ・し・て、見よこのご神紋を。普通の九曜紋とかの星紋とかとはまるで違う。なんだこれは。妙見系にはこういうのがあるのか?何かご存知の方おりましたらご教示下さい。
社頭には井戸もある。星宮の井戸と言われるとなんぞただ者の井戸ではあるまいという感じがしますなぁ。
社頭に新しい子安観音さんがおった。新しい、というのも重要だ。すなわち信仰が続いている可能性が高いのである。別に古い子安さんもあったので、代々続いている感じが強い。
また、朱い祠は「三面観世音」とあった。多分馬頭観音さんだろう。オールインワンに皆揃っており、イレギュラーな社ではなく、この土地の鎮守として星宮があったのだということが分かる。
お次はその一瞬星宮を合祀したと言う鹿島さんへ向っておるのだけれど、間の川にかかる橋の名が「星の宮橋」だった。小さい川で橋たくさんかかっているので、隣の橋渡っていたら見落としましたな。

その「鹿島神社」。ここはここで大変な由来のある所で、坂上田村麻呂が北征の途上ここに立ち寄り祈願したので大宮の称を賜ったと伝える。しかし、この位置ではやくも「?」な石柱が……
一見崩れた鳥居の柱のようにも見えるが、こりゃちゃうねん。なんだこれ。エトルリア様式(笑)?何かが乗っていた様でもあるが……周辺何もなかった。
ま、柱はともかく、「まつろはぬもの打ち払い安らかに治むる御代に十帰(とかえり)の花」と大同年間に歌の奉納があったと伝え、鹿島・田村麻呂・香々背男と並ぶのも何とも感慨深い社であります。
この時点ではハァーン、と思っていたくらいだけれど、この後周辺神社を見ていきますと、どうもこのように境内社を一宇にまとめるのが定番のようだ。しかしあたしはこの木立と木漏れ日との「こういう感じ」に弱いらしい(笑)。たくさん写真を撮ってしまう。

さらに近隣の「別雷神社」へ。ここも一時鹿島さんに合祀され、後復祀の社……というかお堂ですな。一年前のあたしなら驚いただろうが、今やこのくらいでは驚きゃしませんのよ。ほっほっほ。
昔はこんなお堂が沢山あったんだろうねぇ。それはともかく、端折るが笠間の西から旧内原にかけての雷神というのは見落とせない。何らかの流れがあったということが見えたらホームランクラスのネタなのだ。先の佐白山も雷神の山であったという伝承を掴んでいる。
んが、ほんの40mほどの所にもう一社。こちらには社名もないが、氏神故にゴミ捨てるなとの注意書きがあった。こっちが本社殿なんだろうか。さらに別の神社なのか?
車道があまり自転車仕様じゃありませんでおっかないので川向こうの小道へ行きたいのだけれど……こりゃチャリでは渡れまい(笑)。
この辺りは旧友部町の中市原とい土地なのだけれど、そんなこんなの、どうも「星宮の里」だったんではないかという感じでありました。小高い山の連なりがふと途切れて、こんな盆地に入るという、そういう感じの所でありました。
さて、ここからあたしは先だって騒いでいた「道場淵」を探すのであります。何となれば正確な位置が分からない。友部駅へ寄って駅前案内を見てみてもなかった。笠間市の文化財五輪石塔があるそうで、そこには「平町」と書かれているのでとりあえず平町(地図)へ向ったのだけれど、さっぱりそれらしい所もない。
人に尋ねても「どじょうぶち?あー、どうじょう?いや、ワカランねぇ」と言った具合で、トホホのホ。しかも、どうも平町の辺りは古くからの集落という感じではない。うーむ、うーむとチャリでぐるぐる回っておりますと……
なんだか千手観音さんのお堂がありました。何だろうね弟橘媛じゃなかろうね、と思いつつ、道場淵の場所を教へ給へー、とやっとりますあたくし。
境内の子安観音さんの前に礫が。こういうのは眼病や疣とりの願掛けと成就に関する、ことが多いように思っているのだけれど、ここに「子安」もとなると面白い。それらが「分離の呪能」で繋がるからだ。いや、そんな考察に浸ってる場合ちゃうねん(笑)。

まー、とりあえず涸沼川の方まで来ちゃったし仕方ねぇ、と川を渡って先に大古山の「八幡神社」さんへとご参拝。ここは八幡太郎義家との縁を伝える八幡さんだ。
実は常中地方は義家と縁があるという八幡神社が本来たくさんあったのだ。その多くは近世に静・吉田神社となってしまった。現代の神社名一覧だけ見ていても分からない傾向である。ここ大古山八幡は八幡のまま残った重要な一例なのだ。
境内に何やら砕かれた大岩のようなものが。義家公絡みの社には「三つの大岩」というモチーフがまま付随するが、ここもそうだったのだろうか。
しかし、近世も後半からはここは写真中央の「大杉神社」(霞ヶ浦の大杉神社・あんば様の分霊)の方が里人の信仰を集めていたようだ。往時の大絵馬も文化財指定されて残っている。お社右の杉も立派で「大杉」を意識して演出していますな。
ちょいと失礼して覗き込みますとお社の中には天狗殿が。やはり大杉神社はまず第一に天狗の社だったのだろう。常陸坊海尊とかかわる。
対岸から。橋向の杜が八幡社叢。こちら側を「矢野下」というが、八幡から義家公が放った矢が落ちたので矢野下なのだと言う。典型的な土地境の伝説だ。
八幡さんを後にしまして、川の側におった爺ちゃんに道場淵のことを尋ねてみますと知っておられた。「いやぁ?もっと、おめぇ、上の方(上流)だぞ」とのこと。ちなみに爺ちゃん訛り全開でありまして、記述は書き下し文であります(笑)。 「これ、この道まっつぐいぐとおれんちがあっでよ、ヤマト運輸のよう、おめぇ、ヤマト運輸ってしってんぺ?そのヤマトの先の十字路を左に……」ということで、どうも次の目標地「平神社」の方らしい。「そこはもう平町じゃないですよね」と聞いてみますと「なーん。だって昔はこの辺みーんなたいらっつったんだっぺ?」なのだそうだ。そういうアレかよ。旧住所で書いてくれるな笠間市……orz

ともかく道場淵の所在は分かったので、ドリャッと涸沼川を遡りまして、先に「平神社」さんへと。ここは要は天王さんだった所。ものすごく大きな鳥居。
天治元年に涸沼川を流れて来た牛頭天王の神像を祀ったという。道場淵がこちらにまで上ると思っていなかったので、考えなかったが、この神像が流れついたという「お岩淵」とはおそらく道場淵のことだろう。三つ目の伝説が重なることになる(後述)。
境内社の三峯神社。なんだか三峯さんを境内社に祀ることが多いような?何かの流行があったのだろうか。
手水鉢がなかなかすごい椀状穿痕物件だった。常陸は村辻の石造物が文字碑であることが多いためか、あまり椀状穿痕を見なかったが、風習がないという訳ではなかったのだ。あるいはお寺などの方に多くあるのかもしれない。

そしてここが念願の「道場淵」であります。ま、今はもう「淵」というほどの深さはないようですな。ここに「椀貸淵」「親鸞聖人の大蛇調伏」そして今回分かった「平神社の牛頭天王」の三つの伝説が重なっている訳であります。
「椀貸淵」とは全国に見られる竜宮譚の典型話のひとつで、淵の底にある竜宮の乙姫様が里人の願いに応じてお椀やお膳を貸してくれる、というもの。大概心ない村人がそれを返さなかったので以来貸してくれなくなった、という結末になっている。
今回平神社の由緒と関係しそうだということで、イメージがひとつ明確になったことがある。平神社の御神体はこの淵の「七米余の大石」に引っかかったのだそうな。磐座だろう。椀貸淵伝承にはそのような川淵の大岩の上にお椀やお膳が出現する、というシチュエーションがままあり、ここもそうだったのだと思われる。しかし、その大岩は「戦後河川改修で爆破」されてしまったそうな。
親鸞聖人がこの淵にすむ大蛇を調伏したという話からすれば、その大岩は大蛇が封じられたものでもあったはずだが……今は昔、ということですかねぇ。ちょっと珍しくトバシで撮ってみた道場淵(慣れないことはするもんじゃないとばっちゃがゆってた……笑)。
ま、いずれにしてもこの川の名は「涸沼(ひぬま)」であり、この下流の涸沼に由来するが、蒜間湖(ひるまこ)とも日沼とも書かれた湖であり、あたしは鹿島の「ミヌマ」と対になるに相違ないと考えている。さらに涸沼川上流が常陸の出雲・賀茂勢力の中心らしいこと思えば「斐川」の一種であるかもしれない。この川が常中以北の竜宮譚のスタートラインに思えるのだが、そういう川なのだ。引き続き流域の伝説を広く追って行きたい所なのであります。

道場淵から北、水戸線宍戸駅の近くに「末廣稲荷神社」がある。中世常陸宍戸氏ではなく、江戸期にこの宍戸領を治めていた松平氏の崇敬社だったそうな。明治維新で松平氏が東京に移って後も、家臣たちが守ってきたという。
面白いのは、ここはその後「子供稲荷」と呼ばれるようになり、子供らの健康と成長を祈願する所となった、という点だ。常陸の稲荷はまま子安稲荷の色合いを持つが、ここもそのように変化したということだろう。しかしスズメバチ注意で封鎖が。
街中なのにスズメバチ何とかせんで良いのかと思いつつ、側面から。写真右の古木は御神木で欅だそうな。うーん「子供稲荷」と言われるような何かが見られるかと思って来たのだけれど特になかったですね。

そのままさらに北上しまして「飛龍神社」へ。長久年間の鎮斎伝と、本当だったら古い神社だが、由緒などはよく分からない。なんとも「流行の神社」のような立派な参道階段。
御祭神も「補佐臣命」とあり、なんだか分からん。立地的には南に宍戸氏の治めた平野を望む丘上で、大変重要な場所故に、何か重要な社であったはずなのだが。小字を「滝」というのは気になる。那智系?
ここも三峯さんを祀っていた。参道階段とともに社地も地域の公園として整備されており、お祭・イベントの類は盛んに行われているようなのだけれど、由緒がなんかないもんかね。
ずももーん、という感じの龍殿。
宍戸駅から西の方に、この地では大きな社であった元諏訪神社で合祀後土地の名を冠した宍戸神社となった社がある……ということなのだが……ここで良いのかね。
かつては参道脇に店が建ち並び、宿まであったという笠間への交通の要衝の社、のはずなのだが、これは……明らかに人の足が最近入っていない道だ。んが、行く手にお屋根が。間違いではないようだ。

「宍戸神社」であります。いやはや、これは破れ寺ならぬ破れ宮ですな。手前は拝殿で、後背急峻な崖上に御本殿があるのだけれど、ご本殿は完全に倒壊してしまっておりました。
神亀二年に諏訪神を勧請と伝わる式内論社になってもおかしくないような宍戸の総鎮守格なのだが。これまた今は昔な所に来てしまったのか。
参道鳥居入口の脇には「諏訪山に 宍戸の郷を 守る神」との文言が。早くそう復して頂けるようお祈り申し上げます。

宍戸神社を後にしまして、一路水戸線沿いに笠間へと帰還の途上、本日隠れ第一目標であります所の「鬼渡神社」が鎮座される。ここはもう合併前から友部町ではなく笠間市だった所となる。いやあ、イメージ通りですなぁ(笑)。
鬼渡は「きど」と読む。鬱蒼としている杜だが、先の宍戸神社と違って、人の足が良く入っている参道だ。だんだんそういう所もすぐ分かるようになってきた。
そして御社殿。明らかに尋常ではない場所だ。「上古当地に荒賊出没良民苦しむ。武甕槌命の御神助によつてこれを殲滅することができた。今尚平下の地名がある。鬼を渡らせ給ひし御神徳を仰ぎ奉り、鬼渡明神と尊称……」
最後にまとめて述べるが、ここも常陸の地にもとから住んでいたエミシと古代多氏との摩擦を伝える所なのだろう。実は、この日は香々背男の星宮にはじまり、この鬼渡を「わたって」、笠間の宿魂石を祀る石井神社へと向う、という背景だったのですね。
御本殿の覆い屋根もなんか不思議な。この社は武甕槌命を祀るが、やはり一連の社は本来エミシの神を祀るなり何なりした所だったのじゃないかと思う。そして、神社誌などは「荒賊」と書くものの、土地ではまた違ったのだろうなと。
すっかり暗い鬼渡神社でしたが、杜を出てきますとまだこんな日の明るい世界。えぇ、なんだか生き返った心地がしますね、えぇ(笑)。月待ちに子安観音と女人講のセットですな。

笠間市街へともどって参りまして「八坂神社」へ。七月末の笠間行の際、盛大なお祭(大宴会)モードだったのでご遠慮したのでした。
あちこち笠間周辺廻ってきて再度見ると、どうもここが笠間鎮守と言って良いポジションのような。笠間稲荷や稲田神社は別格だし、佐志能神社は特殊だし、と思うと笠間の人たちにはもっともなじみ深い神社さんなのかもしれない。
そういった「長年里を見守ってきた神社」の狛犬さんというのは独特な風格があるものだが、ここもそう。造型とか古色とかをこえて何かある。
さて、八坂神社そのものも大変重要な神社だ。下野国小貫にあったものを宇都宮氏の笠間への移動とともに(後の石井に)遷座、というのだが、「天王さんは宇都宮から川を流れて来た」という昔話もある。
また、元石井の地に鎮座され、現社地へは遷座で、今は石井へと神輿が渡御するのだけれど、石井をこえて稲田神社へと神輿の渡御する神婚様の神事もあったという。古代出雲・賀茂氏の頃から何かあったのだとすると宇都宮氏の枠組みにはおさまらないことになる。いずれ常陸三天王の一社であり、周辺天王信仰のひな形にもなっているだろう。先の平神社の由緒なども近しいものがある。
境内社の「三日月神社」は月読命を祀るが、「目の病いに効あり」の神社さんらしい。月読命は月待ち講の本尊として子安信仰に関係するが、目にも繋がるのか。先の星宮や千手観音さんから変な所で変な連絡が。
なんだかこの切株もただ者ではないようですなぁ。腐らないようにコーティングされ、盛塩が。なんぞ逸話でもあるのだろうか。
社務所というかお屋敷のような。その前には市指定文化財ともなっている枝垂れ桜。春にここに来る機会があるかしら。

すぐ近くの「笠間稲荷神社」。前回は朝方曇りの参拝でイマイチな撮影だったので、今回はばっちりな日の加減と青空で……と思いきや、今度はこっちが祭りかい。「菊まつり」となぁ。「江」ってのはなんだ、テレビか?
ううむ、いたしかたなし。ということで「副将軍」の写真でも。常陸行のうちには呑まねばなるまい。ここで買ってっちまおうかとも思ったけれど、やっぱ水戸で呑むべきだ、と思い直した(笑)。

そんなこんなでこの日オーラスの「石井神社」であります。ここも前回はお祭にてご遠慮した所。香々背男の宿魂石の破片のひとつを祀る。
御祭神は宿魂石を蹴倒した方の建葉槌命であります。この辺は武甕槌命にせよ、後に「それを封じる神」を祀ったというのが妥当な気がする。この日はじめの星宮と鹿島の関係が示唆的だろうか。
この境内の天王塚が、先の八坂さんの元地を表しているそうな。ここに神輿は渡御する。前回すぐ近くに別に元宮とする小祠も見つけているけど。天王と宿魂石がどういう関係にあるのかが謎ですな。
境内社の「青麻神社」。「あおそ」である。仙台に本社があり、以前も苞のような舟や「赤い魚」と常陸坊海尊の話があると紹介したが、その神社が勧請されている。どういう繋がりがあるものか。
といった具合の笠間・旧友部をぐるっと回った一日でありました。この日のテーマのひとつであった先住エミシと古代多氏の摩擦の過程を図にするとこうなる(左図)。
友部から笠間は西回りの多氏のルートに関係し、東から関係するであろう伝承を持つ社が並んでいる。これが、大枠では笠間と常北の境の方の「古内山・鹿島神社」が鹿島の神の降臨した土地だ、とされ、そこから東の話ばかりが語られる。おそらくその理由は友部から笠間が茨城国(物部系)・新治国(出雲系)の国造の治める地となったためだと思う。すなわち、笠間の大井神社や三瓶神社、今回の石井神社や鬼渡神社、星宮神社なども古くは常北などと同じ枠組みで語られる社であったと思うのだ。国造の時代に社であったかどうかはともかく。
図を見ても関係社のかなりの部分は既に廻った。今度はこれに出雲系や物部系がどのようにオーバーラップしてきたのかを見ていかねばならない。中々に常中行も大変なのですな。
ではあるものの、とりあえずあれこれ見えては来たんじゃなーい?という感じでした。最後は欲ばりにも笠間図書館へ突撃。これがまた小冊子の類まで揃ってまして「マヂかよっ!」みたいな話もあったのだけれど……それはまた改めて。/常中行・了

補遺:

常中行:笠間・旧友部 2011.10.29

陸奥・常陸編: