常中行:笠間

門部:陸奥・常陸編:twitterまとめ:2011.07.30

さて、あたくしこの日はこれまでの範囲を超えて進撃しておりました。「常中行」のスタートであります。押忍。
いやもうなんかこのまま常南の神々に絡み捕られて先進まねぇんじゃないのという感じになっとりましたので、今月(ていうかまだ来月だけど)は「常中・常北月間」で行きましょうと、そんな感じであります。
そんなこんなで笠間駅 8:30am。なんと常磐線経由でなく上野から宇都宮線〜水戸線と、栃木を突っ切って参りました。その方が早いとグーグル先生が言うのだもの。乗り継ぎの関係なんだろうけどね。
笠間市街をぶらぶら行きますとこんなところが。風呂釜とか売ってるお店がお屋敷神のパーツを?竃屋さん(?)だった頃からの流れかね。
笠間猫。足下でニャーニャー言うのでカメラを向けるとシュンとうつむく(笑)。何を訴えているのだ、君は。

そして笠間と言やあ「笠間稲荷」であります。神社庁別表神社にして日本三大稲荷の一。門前街まである。
でも近世以前のことはよく分かんないんだけどね。Wikipediaに「『常陸国風土記』によると、7世紀ごろにはすでに当地で宇迦之御魂神への信仰が行われたと記されている。」なんて書いてあるけど……どこの記述のことだろう。
で、ここは何と言っても御本殿に超ど級の彫刻群が……と思いきや。あちゃー。立ち入り禁止。地震の影響だろうか。取手の方で紹介した名工、後藤縫殿之助の作品が……まぁ、しかたねぇ。
しかし拝殿脇にすごいものが。四神の立体像がこんな気軽に外にあるとは……さすがですな。朱雀と青龍。
反対側には白虎と玄武が。社殿の彫り物にある際も、なんか四神は短躯になりますな。
笠間稲荷さんは拝殿や楼門は現代物件だけれど、周辺に「グハァ」という感じの江戸物件がちらほら残る。これは東門。あと絵馬殿とか手水屋とか。ま、別表神社なんざまともに見て回ったら半日かかるので、今日はご挨拶程度で。
その後、近くの八坂さんへ行ったのだけれど、超お祭モードでした。『神社誌』には八月一日・二日になってたのになぁ。この辺は祭と言やあ境内にゴザ敷きまくっての氏子さん達の大宴会でもありますので、お邪魔はしないで。
この八坂神社はすでに、常中が出雲・賀茂系の色濃い地である、という側面を持つ。かつての祭では笠間西部の名神大社・稲田神社へと神輿が渡御したという。奇稲田姫命と素盞鳴命の神婚の祭だったのだ。
まだ10時前なのにテンツク始まっておりまして、わんちゃんも気が気ではない。もう太鼓が鳴るたびにひゃんひゃん言ってて、大変なのです(笑)。微笑ましいにも程がある。

八坂さんはまた落ち着いて、ということでお隣「三所(さんしょ)神社」へ。大国主命・事代主命・建御名方命(美保津姫命)を祀るので「三所」と言う。
ダイコクエビス、という点が今は重要なようで、狛犬さんポジションもこれこの通り。全体的には日光二荒山神社の勧請でこうなっているのだけれど、美保津姫(三穂津姫)だけは貞観年間からこの地に祀られていたという。
貞観元年(平安前期)に美保(三穂)津姫を祀り、建保三年(鎌倉初期)に二荒山神社を勧請、なのだけれど微妙に二荒山とは神格が異なりもし、興味深い。常中に出雲系の進出を見る上で重要な神社と言えましょう。
三柱を祀るということで御本殿千木がこうなるのだ。はーん。三穂津姫の分だけ女千木にしたり……はしないらしい。
境内の隅にもダイコクさんとエビスさんがこれこの通り。空気読まずに布袋さんをおさめたりする人はいないようだ(笑)。
お次はあたくし「佐白山」という山中へ突入しておるのですが、行く手に「九ちゃんの家」とな。何とフランクな一家だろうかと思って近づきますと、これが坂本九氏が幼少期を過ごしたお家だったのでした。
いやー、実は坂本九氏のお爺さんが霞ヶ浦の帆引き漁を東北八郎潟へ伝えた、というのは知っておったのだけれど、九ちゃんは戦中ここへ疎開していたそうな。以降脳内ジュークボックスは「上を向いて歩こう」一択に(笑)。
そしてそう遠くなく、妖しの鳥居が。事前情報無し。むむむっ。
弁天さんであるようだ。草ボーボーで写真だと分からんが、社殿のぐるりにはキッチリ堀が廻り、尋常の設えではない。なんで、こんなところにこんな力の入った弁天さんが……こういうところは後々伝説の地であったりするので要注意だ。
「そうだゲコ」とかえるさん。
道を進みますと、明らかにスケール感のおかしな物体が。いや、知ってはいたけどね。実際目にすると異様ですなぁ。
これは「大黒石」と言う。鎌倉時代の戦で佐白山に追い込まれた僧兵達が山上からこの大石を落して応戦したという。たまったものではない。
そう、この佐白山は中世期はずっと山城だったのでした。だもんで「佐城」と書いたりもする。近世になって山下の平地へ拠点を移して笠間は開けたのですな(それが赤穂浪士の浅野家だったりしてややこしい)。
山城時代はこんな感じ。ここに式内:佐志能神社の最有力論社である佐志能神社が鎮座するのだ。古代は佐志能神社が山上にあり、山城時代は神社は麓におろされ、山城を止めたのでまた神社が山上に遷した、のだそうな。
そもそも「佐志能(さしのう)」とは「佐白」からの転訛とされる。佐白(氏)とは豊城入彦命の末の人だったとされ、御祭神も豊城入彦命である。石岡にも論社があるけれど、地名的にもここが本地と言えるでしょうな。しかし係累的には国造クラスの人であるはずだが。イマイチ詳細が分からない。
今はこれが山城時代の天守跡(山頂付近)にあり、こんな道の先なんですわね。地震であちこち崩れていてちとあぶない。もっとも古代に山頂に鎮座されていたかというと疑問だが。

という感じで到着。「佐志能神社」。石垣が崩れてしまっておりますなぁ。接近は危険ですので、ここから参拝。石垣自体が文化財だろうからただ積みなおしゃ良いってわけにもいかんのかな。
山上もちとウロウロしてみたらあちこちに下の「大黒石」クラスの大石が。こういった大石群を祀ったところだったのかしら。ところで、この夜結構大きな地震があって……山中で地震来てたらヤバかったわね。
下界に降りてきますと青空が。昨夜の予報じゃ軒並み降水確率60%とかだったのになぁ。暑いでござる。暑いでござる。
道すがらに立派な水門が。炎天下の道行きになると、こういうところに飛び込みたくなる(笑)。
文字碑だけれど子安さん。橋のたもとで道の辻。どうも常陸の子安さんは道祖神さんのニッチを占めているように思いはじめている。
道行きはこの地に古代多氏の足跡を伝える(かもしれない)、式内:大井神社を目指しております(論社)。あら、意外と近かったのね、と思ったらここから延々参道が続く。
参道入口すぐには親子杉。奥二本が親で手前が子の三本杉。三本とも根が繋がっている。ここは地元の人達的には子安の社(安産の神)だった、と『神社誌』にある。ほうほう。

その「大井神社」。多氏の祖、神八井耳命を祀る。式内大井神社の論社にはもう一社水戸にも大井神社がある。
しかしこちら笠間の大井神社は代々「太郎明神」だったのであり、「大井神社」としての古い記録がない、という点がネックになっているようだ。色々興味深い逸話はあるのだけれど。
その逸話の一つに参道(社殿)の向きの話がある。横から見るとまたこの丘陵の稜線が延々参道なのだけれど(左端が入口で右端が社殿)、これが鹿島神宮を向いているのだと伝わっている。
実際の所どうよ、と言いますと、まぁ、大雑把には向いてますな。これがキッチリ大生神社でも向いてた日にゃあ大コーフンだったが(笑)。

大井神社を後にしまして北へと進むと飯田という土地になり、「三瓶神社」が鎮座する。「みかめ」と読みますな。ちなみに鎮座地の小字も三瓶。
その名の通り「三つの瓶」を祀るのだ。御神体というのではないが。常陸の古代には鹿島神宮周辺、下総香取神宮周辺、元鹿島の伝のある大生神社周辺、そして笠間から朝房山、北の八瓶山に至るまで「瓶・甕」を用いた祭祀があった痕跡がある。
しかし、現在ダイレクトに「瓶・甕」を祀るなりそれで何かするなりしている神社というのは、今のところ香取神宮摂社の側高神社と神栖の息栖神社とここ三瓶神社だけしかあたしは見つけていない。三瓶神社はほぼ無名だが、大変なところなのだ。
ここにその三瓶が。「瓶水古くより増減することなし。その水色変ずるときには必ず凶変起るといふ。又其の水を頭に注ぐ時は疫疾痘疹災害を免る。」と『神社誌』にある。もっとも社伝では古代にさかのぼるものではなく、建保からのこととするが。
しかし、ここは『常陸国風土記』の例の努賀毗売伝説の山、晡時臥(くれふし)の山だろうとされる朝房山まで僅か6キロほどのところであり、その伝説を思わせるような地元の昔話もある。建保の勧請は鹿島神宮からだと言うが鹿島に瓶占いがあったのか?それともより古くからここにあったのか?
かてて加えてここの御祭神は「宗像三女神」なのだ。もうわけが分からん(笑)。三つの瓶を宗像三女神になぞらえているのだろうか。他の瓶神社でそんな話はまったく聞かぬ。いずれにしてもこの先そうとう頭を絞らねばならぬ神社である。
ちなみに朝房山(晡時臥の山)絡みは山の反対側、式内論社の藤内神社の方が有名だった。んが、最近この三瓶神社も注目されてきているようだ。コメントしている藤田稔氏はあたしもさんざんお世話になっている茨城民俗のオーソリティーである。
そういや参道には鳥居の注連縄とはまた別のミチキリ風の竹と注連縄もありましたな。これがある/ないで何かの流れを追えたりもするんかね。
夢にまで見た「三瓶」を拝んだ後は笠間市街の方へともどって行く道行きでして、道すがらにお堂が。なんというか「お堂」としか言い様がないが、手前右の石碑が月待講のものなので子安講のお堂だったのかもしれない。
道行き不思議物件。サイロに……二本松の東北サファリパークとな。今でも絶賛営業中なのだ。知らんかった。
ふと目をあげますと、前方にずどんと吾国山が。吾国山の麓には大変興味深い蛇神の話があるのだ……どこの麓か、という点が分からんのだが(笑)。しかしあの形は蛇山だ。間違いねぇ。
笠間の子安さんは文字碑ばかりだなぁ、と思っておったらそんなことはなかった。公民館の裏手にずらっと。子安地蔵さんも子安観音さんもある。壊れちゃった石祠にも注連縄を渡しておる。
ちなみに公民館を「集落センター」と言うらしい。あたし今まで地図上これを「集配センター」と空目していて「随分集配センターがあるけど茨城には独特な運送網があるんかな?」とか思っていたのは内緒だ(笑)。
この辺の道行きは雷ゴロゴロ雨じゃんじゃん降りでして、撤退かどうか迷っておりまする。しかし笠間は急速に雲が広がるね。山煙る。でも、結局「次の神社着く頃には止むだろ」とまた根拠のない想定をもとに歩きまする。

止むんです(笑)。そして箱田というところの「箱田四所神社」へ。まるで参道がトンネルだ。
二之鳥居が両部だ。行方の方はこればっかりだったが、笠間では見ないね、と思っていたらそうでもないのか。
何故ここに参ったのかと言いますと、この箱田四所神社さん、御祭神が「天太玉命」なのだ。忌部祖神ですな。大同二年に和州高市太玉神社の御分霊を奉斎、とある。奈良の忌部氏の本宗社ですな。霞ヶ浦忌部ルートとどう絡むか。
所謂「腰掛石」右に漢文の説明があるが、「明神様がお座りになった」とだけあって何明神か分からん(笑)。実はこの手の話は頗る多い。明神さんは明神さんなのだろうね。


藤代の椚木鹿島で見たあの注連縄(下写真)は、こういった吊り方から進化したんだろうね、とか思う。
箱田四所さんは社殿の裏手、しかもパッと見は分からない社叢に分け入った中に境内社が祀られていた。中でもこの八坂さんは意図的に盛り上げた塚の上に祀られていて「別格」という風情だ。何かあるんかね。
皆そうなのでこれまであげなかったが、この辺こういった御神木が各社にある。注連縄がなかったら見分けがつかない風だ。社叢の中の古参が順繰りに御神木になるのかね。いずれそろそろ都々古・近津神社群の地も近づいてきているので要注意だ。
笠間はちょっと湿った林というとこの羽黒蜻蛉がふよふよ行き交っている。きれいな自然のある土地なのだ。本来は。

お次は近くの(と言っても土地の谷戸の「筋」は隣りになるが)「與利稲荷神社」へ。「よりいなり」である。ここは大変興味深い民俗が伝わっていたところ。
しかし鳥居を抜けると山道が……まぢですかい……あたくしこの時点で体力レッドゾーンでありまして(笑)、しばしにらめっこしております。
這々の体で進みますと、何だか珍妙な鳥居が。背の低い両部鳥居ってはじめて見た。土地によって色々あんですなぁ。しかし奥にも鳥居が見ているが、この稲荷さんは三之鳥居まであることになる。
そして與利稲荷さん。塚だ。ここは別に古墳としては登録がない(近くに古墳群はあるが)。稲荷さんのために塚を造ったのか?特に○○塚、というような名も見ないが。 さて、ここ與利稲荷さんは別名「豆腐稲荷」と言われている。「小児の虫歯、歯痛にはこの神に豆腐を供へると著効ありと信仰されてゐる」とある。話せば長いが豆腐が出てくると要注意だ。 また、実地を見るまでは思いもしなかったが、石岡の手子后神社さんの境内社の梨木稲荷神社も歯痛を治す古墳の稲荷だった。こっちは塚だが、何かあるんか。こういうのは後々スペアを取るような気がする。
脇の変わった感じの石祠さん。豆腐……か?わはははは。あたしの頭が豆腐でいっぱいでそう見えるだけか?
笠間の市外の方へもどってきまして、行く道に小さなお宮が、何となく気になって寄ってみますと、丁寧な由緒があり、なんとここが昨夜言っていたお祭で遠慮した八坂さんの元宮だという。こういうのは「歩き」でないと見つからない。
ここは石井という土地で、八坂さんが元石井にあった、というのは知っていたが、この先の「石井神社」に元宮は合祀されたもんだと思っていた(神輿は石井神社に渡御する)。元宮があったんですなぁ。……んが、これがいやな予感。八坂神社が祭ってことは神輿の行くその石井神社も……

やっぱりー(TΔT)。他所もんの入り込める雰囲気じゃねぇ。本日第一目標だったんだが。『神社誌』には十一月の例祭しか書いてなくてなぁ……ぬかったじぇ。
あー、ここ「石井神社」は、例の香香背男の宿魂石がくだけたその一つを祀るというドラゴンボールな神社なのであります。御祭神は当然その石を蹴倒したという健葉槌命。んー、再訪か。まぁ、折角のお祭の日だ。雨も上がってめでたし、ということで。

ちょっと心が折れかけましたが(笑)、予定していたのはあと一社だと、とぼとぼ歩きまして来栖(くるす)の「来栖神社」へ。
来栖神社は日本武尊を祀る。御本殿も立派な彫刻が施されてますな。折戸という東の小字は尊が来て車駕から降りたるを言うとか、尊が休まれたので来たりて住むが来栖なのだとか、どうも『風土記』のような伝承のあるところなのだ。
『常陸国風土記』の新治郡の条は大幅に省略されて伝わっているが、もしかしたらここはその省略されている中に「来栖の里」という感じで書かれていたところだったのかもしれない。ところで『神社誌』を見ると宮司家が「来栖家」なんだよね。その辺もなんかすごそうな……
境内社が二社見えたが、『神社誌』には記録がなく、何様だか分からなかった。もう、それをしつこく聞いて回るような気力もなかったが(笑)。
そんなこんなで日が暮れて。曇り〜炎天下〜曇り〜土砂降り〜曇りとめまぐるしい一日でしたがよく歩いたこっちゃ。昨夜の佐白山とかと同じ日のことだと思えないですな(笑)。とりもなおさずこうして常中・常北編はスタートなのでした。/了

補遺:

常中行:笠間 2011.07.30

陸奥・常陸編: