普都大神の昇天

門部:陸奥・常陸編:風土記行:2011.07.28

INDEX

文頭

『常陸国風土記』抜書

竹来阿弥神社

木原楯縫神社

阿弥神社周辺神社

 室崎神社・十握神社・鹿島古女子神社・鹿島神社(若栗)

楯縫神社周辺神社

 楯縫神社(信太)

その他の周辺神社

 鹿島神社(石川)・幡神神社

常陸信太郡。このうち現在の稲敷郡阿見町から美浦村にかけて、「普都大神が天に昇られた」という話が『常陸国風土記』に記されており、その逸話を語り伝えたいくつかの神社を巡ることができる。ここではその中核となる阿見町竹来「阿弥神社」と美浦村木原「楯縫神社」を皮切りに、関連数社のことを紹介して行こう。ちなみに楯縫神社(木原)は信太郡一宮、阿弥神社(竹来)は二宮、共に式内社でもある。

「普都大神」がいかなる神格なのかという点に関しては大雑把には簡単だが細かく詰めるとなると難しい。普都(ふつ)の神は経津主命・布都御魂などと同じ音であり、香取神宮の祭神経津主命と同神、常陸下総の地を拠点に東北へと進出した西からの勢力の奉斎した神格であろうとされ、故に物部氏の奉斎した布都御魂と同神ないし同系の神格であろうとされる。一般的には鹿島神宮の武甕槌命とも同神(同神格)であるとされ、ともにヤマト朝廷北進守護の軍神・ひいては日本国家守護の軍神という理解でひとまず落ち着いてはいる。

しかし香取は物部の社なのか、と問えば異論も多い。信太郡を開いた物部氏は香取神宮の奉斎者と同族なのかと言うとこれも分からない。彼らは筑波郡を開いた釆女臣の友属・筑簞(つくは)命の末である、と見る人もいる(釆女臣は物部系氏族)。大体、そもそも経津主命は物部氏の奉斎した布都御魂の事なのかと言うと、これすら確定している話ではないのだ。

いずれそれらはより広く周辺地区の伝承その他への見聞を深めて行ってその姿を現して来るものであろうが、ここ信太の土地がその中でも大変重要な伝承を持っている土地である、という点は胆に命じておきたい。これからたどる普都大神の痕跡とは、そういった背景がある話なのである。

『常陸国風土記』抜書

信太の郡:現代語訳
ここ〔碓井〕から西に高来(たかく)の里がある。古老がいうことには、「天地の権與(つくりはじめ)、草木がものをよく言うことができたとき、天より降って来た神、お名前を普都大神と申す神が、葦原中津之国を巡り歩いて、山や河の荒ぶる邪魔ものたちをやわらげ平らげた。大神がすっかり帰順させおわり、心のなかに天に帰ろうと思われた。その時、身におつけになっていた器杖(武具)《これを俗にイツノという》の甲(よろい)・戈・楯およびお持ちになっていた美しい玉類をすべてことごとく脱ぎ棄ててこの地に留め置いて、ただちに白雲に乗って蒼天に昇ってお帰りになった」。

平凡社ライブラリー 吉野 裕 訳『風土記』より引用

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竹来阿弥神社

高来の里が、今の稲敷郡阿見町竹来(たかく)であるとされる。ここに信太二宮・式内「阿弥神社」が鎮座されている。

阿弥神社(竹来)
阿弥神社(竹来)
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祭 神:建御雷之男命
配 祀:経津主命
    天児屋根命
創 建:和銅年間(伝)
例祭日:十月五日
社 殿:本殿流造/南西向
住 所:稲敷郡阿見町竹来

『茨城県神社誌』茨城県神社庁

現在は建御雷之男命が主祭神となっているが、大正十五年の資料『稲敷郡郷土史』では「普都大神を祀る」となっており、古来普都大神の社であったのだろう。ちなみに建御雷之男(武甕槌)命と普都大神(経津主命)の関係については、木原の楯縫神社(後述)の宮司様は「まぁ、一般の方は同じ神さまのことだと思っていただければ……」ということであった(そうもいかんが)。

竹来・高来の地名の通り、ここが普都大神昇天のまさにその地として語り継がれてきた。『神社誌』によると「今楯脱の小字があり楯脱山(たてぬき)と呼ぶ」ともある(実地は分からなかった)。これは次の楯縫神社でも同様の話が語られる。

いずれにしてもまずはここ竹来阿弥神社をこの伝説を巡る神社群の起点として良かろうと思う。

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木原楯縫神社

竹来から東南東七キロ弱のところ、美浦村は木原に信太一宮・式内「楯縫神社」が鎮座されている。「たてぬい」である。

楯縫神社(木原)
楯縫神社(木原)
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祭 神:普都大神
配 祀:彦狭知命
    大己貴命二坐
    宇賀魂命二坐
    市杵島姫命
    須佐之男命
    皇産霊命
    熊野加夫呂岐命
創 建:紀元十八年・推古十六年再建(伝)
例祭日:四月十五日
社 殿:本殿流造/南西向
住 所:稲敷郡美浦村木原

『茨城県神社誌』茨城県神社庁

先に述べた普都大神の武装の解除に関しての「楯脱」が由来であることがこちらでも語られている。そもそも「楯脱」が「楯縫」となった、ということなので神社名の由来でもある(しかし、これには別伝がある、後述)。

もっとも天に昇られた場所は阿見竹来だ、という点はこちらでも同様の認識のようで、神輿を竹来阿弥神社へ渡御する古式祭があった。この祭の古い様式が特筆すべき内容なので、『神社誌』から引用しておこう。

古来の祭祀
往古は年七十五度の祭事を厳修した。鹿島神事「鹿島の神の御着」と氏子の中に神がかりの者があると氏子協議の上、吉日を選定し、惣産子(三十三郷五十有余村)当社に参集、武甕槌、経津主両大神の神輿をかついで竹来の二の宮阿弥神社へ渡御する古式祭あり。

『茨城県神社誌』より引用

木原のこの楯縫神社の周辺には「愛宕山古墳(木原白旗古墳群)」と「浅間塚古墳(木原原古墳群)」という前方後円墳群を主体とする大規模古墳群があり、古墳時代からの要衝の土地であったことが分かる。

「木原」という地名はここに霞ヶ浦を航行する船が指標とする大杉があったことにちなんでそうなった、とされるが、木原となる以前は「神越」の地名であったとも伝わる(『神社誌』)。竹来(高来)で昇天された普都大神の足跡を伝える第一の社ということではあったのだろう。

以上、竹来阿弥神社と木原楯縫神社が普都大神昇天にまつわる大きな神社となる。しかし、その周辺には関連した話を伝える大小神社が少なくなく、それらを繋いで行くことでより深いこの土地の物語を体験することができる。

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阿弥神社周辺神社

阿弥神社(阿見町阿見):

阿見町の市街地阿見にもうひとつの「阿弥神社」が鎮座されている。式内:阿弥神社の論社としても捉えられており、竹来とどちらがそうかと論争されている。

阿弥神社(阿見)
阿弥神社(阿見)
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祭 神:豊城入彦命
創 建:崇神天皇十八年(伝)
例祭日:十月一日
社 殿:本殿流造/南南西向
住 所:稲敷郡阿見町阿見

『茨城県神社誌』茨城県神社庁

豊城入彦命は崇神天皇の第一皇子で東国の治定に功あり、記紀には上毛・下毛野君の祖などとされ、常陸でも祭神とする神社が少なくない。ここでは豊城入彦命がその東国平定の労を上古の武甕槌・経津主の事跡になぞらえて追懐されたという形で関連され祀られている。

さて、で、この阿見の阿弥神社が古いのかと言うと、木原の楯縫神社の宮司様曰く「阿見の方はね、予科練の中にあったのを戦後外に大きく造っただけ」なんだそうな。阿見が古い、という認識は土地の人にはないようだ。しかし、そんな簡単にケリのつくものに論争が続くというのもおかしな話なので、阿見の阿弥神社はまた違った側面から古い神祭の末だと考えられているのだろう。

第41代持統天皇5年夏、霞ヶ浦沖に夜々光が出るので漁師が沖に出て網を下ろすと、大風が吹いて雨が降り、波の上に一人の異人が現れ、「この海原に大毒魚がいて悪光をなす。この為に漁なし。吾は海の神少童の神である。彼の悪魚を退治しないと国家の愁となす」といって光とともに波底に沈まれた。
するとしばらくすると雲が晴れ風が静まった。そこで漁師は、この海神の神徳を尊み、村内の浄地に社殿を造営して祀り、海神社と称した。
このちにウミとアミが通じるところから海(ウミ)が網(アミ)となり、第46代孝謙天皇勝宝2年(750)に神託によって、豊城入彦命を合祀したという。

『式内社調査報告』記載/「神のやしろを想う」様より転載

このような話が阿見の阿弥神社には伝わるというのだ。いずれ普都大神の昇天とは関係のない話である。こちらはこちらでまた違う阿見の土地の古層を伝えてきた神社なのだろう。今は竹来の阿弥神社が市街からやや遠いこともあり、簡単にアクセスできる信太二宮・里宮の性格となっているようだ。

室崎神社(阿見町大室):

竹来阿弥神社は、竹来に隣接する大室の地とさらに大室に隣接する廻戸(はさまと)との地に配祀の神を持ち、併せて「竹来三社」とされていた、とある。このうち大室に祀られた天児屋根命の社が「室崎神社」である。後、竹来三社は竹来阿弥神社に合祀された、ということなのだが、それぞれの土地には今でも社があり、祭祀も続いている。

室崎神社(大室)
室崎神社(大室)
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祭 神:天児屋根命
創 建:貞観四年(伝)
例祭日:十一月十五日
社 殿:本殿流造/南南西向
住 所:稲敷郡阿見町大室

『茨城県神社誌』茨城県神社庁

『神社誌』には「社伝に此の神始め竹来阿弥神社の相殿に配祀する処であつたが、貞観四年(一説に仁和三年)神託に依ってこの神地に奉斎し室崎神社と尊称した。」とある。

天児屋根命と鹿島信仰の関係というのも春日を通してまた複雑なのだが、ここ阿見周辺では「竹来阿弥神社祭神の子孫(古女子神社・後述)」という意味合いになるらしい。天児屋根命は中臣(藤原)氏の祖となるが、本来武甕槌命との係累関係はない。

十握神社(阿見町廻戸):

竹来三社のもう一社と思われるのがこの「十握(とつか)神社」である。名の通り経津主命を祀ると思われるが、神社庁の管轄にない単立社で詳細は不明。

十握神社(廻戸)
十握神社(廻戸)
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祭 神:(経津主命)
創 建:不明
例祭日:不明
社 殿:不明/南南西向
住 所:稲敷郡阿見町廻戸

日本神話の要所要所で活躍する十握剣(十束剣・十拳剣・天羽々斬剣……)は神武東征の折、布都御魂剣として渡され、これがまた経津主命と同体であるとされてこの社名となったのだろう。古代からこの土地に「神剣」としての布都御魂剣を祀る結構があったかどうかは分からないが。

以上が「竹来三社」比定社だが、周辺にはさらに竹来阿弥神社との縁故を伝える社がある。その辺りも紹介しておこう。

鹿島古女子神社(阿見町掛馬):

竹来阿弥神社の東に1キロほどのところに、その子孫を祀ったという伝のある神社があり、それが「鹿島古女子神社」である。古女子は「こなご」と読む。大正時代の資料では単に「古女子神社」となっており、現在拝殿に掛かる扁額も「古女子神社」である。

鹿島古女子神社(掛馬)
鹿島古女子神社(掛馬)
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祭 神:鹿島御子神
配 祀:建御雷之男命
    経津主命
    天児屋根命
    宇賀之魂命
    水波能売命
    大日孁命
創 建:大同年間(伝)
例祭日:十一月十九日
社 殿:流造/西向
住 所:稲敷郡阿見町掛馬

『茨城県神社誌』茨城県神社庁

「創立は大同年間と言はれるが詳らかではない。竹来阿弥神社祭神の子孫と伝ふ」と『神社誌』にある。「古女子」が単に御子神を意味するのか后神を意味するのかでたどれる深さが変わってくる。后神を意味した場合は霞ヶ浦一帯の古い鹿島信仰の側面に接続するかもしれない。文面だけでは「子孫」と言っているのだから后神は深読みだろう、とも思えるのだが、実に「竹来阿弥神社祭神の妃の社」もそう遠くないところにあるので、そうそうバカにした話でもないのだ。

鹿島神社(阿見町若栗):

その妃の社と伝えるのが若栗の鹿島神社である。明治三十五年の暴風雨により社殿倒壊の憂き目に遭い、以降石祠になってしまっているが、その伝える伝説の価値は低まりはしない。

鹿島神社(若栗)
鹿島神社(若栗)
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祭 神:建御雷之男命
創 建:大同元年九月(伝)
例祭日:九月十九日
社 殿:石祠/西北西向
住 所:稲敷郡阿見町若栗

『茨城県神社誌』茨城県神社庁

「大同元年九月創立。伝説に竹来阿弥神社の妃を斎祀するところと、明治三十五年の暴風雨の際社殿倒壊したので、大正九年九月十六日石造社殿を造営した。昭和二十七年五月二十八日宗教法人設立。」これが『神社誌』の伝えるところのすべてではあるが、この一文が開くこの土地の古層への展望は大きい。

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楯縫神社周辺神社

楯縫神社(美浦村信太):

木原の楯縫神社から南東に二キロ半ほどのところにもう一社の「楯縫神社」が鎮座されている。ここは字を「信太」と言い、信太郡の中心的な土地だったのだろうと思われる。

楯縫神社(信太)
楯縫神社(信太)
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祭 神:経津主命
配 祀:高皇産霊命
    菅原道真公
    誉田別命
    武甕槌命
    木花開耶比売命
    宇迦之御魂命
創 建:不詳
例祭日:三月二十九日
社 殿:本殿流造/南南西向
住 所:稲敷郡美浦村信太

『茨城県神社誌』茨城県神社庁

鳥居に「信太郡惣社」を謳うものの、この信太楯縫神社を式内論社と見る向きはほとんどない(実は、さすがに地元の研究者の小著等は注目している)。しかし、下に見る地勢的な特殊性から、私は楯縫神社はこちらが古いだろうと考えている。

楯縫神社の配置(海面上昇図)
楯縫神社の配置(海面上昇図)
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この様に右上の旧安中村のあたり、国指定史蹟の陸平貝塚がある岡が島嶼であり、入り組んだ入江に突き出た岬からそこを遥拝する結構で成り立っていたのが古いこの地の神祭であった、と私は考えている。もっとも木原の楯縫神社も古代にはすでにあったということで(木原楯縫宮司様談)、一宮・式内社選定の際には木原の方が重鎮となっていたのかもしれない。しかし、お話を聞かせていただく過程で、木原の宮司様は「信太のが古いかもしれない」とおっしゃりもした。土地にはそういった記憶も残っているのかもしれない。

ところでここにはもう一方の難しい問題もある。先の安中村の鎮守は大宮神社というのだが、天太玉命を祭神に持つ。これは忌部氏の祖神だ。この霞ヶ浦南側には稲敷市旧桜川村のその名も阿波に大杉神社があり、安房からの忌部氏の進出の痕跡の見える土地だ。詳しくは別項となるが、この美浦村周辺にもその痕跡は見える。上にあげた、木原の楯縫神社には「彦狭知命」が配祀されている点が要注目だ。彦狭知命は手置帆負命とともに天の岩屋の段で活躍する建築の神で、手置帆負命が讃岐忌部の祖とされることから見ても忌部系だろう。

そして、『地名大辞典』には木原楯縫神社の由緒として「『新編常陸』によれば、祭神は彦狭知命とされ、この神は神代の祭器を作る神でもっぱら盾を作ったので盾縫神と称したという。また同書には、古老の伝として、昔このあたりが茫々たる広原であった時、村民の前に一人の翁が現われて家屋の作り方と尺度を教えたという。」とある。『新編常陸』とは『新編常陸国誌』のことで、十九世紀の丸百年に渡って編纂された地誌である。要するに江戸時代にはむしろ楯縫神社は「彦狭知命」の社であるとされており、「楯縫」も普都大神の武装解除の「楯脱」由来ではない話になっていたわけだ。

これ以上のことはこの項の内容を逸するので改めるが、いずれにしても「普都大神の足跡」とは言っても、関連氏族は話を深めるほどに増えてくる、ということである。以下、阿見と美浦との間にある二社を通してよりその辺りの広がりへのとっかかりとしておこう。

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その他の周辺神社

鹿島神社(阿見町石川):

阿見と美浦の境に近い石川という土地に、興味深い伝承と民俗が残されている。普都大神の足跡に連なるのかどうかは分からないが、その可能性を見逃すわけにはいかないところである。

鹿島神社(石川)
鹿島神社(石川)
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祭 神:(武甕槌命)
創 建:不明
例祭日:不明
社 殿:本殿流造/南向
住 所:稲敷郡阿見町石川

単立社なので現状神社そのものの詳細は不明。しかしここは土地の昔ばなしに次のように語られる場所である。

鳥居と鶏のない村
(前半略)
大昔、武御雷神(たけみかづちのかみ)は、荒ぶる神を討つために、この地にきました。村人たちは、いつ荒ぶる神に襲われるかと不安でいたときなので、武御雷神がきたことを喜び、協力を誓っていました。時も時、荒ぶる神が村を襲いました。武御雷神は潜んでいて敵を引き寄せ、一気に討とうと計画していました。
ところが、ただならぬ気配に、村人たちの飼っていた鶏が驚き騒いで鳴きたてました。そのために、武御雷神の居どころが気づかれ、計画は失敗して苦しい戦いとなってしまいました。
苦戦の末、討ちはらうことはできましたが、村人たちの飼っていた鶏が苦戦の原因を作ったので、これ以後、鶏を飼わないことを誓い合いました。また、鎮守である鹿島神社にも鳥居は建てないことにしました。

阿見町文化財研究調査会民話調査班『阿見の昔ばなし』より引用

石川の鶏と鳥居の禁忌に関しては、東方布佐との小競り合いの際、勝った布佐の鶏が高々と鳴いたから、という話もあるのだが(これが上の話の前半部に語られている)、ここではそちらはさて置く。写真の石川鎮守の鹿島神社には確かに鳥居がなく、同地区の皇産霊神社にも鳥居はなかった。

この伝承の興味深い点は、武御雷神を普都大神と同神と考えるなら、信太の土地での普都大神の活躍を示している、ということであるが、それだけではない。鶏の禁忌そのものの方も重要なのだ。古墳造営に関わる土師氏の系に鶏をよく信仰し、食べないとか、卜占に用いるとかがあり、かつて鶏を用いて墓地の場所を卜した名残りではないかと谷川健一などは言う(岩波新書『続・日本の地名』)。

詳しくはこの項の内容を大幅に逸するので別に改めるが、下総に展開した物部氏の流れの中に、土師氏の集団の痕跡がある。特に成田周辺に濃いのだが、彼らが古墳造営のために付き従ってきたのであれば、当然霞ヶ浦周辺の古墳群の造営にも関与していただろう。つまり、石川の鶏の禁忌は信太一帯の古墳造営に携わった土師氏と関係するのではないか、ということだ。

無論昔ばなしひとつ、鶏の禁忌ひとつでそれが分かるわけではないが、注目は必要な話だ、ということだ。上の写真に見るように訪問した際、鹿島さんは地震で壊れた部分の修繕中だった。しかも「鶏の禁忌」について地元の方にお話を伺おうと思っていたのだが、炎天下過ぎて誰も外にいなかった、という次第でもあった。もう一度より詳しく訪ねたい場所である。

幡神神社(美浦村布佐):

石川の東はもう美浦村で、布佐という土地に「幡神神社」が鎮座されている。ここも普都大神の足跡と直接関係するかどうかは分からない神社だが、より広域の常陸鹿島神話に接続する可能性のあるところなので、紹介しておこう。

幡神神社(布佐)
幡神神社(布佐)
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祭 神:栲幡千々姫命
    (天羽槌雄命:旧神社誌)
創 建:元慶元年(伝)
例祭日:九月九日
社 殿:本殿流造/南西向
住 所:稲敷郡美浦村布佐

栲幡千々姫命を祭神とした理由、というのはよく分からない。『神社誌』にも社頭掲示にも栲幡千々姫命に関しての説明は詳しいのだが、なぜこの土地の守護となったのかは語られていない。特に機織物がさかんな土地だった、ということもないようだ。しかし古い社ではあり、元慶元年が本当かどうかはともかく木原の楯縫神社宮司様に聞いてみたところ「あそこも古いねぇ」と言われたその調子は「楯縫両社に劣らず古い」という感じだった。

ここでまず問題となるのが『神社誌』にさりげなく記述されている「祭神 天羽槌雄命旧神社誌」の一文である。天羽槌雄命とは常陸二宮:静神社の祭神、建葉槌命に他ならない。常陸には武甕槌命と経津主命が悪神・天香香背男を倒し、宿魂石に封じ、最後に建葉槌命が宿魂石を蹴倒して砕いてとどめとした、という伝説がある。この三神はこの文脈でセットで祀られていることも多い(常中ではここに「石船神・天鳥船命」が加わる)。ここ幡神神社もそうであった可能性もある、ということだ。

余談だが、建葉槌命は男神なのだか女神なのだかはっきりしないところがある。「天羽槌雄命」であればこれは間違いなく男神であろう。大体上の伝説でいきなり女神であるというのは不自然過ぎる。しかし、鹿島神宮摂社の高房神社(祭神:建葉槌命)では女神という扱いのようであるし、静神社の地元氏子の方々の伝承でも女神だと言われる。ここ幡神神社の祭神が天羽槌雄命→栲幡千々姫命という変遷をしたのなら、「建葉槌命は女神だ」という認識があった例のひとつになるかもしれない。

続いて問題となるのが土地の字「布佐(ふさ)」であるが……これはさすがに話が広がりすぎるので改めよう。「フツ」の神である普都大神・経津主命・布都御魂………に関して「フツ・フッ」の音を持つ地名が気になっているのだ。例えば直近では美浦村の東の渡しを「古渡」と書くが、これは「ふっと」である。このことは『風土記』に「フツに斬る」の話が見える行方の方で論じることになるかもしれない。そちらには古高(ふったか)の地名がある。

さて、以上簡単ながら「普都大神の昇天」にまつわる信太の神社を紹介してきた。冒頭にあげた『常陸国風土記』のひとつの「古老がいうことには」からこれだけの神社を巡ることが可能なのだ。『常陸国風土記』は和銅年間に編纂されたと考えられる千三百年も昔の地誌である。しかも、信太郡に関してもこれがすべてではない。同「風土記行」では信太郡の話として引き続き「黒坂命の墓」をまとめることを予定しているが、黒坂の命は古代多氏の人である。上で見てきた各氏族の絡まりにさらに古代多氏も加わって来るのだ。

今回は普都大神の足跡をたどるための概要を示したが、これはまだ部厚い古代信太の歴史への入口に過ぎない。そしてその信太郡もまたより広大な常陸の国への入口にしか過ぎない。『常陸国風土記』をめぐる「風土記行」の第一稿は、そういった予兆を含みつつ、幕とすることにしよう。

普都大神の昇天 2011.07.28

風土記行: