常南行:旧出島村

門部:陸奥・常陸編:twitterまとめ:2011.07.02

朝、土浦駅でバスまで少し時間があったのでぼけっと観光案内を見ていてビックリ。小町に朝日峠とな。土浦には小野のコードがあるのか。経験的に言って、駅前案内は侮れない。
バスは土浦の範囲だけで旧出島村までは行かないので、しばらく歩いて突入。行く道にこんなのが。道の反対側にもある。これミチキリじゃね?今は道に綱を渡せないのでこうなっている、とか。この先ミチキリ地帯かも……という朝一直感。
そしてしばらくでもうこんな人家もない道に突入なのであります。ここでまたビックリ。この直前、左の茂みから「狐」が飛び出して、あたしをちらりと見たかと思うと右の茂みへぴょんと。狐がおるのか、ここは。化かされないようにせんと(笑)。

第一の神社。戸崎というところの「八幡神社」へ。また来ましたねーこの注連縄飾り。奥に鳥居もあるのだが、入口にこうして設えられている。ミチキリの要素が強いのじゃないか。朝一の直感が早くも。
何とも言葉もない雰囲気だ。朝四時前に起きてここまですっ飛んでくるというのはそれなりに大変ではあるが、こうして「よう来なさった」と言ってくれているような鳥居が初めにあると眠気も吹き飛ぶ。
この八幡さんは室町中期にこの辺の殿様だった戸崎氏の鎮守として創建されたそうな。ちなみにほぼ同様の由来の八坂神社もあってこの次がそう。グーグルマップはここ八幡神社が「八坂神社」となっているが、誤り。
しかし、その創建伝承では片付かない気もする。本殿真裏にはこの塚があり、ぐるっと回るように道がついている。この塚への信仰がこの場所本来の神祀りではないか。
で、この八幡さんに明治期付近にあった胎安・子安両社が合祀されている。先の社頭の石標にも名が入っている。おそらく以前紹介した旧千代田村の胎安・子安両社が勧請されていたのだろうが、それだけでもない。ここはここでどうも古くから子安の信仰が強い土地だったらしい。
すぐ近くに松学寺というお寺があって、ここに県指定文化財の「腹帯地蔵」という木像が安置されている。名の通り腹帯をしたお地蔵さんで、子安信仰の本尊だった。平安時代の作と見られており、由来の古さが伺われる。
そんな戸崎はこんなところ。山中なのに見渡す限りの蓮田が。出島村エリアがぱっとしないのはもしや水があまりない土地なんじゃないか、とも思っていたのだけれど……水浸しですな(笑)。それとも現代の揚水なのかな。

南に下ると先に言っていたこれも戸崎氏の城の守りに勧請されたという「八坂神社」が鎮座されている。んが、どうもこれもそれでおさまるかどうか。何となればこの出島村地域、八坂さんがやたらあるのだ。この点に関してはまた後で。
『神社誌』を見てもイマイチいつの再建だか分からないのだけれど、立派な朱塗りのご本殿を見学する事ができる。
ここの境内にも子安信仰が厚い様子が見える。特に写真右の子安観音さんは相当力の入った造形だ。
見逃しがちな鳥居脇の茂みに。道祖神さんだが「二股大根」が供えられている。ごく自然にこういうお供えを今も続けている土地らしい。また後でも見る事になる。
そして高台から降りて霞ヶ浦湖畔に出たのだけれど……なんかもう「ふおぉー!」みたいな(笑)。延々蓮田で霞ヶ浦さんは「ちょっと本気出して霞んでみました」という感じで。彼方に薄ぼんやりと見えるのはこの間の阿見の地だ。
霞ヶ浦湖畔沿いに東へ向っておりますが道行きに。水門の、奥のお宮は水神さんかしら。なかなか絶妙な光景であります。
しかし何だって蓮の葉の上の水はこうきれいにまとまるのかしらね。なんかもう液体を超越している(笑)。
霞ヶ浦さんの「ちょっと本気出して霞んでみました」パート2。なんかもう『蟲師』の世界だ。

道行きますと「加茂」という土地に入って「八坂神社」が鎮座されている。「加茂」なのだ。フッフッフ(これはまた後で)。ここの八坂さんは以前紹介したが御神体の分身である幣串に毎年和紙一枚を巻いていき……という風習のあるところ。
狛犬さんが……パッと見顔が潰れちゃってるのかと思ったが、パテ盛りで修復はされているが、そもそもすげい「やぶにらみ」なお顔なのだ。少し引いた構えと言い、面白い狛犬さんですな。
ここでようやく境内社にお稲荷さん登場。朝一でリアルお狐さん遭遇の日ですんでどっかでがっちりお参りせんと化かされる……(笑)、と探しておりました。えぇ、目が覚めたら肥だめとかノーセンキューですよって、どうぞよしなに、えぇ。
蓮田を見守るお宮。これも「田の神」なのかしら。蓮田の神さまって……どなた?ちなみに手前土の畑のようですが、小さな水草がびっしり枯れてこうなるようなんでして、実体は沼です。

さて、そして加茂には「加茂神社」が鎮座されている。この間玉造の「加茂・鴨野」に関して賀茂氏の関与があるのか否かと言ったが、一番近い加茂がここだろう。この高台を「赤塚」と言うが、実に古墳のような塚である。前庭は公園になっとるが。
ここは小字「大神宮」と言い、加茂神社さんも昔は「大神宮」さんと呼ばれていた。相当大規模な神社だったのだろう。んが、これが古代賀茂氏にまつわるのかというとそうではなく、室町期にこの辺りに下向した加茂氏が勧請したと伝わる。
だがしかし。この加茂氏、明応年間に下向し、加茂神社を勧請し、天正に佐竹氏の討滅戦により亡んでいる。この間せいぜい70年。加茂の地名になるほどの期間だろうか。また、もともとこのあたりを「鴨平」と言ったとも伝わる。加茂氏は古代賀茂氏からの縁の地に下向したのではないか。
なんて考えてみると玉造の鴨の謎を考える上で重要になってきそうなのがここ出島村の加茂なのであります。写真は本社殿裏の御神木なんだろうか。根のウロに祠を設えている。境内社は八坂神社のみだが、子安さんっぽいね。
境内の石塔。お屋根の各面に「東西南北」の一字がそれぞれ刻まれている。今まで気がつかなかったけれど、こういうのは結構あるのかしら。
さらに東へ。民家の塀の上に実に見事な出来のダイコクさんとエビスさん。道行く人にも見えるようにしたかった気持ちはよく分かる。
道行きの茂みの中に。剣持の青面金剛さんに見えるがなぁ。二股大根が供えられている。庚申さんにも供えるのか?藁の方はおそらく石棒を藁で包んでいるのだと思うのだけれど、すると大根が供えられているのはこちらかな。
加茂の地が終り今度は「牛」の地になる。ここからは「牛渡(うしわた)」という。牛の地故に当然(?)「牛塚」があるのだ。
この後赴く牛渡鹿島神社は、国司が立ち寄るところであったと伝わるのだが、ある時この国司を慕う牛が、あろう事かあとを追いかけ石岡の国府からこの地まで泳いで来たのだという。しかし力尽き死んでしまったので牛塚を造り弔い、その後この地は牛渡の地名になったそうな。
もっともお話はお話で、この牛塚は五世紀の円墳である事が分かっている。だが、じゃあなんでここの人達は「国司を慕って泳いで来た牛」の話を千年も語り継いで来たのかということにはなる。
ここで前述の疑問に戻るが、なんで出島村にはこんなに八坂神社があるのだ、という話しになる。八坂さんは皆もと天王さんで、「牛頭天王」を祀っていたのだ。この土地は「牛」にまつわる何かがあった土地なんじゃないだろうか。
そんな事をつらつら考えながらまた道行きに子安さん物件。文化財指定の弘法大師像と地蔵菩薩像のあるお堂だとあるが、隣りは公民館になっている。
お堂の前にはこんな子安観音さんの像が。右手に持つのはでんでん太鼓かしら。「子供をあやす」というモチーフもあるのか。いずれにしてもここは子安講の集会場だったんじゃないかね。
道行きは北西に転じて、本日の第一目標牛渡鹿島神社へと向って丘を登っております。丘下の風景はこんな。一面蓮田から稲田と交互になって来て、石岡や千代田村の方と似て来ている。
この低地は大昔はこんな風に入江状に水が入って来ていたと思われる。そのミサキの付け根辺りに鎮座するのが牛渡の鹿島神社さんだ。

到着しまして、一見「あー、ここはすごいね」とぼーっとなってしまう御社地であります。出島村に十三社を数える鹿島神社だけれど、ここは別格「本鹿島」と呼ばれたところ。
なんかもう「Now 降臨中……」という感じ。で、先に述べたように国府から鹿島神宮へ水上参拝に向う国司が、一端ここへ乗り付け参拝したものだったと伝わる。大同元年の鎮斎を伝える出島エリア第一の社である。
目立った境内社は写真のような祠三基と石祠数基で、子安さんがあるはずなんだけれど、本殿後方のこちらかなぁ。ここ牛渡鹿島神社は古代的な事よりも実は「へいさんぼう」というお祭で有名なのだ。
もうでっかい陽根像でドーンと突いちゃう系のお祭である。その際妊婦姿のおカメが子安社から登場、とあるのだけれど、つまり子安さんも重要なところなのだ。ちなみにこの祭を考えたのが「平左」で、初め平左とその女房が演じて大受けしたのだ、との由。
で、「平左女房」という祭の名となった。なまって「へいさんぼう」。考案した夫婦の名が祭の名というのは非常に楽しいね。
さて、話題は変わるがこの鹿島さんの鳥居の注連縄をご覧あれ。こりゃもう明らかにミチキリである。以前何度か話題になった西の勧請縄とトリクグラズのようなものを関東ではミチキリという。
注連縄からたれ下がっている藁のもしゃもしゃは、実はこの辺り一帯の民家にもある。門柱の裏や門に近い庭木などにこんな風に下げられている。明らかに同じものだろう。
今回まったくこの点事前情報がなかったので由来を聞いたりはしなかったが、資料をひっくり返してみて、この地域のこの風習の事が特にまとめられていなかったら、これはちょっと突っ込んで調べて回っても良いかと考えている。
さらにまた話題が変わるが、この鹿島さんも「消失参道」だった。神社へは横の方から鳥居直前に道が来ているのだが、それとは別に鳥居前から長い参道がのびる。
途中までは車が通るようにもなっているのだが、先へ行くとこんな。この茂みの先には墓地があったが、いずれ人のための参道としては用を成さない。
常陸の古社がままこのような長い参道を特徴としている事は再三指摘したが、どうもこうなるとかなり意味があると考えざるを得ない。消失参道は胎安神社に次いで二例目だが、人が歩くためじゃないというなら神が行き来するためであろう。おそらくそういう意味合いが何かあるのだ。
そんなこんなで頭パンクしそうになりつつ人間界(?)に戻りますとトンボさんが。いっぱい飛んでいる。止まらんかな、とずっと指を立てて歩いていたのだけれど、残念ながらあたしの指はお気に召さなんだようで。しかし変なおっさんだ(笑)。

出島を横断する大通り354号線を西に、「深谷」というところの鹿島神社。「東の宮・西の宮」という祀り方をしているという特徴的なところなのだけれど、あたしちょっと勘違いしているかもしれませんで(笑)、由緒などはまた。
って、何の写真か言ってねぇし(笑)。左は入口が非常に分かりにくいところなのです、という写真でした。写真中央部が入口。
参道脇に倒壊寸前のお稲荷さん。今日はお稲荷さんリスペクトデーなので、ていねいに。家帰って写真落したらみんな木の葉の写真でしたとか、あたくし卒倒してしまいますので止めて下さいね、と(笑)。
えー、その鹿島さんは一端林を抜けまして畑地帯の先にこれまた絵に描いたような鎮守の森として鎮座されております。実はこの辺こういった森がぽつぽつあって、大概墓域。神社と見分けがつかん。同じ「場」であるのだろう。
ま、ちょっとその「東の宮・西の宮」の事を調べなおさんと語り様もないのだけれど。社殿前に脇侍のように祠を置くのもこの辺の一種の定番なのかもね。

そして最後は同じ深谷のまたまた「八坂神社」さんへ。
ここしばらくでも結構八坂さん系があって、でも茅の輪を見ねぇな、と思っていたのだけれどここはありました。あたしは一日遅いが(とりあえずグルグル潜った)。
だがしかしここの祇園の祭の本命は七月第四土曜に行われる宵祇園の「藤切り祇園祭」という祭なのだ。神輿の渡御を先導する若人(昔は天狗)が、行く手を塞ぐ藤蔓や大魚を鉈で切って進むという、大変興味深いお祭である。あるいは阿弥神社の毒魚の由来と関係するのか。
このお祭も一度見てみたいお祭である。まー、基本お祭系はカメラが一眼レベルに行かんと難しいんだけどね。で、八坂さんの手水の蛇口が……こんなとこまで藁で。霊的浄水装置……なのか。
そんなこんなの旧出島村行でありました。あ、ずっと書いてなかったけれど今は千代田村と合併して「かすみがうら市」ですな。写真は行程を終えると覗きだす青空(笑)。
何にしても、どうやらこの出島村周辺、そして以前の千代田村周辺はまだ信仰と日常が「切れていない」感じがよく見られる。アクセスに難ありか、と思ってたのだけれど、日に三便というシャトルバスが走っているようだ(昨日現地で知った)。朝と夕に走っていればあたしには十分だ。
もしかしたら、このエリアはちょっと他とは別にくり返し通って深く調べてみる事になるかもしれない。なかなか面白い土地を発見する事のできた一日でありました。/了

補遺:

上の深谷の鹿島神社で「東の宮・西の宮」があるのだけれどこんがらがっちゃって……となっていた件。参拝した鹿島さんは「東の宮」だった。正確には「深谷下郷・東の宮」「深谷上郷・西の宮」となるようだ。「東の宮」は、それがそのまま小字でもあったようである。

となるとここ(東の宮)は大同二年創建を伝える出島中央部分の重要な鎮守であった、ということになる(『神社誌』)。同深谷に「西の宮」があり、かつては例祭を二日間、東西で隔日で行った、とあるのだが『神社誌』にその西の宮がない。「深谷リノ区」という古い住所表記でもう一社の鹿島神社の記載があるが、「西の宮」とは書かれていない。場所は上郷のようだから(おそらくここ)、ここなのだと思うが。今は拝殿もなく、森の中にぽつんと御本殿だけがあるようだ。

常南行:旧出島村 2011.07.02

陸奥・常陸編:

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