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伊豆山権現との関係

伊豆山神社
伊豆山神社

掛川誌稿伊豆国の来宮大明神の項に「五十猛を祀る。一説に伊豆山の地主白道明神なりと云へり、伊豆権現高麗に飛去り給し時、此明神、迎に行て大に酒に鎮酔し、期日に誤る。故に今祭礼の間、社人・社僧十二月朔日より廿四日まで禁酒す。郷中の者も十七日より八日の間酒及び鳥肉を禁す」と書かれている。
─『河津町の神社』より引用

『掛川誌稿』は江戸時代後期、文化年間頃の今の静岡周辺の動向を伝える貴重な史料なのだが、そこではこのように先の「鳥精進・酒精進」の由来が語られているのだ[資料2]。すなわち伊豆山の地主の神・白道明神が来宮大明神なのであり、それは五十猛命なのだということになっている。この流れは河津来宮・杉桙別命神社にも入っており、社伝では「来宮」の項で見た河津に海上来られた神をこの白道明神であるとしている。また、そもそも来宮大明神の祭祀者である地蔵院の本寺は伊豆山権現別当の般若院なので、来宮は伊豆山の管轄下にあると言える[資料2]

しかしこれも難しい話で、伊豆山の勢力が拡大する以前からあったキノミヤ信仰を伊豆山が吸収・再構成した、のであるか、そもそもキノミヤ信仰とは伊豆山が発案して広めたもの、なのであるのかと問うとにわかに答えることはできない。来宮(来の大明神)の初見は『走湯山縁起』なのであり、それより古い文書記録はないのだ。

前段キノミヤの側面に見たように、この信仰には大変古くに遡るようなモチーフがままあることから、基本的に前者であるとは思われる。が、そうなると今度は「何故伊豆山はキノミヤを吸収しようとしたのか」という問題が浮上してくる。話を先取りするならば、これは、伊豆山に先んじて伊豆半島・伊豆諸島に根づいていた古代伊豆三嶋信仰と伊豆山修験との関係そのものを語ることでもある。河津来宮・杉桙別神社への伊豆山の影響を考えるには、この「伊豆山の目論み」を承知している必要があるのだ。以下やや遠回りになるが、キノミヤ信仰・伊豆三嶋信仰と伊豆山との関係に視点を置いた論があまりないこともあり、そのあたりの基本的な事柄を解説して行く。

詳細は箱根神社なり伊豆山神社なりの稿とし、大雑把に大枠を述べよう。源頼朝の旗揚げに際しそれを助けた箱根権現と伊豆山権現は、鎌倉幕府(幕府とは当時は言わないが)成立後厚遇され、鎌倉総守護の鶴岡八幡宮に準ずる準宗祀の神格とされた。頼朝がその恩を忘れずに毎年箱根・伊豆山を詣でた「二所詣」は有名である。

箱根神社
箱根神社

これに応じて権現側ではそれに見合った縁起の編纂がすすめられた。これは箱根側のものだが、箱根山縁起の『二所権現事』が『神道集』に収められているので読みやすいだろう[資料10]。同時に伊豆山の『走湯山縁起』も編纂されたが、この段階では箱根・伊豆山の縁起は大きく異なっている(大磯高麗山からの遷座など、既に細部に共通項はあるが)。ここで注目されるのは箱根の『二所権現事』の方で、箱根・伊豆山の両方の縁起となっている点だ。すなわち、ゆくゆくはこの辺りを統合した神話が構築されるはずだったのではないかと思われる、ということだ(あるいは『日本書紀』のように「一書曰く」のようにまとめるつもりだったのかもしれない)。

さらに、加えて頼朝が厚遇したこの地の信仰に伊豆三嶋大明神がある。こちら側でも二権現同様に縁起の編纂がすすめられ、これは通称『三宅記』という伊豆三嶋大神の神話として結実して行く(伝世した各書に統一した題名はない)[資料13]。『二所権現事』と『三宅記』は筋書きはまるで違うが、細部の構成などを見比べれば同じような発想に基づくものである事は一目瞭然である。


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龍学 -dragonology- 2011

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