常南行番外編:取手

門部:陸奥・常陸編:twitterまとめ:2011.06.04

この日は茨城県取手市へ。例によってくたばり果てて帰って来たので、最初の方は簡易報告がのっております。
朝イチの衝撃!なんじゃこりゃー!椚木の鹿島神社(扁額には鹿島香取神社とあったが)。
「あー、あの縒ったやつだんべ?あれは、最近やんなくなっちまってなぁ」と、おとっつあんは言った。この山王の山王神社からは貴重な民俗が失われそうになっている。
※これは勘違いでした(後述)。
和田。蛟蝄神社は利根町の式内社以外にもある。んふふふふ。
余りの暑さに10時頃には手持ちのペットの茶がお湯と化し、ふと道脇の自販機を見るとDrPepperが。「飲め」と囁くのですよ、あたしのゴーストが(笑)。20年ぶりくらいに飲んだ。あと20年は飲まなくて良いや、と思った。
岡(地名)。大日山古墳は円墳であり、「朝日」山であり、将門と桔梗姫の悲劇の地であり……そして水神の住まう「岡」でもある。
白山(地名)の金刀比羅神社。常陸編はおっても地震で倒壊してしまったりで狛犬さんの出番がなかったが、ここは無事だった。子狛は頭隠してなんとやら。
取手市街。総鎮守格の八坂神社さん。最近ちょくちょくお世話になってる取手図書館が右奥にある。すでに勝手知ったる感じの所。
小文間。この丘陵は、かつて汽水湖に突き出た岬だったかもしれない。その中ほどに面足神社。土地では小文間大六天と呼ぶ。
名工後藤縫之助の作という本殿の眠る「白山神社」。網越しに肉眼では見えた。んが、写真は無理。「なんだよー、去年だったらオレが鍵もってたのになぁ」とはお話を伺ったおとっつあんの弁。
その岬を分断するように小貝川が利根川へと向う。小貝川を越えると利根町。式内蛟蝄神社の土地。ま、今日はここまで。……そんな次第をもうちっと詳しくで続きます。
取手市。この辺「常陸行」なのかというと微妙なんですが(利根町の式内:蛟蝄神社は、下総)、あたくし常陸の地元資料調査に東京から近い取手の図書館を多々使わせていただいておりまして、えぇ。
それで「いや、常陸行だから取手は微妙だし」とかいうのも申し訳ないので機会をうかがっておった訳です。いや、小貝川以北は常陸なんだけれどね。
そんなこんなでタイトル的には「常南行番外編:取手」みたいな。ま、どのみち稲敷の方は常陸と言えど下総との関わりが深いので必要なのだけれど。
実は昨日のルートは珍しく「プラン」がありまして、まずは左画像を。これは「flood」というサービスで海面を上げてみた図ですな。7m上昇するとこうなる。
こんな具合の地形を『アースダイバー』方式で汽水湖だった頃を頭に描けるだろうか、ってな具合だった訳です。

早朝すっ飛び出まして、常磐線藤代駅がスタート。藤代はかつて北相馬郡藤代町だったのだけれど、今は取手市なのですな。で、「なんじゃこりゃー」のしめ縄の椚木という所の「鹿島神社」へ。
あたくしまったくこの鹿島さんノーマークだったんでして。えぇ。『茨城県神社誌』にもこんなこと何も書いてなかったし。本来の第一ポイント「山王」まで距離があるから途中一社くらいよっとこう……という超偶然。
地元の方が「市のインターネット」にものっとる、と言っていたので帰って来て見るとありますな。でも「何指定の」文化財なのか書いてない。特に指定文化財という訳じゃないのかな。
同じく地元の方は「兜の飾りだろう」と言っておられたが、先のページの記事のせいかもしれん。なんでこうしているのかは……もうよく分からないのかなぁ。
それはともかくこの鹿島さんは境内も妙に広くて、網の目のように細道が走っておってそこかしこの石祠に通じているという不思議空間。
これが摂社末社ということはないので、町内の祠が持ち込まれて並べていったら自然に庭園的になってきた、のかな。何百社神社を巡っていてもすぐに「これは見たことない形式」に出くわすものだ。神社は生き物的なのが本当なのだ。
今もお賽銭のあがる石像。どなたかしら。あたしはこのポーズを見るとすぐなぜか武内宿禰に見える。でも土地柄から言って八幡太郎義家公か……将門公って感じじゃないね。
そこから北西へ向いますと「神住」というすげい地名の所に行くのだけれど、そこから先の「汽水湖」だった方(南東方)を眺めるとこんな。下ってもずっとこの低地帯は湿地帯だった。
この辺は麦もさかんに作っておるようだ。霞ヶ浦の方ではまったく見なかったが。
そして山王という所の「山王神社」へ。あたしは今日になって大勘違いをしていたことに気づいた(笑)。あたしはここへ行きたかったのだ。んが、山王の山王神社が二社あったらしい……orz
先の「神社探訪・狛犬見聞録」様方の山王神社は2キロ弱南東である。そりゃあ写真のしめ縄探してもないはずだ(笑)。でもなあ、そうすると話を聞いたおとっつあんの言った「最近やらなくなった縒ったやつ」とは何だろう。
あたしの行った方の山王神社。境内には力石のようなものが。「力石」と書かれてなくても、なんかこの辺の神社さんにはこれがある。利根川の水運業の人たち絡みだろうか。
ところでこの辺「コダック」がやたら繁殖している(笑)。藤代駅から1時間のうちに5匹は見た。今のポケモンにもいるの?こいつ。

山王から西へ。和田という所に行くと絵に描いたような鎮守の杜が見える。ここが、「和田の蛟蝄神社」だ。
もとより利根町の下総式内:蛟蝄神社とどう関係するのかということなのだが、『神社誌』によると天正(16C後半)に下総和田郷からやって来た人の氏神なのだと言う。
今でも「鍵元」という本殿の鍵を管理する人は和田家だと言う。下総の和田郷が何処なのだというと書いてないのだが、意外と「蛟蝄」を奉ずる人は多かったのかもしれない。
ところで社地の境がこんな溝に。降りてみたら底部はふかふかで、多分かつては水が流れていたのだろう感じ。「みづち」の社だもの。えぇ。
しかし何も知らぬふりをして近くで畑仕事をしていたおとっつあんにあれこれ聞いてみたが、利根川の方から移ってきた人たちの話とかないか、と聞いても「いやー、そりゃあオレよりもっと上の人に聞かねぇと……」という。このおとっつあん七十絡みなのだが、もっと上って言われてもねぇ(笑)。
あ、蛟蝄神社には久々に見るステキ亀さんが。う、普通に書いてなかったが蛟蝄は「こうもう」です。んが、蛟蝄とは「みづち」でありまして、式内の方は「みつちさん」とも言う。和田のおとっつあんは「こうもうさん」と言っとりましたな。
蛟蝄神社から南西の方は「岡」という地名でして、文字通り低地帯が終り、丘陵地帯となっている。その岡の象徴が大日山古墳であります。

古墳時代後期の円墳と見られているけれど、地元では「こここそが将門の墳墓だ」と伝わってきたそうな。この上に岡の鎮守「岡神社」が鎮座している。
祭神は水波女命。明治に岡一帯の神社がここに合祀されて、岡神社になったが、それ以前は「大龍神社」であったと『神社誌』にある。
「大日山」となったのは江戸時代の大日信仰の流行以降なのだそうだが、その際にもうありとあらゆる石造物がここに並べられたそうで、今も神社の塚のぐるりにあれやこれやが並んでいる。
水波女命(水波能売命)はまた罔象女神とも書くが、あたしはここから「岡」の地名になったのではないかと思う。また、大日山脇には桔梗姫が住んだ「朝日」御殿があり、将門の敗死の報を聞き、姫は塚脇にあった淵に身を投げたという。
実は、その後の調査で以前行った石岡の霞ヶ浦のほとりの石川・山崎古墳が、昔「朝日塚」と呼ばれていたことを知った。今日最初に上げた海進時の様子を今一度見られたい。
どうも和田の蛟蝄神社からこの岡の大日山古墳にかけての話のあれこれは、ここが汽水湖の岸辺であった頃の記憶を引いているのじゃないか。桔梗姫が藤太の助けた大蛇と藤太の間にできた娘だったという伝説があることは以前紹介した。将門伝説の方にも何かが繋がっている。
そんなことをつらつら考えつつ、田の中を。これは「何か」であるわね。なんだか分からんが。

市街の方へ近づいていまして、関東常総線脇に鎮座する「青龍神社」。地震で鳥居が危険レベルに入っちゃってますな。
この青龍神社は歴史民俗的にどうこうということはないですが、「龍学」が「龍」とつく神社をスルーしていては世にもオソロシイ障りがありそうですので、えぇ。
青龍ですな。まごうことなく。青龍どん、という感じだが。しかし、ここ御祭神は大山祇命と木花開耶姫命なのだ。そういった来歴は記録されていないが浅間さんだったのじゃあ?
ここも力石っぽいものが。
社頭に石碑が並んでいる。「疱瘡神四基の祠(嘉永七年)」と『神社誌』にあるのでそれだろう。ここの疱瘡神さんはヒメヒコなんだろうか。ちょっと地域が違うとがらっと変わるのも疱瘡神さんの特徴だ。

南下しまして「金刀比羅神社」。取手の現在の市街は、利根川の流路変更に伴って水運が大ブレイクしたことによってひらけた町。この金刀比羅さんも水運業守護のために勧請された。
狛犬さんご無事でしたな。何とも独特な表情である。ここは『神社誌』には「琴平社・大物主命」で記録されているのだけれど、今の社頭では「金刀比羅神社・大国主命」となっている。
この金刀比羅さんに寄ったのは『神社誌』に「側高神社を合併」とあったからだ。でも祭神名がなく、今の社頭掲示には側高の名すらなくなっていた。側高さんは香取信仰に関して重要なはずの神格なのだが、やはり年々その実態は追い難くなっていっているのですな。

そして常磐線を潜りまして「八坂神社」へ。寛永の創建。もとは牛頭天王社。このタイプの狛犬さんはわが西相模は足柄上郡に連なってまして、大変親近感がある。
さて、この八坂さんは神輿が有名だが、あたしは神像の一体が利根川を流れて来て拾われたものだ、という点に目をひかれる。「川を流される神」はあちこちで語られるが、これはその川の周辺の人と川との関わり上の重要なモチーフなんではないか。
利根川は大土木工事で流路変更した大河である。用水レベルならともかく、日本でも最大級の大河川を「曲げてしまう」というのはやはり当時の人々には「どう接して良いか分からない」側面もあったのではないか。流れてきた神像の伝説には、その距離を縮めようと願う人々の思いのようなものを感じる。
この八坂さんの拝殿は天保年間のものだという。屋根などは造り変えているだろうが。見事な龍と鳳凰であります。
しかし文化財としては御本殿の明治期の彫刻が有名なのだ。後にも出て来る明治の名工後藤縫殿之助の子・保之助らが彫ったという。んが、この「網かけ」式の覆殿は肉眼では見えるけれど写真はどうもならんですな。
その後、「新道阿夫利神社」へ。小さなお宮だ。ここは「地元の神さまが活躍していると嬉しい枠」である。相模大山阿夫利神社の勧請なんですな。植木のお手入れ作業中だったので、邪魔にならないように参拝だけさせていただき、写真は撮っていない。
んが、こんな氏子十数名(いるかどうか)のお宮に、見慣れぬおっさんが参拝というのは十分にフシギシチュエーションである。ということで例によって肝っ玉母ちゃんみたいなご婦人にとっ捕まるあたし(笑)。
で、昔は氏子の中から代表を出して相模大山に行っていなかったか、と聞いてみたら、何と「今でも行ってるよぉ!なぁ、とおちゃん」「(とおちゃんは1/3くらいの声量で)あー、そうだなぁ」ですと。こういった講のための勧請は代参を本社に送るものだったが、今でもやっているのだ。
ことのついでにと、ここの氏子さん達に職能的な偏りがないかも尋ねてみたが、「氏子は氏子だねぇ。近くに住んどる人だわ。特に何の職ってのはないねぇ。ガッハッハッハ(母ちゃんの方)」とのことである。
伊豆の例などでは農村は農村、漁師は漁師、という感じで大山へ行く次第だったが、こちらは(少なくとも今は)代参の慣習は残っていても、そういった職能集団による講の構成という記憶はないらしい。まー、高度経済成長期以前の話だから無理もないが。


そして利根川へ。ちょうど「海から」の標識があった。道の彼方に見える森丘が、先から言っている海進期に岬だったかも、という高台の連なりですな。しかしまー何たるさわやかさ。
で、写真の先に東屋があったのだけれど、そこのベンチで「ちょっと休憩」と「うがー」とひっくり返った所……何と一時間も寝こけてしまった(笑)。実は相当疲れていたらしい。あるいはもう熱中症の危険のある日差しだったのかしら。

いきなり昼の日差しが傾いた日差しへとなってしまって大慌てで進んでおります。ここはその「岬」の台地へ入っておりまして、尾根上の「面足神社」。
案内板には「小文間大六天」と。第六天→面足尊の変換コードは常陸足尾の修験に早い例が見え、必ずしも皆神仏分離令時という訳でもない。そういった意味でもこの辺りの第六天の痕跡は興味があるのであります。
この辺りは丁寧な造作の庚申塔が多い。以前下総鳥見神社を回った際に庚申の多さに驚いたが、そちらと繋がっている感じがある。ま、ここも下総だからそりゃそうなんだが。

続いて「大日堂」に行きましてもこれこの通り。ずらりと庚申塔であります。もっとも大日堂へ寄ったのは「鼻の大きな大日さん」という石造物の分布に興味が出ているので、ということだったのだが、それはなかったですな。牛久から筑波の方らしい。
さて、この辺りが汽水湖でこの小文間から利根町の蛟蝄神社にかけては岬だったのでは?というのは机上の空論というばかりではない。小文間周辺には実際貝塚が分布しているのだ。先の大日堂の西側には「中妻貝塚」が発見されている。
「厚さ1〜2mのヤマトシジミの貝層からなる汽水系の環状貝塚」とあるので、少なくとも縄文海進の時期には実際汽水湖の岸ではあったのだ。これが古墳時代の海進時はどうだったか、というのは想像の範囲だが、歩いてみると「そうだったろうな」と思う。
平安期の話だが、貝塚の北側の福永寺の山号は「海中山」であり、「寺伝によれば天長元年(824)海中より出現の毘沙門天を当地に奉安したのにはじまる。」とある。「海だった」記憶はかなりあったのではないか。

と、そんなことを思いつつ、海進時にもここで一端岬は切れていただろうと思われる小文間の先端「白山神社」へ。
この間 twitterのフォロワさんから「白山神社の後藤縫之助の彫り物は素晴らしいですよ」と教えてもらった所だ。もっとも当然御本殿のことで、そうバッチリ見える訳じゃないだろうと思ってはいたけどね。
近くにおられたおとっつあんに話を聞いてみると、正月だけ拝殿を開けるという。昔は正月六日だったけれど、今は第一日曜日となっとるそうな。専任の神職はおらず、鍵は氏子持ちで「去年だったらオレが鍵もってたのによぉ」という口ぶりから担当の方によっては見せてもらえるかもしれない(笑)。
しかしここは「白山神社」ではあるものの、水神社を合祀しており、そちらの側面も強い。幟には「水白山神宮」とあるそうな。この岬の切れ目は昔から小貝川の戸田井の渡しとして重要だったそうだが、そこを見守る水の神の社でもあったのだろう。
写真のおそらく手前側がその水神社さんである。
これが小貝川で戸田井の渡し。向こう岸は利根町であり、あの岡の向こうに蛟蝄神社が鎮座している。小文間の「文間」も蛟蝄→交罔→文間なのだと同じフォロワさんから教えていただいた。
そんなこんなで、大昔汽水湖だったかもな土地の岸辺をぐるりと回る取手編でありました。この次第は続く式内:蛟蝄神社から利根川下流域、稲敷に広がる水神信仰を考えていく上で、大変重要になる。
何と言っても常陸では水神蛇神を召還するには「三回まわらないといけない」のだ。今回はその「一回転目」でありました。/取手編・了

補遺:

常南行番外編:取手 2011.06.04

陸奥・常陸編: