三浦行:葉山・西浦
庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.07.06
今回は神奈川県三浦郡葉山町へ。三浦郡といっても今はこの葉山町だけになってしまったのだが。 最後の方に少し横須賀市秋谷・芦名の方へも足を延ばしますので、西浦というのはその方のこと。 三浦行前回は東京湾側の浦郷から金沢でしたが、今回は相模湾側なので前年秋の「三浦行:逗子」の続きという感じであります。 ▶「三浦行:横須賀」(2013.04.27) ▶「三浦行:逗子」(2012.10.13) 葉山とは何ぞや、というのは今回の内容そのものとなってくるので、これはレポを追いながらご覧下さい。 うちの三浦行の根本的な問題意識としては、三浦半島は古代から交通の要所だったのに、何故式内社がないのか、という「謎の三浦半島」というイメージがある所であります。故に、鎌倉のお膝元として中世の文物を多く蔵するその土地の端々から、いかに「それ以前」を見通すか、というような見方となるわけです。そして、葉山にはその強力な伝承の一つがある。そんな葉山へ。 |
鐙擦須賀社
逗子駅から田越川を河口へ下り、暫し峠を登って下りるとこの土地を鐙擦(あぶすり)という。岬状になっていて全体を鳴鶴ヶ崎(なきんづるがさき)というが、その先端に旗立山(軍見山)がある。地勢の要衝であって平末から戦国時代まであれこれ逸話が多いが、そのあたりは割愛。鐙擦とは頼朝の馬の鐙が擦ったくらい急な坂だったからそういう、越えるのが大変で鳴鶴ヶ崎どころか泣顔ヶ崎だなどといわれたそうな。 | |
今は切り通しもあり、まったくそういう感じではないが。かつてはそんな鎌倉から三浦へ行く道中の「境」だったわけで……と思い浮かべつつ。あの向こうが鎌倉ですな。どうも一日こんな霞具合だった。 | |
この鐙擦に「須賀社」が鎮座される。県道沿いだけれど、そちらには背を向けておられて、県道からは神社と知っていないと神社には見えないかも。 | |
こちらがですね、逗子でいっていた「流された天王さん」のお社なのですよ。田越川を少し遡った岩瀬という所の天王さんが荒い神さんだったので流されて、ここ鐙擦で拾われ祀られたという伝承がある。
▶「岩瀬の天王」(三浦行:逗子) 鐙擦の方でも同じく伝えているのだけれど、拾われた様子がより具体的で「丁度その時、肥桶を洗っていた鈴木氏が肥柄杓で掬い上げ現在の地にお祀りされたと云われている。依って肥柄杓の先端に榊を立て内陣に納められている」のだそうな(『神社誌』)。肥柄杓がお宮内に置かれ祀られているというのは空前絶後ではないか。 |
|
ところでなぜか跳ねる兎さんなのであります。住吉さんだったとかいう話は聞かんがなぁ。船絡みではあるのだろうかね。進水の干支取りというのも寅がいいとか色々だけどね。 | |
ちょいワル木鼻。 | |
また、手水の脇の石臼など。早くもこの日後半問題となる丸い石が奥に見えている。これも「海からやって来る」石だ。伏線であります。 | |
三浦半島には庚申さんがこれでもかとあるのだ、というのも知っておかれたい。旧三浦郡内に千基以上あるらしい。道標道祖神などの役割も庚申塔が兼ねている土地。この基調が大変重要になる。 | |
とかいっていたら「おぅ、にいちゃんよ、庚申さんだけかよ、あ?」と恫喝されるの巻。 |
七桶岩・ばんば磯・蛸の足
須賀さんからマリーナを越えて磯へ下りる。ここを「ばんば磯」という。また「ばんばあ」ですな。この辺の海岸を広く高砂海岸といい、ばんば磯と南に七桶岩という岩礁がある(あった)。 この七桶というのがまた「たこの足」の昔話の舞台なのだ。 すでに伊豆下田の須崎恵比寿神社の方なんかで「おまつ」の話など紹介したが、ここはここで紹介しておこう。『まんが日本昔ばなし』に収録されている「たこの足」の話に近い。 ▶「おまつのえご」 (静岡県下田市須崎:恵比寿神社:記事後段) ▶「たこの足」 (webサイト「まんが日本昔ばなしデータベース」) |
高砂海岸に七桶岩がある。その昔慾深な老婆が磯に上がっていた蛸を見つけ早速つかまえた。大蛸だったから足一本だけで桶が一杯だったので、その日は一本だけ切って帰った。近所へは内証にして次の日も一本づつ切り取り八日目に最後の足を切り取ろうとしたとき、この老婆は蛸に海中に引込まれて命を失ってしまった。そこでこの磯岩を七桶と呼ぶようになった。
三浦にはこの話が多く、小網代、宮川桶島、長沢などにもある。桶島も桶だが、長沢でも七桶といい、共通するモチーフであるようだ。また同系話は九州から伊豆、三浦、房総とあり、日本海側にもある(秋田「海のさんこ」未来社)。皆欲深婆さんかというとそうでもなく、下田須崎や秋田のさんこは村一番の器量の良い娘で、独り占めするという話でもない。すべてに共通するのは、どこからともなく蛸の足を切ってくる点と、最後の八本目の足に巻かれて海中に引込まれてしまう、という点だ。
で、あたしはこの昔話に関して興味深い民俗があったことを知った。宮本常一先生の「日本人と食べ物」(講談社学術文庫『塩の道』に採録)にあったのだが、蛸穴を母から娘へ秘密に相続するということが行なわれていたのだという。 |
たとえば山形県に飛島という島があります。この飛島は、海岸中の岩礁にたくさん穴があいています。その穴へたいていタコが入っている。そのタコ穴というのはみな個人もちなのです。個人もちといっても、大体これは女のほうがもつことになっています。やはり娘が嫁にいくときには、親がタコ穴を二つなり三つなりもたせてやるわけです。そうすると、その娘はそのタコ穴を人に気づかれないように覚えていて、そしてとりにいくのも、人が見ているときにとると場所を知られてしまいますから、見ていないときにその場所へ行ってタコをとってくる。/「日本人と食べ物」
道行き
森戸大明神
さて、そしてやってまいりましたは葉山総鎮守の「森戸大明神」さまであります。森戸は『吾妻鏡』には「杜戸」と書かれ、繰り返し登場する(大字は堀内という)。鎌倉にとっても重要なお社であったところ。 | |
ここは物凄く簡単にいうならば、またしても伊豆三嶋大明神なのであります。海の守護神として源頼朝が勧請した。瀬戸神社と同じだ。三浦半島の双方の付け根に頼朝は伊豆三嶋大明神を勧請したのだ。
▶「横浜市金沢:瀬戸神社」(三浦行:横須賀) |
|
しっかり七夕飾りがなされてますが、すげー強風でエラいことになっていた(笑)。 ところで瀬戸神社は海を向いているが、こちら森戸大明神の本社殿は背面している。ここは白浜の伊古奈比咩命神社の感覚に近いか。 |
|
この違いが創建当時からだとすると、「瀬戸と森戸」の対比というのは当時の伊豆三嶋信仰を考える上でも重要かもしれない。ともかく鎌倉の海の門の神といえ、狛犬どのも威風堂々とただならぬ毅然さを見せるのであります。 | |
また、これは頼朝亡きあと、というか源氏の血統が絶えてあとだが、京の宮中の神事などが鎌倉にも取り入れられていき、七瀬の祓が真似られたりしたが、その祓いどころの一つが「杜戸」でもあった。七瀬の祓はまた七瀬の御禊ともいうが、「みそぎ橋」が二之鳥居から川へ折れて、森戸川の河口近くとなる所にかかっている。ここが紙人形などの流された所だろうとされる。 しかし、この祓に対応する神格が見受けられないのだ。瀬戸や大井、伊豆本地と違って弁天格(おそらく本来は見目神)もない。「神姫浅水社」なる境内社があったようだが(不詳)、対応する神であったのだろうか。この辺が課題ではある。 |
|
みそぎ橋から社地を見るとこんな。川は森戸川。すぐ向こうは海であります。昔石垣ができる前はまるで島のような所であったそうな。洲の先の神でもあろう。 この川を渡った先は海水浴場の賑やかな浜辺だが、その河口付近のテトラポットから「飛柏槇(ひびゃくしん)」がよく見えるよ、とご神職の方に教えていただいて回り込んでおります。 |
|
うむ、真正面だ(支えのある木)。有り難し。頼朝が森戸大明神参拝の折に、伊豆三島市の三島大社の混柏(びゃくしん)の種子が飛んできて発芽し育ったのだという伝説の御神木「飛柏槇」であります(町指定天然記念物)。 | |
普通は社地を挟んで反対奥のこの小さな鳥居を潜って御本殿後背にある御神木エリアへ行く。頼朝も感心した「千貫松」だとかもあるが、ここからだと飛柏槇は見下ろすようになるのでよく分からない。 | |
ていうかですね、このエリアの最重要物件はこちら「山王日吉社」の石祠なのだ。こちらがこの地の地主の神なのであります。『神奈川県神社誌』にも「治承四年(一一八〇)鎌倉に近き元山王の社地であったこの地に源家の守護神として伊豆国・三島明神より御分霊を勧請した」とある。これはこの先の行程でこの地の「長者伝説」を追った上で再考したい。 | |
あと少し境内社のことも。水天宮となっているが、その本体は覆屋内の祠両脇にある「子宝の石」だ。前には小さな浜石(だろう)がうずたかく積まれている。大神社にはその土地が必要とする小さな信仰も集まってくるものだ。 | |
「畜霊社」という祠もある。いまは「ペットの守護神」なんだそうな。無論かつては牛馬の守護神であったものだろう。このあたりは続く行程にまた見ることになる。 | |
さらに、森戸大明神の海上鳥居のことも。お宮後背の海岸からはこのように見える。縮小表示だと見えないか(笑)。岩の続いた端、灯台の右の方に鳥居が小さく見えております。 | |
つまり大変海の先にあるのだが(700mほど)、そこには「名島(菜島)」という岩礁があり、これが森戸大明神の神地となっている(往古淡水の湧く井戸があったそうな)。 で、森戸大明神と伊豆三島大社を結ぶとその線上に名島が来る。そういう配置なのだ。伊豆三嶋信仰の社はこれまでもさんざんいって来たように「神さまが来た方を指向する」習性があるのだが(多くは社そのものが元地を向いて造営される)、森戸大明神は社殿の向きは違うが(大まかに後方に鎌倉を捉える)、社殿と名島を結ぶラインが現三島市の三島大社の方を向いているわけだ。 現在の海上鳥居を正確に指標とすると北方にずれてしまうが、まぁ、指向そのものの意味は間違いあるまい。この配置が何時とられたのかわからないが、勧請当初からこうだったとしたら、その当時既に三島市の三島大社が伊豆第一の社の座に来ていたことを示すことになり、これも重要な件だ。 |
|
道行く蟹さん。森戸川河口部も昔は芦原で、「足音がガサガサ絶えない」くらい蟹がウロウロしておったという。今はその蟹も見なくなった、とあったが……街中車道沿いを歩いております。 |
三ヶ岡と森山社
玉蔵院・葉山長者伝説
お隣のその玉蔵院。まぁ、社寺セットだったのだろう。しかし、どこから良弁上人開基という話が出てくるのか、という点は問題である。逗子の方で行基伝説が色濃く古代の交通の要衝であったかも、という話はしたが、そのような古代の拠点(具体的には国分寺ネットワーク)に見える伝説で双璧をなすのが良弁伝説だ。 逗子と葉山の境峰上の「長柄桜山古墳群」の発見により実際古代の拠点であった可能性は高いのであり、南側にもその展開は見られてしかるべきではある。 ▶「長柄桜山古墳群」(三浦行:逗子) |
|
そして、葉山には「葉山長者」伝説があるのだ。これが地名由来伝説でもあり、頼朝より昔の領主の存在を語る伝説でもある。三浦は三浦國というわけではなかったので国造というのではないが、良弁伝説などがある下敷きではあるかもしれない。 「今は昔此のあたりに某の長者ありて、木の実を蒔き木の苗を養いて、山にも海辺にも隈なく大木を植え候程に、年月経てよく生ひ育ち、その山を葉山といひ其の松原を長者ヶ崎といひ、其の邸を長者邸と呼び候」と、三浦大介が頼朝を案内した際、案内役の芦名三郎為清が解説したという(『葉山町郷土史』)。 そして実際この近くに古墳があったのだ。一色の打鯖というところになるが、葉山御用邸の敷地(北側の森か)であり、明治二十六年御用邸建設の際発見されたのだが、それまでも「稲荷塚」と呼ばれていた塚で、一応調査はされたようだ(今は消滅)。 「その四面は丸石で囲まれ恰も巨大な石棺のようでありその中に七体の人骨があった。そのうち一体は将であろうか石棺の中央部に横臥し、その前に婦人一体と齢一二、三の少年と思われる一体、左右に二体宛四体が並んでいた。骨格壮大で身躯何れも六尺以上と認られたという(『葉山町郷土史』)」 という感じで、より詳しくは『逗子市史 別編2 考古・建築・美術・漁業編I』にあり、「一色古墳」が正式名のようだ。いずれ土地の人は「長者の墓だ」と思ったようで、「古将の墓」と呼び、実教寺というお寺に副葬品なども納められているという。 ▶「古将の墓(実教寺)」 (webサイト「葉山町地域資源MAP」) |
|
ちなみに話は違うが、玉蔵院さんのこの手前の庚申さんは葉山町内で分かるものでは最古のものだそうな(寛文五年)。ともかく、堀内森戸と対を成してより古代へ遡るスポットが一色の方にはあるのであります。 |
山王塚・一色七塚
吾妻神社(滝の坂不動尊)
上山口:三嶋神社
蛇塚山
道行きはつまり「葉山の杉山神社」を目指しているのだけれど、その手前に「蛇塚山」という小さな丘がある。三浦半島東京湾側は大蛇だらけだのに、相模湾側はふるわないのだが、ここには大蛇がおったという。
▶「三浦半島の大蛇」(日本の竜蛇譚) んが、これがイマイチ不活発な大蛇さんなのだ。 |
|
先の丘を七巻きする大蛇がいたというのだが、何をするでもなくいつの間にか死んでしまってその頭骨が残っていたので里人が祠を建てて祀ったという(『葉山町郷土史』)。丘の脇に写真の「子之神社」があるのだが、おそらくこれがそうだと思う。 | |
子之神さんの下の台座にこのように格子があってですね、中に石があった。蛇の頭骨ということではないかと思う。しかしまぁ「何をしたわけでもない大蛇」というのは難しいですねコリャ(笑)。 状況から思うに、これは雨乞いの線が強いように見える。蛇塚山(蛇骨山とも)の上で雨乞いが行なわれ、脇を流れる下山川に頭骨(だという石)が浸された、とかいうなら舞台はバッチリではある。んが、そういう話があるのかというと今の所はない。土地そのものはむしろ「水が豊富だ」ということの方をいう。 |
杉山神社
日月社
道行き
下山口:神明神社
伝説に元名主八右衛門はかつて村内に悪疫流行し、病魔に襲われ倒れる者の多いことを慮り、悪疫退散を天神地祇に祈ること七日七夜であった。満願の夜白衣の老翁枕頭に現われ、「爾吾を念ずること久しく洗心の懇祈により悪疫退散心身安楽疑いなし」と告げて長者ヶ崎の方へ幽去した。
と『葉山町郷土史』にある。八右衛門が夢から覚めて、長者ヶ崎へ行ってみると木片が浮いていたので、引き上げると、衣冠束帯の神像であった、そうな。いつのことかもわからないが、というのが残念だが、この話は杉宮さんの伝と併せてしまう事ができる内容だ。 流れ来る木片が拾われる→祀った所夢枕に神が立つ→木片を神像・神体として社が造営される、という話が元あり(典型的な来宮の由緒)、分裂したのが浜の神明と山の杉宮だということはないだろうか。上下山口はもとは山口一村だった。 伊豆の来宮には「海から寄り来たって海際に祀られ、後内陸地へ移動する」というベクトルがある。 ▶「志理太乎宜神社(来宮神社)」など参照 この考えがあっての「杉宮は来宮と似ている」発言でもあるのです。 |
|
御本殿はちゃんと神明造であります。神明─杉宮のお社で神輿の渡御がある、なんてことになったら「ふはははは!」てなもんなのだけれど、今のところ以上は単なる推察というか空想に近く、特に繋がりを見せるものもないのだけれど。 | |
境内のことなども。奥側は境内社のえびすさん。立地からいったら漁師の社以外の何ものでもないところであります。 | |
そこに丸石が。この先に本場が来るが、この海の丸石はまず鉄板で子安信仰を示す代物である。それがこうしてえびすさんに置かれていると、おぉ、やはり浜石えびす石的な面と繋がっておるのだね、という気がする。 | |
狛犬さんはこの辺では大変珍しかろう陶製。まぁ、なんとなく海際の方が馴染む気がしますな。 | |
そしてまた庚申さん。社地入り口のところにあってこれも文化財のようだ。他所では内地農村度が上がる程に庚申さん率が上がるものだが、この辺は海も山もない。 | |
というのも以前から度々指摘している三浦半島の海蝕文様のある石を石塔化する文化がありましてのこと(左下写真)。この石塔の下部もその流れだろう。これも海中から出現する神、なのだ。 | |
大きな庚申さんのこちら、ショケラですが、神を引っ掴まれているのは通例通りだけれど、それで吊されている(多くはそんな感じ)というよりも青面金剛さんにしがみついているようにも見えますな。 | |
ねこだと書いてるのだから猫なんだろう。ねずm……いや……猫、なんだろう(笑)。 |
長者ヶ崎
大崩れ・峰の赤牛の池
子産み石
そして横須賀市へ突入。秋谷から芦名のあたり、大楠山の南西部を西浦村といった。このへんが大崩ですな。砂浜と磯が入り交じったような海岸が続くが、この磯部に特徴ある石が見られ、「ばんばあのターン」の強力なアイテムとなっていた。 | |
ここの海岸は久留和といったが、さらなる小地名にその名も「子産石」とある。江戸時代の地誌紀行文にも見えており、昔からそう呼ばれている。バス停も子産石。で、バス停奥の白い柵の所にその子産石がある。 | |
でっかいですな。もっとも子産石というのはこの地に出る丸石を皆そういったのであって、これはひと際大きいものを文化財(市指定市民文化資産)として据えたもの。 | |
解説には「子を産み出す石ということから、生殖の神、安産の神が宿る石として崇拝されてきた。」とある。大きい丸石から小さい丸石が産まれてくると考えられたのだ。 | |
大きい子産石をなでれば子宝を授かり、小さい子産石で妊婦さんのおなかをなでると安産、という具合にもっぱら珍重された。脇の祠にもたくさんある(出自が違う丸石も多かろうが)。 | |
この辺りの土中から産するとか海岸に産するとか色々書かれており、少しそれらしいものだと磯の岩の柔らかいものの中に硬質の丸石があって、このまわりが海蝕で削れてきて丸石が出現するのだ、などといっているものもある。 多分もともとは磯の大岩の中から産まれる丸石、ということであったのが、大子産石から小子産石が産まれる、というイメージになっていったのだろう。布石(文字通り)にしておいた三浦の道祖神・さいのかみの五輪石の分裂増殖のイメージもこの辺りから発しているのではないかと思われる。 とまぁ、あれこれいわれるのだが、実際どうなのかというと、これはおそらく「ポットホール」にできる丸石だと思う。伊豆伊東市の方では市の天然記念物になっているものもある。これができるメカニズムなどは以下参照。 ▶「伊豆東部火山群の時代・大室山」 (webサイト「伊豆の大地の物語」小山真人) |
|
今秋谷の方は長年珍重されたために採りつくされちゃって(古墳時代の住居趾から既に出ている)、海岸整備と相まって天然に産出している状態は見られないらしいのだけれど。写真のくぼみとか採った跡じゃないのかね。 いずれにしても、このような丸石に関し、うちでは「山を母の竜蛇として生まれてくる〝タマゴ〟のイメージがあったのではないか」という線で追っているのだが(下「温泉寺の無縫塔」など参照)、何とも強力な実物が足元相模にあったものであります。 ▶「温泉寺の無縫塔」(日本の竜蛇譚) |
秋谷・熊野神社
その子産石には「熊野神社」さんが鎮座されている。今は秋谷になっているが、古くは久留和といった方が通りがよく、その久留和の産土の社であるという。 久留和とは昔えらい殿様だかなんだかがこの地に遊んで「また来るわ」といって帰ったからそういうのだなんぞと「それでいいのか」という由来が語られるのだが(笑)、まぁ、曲輪とも書いたのでそっちだと思うが。 |
|
鳥居前にもこのように子産石が埋め込まれている。道祖神さんポジションですな。埋め込まれている以上は後づけでなく、こうあるべきだというのがあるのだろう。キリがないのでこの辺にしておくが、まわりにもポコポコ置かれている。 | |
ここの熊野さんは詳しいことはよく分からないが、円乗院という十四世紀創立のお寺が別当だったので、同時期の勧請かもしれない。今回もうこの点には分け入らないが、この海沿い実際熊野の方から来たという人々が住む海で、熊野さんも多い。 | |
鳥居脇の庚申さんがまた海蝕紋の石を巧みに庚申塔化した素晴らしい一品であります。こっちの方が手を加える度は高いのかね。 | |
また、久留和ではもう一点牛馬の供養に関してメモしておきたい。ここも日月さんがその社であるのは同じで、子安の里という内地に入って行く途中に関根不動があるが(左地図)、そこに日月さんもあって、牛馬はそこで祀られた。で、これがなぜか「新箸」の民俗と祇園に関係していたようなのだ。 七月二十六日に、茅の箸とそばを家の座式の入り口に祀られる「おそうぜんさま」に供え、子安の里への道筋にある日月さまにも供えた、という。この日がまた日月さまの祀りで、御嶽講の行者のお焚き上げが行なわれたそうな(辻井善弥『三浦半島のまつりとくらし』かもめ文庫)。 ということなのだが、逗子の方で見たように新箸の民俗は祇園の時季の厄除・疱瘡除けという類のものなのだが、なぜか牛馬供養になっているのだ。牛頭、というような繋がりなんかね。 ▶「新箸の宮」(三浦行:逗子) |
立石
岩船地蔵
秋谷を過ぎまして芦名という土地に入っておりまして、乗越(のっこし)という谷戸のとあるお地蔵さまを訪ねております。と、ありゃ、これは既に薮の中な…… | |
なんとか脇の駐車場の方から登れるようでありますが、ここを乗越の「岩船地蔵尊」という。江戸中期に土地の名主の子どもたちが次々亡くなる不幸があって、その供養に建てられたという。 | |
これがどういうわけか「舟地蔵」と化して、祈願し願い叶うと石舟が奉納されるようになったそうな。船酔い除けに特に験があるという。んが、相模原市田名の方で指摘したように、この石舟とは本来陰石であったと思われ、子の供養から子安に転じたのが本来ではないか、と思って来たのだ。
▶「陰陽石と舟地蔵」(高座行:相模原) 次に参るように芦名には知られた子安信仰の淡島さんがああり、また「ばんばあのターン」が強まる土地なのであります。 |
|
昭和の写真だと、覆屋の外までこのような石舟がうずたかく積まれておったようなのだけれどね。子安祈願でということはなかったんかなぁ。現状その記述はどこにも見ていない。 |
淡島神社・帯解地蔵
三浦十二天