駿東行:裾野
庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.07.27
今回は静岡県裾野市の神社巡りへ。御殿場の南ですな。御殿場行の続きにするかどうか迷ったのだけれど、ひとまず大雑把にでも三島・沼津へと繋げておこうと、そんな感じであります。個人的に「裾野市」という場所と縁がなかったので良くわからん、というのもある。西相模からぐるっと北回りで御殿場までは何かと行く機会もあり、なんとなく知っている。南回りで三島・沼津も行く機会があり、なんとなく知っている。んが、その間の裾野市が空白だったのですな。 で、裾野に行ったらとりあえずぐるっと繋がるじゃないの、という。ということで前回駿東行の御殿場の話と直で繋がるというわけではないのだけれど、とりあえず。 ▶「駿東行:御殿場」(2013.05.25) 「裾野」というのも、まぁ、富士山の裾野だからそういうので漠然とそう呼ぶことはあったのだろうが、裾野村とかいうのが江戸時代などにあったわけではなく、御殿場線の佐野駅が裾野駅に改称し、さらに後に裾野町ができて公的な地名として用いられはじめるのはもう昭和の話であります。それまでは、今回見ていく各大字がそのまま駿東郡の○○村としてあった。要するに強力な「中心」というのが希薄な所で、今でもそんな感じがあるように見えましたな。そんな裾野市の、今回は黄瀬川の東側を辿ったのであります。 |
岩波と「だたら」
このような地中のダタラのことを、須山では集落の下に八里岩という巨大な岩盤があるためであると認識されており、八里岩が三島まで続いているために、この下には豊かな水が流れているにもかかわらず、須山では井戸を掘ることができないという。
深良用水・蘆之湖水神社
駒形神社
駒形八幡神社
また、岩波地区の方へとちょっと戻っても「駒形八幡神社」さんが鎮座されている。小さいながら、こちらが岩波の鎮守さん。岩波という土地は、一時深良に組込まれたりもしたが、そもそも御殿場市域の神山という所の人たちがやって来て拓いた土地なので、深良とはちょっと一族構成が違ったのだ。結局今はまた分かれている。 | |
で、こちらの駒形八幡さんは明治時代の明細帳に寛文十二年の創立とあり、これは深良用水の完成した年であることから、箱根の水が来たが故に箱根駒形の神を祀ったのだ、という経緯がはっきり見えるお社であります。 御殿場の二岡神社さんの方で、駿東は富士の裾野ではあるけれど、実は特に東側は箱根と結びつきが強い所もあると指摘したが、深良用水の恩恵のある地域には輪をかけたものがあるといえましょう。 ▶「二岡神社」(駿東行:御殿場) かつての「井組」である芦ノ湖水利組合は今でも必ず箱根神社に初穂料を納め、湖水際には出席する。この地にはそういう側面があるのですな。 そんな感じで、まずこの土地は「だたら」の存在によって水を得るのが難しい土地であったこと。そこに近世箱根芦ノ湖の水を引いて用水を張り巡らして水田を広げていったのであること。という二つの土地を見ていくための基本的な視点を得ることができたのであります。以降、この点をよく頭に入れつつ、続く風景を見ていきたい。 |
はでゃー・じんだいぼり
ダタラのような溶岩があるところは、固い地表のところであったが、湿地帯では地中からジンダイスギ(神代杉)と呼ばれる杉が搬出されることがあった。神代杉については、かつて、富士山や愛鷹山の噴火とその溶岩流が川の水をせき止めて池を作り杉の大木が水没したために、神代杉として地中に残ったと考えている人もいるようである。
このような杉を掘り出すことを「じんだいぼり」といい、深良でも農閑期には盛んに行なわれたそうな。このあたりの深田には、こういった側面があった。
ところで、富士山からのきれいな水(富)は「だたら」の下を流れて三島へ行ってしまう、という感覚があったことは指摘した。しかし一方で、その「下層」からは神代杉という「富」が得られもしたのだ。このことは、もしかすると「だたら」の上と下、という区分の他界観をこの地に生み出していたかもしれない。もう一つ興味深い今度は伝説を引いておこう。黄瀬川の丁度向こう辺りになる上ヶ田という土地の伝。 |
上ヶ田のハデャー(「ハダイとも)の水源である早乙女ヶ池で昔、田植えをしていた娘が潜ってしまい、三嶋大社の小浜池に出たといういいつたえがある。
田植えに際して早乙女が消えるという伝承は各地にあり、例えば山陽の方では田植えの時季になると村から年頃の娘が一人消えて行くというし、鹿児島では田の神さまをつくるとその村の娘がいなくなる、などという(下野敏見『南日本民俗の探究』八重岳書房)。 あるいは夕日を引き戻して田植えをして死んでしまう娘の話や、おなじみの水乞い型の蛇聟譚の娘なども連絡していくだろう、田植えは神事であり早乙女は巫女だったという側面を物語る一話である。その娘が「だたら」の下へ潜ってしまい、この地最大の神地三島大社の池に出た、というのが重要だ。現状しかとそれを示す何かを見つけた、というわけではないが、この地の他界観には「だたらの下」という要素が大きくあるように予感している。それは、先に行って見るこの地の葬礼供養を考える際にも、よく意識しておく必要があると思う。 |
上丹:大神宮
さて、行程に戻りまして、ここは深良の小字(もより)上丹という地区で、田の中の写真の杜に鎮守さんがある。ぐーぐるマップに表示がなかったが、まぁ、迷いようもない感じであります。 | |
ここは上丹(じょうたん)の鎮守社「大神宮」さんという。地図になくてもちゃんと法人社のお社で、神明さんですな。由緒沿革などは不詳。んが、少し気になるところがある。 | |
まず、この次に見るが上丹は鮎澤御厨を管理していたと思われる大森氏の屋敷があったと伝える地。深良地区までが鮎澤御厨であったと考えられており、つまり鮎澤御厨の南境に近い位置であるという点。御殿場沓間の神明宮が御厨絡みで存外に古いかもしれない、という話はしたが、ここ上丹の大神宮も似たポジションであった可能性はある。
▶「沓間:神明宮」(駿東行:御殿場) |
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そして、深良というのは広いので、小字まで分ける前に「天田上・天田下」と南北に分けるのだが、天田上をこの大神宮さんが代表している面がある。またこれも後で詳しく述べるが、この地は「吉田さん」という吉田神社の神輿が一年ごとにぐるぐる回っている土地なのだが、天田上はここ大神宮さんにその吉田さんが置かれる。写真がその覆屋ですな。今はここの担当でないので空でありました。 この二点を考え合わせると、上丹大森館(があったとして)の守護神である古社でした、という可能性がなくはない。その点が気になるので、大森氏絡みでこの大神宮はチェックしておきたい。大森氏の館という場所はここだけでなく市内に幾つかあるのだけれどね。 |
上丹古墳
道行き
赤子神社
むかし、毎夜、この地に光が出て、道行く人が不思議に思って近づいてみると、神さまの像が二体ほどみつかったという。永禄年中に甲斐の武田信玄が攻めて来たときに、その御神体がなくなったが、安永六年に再び見つかったという。赤子神社の神さまは手力雄命と高照光姫命という男女二体の神さまで、一社に二体というのはめづらしいそうだが、力が強く、良い子を育てようということらしいという。
道行き・かわばた
石脇:三嶋神社
当社は口碑の伝える所によれば尾張の國津島の天王様より御分神を戴き、東国に安住の地を求め来り、偶々此の地に休息し起ち行かんとするも腰起たず神意此の地に祀るとの意と解し、美しき哉、黄瀬川の本支流水音の聞える此の地を選び祭祀する。約八百年前のことなり。
道行き
深良神社
久根:八幡宮
「吉田さん」のこと
裾野市域には、ヨシダサン(吉田さん)と呼ばれる祭りが行なわれている。そのヨシダサンの祭りの特徴は、普通のウジガミ(氏神)や鎮守の祭りのように一つの地区に神社がありそれをその地区で単独で完結してまつっているというものではなく、ヨシダサンと呼ばれる神輿を近隣の複数の地区で共有していて、一年ごとにその神輿が次々と祭りの当番地区を変えながら順送りに渡されていくという点にある。
ということで、下十ヶ郷はそのはじめを次のように伝えている。 |
いまからおよそ二一〇年前、この一帯で疫病が流行した。そのとき佐野村の玄意と茶畑村の新左衛門という二人が京都の吉田神社へ行き、吉田神社の分霊を迎えてきたところ、霊験あらたかにも悪疫はおさまった。それ以来このヨシダサンの分霊をこうしてまつっているのだという。
公文名:鹿島神社
公文名堤の蜘蛛伝説
蜘蛛が池
或夏の日、公文名の蜘蛛が池で一人の男が釣をしていた。その日は珍しくよく釣れたので、夢中になって釣っていた。その時、穿いていた片方の下駄が脱げて落ち、池へ動いて行くので、釣竿の先で突いて見ると、下駄の裏に蜘蛛が巣を張って引張っているのであった。男は(小癪な奴め)と釣竿の先きで下駄を引寄せようとしたら足を滑らせて、も一方の下駄も池に落としてしまった。そして何気なく魚籠を見ると沢山釣っていた魚は一匹もなく、中には笹の葉がある許り。それで男は気味悪くなり、急いで帰ろうとするとこんどは沢山の蜘蛛が湧いて出たように現れて、男に搦みついて来た。その男は初めの中は一々踏潰していたが余りに数が多くて、潰し廻っている中に精魂も尽き果てて其場に昏倒した。
蜘蛛が池というのは公文名堤というため池で(左地図)、「くも」だからというのでこんな伝説が語られてしまったわけであります。確かに蜘蛛が淵の伝説ともおいてけ堀ともいえない微妙な筋になっている。ものすごく極端な例とはいえるが、明らかに地名ありきで伝説が発生した(引用された)ケースであるといえましょう。「こういう例もある」と引くには便利かもしれない。 |
公文名:天神社
不動滝:はまおりのこと
茶畑に入ると滝頭というもよりがあり、不動堂があり、裏手に滝がある。滝を不動の滝といい、お不動さんを滝不動というので密接不二の関係といえるだろう。 | |
落差十メートルという不動の滝。巨大なだたらによってできた滝なのだ。辺りはそれほど山中というわけでもなく、普通の農村の中にこんな場所がいきなりあるのであります。 | |
昭和三十三年に周辺を整備し「偕楽園」と名付け公園化されているが、この滝は滝頭の人たちにとって大変重要な弔いの場であった。ここで「はまおり」が行なわれてきたのだ。ではここで、裾野のはまおりのことを詳しく述べよう。
そもそも「はまおり」という葬儀・供養の次第があることを知ったのは昨年秋の沼津でのこと。 ▶「沼津のはまおり」(沼津行:2012.10.27) その後駿東行の行程で、御殿場市域でも南部黄瀬川沿いの人たちも三十五日の故人供養に沼津千本浜へ向っていたのを知った。そして、予想されるように御殿場と沼津の間の裾野市域でもこれは行なわれており、というよりここではほぼ全域で行なわれていた弔いの様式なのでありました。 裾野市域で特徴的なのは、埋葬直後に近所の河川に行く「はまおり」と、三十五日の供養に沼津の千本浜に行く「はまおり」の二つのはまおりがあったことだ。これはどちらかというのではなく、多く両方行なわれていた。まず埋葬直後のはまおりを見てみよう。 |
埋葬がすむと、墓地から帰る途中の河原でハマオリ(浜降り)をする。ムラによってハマオリをする場所が決まっていて、ハマオリの世話はやはり組の人がやる。たとえば茶畑の滝頭では不動の滝の下で行ない、御宿の入谷上組では柳端、宮川橋のたもと(現在では久保川の河原)で行なう。河原の石を数個積み上げ、その上や前に白木のノイハイを置く。ろうそくと線香を立て、団子などを供え、会葬者全員が順番に拝む。
野位牌(白木の位牌)は、このあとすぐに倒して川に流したところと、三十五日まで河原に立てておいて、三十五日に流したところがある(今はもう流さない)。深良ではすぐに流したがこれを「早く海に行って、成仏するように」という意味だと説明している。これは、大変重要な点だ。 そして、昔は初七日(も、今は告別式でまとめてやってしまうところが多いが)に続いて七日毎にふたなのか・みなのか……と供養したのだが、「いつなのか(五七日)」にあたるのが三十五日という供養で、この際に今度は沼津の千本浜に赴くはまおりが行なわれた。 | |
葛山や御宿などでは、三十五日の朝、沼津の千本浜まで行ってサトヤを流してくる。浜に着くとまず波打ち際に石を数個積んで、その前にサトヤを置き、線香とろうそくを灯して拝んだ後、「賽の河原へ無事渡れるように」と祈りながらサトヤをたおす。サトヤが波に浚われて流されるのを見届けてから、後ろを振り返らずに帰ってくる。潮が早く満ちて流れてしまえば「成仏した」ということになり、なかなか流れないときには「未練があるからだ」という。帰るときには平らな石を三五個拾ってくるが、現在では一〇個前後と数を減らしている。
色濃く続いていたのは葛山や御宿あたりのようだが、昔は深良・茶畑などでも千本浜までいったという。おそらく今は家によるだろう。家族と近い親戚で行くようだが、かつては組の人たちも一緒に行くという結構大掛かりなものであったようだ。
さて、市史ではこの二回のはまおりが行なわれる理由を三十五日の供養が前倒しに葬儀のその日にやってしまうようになったことが影響し、二回になったのではないかといっているが、これはイマイチどうかと思える。 川に流さなければ海へ行く理由がないのではないか。もとより「まず川に流す」「成仏(四十九日)の前段で海で弔う」の二段構えであった、と考える方が式の次第としては意味が通る。このことは「はまおりとはそもそもなんだ」ということでもある。 この線の探求のさらに大もとになるのは、相模一宮寒川神社の浜降祭をはじめ、神輿が海へ渡御して海に入ってしまう、という祭祀があり、この本意は何だというところにある。概ねこれは海水の浄化力で神輿の「禊ぎが行なわれ神威が更新されるのだ」と説明される。 しかし、同祭祀圏内神奈川県大磯町には七夕に竹神輿が作られ、これが海の彼方に流される、という祭祀があり、これが浜降りの古い形ではないかと見ると、少し意味合いが違ってくる。簡単にいうと海の彼方に他界が想定されているのか否かという違いが出てくる。現在の浜降祭は「禊ぎ」であるので、必ずしも海上他界の感覚は必要ない(煎じ詰めると同じことにはなるのだが)。同様のことが葬儀に見るはまおりにもいえるのだ。今も続いている場合でも、これは一種の忌中ばらいであり禊ぎなのだという了解に終始している場合もある。 このような二面性がある中で、裾野のはまおりが「川へ流す」ことが第一段階として重要であったかどうかというのは実に大きいのだ。そうであるならば、残った側の禊ぎの面よりも、故人の魂の行く末の問題の方が大きいということがかなりはっきりする。 このはまおりという行事は南薩から南西諸島にかけても見られ、鹿児島県指宿市山川利永では弔いとしても行なわれるということを紹介したが、そちらで見たような故人が「美しい島をさがしにいく」次第が葬儀なのだ、それを見送るのがはまおりなのだ、という感覚がこちらにもあったのだと考えたい。 ▶「利永の浜下イ」(予祝変:薩摩:山川) | |
いずれにしても、不動の滝の雰囲気は、この場所でまず見送ることが重要だったのだ、ということを確信させるに充分なものではありました。間違いなくここはそのような土地の霊地であったと思う。 | |
魂は水を辿って行き来するのだ。「だたらの下」という感覚が重要かもしれない、ということは述べたが、あるいは裾野市域はだたらという特異な「境」の存在により、ある種の他界観が強調されとり出された土地であるのかもしれない。 |
茶畑:浅間神社
佐野原神社・十三塚のこと
そして裾野駅すぐ南の「佐野原神社」へと。ここは旧県社でありまして、額面上は裾野総鎮守のお社ということになるところであります。 | |
しかし、明治にできた神社で古いお社ではない。二条(藤原)為冬卿を祀る。足利尊氏と新田義貞(源義貞)がこの地で激突した箱根・竹ノ下の戦いの慰霊のお社なのであります。駿東郡小山町の方でもそういう所があって、為冬卿慰霊の(墓とも伝える)五輪塔があったが、佐野原の方が旧県社ということもあって本家といや本家でありましょう。
▶「落合:熊野神社」 (駿東行:小山:2012.10.06) |
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御本殿裏にはこのように奥津城的な石組みがあって墓とも慰霊塔ともいえる石塔が立っている。ここにはかつて十三塚というその合戦の戦没者を弔ったという伝のある塚があり、中の「宮塚・将軍塚」と呼ばれた一基が為冬卿の墓だといわれたそうな。 今はここの大字は平松といって市の中心となっているが、これは御殿場線開通以降のことで、昔は平松はごく小さい村であり、この辺りも茶畑だったので、茶畑十三塚といわれた。丁度今の裾野駅からこの佐野原神社にかけてのエリアに塚が分布していたという。 |
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もっともその御殿場線が通ってみんな塚はなくなっちゃったのだけれど。この辺りにその残存の供養塔とかもあるのかね。 注意しておきたいのは、市史の方がこの十三塚は南北朝以前からあって、後期古墳だったのじゃないかと見解している点だ。これももうないが、裾野駅の北東の東小学校のある西側中丸というもよりに、石室が見られたという中丸古墳群があった(精密な調査前に消滅)。さらに御殿場線を渡った西隣、図書館のあるあたりの柳畑というところからは蕨手刀が発見されており、何らかの古墳時代の拠点があったのは確かだと思われる。茶畑十三塚もそこに繋がる古墳群だったのじゃないか、ということなんですな。 まぁ、今から何を明らかにできるのかというと難しいのだろうが、裾野駅のあるあたりはそういう所だったかも、と心得ておく必要はあるだろう。じゃあそうだったら為冬卿のお墓はどこいっちゃうんだよ、ということにもなるが。 |
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と、いったところで。平松本来の鎮守さんは佐野原神社から御殿場線を挟んですぐ隣に鎮座されている「八幡神社」さん。写真の杜がそう。もとは今の裾野駅(旧佐野駅)構内にあったそうな。丁度「地元の子どもら」+「夏休みで遊びにきている子どもら」という無茶苦茶盛り上がっている大騒ぎの境内だったので、お邪魔はせんでしたが。
で、スルーしてしまった赤子神社へ慌てて急行という……何ともしまらないラストだったのだけれど(笑)。だたらに用水かわばたに吉田さんにはまおりにと、わずか一日でも中々に大変な課題がありました裾野編でありました。少なくとも当初の「良くわからん裾野」という個人的な問題はかなりクリアされたといえましょう。 まだまだ東側下っただけで、西には富士山麓と愛鷹山麓というよりディープな「裾野」が広がっているわけではあるけれど、ひとまずはぐるりと箱根を囲むラインが確保できたということにしておきましょう。そんな裾野編でありました。 |
補遺
駿東行:裾野 2013.07.27