常南行:旧桜川村

門部:陸奥・常陸編:twitterまとめ:2011.10.01

「常南行:旧桜川村」の模様を。桜川村は今は稲敷市となりましたな。霞ヶ浦南側の下総側であります。

ちょっと補足したいものがあったので、土浦駅からバスでおなじみ美浦ルート。美浦の境の姥神(は、もう稲敷市)で降りまして、その「姥神」さんの写真を撮らせて頂きましょうと。
前回お話も伺っているのだけれど、そのお話から考えるにやはり「いつなくなってもおかしくない」感じが。そんななので、何とか写真だけでも……と思って行きました所「写真?別にいいんじゃない?」ということで。これが姥神さまであります。
こういった鬼婆だか山姥だかという像を「姥神さま」と言って、常陸は祀るのですな。ここ稲敷の方ではあまりないと思う。もっと山の方に多い。
そして目指しますは「古渡(ふっと)」であります。江戸崎の方から流れる小野川が霞ヶ浦に入る所。ぶっちゃけ桜川村回るのは香取の方からバスのが早いのだけれど、阿見・美浦と歩いてきたのでどうしても美浦側から古渡は渡りたかったのだ。
ここ古渡から江戸崎の方が『常陸国風土記』に見る「榎浦(えのうら)」であっただろうとされ、常陸国への入口であったと書かれている。半年を経て入口に到達だ(笑)。『風土記』を先によく読んでいたらここからスタートしていたかもなぁ、と妙な感慨が。
古渡の橋のたもとには「水天宮」の祠が。下のコンクリのアンカ(?)にも水天宮と彫られている。現代の磐座か(違
石祠さんに陽根石棒満載で、彼岸花は満開で……という珍妙な風景。しかしあたしはこの段階で「あー、ここは〝生き残ってる土地だ〟」と気を引き締めるのであります。
実際数十メートルごとに「何か」がある。お宮だかお堂だかなにかあるのだ。あまり神だ仏だという差もないらしい。お地蔵さんが多く、次いでお大師さんが多く、中にはおカメのお面とかも。

ここ古渡は要衝で、神社も固まっている。その中の「須賀神社」さんへ。予定では寄るつもりはなかったのだが、ちょっと現地で思う所があったので。
しかし、あたしもいい加減あれこれ見てきたと思うが、「牛頭天王」という額を見たのは初めてな気がする(無論「牛頭天王社」のまま生き残っているものはあったが)。ここ須賀神社も要するに天王さんなのだ。
朱塗りの社殿と見事な瓦屋根の造りであります。実はこの脇の道を行くと次の熊野神社さんなのだけれど、そこで道は終る一本道。そういう位置関係の神社ってのはちょっと記憶にない。二重氏子の関連神社だと思うんだけどね。
ここも境内彼岸花沢山でありまして、石祠さんも雰囲気120%な感じであります。
ところでたまに見かける「コレ」。鳥居の手前の茅かなにかのコレ。四方こうなっていて、上が開口している。古札とかを納めるのだと思うのだけれど、正式名称ってあるのかしら。

その須賀神社脇の道を行きまして「熊野神社」へ。丘陵の上に鎮座され、おそらくかつての古渡の東の岬になっていたと思われる。稲敷には将門調伏のために熊野が勧請された、という流れがある。
ここの熊野さんも寿永の乱にまつわる由緒を持つ関連社だと思うのだが……文字通り「取りつく島もない」(笑)。下の先の須賀神社さんが今は土地の中心でこちらは振っていないのかな。
ご近所の方にお話を伺ってみた所、やはり大きなお祭は須賀さんでやるそうな。でも、熊野さんも忘れ去れている訳ではなく、「明日お宮掃除で、次の日曜日がお祭なんよ」とのことでした。あたしはお手入れの直前に来てしまったらしい。
また、霞ヶ浦を渡った牛堀の方に熊野さん無双地帯がるのだが、前に述べた竹・筍の禁忌と絡めてどういう流れがあったのかが気になる所でもある。ここ古渡ではそういう禁忌などは「聞かないねぇ……」とのことだったが(残念)。

下ってきて霞ヶ浦湖畔に向う途中さらに「八幡神社」が。おそらく単立社。辻々のお堂やお宮と比べると社地もあり、別格ではある。しかしどうにも人の数に対して神さまの数が多い。
そんな中を霞ヶ浦湖畔へ。ここも岸からしばらくはこんな風で、これは皆古代には海底だっただろう。今の丘陵がかつての海岸だったと思われる(「海」だった)。

そのちょうど「境」となる所に国指定遺跡の「広畑貝塚」がある。ここの縄文土器からは炭酸カルシウムが多量に検出され、土器による製塩の行われていたことが確認されている。
右の先が霞浦で、左側が丘陵と、ちょうど古代の浜なのですな(木立が貝塚)。しかも『常陸国風土記』にも「住民たちは塩を焼いて生計をたてている」という浮島がすぐ隣だ。縄文時代からここで延々塩を焼いていたのかと思うと……

そのすぐお隣に「脇鷹神社」さんが鎮座される。「そばたか」だ。香取に祀る神で、或は御子神か、或は地主の神か、或は天日鷲命かとあれこれ言われるのだが実体がよく分からない。
歴代五指に入る覆殿だわね(笑)。さて、ここの脇鷹神社さんは『神社誌』などでは御祭神が天日鷲翔矢命となっていて目が飛び出る以外は特筆するようなことも書かれていないのだが、お隣浮島にものすごい伝説がある。再掲しよう。
「側高の神が香取の神の命により陸奥の馬二千疋を捉えて霞ヶ浦の浮島まで帰ってきたところ、陸奥の神が馬を惜しんで追いかけてきたので、側高の神は持っていた潮干珠で霞ヶ浦を干潮にして馬を下総に到着させ、次に潮満珠で満潮にして陸奥の神が追跡できないようにしたという。」/白水社『日本の神々』より
浮島まではまだ四キロほどあるが、どうだろう。浮島地区そのものにはソバタカないし香取を祀る社はない。ここがその伝説の遺称地なのじゃないか、と思うのだけれどね。
ま、それは追々として、ここもお大師さん絡みが。「逆さ杖」系ですな。弘法大師が逆さについて忘れた杖が写真の無花果の木になったという。先にも述べたようにお大師さんの像も多く、どうも、そういう土地柄のようだ。
御本殿脇には子安さん諸々セットも。このくらい社地のあるお宮はもう、オールインワンで土地の信仰の要なんですな。
このへんも、ひょいと路地奥を見るとお堂がある。ここもお大師像だった。
その路地奥のお堂まで行ってまたちょっと先を見ると森に何かお宮がある。どうにもこんな感じで「旧桜川村のすべてを知るのだ」とか言いだしたらエラいことになりそうだ。
そもそもここから浮島にかけては「イチマケ」という古い一族構成が生き残っており、本家(オモテ、という)と分家がそれぞれに氏神を祀っている。地縁的な組合や講集団もあるが、このイチマケによる集団意識が大変強い。
しかもその氏神も神仏混淆時代から繋がっているので、毘沙門天や弁天やらと諏訪神や姫宮(神功皇后を祀る)やらとが同じ土俵に並ぶのだ。最古参のイチマケである高須文佐衛門の家(オモテ)は諏訪を祀るそうな。
この浮島の詳細に踏み込むのはついったでどうこうなる話ではないが、そのような土地であるので同一地区でもイチマケが異なるとまたそれぞれお宮やお堂を建てるのですな。大変なのであります。

そんなこんなの土地なので、こちらも余り神だ仏だと分けてアプローチしても意味がない。ということで行く道の「毘沙門堂」によってみた。
何とも奇妙な注連縄が。お参りして良いのかイカンのかワカランではないですの。
額は「多聞天」になっている。毘沙門は梵語の音そのままで、多聞は意訳、というので同じではあるのだが、わざわざこう書くのはなんか意図があるのかしらね。額が二重になっているのも気になる。
さらには……?……???……もうなんだかワカラン(笑)。
境内の祠も一基に大杉神社・毘沙門天・三峯神社といった具合で大変であります。しかしまぁ、そういうものだったのでしょうな。
そ・し・て・!くわっ!喝ッ!ついに見つけましたよあたくしは。ほぼ一年前、神奈川県小田原市寿町の小さな八幡さんで見つけて以来、二例目がなかった頭のてっぺんが凹んだ狛犬さん。
阿吽共に。わはははは。結局自力で見つけることになりましたな。
でも、つい先日伊豆の道祖神さんの記事を書いていて「食べてしまった残りのボラの頭や骨を塞の神の頭に出来ているくぼみに入れ、拳大の丸石でそれを小突きながら、「塞の神ボーラーとらせるように」と再度祈願をくり返した。」と引いたのだけれど、そういうものなのかも、と思う。
いやー、しかし現地を見ていて「神も仏もありゃしねぇ(意味が違います)」と思って、じゃあ毘沙門堂も行こう、と突入した矢先でこれだ。いつも通り「仏さんはまたの機会に……」とやっていたら、或は思いつくタイミングがこの後だったら、この狛犬は見つからなかった。
そして道行きはこの日の本丸、浮島へ。カメラよ、あれが浮島の木だ。おー、意外と標高があるね。と、いうわけで後半謎の古代信仰集団の土地・浮島編となります。
浮島とはこんな所。かつては霞ヶ浦の海に文字通り浮ぶ島だったのですな。この南東側も海であり、対岸は下総香取。かつては信太郡の端だったのであります。
さらに拡大。矢印が前半のルート。この「浮島」が古代『常陸国風土記』に大変謎深く描かれている土地なのであります。再掲しときましょう。
「乗浜の里の東に浮島の村がある《長さ二千歩、巾は四百歩である。》〔島の〕四方はみな海で山と野が入りまじり、人家は十五戸、田は七、八町ばかりである。住民たちは塩を焼いて生計をたてている。そして九つの社があり、言葉も行ないも忌みつつしんでいる。」/『風土記』吉野裕:現代語訳より
「九つの社があり、言葉も行ないも忌みつつしんでいる」とは他を見ても類がなく、尋常ではない。かなり特異な神祀りの場だったのだと思われるわけです。そんな所に突入なのですね。
おー、ついに大杉神社・あんば様の看板も現われてきましたな。日本唯一の夢結び大明神とな。どこをどうとったのか?ま、今日はそっちへは行かないのだけれどね。
ちなみにあたしゃあ、普段こんな大雑把地図で力まかせに歩いております。この地図でこんな道行きです故、そりゃあ迷いもしようってなもんd………あってんのか、この道(笑)。

ま、着くんだけどね。ここは浮島の入口、「姫宮神社」であります。鳥居の額に「龍崎神社」が併記されてますな。資料上も龍崎神社を合併の記事はあるのだけれど、こうして現地でこういったものを見て初めて「姫宮に合祀された」といっても同格に近い感覚なんだということが分かるのですね。というよりこれは資料からはまったく分からない感覚。
息長帯姫命(神功皇后)を御祭神とするものの、実態は元亀・天正の乱時、この地をおさめていた浮島弾正が佐竹氏に攻め滅ぼされる折、小舟にて逃げた弾正の姫君を祀るという。姫の舟は例の三叉沖にて暴風にあい、沈んだ。
そんな姫を弔う社であるからか、御本殿桜色なのだ。なんとなぁ。はじめて見た。そして、あたしはこの話は底に霞ヶ浦の龍神に仕える巫女の話があったんじゃないかと思っていたのだけれど、現地の由緒書きに姫の名が「小百合姫」とあった。
やはりここは小夜・佐用姫一族(?)の社だったのではないか。同格で祀られるのが「龍崎神社(詳細は不明)」であるのも暗示的だ。いずれにしても、霞ヶ浦の竜と姫の社だったのではないかという予想は現地情報でかなり補強されたと言える。
それを横に置くとしても、ここは先の浮島の「イチマケ(一族)」の一つの氏神でありまして、庚申さんなどもかなり力作のものが。色々なベールの奥にここの姫神もおわするのであります。
由緒書きの両脇の石柱が先代の鳥居のものだった。こういうのは良いね。先代鳥居のパーツがよく参道に転がされているけれど、こういうのはアリじゃないですかね。
ぐねぐねと路地の入り組む浮島を半ば開き直って迷っておりますと(笑)、何やらお堂のようなものが。

周辺石仏だらけで、中には大黒さんの像が。子安の祠のようなものもあって、いずれこの辺りの人の集まる所なのだろうが……と思いつつ、すぐ隣のご老人にお話を伺ってみると「阿弥陀堂だ」と言う。で、その先がクリティカルだった。
「昔はよぉ、その後ろの山にデーッケェ神社があってよぉ」と言われる。ほうほう。で、その「神社」が江戸崎の不動院に遷されることとなり、幾つかのものがここのお堂に残されることとなったそうな。
何と言う神社か分かりますか、と尋ねた所「だから阿弥陀さん、阿弥陀如来」とおっしゃる。??。「神社」というからにはお寺ではなかっただろうが……大きなお堂だったのか。
いずれにしても、浮島は現在も後に見るような丘森がぽつぽつと残されており、どうもそれそのものが神域だったのではないかと思われる。『神社誌』などに見る社を追っても追い付けないようだ。
大体ここも近くに神社庁管轄の秋葉神社はあるが、山の中にあった「デーッケェ神社」はそれとは別であり、かつ重要だろう。そもそも浮島最古参の「オモテ(総本家)」・高須一族の祀るという諏訪の社も『神社誌』に見えない。所在も分からない。しかし、だんだん「浮島の見方」が分かってきた。
境内にはここもお大師さんが。あー、いよいよ常陸の大師講なんかもまじめに取り組まんとイカンかね。明らかに濃い薄いがあるしね。
爺ちゃんは「今はもうナーンもねぇ」と言っておったけれど、「もしや、何か痕跡が」と少し裏山にも行ってみた。すると……こ、これは伝説の「トトロ穴」……か?……いえ、畑に通じてただけでした(行ったんかい)。

森を抜けて平地に降りてくると鳥居があった。国土地理院の地図に鳥居マークがあるが、他の地図に見ない社で名も分からなかった所だ。お稲荷さんのようだが。ちょっと私有地の中の様なので入れなかったが。近く人もおらず残念。
実は浮島と周辺桜川村エリアは稲荷を「宇賀神社」の名で祀るという興味深い土地なのだ。四社ほど「宇賀神社」があり、「稲荷神社」はない。ここもそうかなぁ。いずれこれも改めて調べたい所である。
さっき言っていたような丘森。もっと山のようなものも。こういった感じでどうも古くからの神域が残されているようなのだが、写真の森は超重要ポイント。ここが風土記に見る景行天皇の行宮跡(張宮)なのだ。

今は霞ヶ浦湖畔和田岬にある記念碑が紹介されるが、そこは古代は海の中だったのでして、本来の史跡はここなのだ。解説には地元では「お伊勢の台」と呼ばれてきたとある。これは初耳。
景行天皇はここ浮島に関東の国造を集めて新嘗祭を厳修した、なんぞという話もある。やはり浮島は何か特殊な役割を持っていた島だったのだろう。美浦の安中陸平の仮宮との繋がりもあるが……長まるので本編で。

南東に進みまして小さなお社が。ここも国土地理院地図にのみ鳥居マークのある名の知れぬ所だった。「愛宕神社」さんでしたな。
狛犬殿が一基で踏ん張っているのかとビックリした。いや、参道がうねっておりまして、写真左の茂みの中に相方もおります。
単立の小社ながら立派な石碑の由緒があり、「昔当神社は小高き丘の上に在り周囲に松の大木ありて霞ヶ浦に聳え浮島の愛宕の松と称いられ有名なりしが……」とある。背後の写真の丘だろう。やっぱりね。ふふふふ。分かってきた、分かってきたぞ?
続いて由緒にも書かれていたが、合祀と復祀の次第があり、近くにおられた婆ちゃんにお話を伺ったらより臨場感溢れるものだったので、それをのせよう。
「むかし、愛宕さんは尾島さんに……アンタ尾島さん知っとる?……ほの尾島さんに遷されちまったんだけどよ、ほうしたら、この辺みーんな火事になっちまった。カッカッカッ。ほんでよ、またこっちにお祀りしたのよ」とのことである。合祀と復祀の怪異譚を初めて肉声で聞きましたね、あたしゃあ。

そしてさらに東へと進みますと、その尾島さん、「尾島神社」が鎮座されるのであります。
海面上昇図を再掲すると、ここはもう浮島のさらに外れの小島だったであろう所。文字通り「島の尾」だったのでしょうな。
ここは「尾島祭祀遺跡」という古墳時代の祭祀用土器と祭祀用石製品が焼け土とともに発見されているところであり、風土記に見る浮島九社の一である可能性が最も高い所だ。はたしてどのような人々が何の為の祭祀を行っていたのか。
扁額にはこのように「尾嶌」と異字体で表記されている。何かヒントになるか。
また、尾島神社は久々の「実用性のない参道」の神社でしたな。鳥居前には舗装道が通っている。この参道も次の舗装道まで続いているので消失参道ではないが、似たような雰囲気だ。
さて、海面上昇図にも見たように、この先はもう海だった。この田畑も古代は海である。阿見〜美浦、浮島へと辿った霞ヶ浦南西岸の行程も古代はここまで、この先は下総である。ま、近世以降のこの辺(東村)の民俗も面白いんで終りじゃないけどね。
そんなこんなで日が暮れて。一日曇りだったのだけれど、最後に夕日が。照らし出されている丘は稲敷阿波、大杉神社の鎮座する地か。
浮島は『常陸国風土記』にあるものの、直接その末となるような古社が現在あるわけでもなく(尾島のみか)、地味と言えば地味な神社巡りでしたが、得たものは大変多かったと言えましょう。それどころか二度三度と巡らないとよく分からん、という「見方」が得られた貴重な行程だったと思うのです。
今回の見聞をもとに今一度各資料を見返してみて、さらなる「浮島の奥」へと入り込める日を、と思いますな。

補遺:

常南行:旧桜川村 2011.10.01

陸奥・常陸編: