那須行:黒羽(2)

庫部:地誌:神社巡り:2014.02.02

那須行:黒羽(1)」からの続き。

八雲神社

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八雲神社
御祭神:
 素盞鳴命
 田心姫命
創建略由緒:不詳。慶長五年に大宿から遷座。宝永二年に大修理が行われた。
大豆田から那珂川を渡る。那珂川も上流部ということになるだろうが、結構広い。ここには黒羽河岸という川運の拠点があった。那珂川を上り下りする舟の上端の河岸となる。黒羽とはそういう所であるのだ。
が、黒羽河岸に関しては、これも旧川西町域を歩く際に詳しく見るとして、ここでは、那珂川の水神信仰に関して、この大豆田から黒羽田町への渡り周辺で、「川浸り餅」の由来が端的に大蛇伝説として伝わっていることを見ておきたい。

▶「川浸り餅」(龍鱗)

全国各地で旧十二月一日には、川浸り朔日などといって、水神に餅を供えたり(川に餅を流すところも)、川に尻をつけたりして、水難避けを祈願する風習がある。餅が出てくる場合は、以前人がとられていたのを餅で代替したのだ(人身御供の話)とか、河童に餅で我慢するように誓わせたなどという話になる。
多くは河童が登場する話で、端的に「大蛇」と出て来る例はそうはない。そのそうはない例が、ここ大豆田にはあるということだ。那珂川の水神といったら「そりゃ大蛇だろう」という発想があったことがわかる。
さて、那珂川を渡ると黒羽田町という地区になるが、「八雲神社」が鎮座されている。「黒羽」の名を冠した黒羽神社も近くにあるが、そちらは純粋な招魂社なので、八雲さんがここの鎮守といっていいのだろう。
近世以前まではその黒羽神社のある大宿という方に鎮座されていたというが、それ以上特に詳しい話はない。このあたりは天王さんは少ない。旧黒羽町域で法人社となった天王さんはここだけである(単立小社はある)。
すぐ後背から黒羽城の高台に続くので、崖下という立地であり、境内にも転がり落ちてきたのだろう大石がゴロゴロしている。磐座というのではないだろうが、ただ転がしてあるという風でもない。
『黒羽町誌』には境内社の記載がないが、このお稲荷さんをはじめ、境内には小祠が多い。先に行って、白面九尾の伝説に絡んで、この辺りの里人は九尾の恨みを買っていたというような伝説が出てくるが、今はこうして普通にお稲荷さんも祀っている。

ところで、その黒羽には天王社が少ない、というのは少し要注目なところだ。常陸の方と繋がりが多く見える那須だが、霞ヶ浦周辺から笠間にかけてのように天王さんをよく祀るという風はないということだ。一方では、那珂川の舟運の上端だった黒羽河岸に天王さんが祀られているというのは示唆するものがあるともいえる。
もともとこの天王さんの鎮座されていた大宿の方には写真のような「いかにも」な川渕や大岩のテーブルなどもあり「流されてきた天王さん」の伝説があっておかしくないような舞台なのではあるが、その伝もない。
それはただ単に「ない」というに止まらず、その伝によって構成されるはずの民俗知が別の何かで代替されているはずだ、ということでもある。
また、この天王さんのある黒羽田町でもうひとつ気にしておきたいのは、ここは昔「阿久津村」であった、というところだ。今でも阿久津家がちらほらあるようだったし、店名屋号等にも残っていた(というより参照している黒羽の各資料を監修されている方も阿久津さんという)。
那珂川を下って、おそらく次の川運の要所であったろう、那須氏の大拠点の小川の船着き場もまた阿久津といった。このあたりでは、そういう拠点につく名なのかもしれない(ただし、舟など行くことのできない支流を上った山間にも「阿久津」地名はあるので何ともいえない)。

もっとも、そのような川運や氏族名から見る「阿久津」というのは今はさておく。ここで気にしておきたいのは、ダイダラボッチ伝説との関係があったかどうか、という点だ。
悪竜大蛇伝説の八溝山からこちら那須野の麓にかけては、またしても巨人伝説がパラレルに語られる。那須では大太郎坊(だいたらぼう)とかデイデンボメとかいう。その大太郎坊が腰かけていたので八溝山は頂上が窪んでいるのだといい、畚(もっこ)を引きずったのが蛇尾川と那珂川であるのだというのですな。

▶「大太法師の腰かけ」(龍鱗)

で、例によって大太郎坊の足跡地名があって、大田原市練貫の「だいだい窪」がそうだというのだが、ここ阿久津村にもその伝があったのじゃないかと思うのだ。
大体巨人が山に座ったら、その麓の大川(ここでは那珂川)で足を洗ったり水を飲んだりするものである。ということは八溝山と那珂川の間に足跡地名があった方がイメージがすんなりするのだ。練貫というのはもう那須塩原駅の方である。 阿久津が「かかと」の方言であり、ダイダラボッチの足跡を意味する、というのは上州高崎の話だったが、ここ黒羽の阿久津にもその線がなかったか、ということを気に掛けておきたい。高崎の伝説は以下参照。

▶「湖と入水の伝承」(龍鱗:群馬県高崎市)

さらに付け加えるならば、天王さんそのものが巨人のイメージと結びつく例もないではない。無論ここ黒羽にそれがあったという程の痕跡が見えるわけではないが、これも少し気にしてはおきたい。

▶「祇園御霊宮」(龍鱗:和歌山県旧南部町)

さらにもう一点、現状詳しいことは調べていないが、この上の辺に「風呂の下」という小地名が残っていることはメモしておきたい。「風呂」地名はここより東北にかけて出てくる地名だが、保呂羽の神等に関係する重要地名だ(「ほろ」は社叢を意味する語ともいう)。
黒羽に保呂羽神が祀られたという話はないが、文化年間に黒羽藩主大関増業が著した『創垂可継』に興味深い話がのっているのであわせて覚えておきたい。

「寺子の蒲蘆(ほろ)/寺子村の那須野の続きいし上野原といえる広野に、十月の頃温暖なる夜明け過ぎる頃又は夕方など、十七八丁或は二三十丁の間を隔てて広野の草木忽ち変じて人馬の形となり馬駕篭に人の乗りし形、又は槍長刀を持ちし形、数万の人数群集して往来する形又は堀構えの体など忽然と顕われ暫時の間に消え失せ先の野原と成る事あり。此辺の該に蒲蘆(しんきろう)といえるなり。」

とある。寺子はもう黒磯駅の方だが、逆に大田原城から南の親園の方にも蒲蘆の伝承があって石碑がある(湯殿神社)。那須野一帯で語られたモチーフのようだ。この蒲蘆が保呂・風呂地名と関係するのかどうかは現状不明だが、十分に承知しておかねばならない話だろう。

黒羽神社

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黒羽神社(招魂社)
御祭神:
 黒羽藩士三十三人の霊
 日清・日露両役の戦死者の霊
創建略由緒:明治十一年に官祭黒羽招魂社として創建。後、日清・日露両役の戦死者を合祀し、昭和十四年黒羽護国社と改称。昭和二十二年黒羽彰徳神社と改称。
八雲神社からほど近く、黒羽城址の下の方にあたる「黒羽神社」へ(この参道が大雄寺〜黒羽城址への登り口にもなる)。土地の名を冠した神社のケースとしては珍しいことに、ここは純粋な招魂社だった。
もとは戊辰戦争での戦死者の霊を祀る社として創建され、日清・日露の戦死者を加えて祀るようになった。他の祭神というのはない。先の八雲神社はこの辺り大宿にあったというが、その場所になるというわけでもないようだ。
黒羽藩はぶっちゃけ弱小だったが、東北の幕府方の雄・会津藩のお膝元にありながら、何故か先頭切って新政府側の立場を表明したという気質を持った土地でもある。招魂社に黒羽の名を冠したところにも、そういう面が出ているのかもしれない。
また、ここ以外の伝統の社が「黒羽神社にならなかったのはなぜか」と見ると立地分布のこともあるかもしれない。現在の黒羽地区の人の多いところ(黒羽田町・黒羽向町あたり)からは、後に見る黒羽城の守護神・鎮国社や高館の守護神・大宮温泉神社は行き難い場所になる。
鳥居前にこんな塔が。参道を上る途中でこれがもう実に目につく。慰霊塔なのか、那珂川から見る灯台なのか。造りからすると実用的なものだろうか(何だか解説などは見えなかった)。
こちらに獅子どのがおりましたな。こうなってくると信仰上のものか実用のものかまた胡乱な感じだが。あるいは慰霊塔であるからこそ那珂川を照らす目印になる、のか。

大雄寺

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大雄寺
曹洞宗黒羽山久遠院大雄寺
余瀬に応永十一年に創建。天正四年、大関氏が余瀬の白旗城から黒羽城に移る際に、大雄寺も移転。
本堂・禅堂・庫裡・総門・廻廊・鐘楼・御霊屋・経蔵・輪蔵が県指定有形文化財。大関家累代墓所が史跡文化財。他、市指定文化財の文物多数。
黒羽の那須氏の所領を後継した大関氏菩提寺の大雄寺(だいおうじ)が、黒羽城址の少し南にある。大関氏が余瀬からこちらに拠点を移すのに伴って寺も移ってきた。建物軒並み県の指定文化財という趣き深い所であります。大した登りではないが、入口にはこうして杖が設えられている。
ちなみに相州大雄山(だいゆうざん)最乗寺とは特に関係ない。天狗の話というのも特にない(と、思う)。が、総門前にはちょっとユーモラスな仁王さんがおった。
大関氏は那須七騎の一翼として那須氏を後継したが、天正年間に同じく那須七騎の大田原氏に攻められて余瀬の白旗城を落し、この黒羽に逼塞した。この辺りの関係が大関氏を追う上では重要となるので少し覚えておかれたい。
ともかく、黒羽というとここから山間部深くに進んだ地にある古刹・仏国国師開山の雲巌寺が有名だが、そこまで行くのは大変というなら(バスも通ってはいるが)、こうして下の方の黒羽城下にも名刹があるのであります。
しかし那須は寒い。かくのごとし。南関東から見たらやはり東北だ。

さて、とはいえ現状大関氏の歴史そのものをどうこう考えるという段階でもなく、大雄寺には「俵を背負ったような田の神さま」の石像がある(あった)と聞いて来たのだ。見つからなかったんだけどね。
『歴史的風土のなかの黒羽の民話』(黒羽町)に「大雄寺山内の参道脇に恰も稲たばを背負ったお姿の石仏が安置してある。これは水田を守護し、稲作の豊穣を祈り祭る神、農神である田の神とみられている。もと大宿の路傍の土に倒れ伏していたものを奉安させていただいたものです」(82. 田の神おろし)とある。
南薩じゃあるまいし、果たしてそんな石造物があるものかね、という話である。んが、確かにあったかもしれない、とも黒羽を歩きながら思うようになった。それは大黒さんの像だったのじゃないか。この辺、あちこちに大黒さんがおる。
苗墓などの脇にあるが、普通に民家の畑の前にあったりもして、道祖神さんポジションのようでもある(ちなみに「道祖神」はまったく見なかった)。
デフォルトで鎮守となる温泉神社が大己貴命を祀り、大国主命→大黒さんかとも思うが、写真など実際すぐ脇に道標もあって岐の神のようでもある。この大黒さんならば、造型具合と崩れ具合によっては「俵を背負ったような田の神さま」になりそうだ。是非実物を見てみたかったのだけどねぇ。どこかに保存されていないものか。
また、石造物繋がりで少しメモしておきたい。これも大雄寺参道脇だが、こうした赤子を抱いた子安観音さんの像がある。未だこの一体しか見ていないので、常陸のようにこの形状が好まれた、とはいえないが、あることはある。ベースになっているだろう如意輪観音さんの石像は実に多い。
同じく参道には聖母マリア像のような観音像もあった(これは新しいものだが、那珂川を渡る手前にもそう思わせる像がある)。だから何だというわけではないが、先の子安観音さんと参道を斜に向かい合っているのは考えさせられるものがある。

鎮國神社

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鎮國神社
御祭神:
正 殿:天照大御神
    応神天皇
    反正天皇
    仲哀天皇
    神功皇后
    宣化天皇
左 殿:大己貴命
    豊城入彦命
    顕国玉命
右 殿:丹治比古王
    左大臣志麻朝臣
    大関氏二十七世霊碑
創建略由緒:久寿二年(1155)須藤権守貞信等が八幡宮を勧請(伝)。この地を黒羽城内八幡館と称する。建久四年(1193)源頼朝等が再建(伝)。天正四年、大関氏が黒羽城を築くにあたり、宇佐八幡宮並びに男山八幡宮の分霊を勧請し、北八幡宮と称す。
文化十三年(1816)、大関氏の旧姓丹治の出所を慕い、丹治比古王・左大臣志麻朝臣ら丹治氏祖の神霊を合祀。
黒羽城址は大関氏黒羽藩の城として廃藩置県まであった城で、堀や土塁などがよく残っている。城址公園は写真左奥だが、到る車道ですでにかくのごとし。下手な再建の上ものがある所より、城マニアはこういう方が萌えるのじゃないか。
これは堀。良く分からん写真だが。実物は結構スゴイ。あたしは城マニアではないので撮り方が良く分からん。あしからず。

先の道路脇の土塁の横にはこのような鳥居がある。『黒羽町誌』にもないので詳細はわからないのだが「両社稲荷神社」とある。
これはステキな那珂川式(?)注連縄。傾向として、ご神職常駐の大きな神社よりも、地区でお世話しているようなお宮の方がこの注連縄である傾向が強いかもしれない。
不明なお稲荷さんだが「同所(堀之内)南の方に妙見の社、稲荷の社有り。是は三浦介上総介狐狩りの時願望ありて造営せしと云う」と『創垂可継』にあり、また大関氏は黒羽城内に「妙見稲荷」を祀っていたといい、その後裔社ではないかと思う。

さて、「この黒羽城」は天正四年に大関氏が拠点をこちらに移して後に構築されたものだが、その内に旧黒羽城とでもいうべき、那須氏(あるいは三浦氏系角田氏)の黒羽城を含むと伝わる。その場所は城址公園からやや北の鎮國神社(もと八幡宮)が鎮座される所で、八幡館(はちまんだて)と呼ばれた。
まぁ、現状城址公園からは外れるので、もう案内も何もない道行きとなるのであります。法人社なのだけれど、ぐーぐるマップにも出ないお社なので、少し道行きの写真を載せておこう。写真左の森の中にある。
車道から、このように入るのですよ。看板などは何もない。明治維新後は郷社となっていた(後村社)お社なんだがね。
こういうネット地図にないようなお社にどう行くかというと、国土地理院の地図(とりあえず鳥居マークだけは執拗にある)には見えるので、同箇所のぐーぐるマップの航空写真で「これか?」とあたりをつけて行くわけです。
無事に行き着けましたな(この手前に社号碑がある)。常陸的な参道だ。ここが「鎮國神社」。現在はすっかり小さくなってしまったが、「本殿、拝殿、神楽殿、舞楽殿、假屋等を建造し」とあり、大関氏が代々祀ったという立派なお社だった。黒羽城守護の八幡といって良いだろう。
ここは伝説では白面九尾を討つべくこの地に集った須藤貞信(那須氏の祖)・千葉常胤・三浦義明・上総広常というそうそうたる武将が、弓矢の神八幡宮をこの地に勧請したのにはじまるという(源頼朝が那須野の巻狩りの際に、ともいう)。以後旧黒羽城の守護神であったが、那須氏分裂の際に焼失。大関氏がこちらに移る際に再建して、改めて宇佐八幡宮・男山八幡宮の分霊を勧請して北八幡宮と称したという。
旧黒羽城が誰の手によって築かれたかというのは大きく二説あって、那須氏の城だった、というものと、九尾討伐にやって来た相模三浦氏系の角田氏の城だった、というものがある。もっとも、角田氏はその後那須氏の重臣となるので「那須氏の城」でおかしいということはない。
いずれにしてもそういった縁起であれば、与一が祈願した八幡はここではないのかとも思えるほどの所だ。大体、那須神社にまつわる伝はこっちから移って語られてるのじゃないかと思えなくもない。
もうひとつ興味深いところは、大関氏の祖神として「丹治比古王」を祀るところだ。文化年間に河内國丹南郡・丹治比神社(丹比神社のことだろう)に詣で、神霊・神木・清埴を貰い受けて帰ったという。大関氏は武蔵七党・丹党の出自というのですな。写真は市指定文化財となっている「大関公の碑」。
ただし、これは難しい問題でもある。まだ詳細を述べることはできないが、おそらく大関氏は丹党ではなかった。丹党であったのは大田原氏である。大関氏の白旗城を落した後、大田原氏による大関氏の家系の簒奪とでもういうべき事があったらしく、大関氏が丹党であるという系図はその産物らしい。
では大関氏はどこから出たかというと、常陸の小栗氏の流れであるという。小栗氏に先の角田氏の娘が嫁入りしたその末流になるのだそうな。ということは旧黒羽城が角田氏のものだったなら、出戻りになり、三浦氏末流と言えなくもない、ということになる。因果なことだ。
しかし、少なくとも近世後半には丹党の末だといい、城の守護に多治比氏の祖を祀ったのに違いはない。主線は大田原氏の方になるだろうが、黒羽にも東国多治比氏の線が混入して来る可能性もある。
社頭には(なんだか分からないが)さらに色々名の刻まれた石も。こういったお社なので、本来こちらが「黒羽神社」になっていてもおかしくないのだが、まぁ、少々アクセスが難儀な場所ではある。
御神木の注連縄。これもまたこのように左右を結ぶ形になる。下に朽ちた古い注連縄がそのままになっているが、これは明らかに意図的ですな。
鎮國社さんの狛犬さんは少々独特な風貌。相方と見合う対面式の設え。
こちらは城址ちょっと下の方に生息している黒羽猫(というと何だか強そうだ……笑)。
「なんにゃおまえ。ふしんだにゃ」という面構え。
んが「まぁ、そこまでいうならあそんでやらんこともにゃい」とすぐデレる。
「にゃでれば?」
とまあ、黒羽城というのも中々難しく、加えて『創垂可継』には「黒羽居館の地は往古那須国造の居館の旧跡なり」と明記してあり(封域郷村誌)、どこまで遡るのかわからぬところであります。南側那珂川対岸からその高台を今一度よく見ておこう。後にこの北の側の端の高館を見るが、セットで印象づけておかれたい。

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>那須行:黒羽(3)へつづく…

参考文献:

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参考文献:
『創垂可継』(大関増業:著 文化十四年)
『黒羽町誌』(黒羽町)
『歴史的風土のなかの黒羽の民話』(黒羽町)

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那須行:黒羽(2) 2014.02.02