駿東行:裾野

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.07.27

今回は静岡県裾野市の神社巡りへ。御殿場の南ですな。御殿場行の続きにするかどうか迷ったのだけれど、ひとまず大雑把にでも三島・沼津へと繋げておこうと、そんな感じであります。個人的に「裾野市」という場所と縁がなかったので良くわからん、というのもある。西相模からぐるっと北回りで御殿場までは何かと行く機会もあり、なんとなく知っている。南回りで三島・沼津も行く機会があり、なんとなく知っている。んが、その間の裾野市が空白だったのですな。
で、裾野に行ったらとりあえずぐるっと繋がるじゃないの、という。ということで前回駿東行の御殿場の話と直で繋がるというわけではないのだけれど、とりあえず。

▶「駿東行:御殿場」(2013.05.25)

「裾野」というのも、まぁ、富士山の裾野だからそういうので漠然とそう呼ぶことはあったのだろうが、裾野村とかいうのが江戸時代などにあったわけではなく、御殿場線の佐野駅が裾野駅に改称し、さらに後に裾野町ができて公的な地名として用いられはじめるのはもう昭和の話であります。それまでは、今回見ていく各大字がそのまま駿東郡の○○村としてあった。要するに強力な「中心」というのが希薄な所で、今でもそんな感じがあるように見えましたな。そんな裾野市の、今回は黄瀬川の東側を辿ったのであります。

岩波と「だたら」

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「あついですねぇ、おとうさん」「ゆうたらよけいあつくなるから、やめ」……というのは 鳩さんではなく、あたしの隣に腰掛けていた老夫婦の会話(笑)。

御殿場線を岩波駅という所で降りると、そこは大字岩波というところ。夏ですね、えぇ、えぇ。爺さんは言うと余計暑いといったが、暑いのですね、えぇ、えぇ。
集会所兼薬師堂という感じの脇の道祖神さんも、木蔭になっていない方は半分暑さでとけちゃっているように見える。大分あたしの頭の方が早くもとけてしまっているという説もある(笑)。
一転涼やかな。ここ岩波は、まさに「岩の波」というような地形からそう呼ばれるのだという。文政の地誌『駿河記』にも「此地巌石多く、波の形ある故に村名に負う」とある。
駅からすぐ西側のこれは黄瀬川なのだけれど、まったくそのようであります。で、このような岩盤は富士山・愛鷹山からの溶岩が形成したものだと考えられてきて、それが露出しているものを土地では「だたら」と呼ぶ。
この「だたら」が裾野では大変重要なのだ。これは単に特徴ある景観をもたらしている、というのにとどまるものではなく、この土地の根底を規定してしまう「縛り」だった。
つまり、どこを掘ってもこの「だたら」にぶち当たるために井戸を掘ることができなかったのだ。このブ厚さである故に無理もない。もっと富士山寄りの須山の方では次のようにいう。

このような地中のダタラのことを、須山では集落の下に八里岩という巨大な岩盤があるためであると認識されており、八里岩が三島まで続いているために、この下には豊かな水が流れているにもかかわらず、須山では井戸を掘ることができないという。

『裾野市史 第7巻 資料編 民俗』より引用

三島の方じゃあ、じゃぶじゃぶ綺麗な水が湧くのに、おれらが土地は……という感じだったのですな。黄瀬川も写真のように岩盤を削って流れるので、そこから水を引くというわけにもいかない。まったくこのあたりは田を作るというようなことには不向きな土地だったのだそうな。
火山といえば、こうしたおそらく富士山からの火山弾が石造物に混じって祀られているようなところでもある。ちゃんと榊もいけられてまして……なんと呼んでおるのかね。
こちらはバッチリ台座まで設えられていて、たまたま転がってるからついでに並べとこう……というレベルの話ではないことが明らかだ。まぁ、小田原の方でも火山弾を御神体としている浅間さんとかあるので不思議ということはないが。

深良用水・蘆之湖水神社

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そんな感じの土地でありまして、まっこと水には苦労したところなのだけれど、江戸時代になって「指をくわえて見てたってはじまらねぇ(といったかどうかは知らないが)」ということで、東の箱根芦ノ湖の水を引いちまおうという一大事業に取り組んだ人が出た。
これが寛文年間に五年の歳月をかけて完成しました「深良用水」。大庭源之丞という人がその人で、浅草商人友野与右衛門の協力のもと、なんと1280mにおよぶトンネルを掘って水を引いた。芦ノ湖の方からと深良の方からトンネルは掘られていき、見事に中間で繋がったのだそうだが、これは当時の用具・測量技術を考えると驚異的な成果であったという。
ともかくこの水で田んぼが作れるようになり、上写真のように下っても水力発電などで活躍しているのであります。

深良用水は公的にはそういうが、地元では箱根用水とか芦ノ湖水などと呼び、遡っていくとその名も「蘆之湖水神社」というお社がある。大変地味。入り口の目印は道祖神さんですな。
しかし通りから入っていってくぐる鳥居は何とも絶妙な(すぐ脇に電柱があるのが泣けるが)。鳥居脇の大きい楠とかいうのは実に安定感のある配置ですな。最強ユニットといえよう。
神社自体は単立社で詳しい由緒などはわからないが、そう古いお社ではなく、おそらく用水を点検する(今でもトンネルに入って点検する)芦ノ湖水利組合の人たちが点検作業の安全祈願のために箱根神社から勧請したものだろう。
ここで祈願した後、奥のトンネルへ向うのでしょうな(社地の脇を用水が流れている)。昔は管理団体を「井組」といったそうな。そのままのが格好良かったような?ともかく、そのような深良用水の守護神様なのであります。
故にこの竜どのも箱根芦ノ湖の竜神を意味するのであります。実はですね、周辺の人には当たり前の話なのだけれど、神奈川県箱根町の芦ノ湖は、その水に関しては所有権が静岡県裾野市の方にあるのですよ。

駒形神社

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かくして、芦ノ湖の水がこの稲作不毛の地を田んぼの広がる風景に変えていったのですね。そう思うと田の脇の馬頭観音さんにも「駒形」の意味があるように見える。
そういうお社が鎮座されているのであります。いやあ、鎮守の杜に脇を流れる用水に手前の道祖神さんと、まったくこの土地の基調であるような光景ですな。

下ってきたここ深良用水近くの杜には「駒形神社」が鎮座されているのだ。駒形神社というのも、東北方は駒形蒼前の神であったり、高句麗─高麗(こま)から転じての駒形の神であったり各地で色々ではあるが、箱根周辺ではつまり箱根権現のことだ。箱根神社の本宮が駒ヶ岳という山上にあるので、勧請する際はどこも駒形社となる。
ここは深良地区の小字原・須釜という地区が祀る(土地では小字地区を「もより」と呼ぶ)駒形さんで、ちょっと現状由緒など不明なのだけれど、おそらく深良用水開通に併せて勧請された箱根駒形の神ということに相違あるまい。
というか、こんなに大きなお社だと思ってなかったので、ちょっとびっくりモードであります。深良は上下に分かれてそれぞれ中心的なお社があるが、ここはそういうわけでもないのだが。ていうかこれはちゃんとした由緒があるはずだな。

駒形八幡神社

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また、岩波地区の方へとちょっと戻っても「駒形八幡神社」さんが鎮座されている。小さいながら、こちらが岩波の鎮守さん。岩波という土地は、一時深良に組込まれたりもしたが、そもそも御殿場市域の神山という所の人たちがやって来て拓いた土地なので、深良とはちょっと一族構成が違ったのだ。結局今はまた分かれている。
で、こちらの駒形八幡さんは明治時代の明細帳に寛文十二年の創立とあり、これは深良用水の完成した年であることから、箱根の水が来たが故に箱根駒形の神を祀ったのだ、という経緯がはっきり見えるお社であります。
御殿場の二岡神社さんの方で、駿東は富士の裾野ではあるけれど、実は特に東側は箱根と結びつきが強い所もあると指摘したが、深良用水の恩恵のある地域には輪をかけたものがあるといえましょう。

▶「二岡神社」(駿東行:御殿場)

かつての「井組」である芦ノ湖水利組合は今でも必ず箱根神社に初穂料を納め、湖水際には出席する。この地にはそういう側面があるのですな。

そんな感じで、まずこの土地は「だたら」の存在によって水を得るのが難しい土地であったこと。そこに近世箱根芦ノ湖の水を引いて用水を張り巡らして水田を広げていったのであること。という二つの土地を見ていくための基本的な視点を得ることができたのであります。以降、この点をよく頭に入れつつ、続く風景を見ていきたい。

はでゃー・じんだいぼり

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また、この地の田んぼと湿地に関して少し補足しておこう。深良用水ができるまでは稲作不毛の地ではあったが、まったく田がなかったわけではない。今どこがそうだったかはわからないが、「はだい」という深田があった。「だたら」がずっと広がっているといっても「穴」はあって、そういう所は深い湿地であったという。そういう湿地は「はでゃー(おとなしくいうと「はだい」)」と呼ばれ、胸まで浸かるような深い田となっていたという。
「はでゃー」に猪や鹿を追い込んで進退きわまったところを狩ったりもしたそうだが、興味深いのは「神代杉」という木材がこの「はでゃー」からは得られた、という話だ。伝説ではなく、事業となっていた実際の話であります。

ダタラのような溶岩があるところは、固い地表のところであったが、湿地帯では地中からジンダイスギ(神代杉)と呼ばれる杉が搬出されることがあった。神代杉については、かつて、富士山や愛鷹山の噴火とその溶岩流が川の水をせき止めて池を作り杉の大木が水没したために、神代杉として地中に残ったと考えている人もいるようである。

『裾野市史 第7巻 資料編 民俗』より引用

このような杉を掘り出すことを「じんだいぼり」といい、深良でも農閑期には盛んに行なわれたそうな。このあたりの深田には、こういった側面があった。

ところで、富士山からのきれいな水(富)は「だたら」の下を流れて三島へ行ってしまう、という感覚があったことは指摘した。しかし一方で、その「下層」からは神代杉という「富」が得られもしたのだ。このことは、もしかすると「だたら」の上と下、という区分の他界観をこの地に生み出していたかもしれない。もう一つ興味深い今度は伝説を引いておこう。黄瀬川の丁度向こう辺りになる上ヶ田という土地の伝。

上ヶ田のハデャー(「ハダイとも)の水源である早乙女ヶ池で昔、田植えをしていた娘が潜ってしまい、三嶋大社の小浜池に出たといういいつたえがある。

『裾野市史 第7巻 資料編 民俗』より要約

田植えに際して早乙女が消えるという伝承は各地にあり、例えば山陽の方では田植えの時季になると村から年頃の娘が一人消えて行くというし、鹿児島では田の神さまをつくるとその村の娘がいなくなる、などという(下野敏見『南日本民俗の探究』八重岳書房)。
あるいは夕日を引き戻して田植えをして死んでしまう娘の話や、おなじみの水乞い型の蛇聟譚の娘なども連絡していくだろう、田植えは神事であり早乙女は巫女だったという側面を物語る一話である。その娘が「だたら」の下へ潜ってしまい、この地最大の神地三島大社の池に出た、というのが重要だ。現状しかとそれを示す何かを見つけた、というわけではないが、この地の他界観には「だたらの下」という要素が大きくあるように予感している。それは、先に行って見るこの地の葬礼供養を考える際にも、よく意識しておく必要があると思う。

上丹:大神宮

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さて、行程に戻りまして、ここは深良の小字(もより)上丹という地区で、田の中の写真の杜に鎮守さんがある。ぐーぐるマップに表示がなかったが、まぁ、迷いようもない感じであります。

ここは上丹(じょうたん)の鎮守社「大神宮」さんという。地図になくてもちゃんと法人社のお社で、神明さんですな。由緒沿革などは不詳。んが、少し気になるところがある。
まず、この次に見るが上丹は鮎澤御厨を管理していたと思われる大森氏の屋敷があったと伝える地。深良地区までが鮎澤御厨であったと考えられており、つまり鮎澤御厨の南境に近い位置であるという点。御殿場沓間の神明宮が御厨絡みで存外に古いかもしれない、という話はしたが、ここ上丹の大神宮も似たポジションであった可能性はある。

▶「沓間:神明宮」(駿東行:御殿場)
そして、深良というのは広いので、小字まで分ける前に「天田上・天田下」と南北に分けるのだが、天田上をこの大神宮さんが代表している面がある。またこれも後で詳しく述べるが、この地は「吉田さん」という吉田神社の神輿が一年ごとにぐるぐる回っている土地なのだが、天田上はここ大神宮さんにその吉田さんが置かれる。写真がその覆屋ですな。今はここの担当でないので空でありました。
この二点を考え合わせると、上丹大森館(があったとして)の守護神である古社でした、という可能性がなくはない。その点が気になるので、大森氏絡みでこの大神宮はチェックしておきたい。大森氏の館という場所はここだけでなく市内に幾つかあるのだけれどね。

上丹古墳

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その大森氏の館跡ではないかという場所を上丹屋敷(もよりとしては隣の原地区だと思うが)といっており、『駿東郡誌』には「此地は往昔大森郷と稱し、大森氏此に住せり」とある。で、ここにある塚はまた古墳ではないかともいわれる。
『裾野市史 第1巻 考古』には実際「上丹古墳」として記載されている。んが、正確な場所が分からんでなぁ。道行くおっちゃんに訊いても「んー?大森さんの館ってのはもっと南の……(南の興禅寺の方が有名なのだ)」という感じで、土地の人もよく知らんところらしい。うろうろしつつ、「あ、ここに違いない」という「そういう(館関係)苗字」を刻んだ墓地があって、近所の婆ちゃんに訊いてみてようやく分かった。「ほれすぐそこの、こんな、こーんな(と頭上で三角をつくり)のがあんべえ?」ということで、ひとまず行きつきはしたのでした。
しかしですね。その『市史』には裾野市内で現在墳丘の残存する唯一の古墳であるとあるのだが……これは……どうなのかね?
例によって「いじると祟る」といわれて手つかずで保存されてきた塚であり、掘られていないので何ともいえんのだが。先の婆ちゃんにも「塚はありますか」と訊いたら「おぉ、古墳見に来たのか」といったので、古墳という認識ではあるようだ。
市の調査でそうなったのじゃないかという気もするが。やはりこれは「古墳ではなく大森館の土塁の残存」だと見る向きもあり、見た目はその観が強い。先にいったように、実は隣接してそれを継承していると思われる一族の墓地もあるので、第一のキーワードは古墳というより大森館と思った方が良いかもしれない。

道行き

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道行きにまた不思議ポジションと化している如意輪観音さんが。石仏として置かれているのかね。道祖神さん化しているのかね。歯痛の神さま化しておらんだろうか。
さらに道行き道祖神さん。後ろは休耕田なんだろうが、どうも単なる空き地というより芝生で覆われている場所が目についた。ここはのび放題という感じで半ば草原化しているが、もっとゴルフコースかよ、という所もある。
また行く先には「日蓮上人車返しの趾」なるお堂もあった。あまりあたしの探求線上にあるものとは思えんので特に調べていないが、こういった旧蹟はどこも古くからあった道筋を辿っている、ということの目安になるのです。
同じことは道脇現役ポジションに据えられている道祖神さんなどにもいえるのだけれど(つまりこういう文物が何もないようだと、新しい道を来ちゃってるなぁ、と考え直すことになる)、しかしこの道祖神さんはこれまでありそうでなかった完全に道標のようなタイプですな。甲斐郡内の方は四角柱の道祖神さんが多いが、こんなに背が高くはない。正面以外はもう劣化していて文字があったかどうかもわからなかったけどね。

赤子神社

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上丹から南西の方へと進みますと、「赤子神社」さんという不思議な名のお社がある。「あかご」神社であります。
いきなり超夕方かよという感じですが、夕方なんです(笑)。暑さでやられたのか、あたくし赤子さんすっ飛ばして南下してしまいましてねぇ……orz
最後に気がついて慌ててバスで戻って来たのでした。ということでちょっと実際の行程とずれとりますが。
神社の規模からここが深良天田上を代表するお社と思われることもあるそうだが、ここはもより上原と新田地区の鎮守ではあるが、天田上を代表するということはない。先に指摘したように、「吉田さん」も上丹の大神宮の方に置かれる。
しかしそれはともかく、こちらはこちらで不思議なお社であります。名のとおり、基本的に産育祈願が行なわれるお社ではあったようだが、際立った風習などがあるわけでもなく、土地の子安信仰の要かというとよく分からない。

むかし、毎夜、この地に光が出て、道行く人が不思議に思って近づいてみると、神さまの像が二体ほどみつかったという。永禄年中に甲斐の武田信玄が攻めて来たときに、その御神体がなくなったが、安永六年に再び見つかったという。赤子神社の神さまは手力雄命と高照光姫命という男女二体の神さまで、一社に二体というのはめづらしいそうだが、力が強く、良い子を育てようということらしいという。

裾野市教育委員会市史編さん室『深良の民俗』より引用

ということで、高照光姫命は『先代旧事本紀』に見る事代主神の同母妹に高照光姫大神命のことだろうか。下照比売命と混同されることもあるというが、まぁ、その辺りの似たような神格ではあるようだ。飛騨一宮に祀られていたりするようだが、いずれにしてもレアな神格をあてたものであります。
さらに、もっとも問題なのはこの赤子さんの伝説・祭神と「似た社がまわりにない」という点だ。今回行程より南の見目神社二社が少し似たところがある事をいうのだが、ともかく出所がどこだという不思議なお社なのであります。ことは子安の女神(ここは基本、浅間・木花咲耶姫の土地であることを思い出されたい)の問題であるだけに、ただ珍しいですますわけには行かない。
ていうかナゼ故にか鳥居前に大黒さんがですね。この辺りもここは道祖神さんポジションなはずだが、なんだろうかね。甲子講でもあったんかね。

道行き・かわばた

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さて、実際にはあたしは上丹から深良用水(深良川)沿いに東の方を南下してしまっていたのでありまして(笑)。川沿いはこんな感じ。ここは今風の整備がなされているが、「川へ下りる場所」が重要な土地でもあった。
道行き道祖神さん。うーむ。手前は少し伊豆型っぽかったようにも見えるね。少なくともどちらも双体像ではないだろう。伏線ですね、えぇ(笑)。
うむ。何故あたしはこの写真を撮ったのかが思い出せん。暑かったしねぇ、色々あるさ(笑)。まぁ、何ともいえずまとまりの良い一品ではある(エラそう)。
さらに道行きの石造物の一群。御殿場もそうだったが、あちこちにこういった一群がある富士文化圏。手前には力石もありますな。となりは道祖神さんだろうが、これも双体像ではないですな。
特にこの庚申さんがステキ。三浦の方とはまた違った意味で、天然素材のワイルドさをうまく取り入れているように見える。
で、ですね。こういった用水に下りていくようにできているところを「かわばた」というのですね。先に述べたように井戸を掘ることができなかった土地なので、用水が巡ったあとも、こういう「かわばた」で万事水を使用した。
すぐ下側のこちらのかわばたは公共性が強い感じであります。裾野の重要な民俗物件ですね。このように用水で家から家、里から里が繋がっているので、疫病的な厄も伝って広がる、という認識があった。この感覚が重要だと思われる。
ところで、先の石造物からかわばたまで同じところで写真を撮りまくっているのだけれど、これはそこにかかる橋の名に驚いた事による。「垢取橋」というのですよ「こりとり」と訓むらしい。オレ様よく気がついたね(笑)。
何らかの神事を行なうかわばたであったのじゃないのかね。深良天田下の範囲の各もよりの神さまは概ね鎮守の深良神社さんに合祀されているが、あるいは近くにお社があったのかもしれない。今は西安寺というお寺が近くにあるくらいだが。

石脇:三嶋神社

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ここでちょっと深良から出まして、お隣の石脇という大字地区へ。お隣といっても深良が御厨圏であったらしいのに対し、石脇はそうではなく、南側の小泉荘という荘園に関係する土地だったと思われるところ。これ重要。
石脇は南北に細長いのだけれど、その北端の方に鎮座される「三嶋神社」さんが鎮守のお社なのであります。
鳥居の注連縄が面白いことになっておりますな。この先この傾向が続くので、土地のお好みかもしれない。棒というか筒のようになっているのも特徴的だが、両端が箒のように作られるところが重要らしい。
で、この三嶋さんは明治時代に事代主命を祀るようにいわれて三嶋神社になってしまった、というのだが、本来は天王さんであったようだ。というより境内の由緒書きにももっぱら天王さんのことしか書かれていない。

当社は口碑の伝える所によれば尾張の國津島の天王様より御分神を戴き、東国に安住の地を求め来り、偶々此の地に休息し起ち行かんとするも腰起たず神意此の地に祀るとの意と解し、美しき哉、黄瀬川の本支流水音の聞える此の地を選び祭祀する。約八百年前のことなり。

境内由緒より引用

だ、そうな。これは小田原の方から続く話なのだが、小田原には天王さんが祀られない(小祠はある)、という特色があり、これは大森氏が天王さんを嫌いどかしてしまったからなのだ、という話があることは何度か紹介したが、確かに大森氏の出所であった小山町・御殿場市共に天王さんはあまりない(その御厨ド真ん中の鮎澤神社が元天王さんだったという問題はあるが)。
これは確かに大森氏の意向という風に見えますなぁ、という感じなのだが、その大森氏の所領が終わって小泉荘に入った途端に天王さんの大きな社があったということになるのであり、これも一連の話を裏付けるのであります。
社殿裏手には大きな石がごろごろと。なんとなく並んでいるようにも見えるが、社地造営の際に邪魔な石をのけただけかしら。一番手前の石はオッカネイ顔があるように見えるね(笑)。
ところで、ここに「石脇音頭」なる土地の一曲があった。こういうのが重要なんですよ。これまでいってきた「だたら」のことなども歌い込まれている。大正後期の作だそうな。特に三番が重要なので引いておこう。

〽 アー 私しゃ小泉 石脇育ち
  川のだたらは 裾野名所の七里ヶ岩よ
  アラヨイト ヨイト ヨイトサノ
  ヤレコノセー

だたらの上の地で小泉なんですね。須山では八里岩というがこれは三島まで続くの意なので、下ってきたここでは七里ヶ岩になっている(笑)。ちなみに石脇というのも、「ゆるぎ石」なる三トンもあるけど子どもがさわると動いたという不思議な大だたらがあったからそういうのだそうな。
オーソドックスなようななんとなく大きさのバランスが変わっているような狛犬さん。
石脇は寄ろうかどうか、別行程かなぁ、と思いつつなんとなく来たのだけれど、だたらが歌われていたりと来て良かったのでありました。

道行き

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近くのかわばた。撮ってるすぐ後ろにもあって、家の前にひとつある、という感じだったのかもしれない。
またすぐ近くなのだけれど、これはだたらをかわばたとして使うように作られているのだろうね。段々「土地の感じ」がわかってくる。
もっともかわばたが現役であったのは概ね水道が通るまででありますので(今でも農作業で用いられはするだろうが)、写真のような「かわばた跡」というところも多い。が、一方で明らかに水道以降の時代の護岸工事のコンクリ堤にも階段が設えられていたりして、そうしないと落ち着かない、という感じが垣間見えもした。
また道行きの道祖神さんなど。手前道祖神さんがこちらを向いていて、あとの石仏さんなどは背を向けている。こちらの道祖神さんは双体像でありました。

深良神社

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石脇から御殿場線を越えて、また深良地区へ。ここに深良南部・天田下の鎮守「深良神社」さんが鎮座される。こちらは天田下のもよりの神々を寄せた合祀社。
天田下には町田・震橋・南堀・和田・市場・切久保・遠道原という「もより」があるが、概ねこれらがそれぞれ祀っていた鎮守・氏神が合祀された。南堀はまたいろいろ「良くないこと」があったといい、南堀八幡が実質復祀されているようだが。
ここはまた二之鳥居の注連縄の両端がこんな風に「ぼわっ」と箒化しておりますな。
ちなみに小字を土地では「もより(最寄)」というが、これはかなり柔軟な枠組みで、御殿場の方では「いっとう」という同姓一族の繋がりがあって、神社はその氏神という面が強かったが、この辺りのもよりは地縁集団として、あるいは講集団としてというように漠然と「もよりの人たち」という感じである。もよりそのものも例えば町田・震橋などあわせて「町震」というし、和田・市場は「和市」であって、公民館も「和市コミュニティセンター」だったし、地図によっては和市が小字になってしまってもいる。何かと連携する土地柄なのだ。
見てきた水の苦労などから思うに、昔から大きく田を作っていた御殿場の方は、その中心となる地主いっとうを中心とした共同体が形成されたのに対し、こちらの方はより横の連携を重視しなければやっていけない土地だったということかもしれない。御殿場と裾野という隣接地域でもかなり様子は違うのだ。
深良神社さんは、述べたように合祀社だが、もともとここに祀られていたのは神明さんだったという。そこに八幡・浅間・天神各社が寄せ宮となった。もっと小さな天白さんだとか社口(しゃぐち)社などもあって寄せ宮となったようだが、委細不明。
そして、それらの神々と別に隣に「吉田さん」の覆殿がある(写真手前)。深良では深良の中だけで、天田上(上丹の大神宮)と天田下(深良神社)の二ヵ所の間で一年ごとにこの吉田さんを回している。先に見たように上丹は空だったのでこちらに吉田さんはありましたな。「吉田さんのお神輿」なのではあるが、所謂お神輿の造作ではなく、ものは木造の祠で、台座が神輿になるようになっている、というものであります。吉田さんとは何ぞやというのは深良よりも南部の大字間の方がやりはじめたことなので、そちらで詳しく紹介しよう。
深良神社をあとに、深良地区を抜けていきますが、途中町田もよりの天神さんの杜とかありましたな。お宮もあるし(天満宮)、結局合祀された各もよりの鎮守さんたちも概ね健在なのかもしれない。
また道行き道祖神さん。この辺から強烈に晴れてきましてね。あたくしは這々の体というとこなんですけど、道祖神さんは木蔭で良いですね。

久根:八幡宮

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そんなこんなでようやく広い深良を抜けまして、久根という所へ。鎮守さんは「八幡宮」さん。久根の中でも久根内のもよりは隣の公文名の鹿島さんの祭にも出るようで、この辺も連携的であります。
ここ八幡宮さんは創立などは不詳。元文元年の再建記録があるそうな。なんぞお祭の準備か祭のあとか、境内にはテントが並んでおりましたが(実はどこか日陰で休憩しないといい加減ヤベー感じだったのでめちゃくちゃ助かった)。

「吉田さん」のこと

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さて、で、本社殿脇にはこれこうしてまた吉田さんの覆い屋があるのだが(久根は今年の担当ではないので空だが)、ここでちらちらいっていた「吉田さん」について少し詳しく述べておこう。

沼津の方から駿東郡一帯では、幕末の地震やコレラやといった連打された脅威に際して、唯一神道の吉田神社をよく勧請した、ということは既に何度か紹介し、御殿場の方では社は構えず吉田さんの神輿がぐるぐる持ち回られ祀られているのだと予告していた。その持ち回る形態をやりはじめたのが、どうもこの裾野市の南東域(下十ヶ郷という)であるらしいのだ。

裾野市域には、ヨシダサン(吉田さん)と呼ばれる祭りが行なわれている。そのヨシダサンの祭りの特徴は、普通のウジガミ(氏神)や鎮守の祭りのように一つの地区に神社がありそれをその地区で単独で完結してまつっているというものではなく、ヨシダサンと呼ばれる神輿を近隣の複数の地区で共有していて、一年ごとにその神輿が次々と祭りの当番地区を変えながら順送りに渡されていくという点にある。

『裾野市史 第7巻 資料編 民俗』より引用

ということで、下十ヶ郷はそのはじめを次のように伝えている。

いまからおよそ二一〇年前、この一帯で疫病が流行した。そのとき佐野村の玄意と茶畑村の新左衛門という二人が京都の吉田神社へ行き、吉田神社の分霊を迎えてきたところ、霊験あらたかにも悪疫はおさまった。それ以来このヨシダサンの分霊をこうしてまつっているのだという。

『裾野市史 第7巻 資料編 民俗』より引用

ちなみにこの際深良はこの祭祀に参加しなかったのだが、明治になって深良を疫病がおそったので、あわてて真似てはじめたのだという。だから、深良は深良内の二ヵ所だけで吉田さんを回しているわけだ。図にすると左のよう。広いですな。

市史の方では「なぜ、これらの地域に限ってヨシダサンの祭りが定着し今日まで伝えられているのか。これはたいへん興味深い問題であるが、その決定的な理由は残念ながらまだ明らかではない」と結んでいる。んが、大雑把には大変に土地の様子に見合った祭祀形態だと思う。
これまで見てきた土地の様子から思うに、まず用水によって各地区が繋がっていて、どこかで厄があったらすぐに用水を伝って広がってしまうという感覚が強かった、という点が重要だろう。吉田さんを回す事には、具体的には用水をおろそかに扱わないように、という意識を保つ役割が根底にあるのだろう。
上のかわばたでぞんざいに水を扱ったらすぐ下に影響してしまうのだ。吉田さんの回る範囲も用水の共有意識のある範囲に概ね一致しているように見える。要するに「おめえんとこだけの水じゃねえんだぞ」という意識を世代更新ごとに新たにするのがこの十年毎に巡ってくる吉田さん、ということだと思う。なるべくしてなった祭祀形態といえますな。
また、単純に考えると、そのように何らかの神仏を持ち回る信仰形態が吉田さん以前にあったのだろう、とも思える。用水によって繋がった運命共同体というのは幕末以前からそうだったのであり、連携を意識させるための「順送り」の何かがあって不思議はない。これはこれからの課題となるだろう。
結構なことですにゃ。よく学んで下さいにゃ。ぼくは暑いから寝てるけどにゃ……というかもはやこのグダリっぷりはリビングデッドの域であると言わざるを得ない(笑)。

公文名:鹿島神社

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次はお隣の公文名(くもみょう)というまた不思議地名の土地へ(地名に関しては後述)。公文名の鎮守さんは「鹿島神社」さん。由緒沿革共に不詳。
御殿場・裾野もあわせた旧駿東郡域で鹿島神社という法人社はここだけであります。もとは春日だというお社は大森氏系であるけどね。何故ここにいきなり鹿島の神を勧請したのか不思議といえば不思議なお社である。
公文名はもよりごとにコマゴマと神仏を祀っていて、それぞれ祭を行なったので、昔は祭の多い公文名、といわれていたそうな。本社殿横のこちらは高尾穂見神社さんだが、もとの社も別にあり、そこのお祭が一番盛大だったという。
その穂見の中にですね、外からだと暗がりに「うお!ナンだあの呪物は」とビビった物件があったのだけれど、よく見たらコンセントとスイッチだった(笑)。もうちょっと脳が煮えてたのかもしらん。
鹿島さんの鳥居前にはこのように石造物の一群があるのだが(真逆光にて御免)、この両脇がですね……
これはもう明らかに伊豆型道祖神さんでありますね。変わったお顔ではあるが間違いない。伊豆型道祖神さんも三島市の北側ともなるとあまり見ない、という感じかと思っていたが、こちらの方まであるのなら間にもあるでしょうな。
反対端はかなり壊れてしまっているが、こちらも伊豆型に違いない。公文名から茶畑と行って、その向こうはもう三島市だ。ぐるりと回ってきましたね、という実感が道祖神さんで得られる。
まぁ、この鹿島さん脇を流れるだたらだらけの境川は大場川になるのだから当たり前といやそうなのだが。これが三島大社の東を流れて大場へ行って函南町塚本の方で狩野川に合流するわけです。繋がってきましたな。

公文名堤の蜘蛛伝説

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ところでこの公文名(くもみょう)という珍しい地名だが、概ね中世小泉荘の荘官名に由来する、と了解されている。んが、そういった伝が土地にあったというわけではない。土地の人はなぜそういうのかもう分からなくなっていたのですな。鹿島神社がなぜここに、というのはその辺りから考えることになるとは思うのだが、如何せん土地の伝はなくなっているので難しい。一方で、わからなくなってしまったが故に面白いことになっていたりもするが。次のような伝説がある。

蜘蛛が池
或夏の日、公文名の蜘蛛が池で一人の男が釣をしていた。その日は珍しくよく釣れたので、夢中になって釣っていた。その時、穿いていた片方の下駄が脱げて落ち、池へ動いて行くので、釣竿の先で突いて見ると、下駄の裏に蜘蛛が巣を張って引張っているのであった。男は(小癪な奴め)と釣竿の先きで下駄を引寄せようとしたら足を滑らせて、も一方の下駄も池に落としてしまった。そして何気なく魚籠を見ると沢山釣っていた魚は一匹もなく、中には笹の葉がある許り。それで男は気味悪くなり、急いで帰ろうとするとこんどは沢山の蜘蛛が湧いて出たように現れて、男に搦みついて来た。その男は初めの中は一々踏潰していたが余りに数が多くて、潰し廻っている中に精魂も尽き果てて其場に昏倒した。

『裾野市史 第7巻 資料編 民俗』より引用

蜘蛛が池というのは公文名堤というため池で(左地図)、「くも」だからというのでこんな伝説が語られてしまったわけであります。確かに蜘蛛が淵の伝説ともおいてけ堀ともいえない微妙な筋になっている。ものすごく極端な例とはいえるが、明らかに地名ありきで伝説が発生した(引用された)ケースであるといえましょう。「こういう例もある」と引くには便利かもしれない。

公文名:天神社

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道行き芝生地帯。前にちらっといっていた妙な芝生エリア。何のスペースというのでもないのだろうが、このように芝生がキッチリ敷かれている。景観的な?芝生を育てる事業が流行ったとか?
(※現在進行形で裾野市の特産品に芝生があるのでした)
公文名の端、茶畑地区との境辺りに行くと本当に茶畑が出てきた。箸がころげただけで笑うのは娘っこの特権じゃないのですよ。暑さにやられたオヤジもこのくらいで笑ってしまう(笑)。

公文名ではもう一社、その境の「天神宮」さんへも参った。あれ?ここも一応法人社のはずなんだが……という佇まいではありましたが。
由緒の石碑は立派なのですけどね。正保二年に土地の守護神として勧請されたとある。昭和八年に社殿を改築す、とあるからちゃんとした御社殿があったのだと思われるが。
これだけだとレポはまぁスルーで、となりそうなところだったのだが、ここは天神山といって丘になっていて、その斜面にですね、えぇ、写真のような横穴が……
十中八九近くの畑関係の何かだとは思うのだが、「天神山の斜面」にこのような横穴が三つも並んでいると気にはなる。報告はまったくない……から「そんなことはない」んだと思うが。

不動滝:はまおりのこと

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茶畑に入ると滝頭というもよりがあり、不動堂があり、裏手に滝がある。滝を不動の滝といい、お不動さんを滝不動というので密接不二の関係といえるだろう。
落差十メートルという不動の滝。巨大なだたらによってできた滝なのだ。辺りはそれほど山中というわけでもなく、普通の農村の中にこんな場所がいきなりあるのであります。
昭和三十三年に周辺を整備し「偕楽園」と名付け公園化されているが、この滝は滝頭の人たちにとって大変重要な弔いの場であった。ここで「はまおり」が行なわれてきたのだ。ではここで、裾野のはまおりのことを詳しく述べよう。

そもそも「はまおり」という葬儀・供養の次第があることを知ったのは昨年秋の沼津でのこと。

▶「沼津のはまおり」(沼津行:2012.10.27)

その後駿東行の行程で、御殿場市域でも南部黄瀬川沿いの人たちも三十五日の故人供養に沼津千本浜へ向っていたのを知った。そして、予想されるように御殿場と沼津の間の裾野市域でもこれは行なわれており、というよりここではほぼ全域で行なわれていた弔いの様式なのでありました。
裾野市域で特徴的なのは、埋葬直後に近所の河川に行く「はまおり」と、三十五日の供養に沼津の千本浜に行く「はまおり」の二つのはまおりがあったことだ。これはどちらかというのではなく、多く両方行なわれていた。まず埋葬直後のはまおりを見てみよう。

埋葬がすむと、墓地から帰る途中の河原でハマオリ(浜降り)をする。ムラによってハマオリをする場所が決まっていて、ハマオリの世話はやはり組の人がやる。たとえば茶畑の滝頭では不動の滝の下で行ない、御宿の入谷上組では柳端、宮川橋のたもと(現在では久保川の河原)で行なう。河原の石を数個積み上げ、その上や前に白木のノイハイを置く。ろうそくと線香を立て、団子などを供え、会葬者全員が順番に拝む。

『裾野市史 第7巻 資料編 民俗』より引用

野位牌(白木の位牌)は、このあとすぐに倒して川に流したところと、三十五日まで河原に立てておいて、三十五日に流したところがある(今はもう流さない)。深良ではすぐに流したがこれを「早く海に行って、成仏するように」という意味だと説明している。これは、大変重要な点だ。
そして、昔は初七日(も、今は告別式でまとめてやってしまうところが多いが)に続いて七日毎にふたなのか・みなのか……と供養したのだが、「いつなのか(五七日)」にあたるのが三十五日という供養で、この際に今度は沼津の千本浜に赴くはまおりが行なわれた。

葛山や御宿などでは、三十五日の朝、沼津の千本浜まで行ってサトヤを流してくる。浜に着くとまず波打ち際に石を数個積んで、その前にサトヤを置き、線香とろうそくを灯して拝んだ後、「賽の河原へ無事渡れるように」と祈りながらサトヤをたおす。サトヤが波に浚われて流されるのを見届けてから、後ろを振り返らずに帰ってくる。潮が早く満ちて流れてしまえば「成仏した」ということになり、なかなか流れないときには「未練があるからだ」という。帰るときには平らな石を三五個拾ってくるが、現在では一〇個前後と数を減らしている。

『裾野市史 第7巻 資料編 民俗』より引用

色濃く続いていたのは葛山や御宿あたりのようだが、昔は深良・茶畑などでも千本浜までいったという。おそらく今は家によるだろう。家族と近い親戚で行くようだが、かつては組の人たちも一緒に行くという結構大掛かりなものであったようだ。

さて、市史ではこの二回のはまおりが行なわれる理由を三十五日の供養が前倒しに葬儀のその日にやってしまうようになったことが影響し、二回になったのではないかといっているが、これはイマイチどうかと思える。
川に流さなければ海へ行く理由がないのではないか。もとより「まず川に流す」「成仏(四十九日)の前段で海で弔う」の二段構えであった、と考える方が式の次第としては意味が通る。このことは「はまおりとはそもそもなんだ」ということでもある。

この線の探求のさらに大もとになるのは、相模一宮寒川神社の浜降祭をはじめ、神輿が海へ渡御して海に入ってしまう、という祭祀があり、この本意は何だというところにある。概ねこれは海水の浄化力で神輿の「禊ぎが行なわれ神威が更新されるのだ」と説明される。
しかし、同祭祀圏内神奈川県大磯町には七夕に竹神輿が作られ、これが海の彼方に流される、という祭祀があり、これが浜降りの古い形ではないかと見ると、少し意味合いが違ってくる。簡単にいうと海の彼方に他界が想定されているのか否かという違いが出てくる。現在の浜降祭は「禊ぎ」であるので、必ずしも海上他界の感覚は必要ない(煎じ詰めると同じことにはなるのだが)。同様のことが葬儀に見るはまおりにもいえるのだ。今も続いている場合でも、これは一種の忌中ばらいであり禊ぎなのだという了解に終始している場合もある。

このような二面性がある中で、裾野のはまおりが「川へ流す」ことが第一段階として重要であったかどうかというのは実に大きいのだ。そうであるならば、残った側の禊ぎの面よりも、故人の魂の行く末の問題の方が大きいということがかなりはっきりする。
このはまおりという行事は南薩から南西諸島にかけても見られ、鹿児島県指宿市山川利永では弔いとしても行なわれるということを紹介したが、そちらで見たような故人が「美しい島をさがしにいく」次第が葬儀なのだ、それを見送るのがはまおりなのだ、という感覚がこちらにもあったのだと考えたい。

▶「利永の浜下イ」(予祝変:薩摩:山川)
いずれにしても、不動の滝の雰囲気は、この場所でまず見送ることが重要だったのだ、ということを確信させるに充分なものではありました。間違いなくここはそのような土地の霊地であったと思う。
魂は水を辿って行き来するのだ。「だたらの下」という感覚が重要かもしれない、ということは述べたが、あるいは裾野市域はだたらという特異な「境」の存在により、ある種の他界観が強調されとり出された土地であるのかもしれない。

茶畑:浅間神社

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不動の滝をあとに茶畑の鎮守さんを目指してますが、道行きにまた伊豆型道祖神さん。おう。こうなるともう伊豆型道祖神さん文化圏であるのは間違いあるまいという感じであります(もちろん入りまじりはするが)。

その茶畑鎮守の「浅間神社」さんへ。茶畑もまたもよりごとのコマゴマとした神仏が祀られているところだが、全体の鎮守はここ浅間さんだとはっきり認識されている。
創建などは不詳ながら、土地の旧家の歴史などから茶畑は間違いなく中世まで遡る里であると考えられ、その鎮守さんも同じ頃へ遡るものだろう。もとは東北方の東中学校がある南あたりに鎮座されており「浅間五社」と呼ばれていたそうな。
その元宮は安政の地震で倒壊してしまったのでこちらに遷られたということで、そんなべらぼうに古いものではないが、何とも立派な御本殿であります。
これ文化財とかになっとらんのかしら。特にそういうことを書いたものは見ないが。ともかく、一見すると拝殿が大きくてそちらにお参りして帰ってしまいそうな配置なのだけれど、ここはぜひ御本殿をよくご覧戴きたいのであります。
また、拝殿向って右の樹。なんですかね、これは。ホルト?何にしてもタダゴトではない様子であります。だのに注連縄もなくてなぁ。これだけのものが御神木にならんのかね。
間近で見ても何がどうなっておるのか良くわからん。根上状態ではあるのだろうかね、複数株でもあるのかしら。
そして今回の狛犬さんコーナー(笑)。もうこの後ろからの見た目が魅惑のラインでございまして、えぇ。
もはやこれは吽像ではなく「んー」像であるといって過言ではあるまい。「んーどん」だ。
反対側も。なんだろうなぁ、この独特な感じは。石脇の狛犬さんもなんかちょっと違ったが、頭が大きいのか。
境内にも道祖神さんが。境内に置かれる際の有り様としてはちょっと珍しい感じが(境内社ポジション)。こちらは双体像ですな。先の伊豆型の道祖神さんもすぐ近くなんだけどね。こう両方入り乱れてると、地元の方はどういった印象を持っておるのだろうね。
浅間さんの主参道でなく脇からのまたの参道の方は墓地だった。安政にこちらに遷座という時にはここはもう墓地だったんだと見えますなあ。うーん、もっとこれまでも神社と墓地の距離ってのははっきり記録してくるべきだったな。
茶畑をあとに、もう帰途へつく(実は赤子神社さんに戻るのだが)行程で、裾野駅の方へと。道行きの……ナニ様でありましょうか。道祖神さんのようだけどね。こうなるともう良くわかりませんな。

佐野原神社・十三塚のこと

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そして裾野駅すぐ南の「佐野原神社」へと。ここは旧県社でありまして、額面上は裾野総鎮守のお社ということになるところであります。
しかし、明治にできた神社で古いお社ではない。二条(藤原)為冬卿を祀る。足利尊氏と新田義貞(源義貞)がこの地で激突した箱根・竹ノ下の戦いの慰霊のお社なのであります。駿東郡小山町の方でもそういう所があって、為冬卿慰霊の(墓とも伝える)五輪塔があったが、佐野原の方が旧県社ということもあって本家といや本家でありましょう。

▶「落合:熊野神社
 (駿東行:小山:2012.10.06)
御本殿裏にはこのように奥津城的な石組みがあって墓とも慰霊塔ともいえる石塔が立っている。ここにはかつて十三塚というその合戦の戦没者を弔ったという伝のある塚があり、中の「宮塚・将軍塚」と呼ばれた一基が為冬卿の墓だといわれたそうな。
今はここの大字は平松といって市の中心となっているが、これは御殿場線開通以降のことで、昔は平松はごく小さい村であり、この辺りも茶畑だったので、茶畑十三塚といわれた。丁度今の裾野駅からこの佐野原神社にかけてのエリアに塚が分布していたという。
もっともその御殿場線が通ってみんな塚はなくなっちゃったのだけれど。この辺りにその残存の供養塔とかもあるのかね。
注意しておきたいのは、市史の方がこの十三塚は南北朝以前からあって、後期古墳だったのじゃないかと見解している点だ。これももうないが、裾野駅の北東の東小学校のある西側中丸というもよりに、石室が見られたという中丸古墳群があった(精密な調査前に消滅)。さらに御殿場線を渡った西隣、図書館のあるあたりの柳畑というところからは蕨手刀が発見されており、何らかの古墳時代の拠点があったのは確かだと思われる。茶畑十三塚もそこに繋がる古墳群だったのじゃないか、ということなんですな。
まぁ、今から何を明らかにできるのかというと難しいのだろうが、裾野駅のあるあたりはそういう所だったかも、と心得ておく必要はあるだろう。じゃあそうだったら為冬卿のお墓はどこいっちゃうんだよ、ということにもなるが。
と、いったところで。平松本来の鎮守さんは佐野原神社から御殿場線を挟んですぐ隣に鎮座されている「八幡神社」さん。写真の杜がそう。もとは今の裾野駅(旧佐野駅)構内にあったそうな。丁度「地元の子どもら」+「夏休みで遊びにきている子どもら」という無茶苦茶盛り上がっている大騒ぎの境内だったので、お邪魔はせんでしたが。

で、スルーしてしまった赤子神社へ慌てて急行という……何ともしまらないラストだったのだけれど(笑)。だたらに用水かわばたに吉田さんにはまおりにと、わずか一日でも中々に大変な課題がありました裾野編でありました。少なくとも当初の「良くわからん裾野」という個人的な問題はかなりクリアされたといえましょう。
まだまだ東側下っただけで、西には富士山麓と愛鷹山麓というよりディープな「裾野」が広がっているわけではあるけれど、ひとまずはぐるりと箱根を囲むラインが確保できたということにしておきましょう。そんな裾野編でありました。

補遺

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補遺:公文名の鹿島神社


公文名の鹿島神社さんの向きがどうも気になっていたのだけれど(西北西を向いている)、写真はよく晴れているが肝腎の向く方の西の空は盛大に曇っておって良くわからなんだ。
これが地図上で見てみると、どうも愛鷹山塊の方を正確に向いているらしい。最高峰ではないが、次点の位牌岳を指しているようだ(「愛鷹山」自体は低くなる)。社前の川に面しているからこの向きだといえばそうなのだが、素直に造営したら川下向けて南面させそうなものなので(鳥居はそうなっている)、これは意図的に愛鷹山塊を向いていると思って良いのじゃないか。
裾野市域でも黄瀬川の西側では愛鷹山を雷神格として捉え、雨乞いの対象になる。山上に「たけのかみなりさん」があり、里に「ふじばたのかみなりさん」が祀られていたりするのだが、あるいは公文名の鹿島神社もそういう流れに乗っているのかもしれない。

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駿東行:裾野 2013.07.27

惰竜抄: