下総行:市川・連

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.08.31

今回は前回千葉県市川市行徳エリアからの続きなのであります。

▶「下総行:市川」(2013.08.10)

下総というのも印西の方をちょろっと廻ったりもしたけれど、随分前のこと。で、今回の市川行は下総リスタートといって良い感じでなのでして、それが主として近世以降の土地の行徳エリアだけというのはどうよ、という。胡録さん巡りだったとはいえ。
何となれば市川市、昔はより広く葛飾郡といったこの土地は、下総の国府があったところです故、やはり少しはそちらの話に繋がるところまで行っときたいですよね、という(今回も国府の方までは行かないけれど)。
そうなのですね。下総は一方で信仰の表看板は遥か東の香取神宮なのだけれど、行政の中心は武蔵に隣接したこの葛飾の地にあったわけであります。反対側は船橋・千葉と上総国府に向かって古くから開けた地がありと、その双方を結ぶ葛飾でもありました。
またさらには江戸川を渡ればボチボチと平将門伝説も色濃くなっていくわけでもありまして、そちらの方に繋がるあれこれもおさえておきたい、ということで、前回行徳エリアの補足からはじまりまして、そういったディープ市川の方まで進んで行く今回の「市川・連」であります。

新井・熊野神社

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そんなわけで前回スキップしていたあれこれの補足から。南行徳駅近くの新井には「熊野神社」さんが鎮座されている。近世初頭の勧請といい、行徳の歴史とともに歩んできたお社といえましょう。
前回行が東西線より江戸川側に連なる寺社を辿って行ったのに対して、こちらまでくるともう昔は江戸湾に面する地であったと思って良いと思う(行徳というのはそういう細長い洲だった)。今は海はずっと遠くになったけれど。
行徳エリアおなじみの解説板なのだけれど……
「祭神・イザナミノミコト、伊邪那美大神、伊弉冉尊……」?o?
まぁ、伊弉冉尊が大事なのは分かった(笑)。『千葉県神社名鑑』では「伊邪那美大神」一柱が御祭神となっている。また、『神社名鑑』にはなかったのだが、この社頭掲示によると「素五社稲荷」さんがもとあったということのようですな(今は境内社)。それが寛永年間に熊野社になった、と。ふむふむ。「素五社」とはどう読むのかね。
熊野といえばの三本脚の烏。目が点だ。面白いお顔になってしまっているが、あるいは「日」を示しているのかしら。
何ともパワフルな感じの狛犬どのであります。この前脚で犬パンチ喰らったらひとたまりもないような。この盛り上がりも「力こぶ」というのを表しているのかね。
後ろから見てもタクマシイ前脚。頼もしい。
社地の脇にはこうした注連柱を構えた脇参道が別にあって、ここを入ってすぐにその「素五社稲荷」さんが祀られている。というかつまり熊野さん本社殿向かって右隣ということになるのだけれど。
「五社」と入るのは気になりますなぁ。周辺五社の稲荷でオーダが組まれておったりしたのだろうか。前回行併せ見ても五社にはならんのだが。西相模小田原にはそういった「五社(の)稲荷」があり、気になる。
また、熊野さん真裏に背面して弁天さんが祀られている。後ろの二本の柱は寛政十一年の銘のある旧鳥居の部材だそうな。ともかく、海近なのに弁天さんがないね、と思っていたが、こんな風にあるのですな。
本社殿に後ろから参るようなのは、ちょっと表からはお願いできないような(ということは切実な)お願いをする為の設えだったりするものだが、弁天さんがそういった任に着いていたのかね。ちなみに像は蛇体ではなく妙音弁天系の琵琶持ちの石像でありました。

龍王宮

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東西線の南行徳駅へ。駅がどうかしたのかといいますと、この辺りに大蛇伝説があったのであります。まー今は全面商店街だが、付近に小高い丘があって龍宮さまが祀られていたそうな。

龍宮様と大蛇:
(前略)何でも御手浜といって徳川様が直接経営していた塩田があった所で、塩田を津浪から守ったり栄えたりするようにと祈願したり、塩田から田んぼに変ってからも土地の人は毎月十七日を命日として海の神様の龍宮様を祀ったんだって。
そこにね、枝ぶりのいい松があったんだって、その松を誰かこっそり掘ってうちへ持って帰って庭に植えてしまったんだって。そしたら、その晩から、うなされるわ、熱が出るやら大変なさわぎになっちゃって、「こりゃあ龍宮様のたたりかも知んねえ」てんで返したら、よくなっちゃったんだって。
それから、龍宮様の前を流れている小川に大きなまっ黒な大蛇がいてね、野良仕事に出掛けた人が見なれない黒い丸太ん棒みたいな橋を渡ろうとしたら、急に動き出して、よくみたら大蛇だったんだってさ。(後略)

市川民話の会『市川の伝承民話』より引用

また、その松には大蛇がよく上っていた、などともいうそうな。ちょっともう「小高いところ」というのも見当らず、今は昔、だけれども。

んが、この龍宮さんは昔話の中だけに存在するのではなく、実は今も場所を遷して祀られている。ずっと海へ向かった方だが、一応同南行徳内である東海面公園内に「龍王宮」としてあるのですな。
香取神社の方で蟇股の八岐大蛇が津浪なんじゃないかといっていたが、逆にその竜蛇を鎮めたら津浪を防げるのだ、という話であるわけで、こちらの龍宮さんはセットで覚えておきたい所であります。

▶「香取神社」(香取地区)

また、龍宮さん・りゅーごんさんというのはたくさんあり、龍宮だもの蛇が出てきて当然、と思うかもだが、実はこうして大蛇がセットで語られる龍宮さんの話というのはそうはない。「あー、行徳には大蛇の出てくる龍宮さんの話があるねぇ」と後々引ける話なのでもあります。

妙典:春日神社

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南行徳から妙典まで東西線でスキップいたしまして、その妙典の「春日神社」さんへ。古記録など一切津浪にて消失ということで、昔のことはもう良く分からない春日さん。
前回ラストの河原の春日さんは江戸川放水路近くにあって現地に遷ったというのだから、ここ妙典と大変近い範囲に春日さんが並んでいた、ということではある。

▶「春日神社・胡録神社」(河原地区)

葛飾は春日神社をよく祀る、という特徴がある。数が多いというのではないが、鹿島神社がない、という点が気になる所なのだ。浦安・市川・船橋・鎌ヶ谷・松戸といった範囲には法人社の鹿島さんはなく、あるのは皆春日さんなのだ。鹿島さんは野田市の方まで行くとあり、反対は千葉市に行けばある。現状まだ何とも言えないが、この傾向には何か理由があるような気がする。
ともかくここ妙典の春日神社は、この境内の燈籠に寛文の銘があり、それ以前からの鎮座ではあるはずだ。何度の津浪をしのいできたのかねぇ、この灯籠どのは。
また、何はなくとも力石なのであります。多いね。大変多いね。今まで廻ってきた中で、最も力石がたくさんある土地であるのは間違いないだろう。

清寿寺

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春日さんのすぐお隣は日蓮宗のお寺で「清寿寺」という。別当だったのだろう。というかこの辺社寺が一体不可分だった感じがよく残っている。で、「ぜんそく封じ加持」とあるので、おやおしゃもじさんかね、と思って寄ってみた。
んが、そういうわけではないようだ。当山三十二世丸山上人の母がぜんそくで難渋していて、上人は母の苦しみを癒すべくぜんそく封じの加持祈祷を感得したのだそうな。こうなると民俗信仰というのでもないね。
またここには「耳の守護神」であるお猿さんがいた。庚申関係ではない。子猿をいっぱい抱きかかえていて微笑ましい……と思いきや、これが随分シリアスな猿像なのだ。
「昔先祖が狩人として身持ちの猿を撃ち殺してしまい、その家では三代に亘り耳の聞こえない長男が生れ占い師に見てもらった所猿のたたりとわかり、猿の姿を彫って供養しお祀り後は何事もなく以来耳病守護「神猿おちか」として当山に依頼し此所にお祀りす。/寺内解説より」
なのだそうな。「おちか」というのは像の下部にそう彫られているからそういう。別資料では代々「娘に耳の聞こえないものが出た」となっているものもあり、「おちか」はその娘の一人じゃなかったか、ともある。ともかく、こうなると象徴的な話なのだか、本当に起った出来事だったのか難しいですな。

妙典:八幡神社・妙好寺

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妙典にはもう一社神社がある。「八幡神社」。この路地を入って右。おなじみの解説がなかったら分からん感じですな。
先の解説にはいろいろ棟札の記述のことなど書かれていたが、『神社名鑑』には由緒の項目すらない(ていうか『千葉県神社名鑑』はきわめてドライであります……orz)。簡単にいうとまたお隣のお寺の守護神の八幡さんであったようだ。
御本殿前に先代と思われる狛さんがいる。本殿狛というより、先代がここに置かれた、ということだろう。本殿の方ではなく前を向いて設えられている(伏線)。
お隣には「妙好寺」というお寺がある。また日蓮宗のお寺。市川市域を鎌倉時代に所領した富木・大田・曽谷の三氏が知られるが、皆日蓮の信者だったので日蓮宗のお寺が比較的多い。今度は「づつうほうろく・こども虫封じ」の加持祈祷とありますな。
「づつうほうろく」というのは、ほうろくの皿か何かを被って祈禱を受けるものだろう。異常死をした者・盆に亡くなった人などに鉢を被せて埋葬した、などという埋葬法とも関係がある信仰形態と思われ、最近ちょっと注目している。
こちらの守護神が先の八幡さんだったわけであります。写真のステキ山門が市指定文化財になっており、シンボルとなっている。何度も津浪に洗われた土地の文化財と思うと感慨深いですな。

道行き:江戸川

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江戸川放水路。江戸川は古くは太日河といった。これが「おおい・おほゐ」だと、船橋大神宮の意富比神社と関係するんじゃないかね、と魅惑の展開なのだが、吉田東伍はそうじゃないという。「東鑑に太井とあるべきを大井に作り、刊本或はオホヰと訓ましたるは、後人の誤なるべし、更科日記にも「ふとゐかは」と見ゆ」と、「おほゐ」は斥けており、他を見ても更級日記の「ふとゐかは」の記述を重視する論が多い。
むろん「おおい」でいいんじゃね?という論もあって、どちらかというとそちらの方が意富比神社の「大日神(意富比神)」ありきじゃないか、あるいは多氏がこれ遡って行ったのじゃないかとか考えられて嬉しいのだけれど。
行徳橋を渡る。おー、可動堰ですなぁ(というか堰が主体で橋はおまけ)。こう巨大コンクリ壁面にこのような扉があるというのは無駄に燃えるものがありますな(笑)。
川中にはナゾ物件。なんですか、これは。どうにも泳いでいってあそこに上がって昼寝とかしたくなるのだけれど(笑)。

稲荷木:稲荷神社

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さて、川渡りますと、稲荷木という土地になる。これですね「いなりぎ」じゃないですよ、「とうかぎ」と訓むのだ。で、そんな土地故に「稲荷神社」が鎮守さん。今は「いなり神社」だが、これも昔は「おとうか(お稲荷)さん」だったのが関東であります。お狐さんも「おとうかさん」だったのだ。キツネに化かされた話、というのは「おとうかに化かされた話」だったですな。
神社自体は『神社名鑑』には中世勧請とあり、近くのおそらく別当寺だった双輪寺文書には天正元年勧請とある。しかしなぁ、稲荷木地名は「稲を干す木」からきているというのだが、このお稲荷さんありきじゃないのかね。
この辺りから盛大に晴れ出しまして、晴れればまだ真夏の日差しであります八月晦日。そんなでも、おとうかさんはキリッと。あたくしは早々とぐでっと……orz
御本殿もかなり力の入った造り。後述するが、おそらくこの辺りで船から上がって、葛飾八幡宮への参道がはじまっていたのじゃないかとあたしは考えており、その反映とかないか、と思うのだけれど。
ところでちょうど良い稲荷宝珠の造形があったので、アップで見ておこう。これこのようにですね、普通のお稲荷さんの宝珠の錐型部分を表す造型は「同心円」なんですよ。故に、あたくしは同心円じゃない「とぐろ」のケースに「スワッ!」となるのです。
これはまたアヴァンギャルドな……

延命地蔵・一本松・甲大神社

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道行きに随分立派な「延命地蔵」さん。「辻斬り・追い剥ぎ等の災難に遭われた人達の供養のため建立」されたというから随分おっかねえ所であったのかもしれない。
お地蔵さんもここに移動して来ているのだが、他にも周辺開発に伴って居場所がなくなった石造物さん達がここに来ている。庚申さんも立派ですな。
で、ここそのものはなんだったかというと「一本松」があった所なのだ。慶長年間に八幡と行徳を結ぶ八幡新道が整備された際に、目印の松として植えられたそうな。今は切株のみ残る。

この八幡新道が古い葛飾八幡宮の参道だったんじゃないかと思うんだけどね。というのもその経路沿いに八幡宮境外摂社であったという「甲大神社」が鎮座されるからだ。甲は「かぶと」と訓む。
大字は大和田というが、社周辺を「注連下(しめした)」といい、葛飾八幡宮に由来する名なのだという。甲大神社は永延二年に勧請されたといい、現在は実質八幡神社で誉田別命を祀っている。
んが、何が「甲・兜」なのかというといろいろ話がある。社頭掲示では大神(応神天皇か)の兜を祀っていたからそういう、となっている。さらに土地の伝説では、いや、それは平将門の兜で、将門がここで兜を落としたのだ、というような話もある。
というよりも「地元の伝説」ではここは将門の兜の兜神社だという認識が強い。市川市域の将門伝説は松戸に近い大野の方で濃いが、そちらの話でも「兜は行徳の方の……」とここのことが併せて語られる。土地も全体的に「将門贔屓」の土地であった。前回行で述べたように江戸の庶民は行徳から成田山にお参りに出発したので、その一行が行ったり来たりしていたわけだが、市川市域では「成田は将門公調伏の寺なのだから行かない(行ってはならない)」という家が多かったそうな。
そんな甲大神社の狛犬さん。子狛ちゃんがですね、これはもうふんぎゃあと親狛にかじりついておりますね(笑)。
また、鳥居前には「北向道祖神」といって北面していることが名になっている道祖神さんが祀られていた。
この辺りの道祖神さんは一に「足の神」であり、このように草鞋がたくさん供えられる。あるいは八幡参道と海浜の道の交差する街道要所の守護神として知られた道祖神さんであったかもしれない。

おりひめ神社・鬼高遺跡

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ここから少し東へ寄り道。鬼高という所にショッピングセンタや公園や図書館やとこの辺りの文化施設のかたまっているところがあるのだが、その中に「おりひめ神社」という小さなお宮がある。単立社というか古いお宮ではなく、この土地はもともと日本毛織(ニッケ)の工場だったのだが、その守護神であったらしい。伊勢神宮より天照大神を勧請してなぜか「おりひめ神社」なのだという(?)。社頭の解説の年中行事には七夕もないが(?)。
んが、ちょっと気になる話があるのだ。この先オーラスになる市川のミステリースポット「八幡の薮知らず」には機織姫の伝説がある(後述)。この辺りも古くは八幡宮の神域だったと思われ、あるいは何か引いているものがあったりするのか、というのがあったのですな。
今やニッケコルトンプラザという全開バリバリの郊外型ショッピングモール内なんで、何がどうという感じもしなかったけれど。まぁ、日陰に座れたのはありがたかったです(笑)。
もう一件、ここには「鬼高遺跡」という古墳時代後半の集落跡が見つかっている、という話がある。あ、ちなみに「鬼高」というのもすごい地名だけど、これは隣接する鬼越と高石神という地区から一文字ずつとって新しい地区を作りました、という地名で古くはない。
で、その鬼高遺跡(左地図)なのだけれど、きわめて低い水辺の集落例として大変重要な遺跡であるとされる。どうも、海に杭を打ってその上に住居はあったらしい。地図のところ行っても(実は少し前に図書館と併せて既に行っている)公園があるだけだけど。

▶「鬼高遺跡」(市川市公式サイト)

後の国府にも近いこの場所に、古墳時代の完全無欠の大きな漁撈集落があったというのは、この後も陰日向に参照すべきことになるだろう。現在の地勢と大きく離れたイメージが必要とされるところでもある。

鬼越:神明寺

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鬼越(おにごえ)という土地には「鬼越山神明寺」というモノスゴイ名のお寺がある。ここに「鬼越とは何ぞや」に関する一つの伝説がある。実は鬼越という特異な地名ではあるのだが、なぜそういうのか確たる伝というのはない。漠然と「鬼が逃げて越えて行ったからそういうんだ」という認識にはなっているが、そういう伝説というのがしっかりあったわけではない。
『葛飾記』などにそうあるのだが、吉田東伍によれば「近世の著撰に係る葛飾記に、鬼越村とは、往昔鬼国の人が鹿島神に降伏して越行きし地なれば、其名あり、云々。すべて葛飾記の一書、妄誕多く、古伝にもあらぬ新意の附会を為し、不経極まれる者とす」と一刀両断である。
もっとも附会とばかりいえない面もあるのだが、それはまたあとで。ともかく鬼越山神明寺であります。ここでは鬼とは小栗判官が乗りこなした鬼馬・鬼鹿毛のことであるという伝が語られるのだ。

神明寺の不動明王:
(室町の世になった頃)その頃、小栗判官という人がいました。この人は知恵もすぐれ、重く用いられて、鎌倉に屋敷を得ていましたが、同僚にやきもちをやかれて、遂に追われる身になったのです。その同僚につげ口されたんですね。屋敷に火をつけられたりしたので、小栗氏は、背中に守り本尊を入れたひつを背負い、馬で逃げたのです。やっと市川の鬼越のあたりまで来たら、底なしの沼にぶつかったんです。小栗氏は、馬に乗ったままずぶずぶっと沼に引き込まれ、もう少しでおぼれそうになった時、守り本尊の不動明王に祈り、無事脱出することができたという話です。
(中略・これにちなんで「小栗原」「ほうがん池」などの地名があり、不動を安置したのが神明寺という)
この寺のわきに、いちょうがありますが、あれが「小栗ほうがん、駒つなぎのいちょう」といわれている木ですよ。ここのいちょうが「めす」(めいちょう)で、市川の八幡神社のいちょうが「をす」(をいちょう)だっていうことです。

市川民話の会『市川の伝承民話』より引用

お話をされているのは神明寺の住職さんなので、寺の伝でありここの不動明王の縁起譚といって良いだろう。写真が鬼鹿毛を繋いだという「駒つなぎのいちょう」で、鬼鹿毛がここを越えたので鬼越山と号し、鬼越村なのだ、という話になっている。
立派な気根でありますな。母乳の出ない母がこれを削って煎じて飲んだりという民俗信仰物件ともなる。これからは気根とは、と説明する時にこの写真を使おう。

ともかく、これらの伝説も、もちろんいつかのときに語られた物語ではあり(おそらく神明寺の開基は次の神明社の創建と同じく近世初頭であると思われる)、鬼越の地名が先にありきなのは間違いないが、何故小栗判官がここで語られるのかという点には興味がある(ちなみに神明寺は真言宗のお寺)。

鬼越:神明社

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お寺の前から横を見ると、京成線を渡った向こうに杜が見えて、そこが鬼越の鎮守「神明社」さんであります。神明寺・神明社はもと一体。このあたりにも社寺が一体だった様子がよく見えておりますな。
ていうかよく神明寺・神明社で通ったね(笑)。古老の伝では七百年前に鎮座というが、元和二年勧請の石碑があるそうで、神明寺共々その辺だろう。御祭神はこちらは豊受大神ではなく、天照大日孁尊を祀るとなっている。
神明社さん自体の話は以上で、さらに特筆するような点もない。神明寺の内にあったお社ということに尽きるだろう。ここでは、もう一度「鬼越」とは、という話を蒸し返しておこう。
説としては鬼越は「おにくえ」などといわれ、これは本来崩壊地名なのである、というものもある。んが、ちょっとどのくらいしっかりした調査に準じていわれているのか良くわからない。歩いてみた感じ、そもそも「何処が崩壊するというのか」という平らなところでもある。
また、鬼が越えたという話もいわれのないことではないといったが、上総君津の方、小櫃川流域では「鹿島様」という藁人形を神社前や道辻に据えるが、秋の月見の時期に関連して厄を追放する団子のぶつけ合いがあり、「カシマが勝った、鬼が負けた」と掛声をかけて行ったという(『君津市史 民俗編』)。すなわち鹿島の神が土地境から鬼を追放する、という儀礼であったわけで、これは先に吉田東伍が一刀両断にしていた「鬼国の人が鹿島神に降伏して越行きし地なれば、其名あり、云々」という話と一致する。鬼越が境界を意味する土地名という線はあり得るのじゃないか。
市川の国府のあった方からすると、概ねこのあたりが江戸から続く平野の終端であり、この先船橋はもう内房の海浜の土地ということになるだろう。鬼越辺りが象徴的な「境」であった可能性はあると思う。まぁ、初見でどうこうという話でもないけれど。
話かわって神明さんは境内に色々と興味深いものがあるのでそれらも順に見ていきたい。
まずは狛犬さん。関東的な獅子山に、瀬戸内のような玉乗り狛で、お顔は難波風という多國籍な狛犬どのであります。古くはなかろうが、この辺もお伊勢参りの船の出た行徳周辺という文化流入の地の面目があるのかもしれない。
何というかはじめからこれ獅子山に載せようとしたのだとしたら大したセンスだね(笑)。
裏手の方には富士塚がある。登拝記念の碑が林立していて、講が盛んだったのが分かる。上総市原の方はどこの神社にもあるという勢いだったけれど、この辺からそうなのかしらね。
記念碑の一つ。昭和四年とあって新しく、彫り物もくっきりしている。「不二」の不の字が「ふ」のようにつくられるのですな。江戸っ子はこういうの好きだわよね。
そして、表記がないので確実ではないが、こちらおそらく「与力社・与直社」という祠。『神社名鑑』には神明さんよりこちらの与直社のことが詳しく書いてある。
「境内に与直社(与直大神)がある。江戸の世直に関係ある事は明白であるが、これを村人代々与直社と称した事は意味深い。さらに建設寄進金の拠出が地区の上層の者にまで及んでいる事も注意を引く。並立して全く同型の与力社がある。与直社と与力社の関係は不詳。/『千葉県神社名鑑』」
なのだそうだが、また、土地の伝ではこれを「世なおしいなり」だといっている。『神社名鑑』にいう「寄進金の拠出が地区の上層の者にまで及んでいる事」はその話を見ると「なるほど」ということになるかもしれない。

世なおしいなり:
鬼越の神明神社に、「世なおしいなり」が祭ってありますね。あれは江戸時代に、「ええじゃねえか、ええじゃねえか」って、おどりながら大じん(金持ち)の家におしかける運動がおきたんです。それで、おかゆなんかを出してもらって、今でいう、ほどこしものですが。大じんの家の倉をあけて、おかゆをたいて、みんなにふるまったんです。しゃもじなんかをふりまわして、おどりながらおしかけて、……(中略)……一揆とはちがうようですね。おかげ参りだといって、伊勢神宮をめざしていったんです。えらいさわぎだったっていいますけど……鬼越に、字で、「世直」という所があるって話ですよ。

市川民話の会『市川の伝承民話』より引用

ということでお大尽に祠を造るように迫ったのだろう。現状何処だか分からないが、世直という字まであったというのだから(どちらが先かはわからんが)、これは随分と興味深い事例ではある。この辺追う人はぜひお参りしたいお宮でありましょう。
さらにこちらは鳥居くぐってすぐの境内社。写真左は背を向けていて、境内の外からお参りするようになっている道祖神社さん。で、手前のお宮なのだけれど……
何でしょうかね、こちらは。このお宮は普通に天満天神さんでありまして、特にどうという話のあるものでもなく、もとからこの石を御神体としていたとも思えないのだけれど。
そして外側から参ることになる道祖神さん。ここはですね、先述の通り足の神で草鞋の奉納もあったのだけれど、同時に「耳の神様」として祀られてきたという所。ちょっと前の土地の民俗史料の写真には「底に穴を開けたお椀」がたくさん奉納されている様子が写っている。うーん。一個もありませんでしたね。お宮の中にあるのかね。これも今は昔の話となったのですかしら。んが、目を引く点もあった。
もう一度写真を見ていただきたいのだが、台座に三日月の紋が入っている。これはなんだろう。まさか、常陸から両毛の方にかけて見られる三日月さまだったとかいうんじゃないだろうね。三日月さまは耳というか疣取りとか眼病治癒とかではあるが。むう。

高石神・高石神社

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高石神という所へ。また凄い土地名だが、「高石神社」が鎮守さんであり、ここの石神「高石神」ありきの土地の名であるといわれる。これは鬼越からの分村が明治に入ってのことであり、各書異論がない。またここも寺墓と並びで社地がありますな。
んが、石神を祀るという点では一致するものの、その由来に関しては話が錯綜している。『神社名鑑』には社伝として「南総大多木城正木内亮時総(正木時茂のことか)が故あって奇石を得、これを祭った」のでそういうとある。
土地の伝では「神功皇后が三韓征伐をする時に身ごもっていたそうです。そこで、出産しないようにと、石をだいて出かけたのでした。そのだいた石をまつったということですよ」というような話になっている。御祭神は神功皇后なので、いわれのない話でもない。
そんな感じで良くわからないのだが、御神体は石棒・陽根石であるという。多分現在社殿の中に祀られているものはそうなのだろう。今はひとまず「里見氏がらみの話が出て来たな」くらいに思っておこう。
ここでスペア。高石神社さんは御本殿の前にも狛犬どのがいて、これこうして御本殿の方を向くように据えられている。まぁ、本殿は覆殿の中だけど。
こんな風に本殿つきの狛は前を向くのじゃなくて御本殿の方を向くように据えるものだ、といわれるのですな。こちらとて狛犬像そのものは本殿狛として造られたものというより、普通の拝殿前の先代という感じだが、向きは意図的といえるでしょう。
こちらは奥にある山王さん。どう見ても境内社にしか見えんのだが、市川市の神社一覧では別扱いで「日枝神社」になっている。委細不明。『神社名鑑』にはない。

中山:安房神社

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高石神から中山の方へ行くと、「安房神社」さんが鎮座されている。この辺りでようやく真っ平らな土地ではなく上り下りが出てくる。ここは里見氏の里見安房守を祀ったお社。
『神社名鑑』にはほとんど何も書かれてないが、社頭掲示が詳しい。江戸時代には「安房の須明神」と呼ばれていたそうな。元地はここではなく、中山小学校の辺りだったそうで、村内の妙見・大宮・山王各社を合祀して大正四年に現地に遷したという。
今回はメインの場所ではないのでその話は端折るが、市川は安房からの里見氏(に合力していたのが三浦氏から出た正木氏)の勢力と後北条氏が繰り返し激突した土地故に、ちなむ文物があれこれある。先の高石神社もそうかもしれない。
いずれにしても「安房神社」といっても古代の安房忌部とかに関するわけではないということであります。忌部系の神を祀るということもない。まだわからんが、どうも市川辺りは日本武尊や弟橘媛や忌部的な話は薄い(ない?)。お酉さまの大鷲さんとかはあるけどね(多分古くはない)。
上総から浅草への間なのに何でだろね、という感じであって、意外とこれは重要なことかもしれない(と、今思った……笑)。日本武尊空白地帯の市川、か。なんか意味があるかね。

北方:八幡神社・子之神社

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行く道に「八幡神社」。単立小社にて委細不明。ここはもう北方なんかね。
こう登った先で、登ってしまうともう写真を撮る余裕はないという社地。この感じはもう明らかにここまでの神社と異なる。

向かっていたのは北方という土地の「子之神社」さん。こちらも登った先。平地の終端、という感じが良くわかるお社といえましょう。
ていうかこちらも御社殿は大変立派なのだけれど、登りきってしまうと写真撮るスペースがない立地。これにて御免、という。
で、ですね。ここの子之神社さん、創建を文永年間というのですよ。文永の役の頃だというのですな。これは「子之神」を考える上では大問題なのであります。大体関東の子之神の社は後北条氏の領地に分布しており、創建もその頃を伝えるところが多い。これが文永創建の子之神があるとなると、後北条氏由来という仮説は木っ端みじんであります。まぁ、同地の旧家の守護神だったということで、家の由来とこんがらがってるのだとは思うが。
また、北方(きたかた)の地に鎮座するのは子之神がふさわしい、ということだと思われ、やはりそうは遡らないと思うけどね。ちなみに北方村は古くは「ぼっけ村」と訓じた村だったのでした。 登ったおかげで予想外の見晴らしを得るの図。
鳥居脇に居る狛犬さんも。これは「ぽちゃ狛」の系統かもしれんね。後ろが繁みで後ろ姿とか良くわからんけどね。
少し地形が気になる所でもあった。写真右側が微高地になっていて、このような境界が長く続く(子之神社はこの先を右に登る)。もっと詳しい民俗調査報告とか出てくるようなら、何かあるかもしれない。

八幡(古八幡):十二社神社

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北方から八幡エリアに向かっておりますが、途中に「古八幡」のバス停が。あたくし迂闊にもおろかにもこの小字をここまで知らんで来てまして「あ?」とかなっております。
近世まで、この一帯は古八幡村であったという。今は大字八幡(やわた)に入っているが、単純に考えたらこの先の葛飾八幡宮はこの古八幡の地にあった、という意味なんだろうか。古八幡がなぜそういうのかという話が見付からなくて良くわからない。

そして、そうなってくると俄然重要度が増しますのが、この古八幡地区の鎮守であったという「十二社神社」さんであります。えぇ、市川市のサイトにも「古八幡村の鎮守」と書いてありますね、えぇ(笑)。
だがしかし、ここ十二社神社は詳しいことがまるで分からない。『神社名鑑』には由緒の項目すらない。御祭神は「十二社大神」とある。市川市サイトは「天神5社、地神7社、合わせて12社を祭神とする」とあるが、これは十二社(所・天)神社は一般に、という意味合いクサい。
もし古八幡が葛飾八幡宮の旧地を意味するのなら、この十二社神社が元宮の末という可能性もあるのだが、如何せん情報がないのであります。大きな保留ですな。
ところで下調べで「おぉ、中々格好良い昭和狛のある所ですなぁ」と期待していた所ではありました……んが……これは……これは修繕とかではなくいたずらによる汚れと見ゆる。うーむ、これは悲しい。
モノクロにしてみると良くわかるが、昭和の作ながら中々バランスがよくまとまりかつ独特な風もあるという狛犬どのなのですよ。これはイカンなのであります。
気をとり直して、境内石造物群。手前から二番目は如意輪観音さんだが、いかにも「歯痛の神さま」となっていたような雰囲気ではある。そのケースは結構あったはずなんだけどなぁ。今ひとつ確認のしようがない。
そして境内社の天満天神さん。小さな石祠ながら立派な鳥居付きで柵に囲われ、何かいわれのある天神さんなのかもしれない。
こちらの天神さんの祠前に、これこうして小さな撫で牛があったのですね。これは撫で牛に相違あるまい。小さな撫で牛というのははじめて見たね。

葛飾八幡宮

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さて、こうして最後にやってまいりましたのが、下総の八幡の頭領でありますところの「葛飾八幡宮」さまであります。さすがの大鳥居もこれ二之鳥居であります。
ちなみに「市川市」ではあるのだけれど、市川駅のある大字市川の方は中心ではなくて、この八幡地区から先の鬼高地区にかけて市役所からなにからと固まっていまして、すなわちここが市の中心であります。なので葛飾八幡宮は古今名実共に市川を代表するお社なのですな。
参道には立派な随神門も。非常にお寺っぽい造りだが、近世までは別当・八幡山法漸寺の山門だった。もちろんそれまでは中にいたのは仁王さんだった(今は随神像)。
本社殿の前にはさらに御神門が構えられる。香取神宮・千葉神社に次ぐくらいの存在なんだろうかしら。境内各所に「下総國総鎮守」とあった。
葛飾八幡宮の由緒は寛平年間に宇多天皇の勅願により下総國総鎮守八幡宮として御鎮座と大変リアルな話であって、その通りだろう。
以降、平将門の奉幣があり、源頼朝が千葉氏に改築を命じ、太田道灌が修復し、徳川家康が朱印地を寄進しと、関東の重要社の面目をコンプリート状態であります。
ところでこの葛飾八幡宮の由緒は、意外な所から見付かったのだが、これが結構興味深い話。寛政五年に社殿西側にあったケヤキの枯木が大風で倒れ、その根元から元亨元年在銘の梵鐘が掘り出されたのだ(県指定文化財)。この鐘に由緒が刻まれていた。「鐘が埋められていた」のですな。
また由緒の中には当時の立地が「前横巨海後連遠村魚虫性動」と刻まれており、海に面した社であったことが分かる。相模総社八幡・平塚八幡宮や、武蔵総社八幡・磐井神社もそうだった。上総(飯香岡八幡宮)もそうだと言えるだろう。
こういった東国の鎌倉以前からの八幡さんとなると、どこも「八幡さん」では捉えきれない面があるものだが、ご多分に漏れずこちらもこうして烏が掲げられ、使神なのだという。どういう話なのだろうかね(不詳)。
先の古八幡や、次の八幡の藪知らずなどとも関係するだろうが、遷座があったのかというのも問題だ。今本社殿脇に聳えるのは国指定天然記念物の「千本公孫樹」だが、樹齢は千二百年以上だという。
これが当初よりの御神木なら国府の八幡としての葛飾八幡はその当時よりここにあったのだろう。ならば、元地の伝があるとしたら「それ以前の何か」をいっている、という可能性もある。
国造時代の下総は千葉郡に千葉國があって、印旛郡の方に印波國があったというが、市川市域というと良くわからない。市川市域には一般に式内社・論社もない。国府域に古墳はあるのだけれどね。国府以前の何かがあって良いのじゃないかと思うのだが、この八幡にその面影はあるだろうか。
さらに境内のあれこれもちょろっと。そんな難しい話はともかく力石はあるのが市川の社。八幡は八幡宿という宿場として賑わいもしたところ。
片隅には先代の狛どの。これは大変凛々しい狛どのであります。獅子山に載っていたのだろうね、このスタイルは。
現在随神門前で踏ん張っておるのはこちらの狛どのであります。江戸のものだが、古代的な雰囲気をまとった実にどっしりとした一品。こういう作風に倣ってくれんかな、現代狛も。
まぁ、市川といったら半ば東京でありまして、そうはいってもそうそう土地が豊富なわけでもありませんので、参道は京成線に横断されてしまっている。最初の二之鳥居は少し引くとこんななのです。
それでも国道14号線のところまで一応参道の結構になっていて、国道に面して一之鳥居もあります。で、ですね。「八幡の藪知らず」の杜は、もうこの一之鳥居から国道渡った斜め対面にあるのですよ。連続しているのですね。

八幡の薮知らず

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その「八幡不知森」。通称「八幡の薮知らず」。簡単にいえば、入ったら出て来れなくなるといわれる杜、ないし入ったら必ず祟られるという杜であります。
現在も生け垣に囲まれ、立入り禁止。ご多分に洩れず現代の心霊スポットとしても名高いそうな。ともかく、生け垣前にある解説から抜書きして概要を紹介しておこう。

(江戸の書物に多く紹介されたものだが)一様にこの薮知らずは入ってはならない所、一度入ったら出てこられない所、入れば必ず祟りがあると恐れられた所として記載され、「諸国に聞こえて名高き所なり」と言われて全国的に知られていました。
入っていけない理由については、
・最初に八幡宮を勧請した旧地である。
・日本武尊が陣所とされた跡である。
・貴人の古墳の跡である。
・平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある。
・平将門の家臣六人が、この地で泥人形になった。
……と、いろいろ言われてきました。中でも万治年間(一六五八〜六一)、水戸黄門(徳川光圀)が薮に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。

解説案内より引用

ということで、要するに禁足の理由は近世には最早良くわからなかったのであります。この他、八幡宮の放生池があったからだとか(実際中央部は凹んでいるそうな)、入会地であったからだとかともいわれる。
しかし、土地の人は実際「入ってはならない」と強く信じていたといい、ボケちゃったお婆さんが入ってしまったのを連れ出すようなことも、誰も入ろうとしないので大変なことであったという。

そんな八幡不知森なのだけれど、こういった禁足の杜というのは別にそう珍しいものではない。
たとえば伊豆下田の柿崎三島神社の後背の杜は「しゃだん」といって木を刈ると罰があたるとされ、手入れもいけないのだといっていた。相模の津久井の方でも手入れして社殿を新調した人が死んでしまった弁天さんの杜、なんぞという話を紹介した。

▶「中野神社境内社の弁天さん」(旧津久井町)

駿東御殿場にも一族の守る杜だけれどその頭領でさえ迂闊に入ると祟られるという第六天の杜を持つ家もあるし、常陸の方も広がる田畑の中にぽつぽつと意図的に残された森がある。で、このような禁足の杜も複数の種類があるようで、その点を少し述べておきたい。

少し前はこのような杜は概ね墓地であり、祖霊の空間であるから忌むのだという見解が普通だった。実際墓地であることが多く、これはこれまでも見かけるたびに紹介している。んが、よくよく調べると「祖霊信仰」に皆ひっくるめるわけにはいかないような例もあることがわかってきた。
よく知られるのは南薩の方の「もいどん(森殿)」で、指宿の方の一族は昔は大概もいどんという杜を守っていた。外の研究者からは、これも祖霊の杜であろうと考えられていたのだが、実地を詳細に追ってみると、もいどんに墓地はなく、むしろ墓地は離れているケースの方が多い事が判ってきたのだ。
しかし土地を拓いた一族の祖に関係する信仰ではあるのであり、このことを受けて下野敏見氏などは、もいどんとは開拓によって住処を奪われた自然神を封じる杜なのだろう、と見解されている。これは「ナルホド」という話なのであります。
この線で見れば、人の感覚で手を入れてはいけない、やたらと祟る、しかしなければ土地は枯れてしまう、という禁足の杜の性質がどういう由来なのかが良くわかる。大体手を入れると祟るというのは祖霊信仰では良くわからない点ではあった。
現在の八幡不知森は枯れた竹が折り重なったりして、実にそのような感じではあります。この杜がそのような由来を引いている存在なら、ここも国府の八幡以前のこの土地の何かを語る所であるかもしれない。

ところでそれはそれとして、また一方で「古墳」や「池(放生池)」というキーワードの方にも引かれるものがある。この杜にはまた、機織姫の伝説もあった。

やぶしらずの機織姫:
やぶしらずはもっと広かったようです。ぼうぼうとしてまして、入ると出られないといわれていました。むかしあの中に機を織っているきれいな娘さんがいたそうです。夜中になると、機織の樋を近所へ借りにきたということです。調子が悪いからといって。貸してあげると、こんど返しにきたときは、いつもその樋に血がついていたということです。これは、姑さんからきいた話ですが、血がついていたわけはきかなかったんです。

市川民話の会『市川の伝承民話』より引用

ということでニッケのおりひめ神社の方で気にしていたのがこれですな。こういう話もある杜なのだ。それで一体この杜はなんなのだというのも俄に「こうだ」というわけにはいかないが、いずれにしても官社としての八幡が抱えきれなかったものがある杜なのだという感じはするだろう。
もっとも(おどろおどろしく書かれているものも多々あるようだが)、今この杜は横から見たらこのくらいで、江戸時代既に「余り大きからず」と書かれているが、さらにこじんまりした所ではあるのだけれど。
目の前は国道で渡ったら市役所、南側は本八幡の繁華街ということで、今やもうそれほどアヤシくもないのだけれど。まぁ、これ以上の縮小はなさそうなので、まだまだ訪れて「こりゃ一体ナンだべな」と考える機会はある事でしょう。

と、そんなところでこの南側すぐの本八幡駅から帰途について、市川をあとにしたのでありました。このくらい見て回ったら、まぁ、ひとまずは「下総リスタート」という感じにはなっているだろう。この先には今度は国府域があり、反対側には千葉氏の拠点があり、北には将門と、ここから何処へ向かってもより大変なんだけど(笑)。万葉ファンからは手児奈はどうなっとんじゃとかありましょうし。
まぁ、その辺りはまたの下総行にて。

補遺:

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下総行:市川・連 2013.08.31

惰竜抄: