三浦行:葉山・西浦

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.07.06

今回は神奈川県三浦郡葉山町へ。三浦郡といっても今はこの葉山町だけになってしまったのだが。
最後の方に少し横須賀市秋谷・芦名の方へも足を延ばしますので、西浦というのはその方のこと。

三浦行前回は東京湾側の浦郷から金沢でしたが、今回は相模湾側なので前年秋の「三浦行:逗子」の続きという感じであります。

▶「三浦行:横須賀」(2013.04.27)
▶「三浦行:逗子」(2012.10.13)

葉山とは何ぞや、というのは今回の内容そのものとなってくるので、これはレポを追いながらご覧下さい。

うちの三浦行の根本的な問題意識としては、三浦半島は古代から交通の要所だったのに、何故式内社がないのか、という「謎の三浦半島」というイメージがある所であります。故に、鎌倉のお膝元として中世の文物を多く蔵するその土地の端々から、いかに「それ以前」を見通すか、というような見方となるわけです。そして、葉山にはその強力な伝承の一つがある。そんな葉山へ。

鐙擦須賀社

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逗子駅から田越川を河口へ下り、暫し峠を登って下りるとこの土地を鐙擦(あぶすり)という。岬状になっていて全体を鳴鶴ヶ崎(なきんづるがさき)というが、その先端に旗立山(軍見山)がある。地勢の要衝であって平末から戦国時代まであれこれ逸話が多いが、そのあたりは割愛。鐙擦とは頼朝の馬の鐙が擦ったくらい急な坂だったからそういう、越えるのが大変で鳴鶴ヶ崎どころか泣顔ヶ崎だなどといわれたそうな。
今は切り通しもあり、まったくそういう感じではないが。かつてはそんな鎌倉から三浦へ行く道中の「境」だったわけで……と思い浮かべつつ。あの向こうが鎌倉ですな。どうも一日こんな霞具合だった。

この鐙擦に「須賀社」が鎮座される。県道沿いだけれど、そちらには背を向けておられて、県道からは神社と知っていないと神社には見えないかも。
こちらがですね、逗子でいっていた「流された天王さん」のお社なのですよ。田越川を少し遡った岩瀬という所の天王さんが荒い神さんだったので流されて、ここ鐙擦で拾われ祀られたという伝承がある。

▶「岩瀬の天王」(三浦行:逗子)

鐙擦の方でも同じく伝えているのだけれど、拾われた様子がより具体的で「丁度その時、肥桶を洗っていた鈴木氏が肥柄杓で掬い上げ現在の地にお祀りされたと云われている。依って肥柄杓の先端に榊を立て内陣に納められている」のだそうな(『神社誌』)。肥柄杓がお宮内に置かれ祀られているというのは空前絶後ではないか。
ところでなぜか跳ねる兎さんなのであります。住吉さんだったとかいう話は聞かんがなぁ。船絡みではあるのだろうかね。進水の干支取りというのも寅がいいとか色々だけどね。
ちょいワル木鼻。
また、手水の脇の石臼など。早くもこの日後半問題となる丸い石が奥に見えている。これも「海からやって来る」石だ。伏線であります。
三浦半島には庚申さんがこれでもかとあるのだ、というのも知っておかれたい。旧三浦郡内に千基以上あるらしい。道標道祖神などの役割も庚申塔が兼ねている土地。この基調が大変重要になる。
とかいっていたら「おぅ、にいちゃんよ、庚申さんだけかよ、あ?」と恫喝されるの巻。

七桶岩・ばんば磯・蛸の足

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須賀さんからマリーナを越えて磯へ下りる。ここを「ばんば磯」という。また「ばんばあ」ですな。この辺の海岸を広く高砂海岸といい、ばんば磯と南に七桶岩という岩礁がある(あった)。
この七桶というのがまた「たこの足」の昔話の舞台なのだ。
すでに伊豆下田の須崎恵比寿神社の方なんかで「おまつ」の話など紹介したが、ここはここで紹介しておこう。『まんが日本昔ばなし』に収録されている「たこの足」の話に近い。

▶「おまつのえご
 (静岡県下田市須崎:恵比寿神社:記事後段)
▶「たこの足
 (webサイト「まんが日本昔ばなしデータベース」)

高砂海岸に七桶岩がある。その昔慾深な老婆が磯に上がっていた蛸を見つけ早速つかまえた。大蛸だったから足一本だけで桶が一杯だったので、その日は一本だけ切って帰った。近所へは内証にして次の日も一本づつ切り取り八日目に最後の足を切り取ろうとしたとき、この老婆は蛸に海中に引込まれて命を失ってしまった。そこでこの磯岩を七桶と呼ぶようになった。

『葉山町郷土史』より引用

三浦にはこの話が多く、小網代、宮川桶島、長沢などにもある。桶島も桶だが、長沢でも七桶といい、共通するモチーフであるようだ。また同系話は九州から伊豆、三浦、房総とあり、日本海側にもある(秋田「海のさんこ」未来社)。皆欲深婆さんかというとそうでもなく、下田須崎や秋田のさんこは村一番の器量の良い娘で、独り占めするという話でもない。すべてに共通するのは、どこからともなく蛸の足を切ってくる点と、最後の八本目の足に巻かれて海中に引込まれてしまう、という点だ。

で、あたしはこの昔話に関して興味深い民俗があったことを知った。宮本常一先生の「日本人と食べ物」(講談社学術文庫『塩の道』に採録)にあったのだが、蛸穴を母から娘へ秘密に相続するということが行なわれていたのだという。

たとえば山形県に飛島という島があります。この飛島は、海岸中の岩礁にたくさん穴があいています。その穴へたいていタコが入っている。そのタコ穴というのはみな個人もちなのです。個人もちといっても、大体これは女のほうがもつことになっています。やはり娘が嫁にいくときには、親がタコ穴を二つなり三つなりもたせてやるわけです。そうすると、その娘はそのタコ穴を人に気づかれないように覚えていて、そしてとりにいくのも、人が見ているときにとると場所を知られてしまいますから、見ていないときにその場所へ行ってタコをとってくる。/「日本人と食べ物」

宮本常一『塩の道』(講談社学術文庫)より引用

この話は内地の農村では母から娘へトチの木などが相続され、海ではタコ穴だった、という話。そうやって日本人は食糧難に対して細やかな対応をして来たのだ、というお話であります。
ともかくこのように蛸穴が相続される民俗があったというのだが、先の「蛸の足」の昔話を考える上で大変示唆的であると思う。どこからともなく女手によって蛸がもたらされるのだ。蛸の足の昔話の主役も多くは娘か婆である(長沢なんかは男だが)。
最後に決まって海中に引込まれてしまうというのはまた別のコードだろうが、この昔話の背後にそのような民俗があったのじゃないかということは大いに考えられるだろう。その蛸穴がないかね、とタイドプールをあちらこちらと。
七桶岩自体は今は防波堤と化してしまったそうな。このあたりかね。しかし、葉山の郷土誌なんかだとこの話は概ね欲深を戒める話だと了解されているのだが、それだけともいえまい。漁師たちはばんば磯を重視していて、決して船出にその磯に船を当ててはいけないとしていたという。当てたらその日の漁を休む程だったそうな。そして広くこの海岸は「高砂」海岸である。実はここから「ばんばあ」と「じんじい」のコードが交互に連なる海なのだということを見ていくことになります。
凄いですなぁ。これ自然の造形。岩の層にこうまた違う岩の層がまっすぐに。岩の中の岩、というのもこれまた伏線となるです。
そういやなんかこの辺ツノなしサザエの伝説もあったね、とか早くも足が止まってるのですが、まぁ、葉山なんぞ鎌倉絡みとなると逸話の積み重なる地ですゆえ、ある程度絞らんと先へ進めなくなる(笑)。

道行き

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あの鳥居のお社に行かねばならんのだ。いやー、海上鳥居であるとは知ってはいたが、こんな大きな鳥居だとは思っていなかった。蜃気楼かという。
先の写真はズームだけれど、普通に撮るとこんな感じ(鳥居は中央あたり)。知らんで来たらナンじゃあれはと魂消るだろうね。ほっぺた抓るレベル。
素敵すぎのパン屋さん(?)。御用邸を皮切りに別荘などなど瀟洒な建物が軒を連ねるのが葉山町だが、一番印象に残ったのはここだった。
鰻風鈴。うむ、撮ったときはちゃんと撮れてると思ったんです……orz
昔は森戸川にも大鰻がうじゃうじゃおったそうな。

森戸大明神

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さて、そしてやってまいりましたは葉山総鎮守の「森戸大明神」さまであります。森戸は『吾妻鏡』には「杜戸」と書かれ、繰り返し登場する(大字は堀内という)。鎌倉にとっても重要なお社であったところ。
ここは物凄く簡単にいうならば、またしても伊豆三嶋大明神なのであります。海の守護神として源頼朝が勧請した。瀬戸神社と同じだ。三浦半島の双方の付け根に頼朝は伊豆三嶋大明神を勧請したのだ。

▶「横浜市金沢:瀬戸神社」(三浦行:横須賀)
しっかり七夕飾りがなされてますが、すげー強風でエラいことになっていた(笑)。
ところで瀬戸神社は海を向いているが、こちら森戸大明神の本社殿は背面している。ここは白浜の伊古奈比咩命神社の感覚に近いか。
この違いが創建当時からだとすると、「瀬戸と森戸」の対比というのは当時の伊豆三嶋信仰を考える上でも重要かもしれない。ともかく鎌倉の海の門の神といえ、狛犬どのも威風堂々とただならぬ毅然さを見せるのであります。
また、これは頼朝亡きあと、というか源氏の血統が絶えてあとだが、京の宮中の神事などが鎌倉にも取り入れられていき、七瀬の祓が真似られたりしたが、その祓いどころの一つが「杜戸」でもあった。七瀬の祓はまた七瀬の御禊ともいうが、「みそぎ橋」が二之鳥居から川へ折れて、森戸川の河口近くとなる所にかかっている。ここが紙人形などの流された所だろうとされる。
しかし、この祓に対応する神格が見受けられないのだ。瀬戸や大井、伊豆本地と違って弁天格(おそらく本来は見目神)もない。「神姫浅水社」なる境内社があったようだが(不詳)、対応する神であったのだろうか。この辺が課題ではある。
みそぎ橋から社地を見るとこんな。川は森戸川。すぐ向こうは海であります。昔石垣ができる前はまるで島のような所であったそうな。洲の先の神でもあろう。
この川を渡った先は海水浴場の賑やかな浜辺だが、その河口付近のテトラポットから「飛柏槇(ひびゃくしん)」がよく見えるよ、とご神職の方に教えていただいて回り込んでおります。
うむ、真正面だ(支えのある木)。有り難し。頼朝が森戸大明神参拝の折に、伊豆三島市の三島大社の混柏(びゃくしん)の種子が飛んできて発芽し育ったのだという伝説の御神木「飛柏槇」であります(町指定天然記念物)。
普通は社地を挟んで反対奥のこの小さな鳥居を潜って御本殿後背にある御神木エリアへ行く。頼朝も感心した「千貫松」だとかもあるが、ここからだと飛柏槇は見下ろすようになるのでよく分からない。
ていうかですね、このエリアの最重要物件はこちら「山王日吉社」の石祠なのだ。こちらがこの地の地主の神なのであります。『神奈川県神社誌』にも「治承四年(一一八〇)鎌倉に近き元山王の社地であったこの地に源家の守護神として伊豆国・三島明神より御分霊を勧請した」とある。これはこの先の行程でこの地の「長者伝説」を追った上で再考したい。
あと少し境内社のことも。水天宮となっているが、その本体は覆屋内の祠両脇にある「子宝の石」だ。前には小さな浜石(だろう)がうずたかく積まれている。大神社にはその土地が必要とする小さな信仰も集まってくるものだ。
「畜霊社」という祠もある。いまは「ペットの守護神」なんだそうな。無論かつては牛馬の守護神であったものだろう。このあたりは続く行程にまた見ることになる。
さらに、森戸大明神の海上鳥居のことも。お宮後背の海岸からはこのように見える。縮小表示だと見えないか(笑)。岩の続いた端、灯台の右の方に鳥居が小さく見えております。
つまり大変海の先にあるのだが(700mほど)、そこには「名島(菜島)」という岩礁があり、これが森戸大明神の神地となっている(往古淡水の湧く井戸があったそうな)。
で、森戸大明神と伊豆三島大社を結ぶとその線上に名島が来る。そういう配置なのだ。伊豆三嶋信仰の社はこれまでもさんざんいって来たように「神さまが来た方を指向する」習性があるのだが(多くは社そのものが元地を向いて造営される)、森戸大明神は社殿の向きは違うが(大まかに後方に鎌倉を捉える)、社殿と名島を結ぶラインが現三島市の三島大社の方を向いているわけだ。
現在の海上鳥居を正確に指標とすると北方にずれてしまうが、まぁ、指向そのものの意味は間違いあるまい。この配置が何時とられたのかわからないが、勧請当初からこうだったとしたら、その当時既に三島市の三島大社が伊豆第一の社の座に来ていたことを示すことになり、これも重要な件だ。
道行く蟹さん。森戸川河口部も昔は芦原で、「足音がガサガサ絶えない」くらい蟹がウロウロしておったという。今はその蟹も見なくなった、とあったが……街中車道沿いを歩いております。

三ヶ岡と森山社

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森戸大明神の鎮座地は大字堀内というが、その南隣の一色へ。その行程で写真の山裾を行くことになるのだが、今は大峰山となっているこの山こそがおそらく「はやま」なのであります。
実は「葉山」というのは歴史的にどこか具体的な範囲を指し示して用いられた地名というのではなく、堀内・一色辺りの総称を葉山郷として漠然と使われて来た(初見は十四世紀あたり)。はっきり行政地域名として使われるのは明治二十二年からである。
故にその由来もはっきりしておらず、大まかに「駅馬(はゆま)由来」「はやま信仰由来」の二説がある。んが、ぶっちゃけこれは後者であると思って良いのではないか。地元の方々も概ねそちらで納得している。この山の航空写真を見ていただきたい(左図)。
この山は三つのピークからなっており、ずっと「三ヶ岡(さがおか)」と呼ばれてきた。『吾妻鏡』に「佐賀岡」とあるのが同じ。今でも葉山のご老人にとっては三ヶ岡ではないかと思う。大峰山と呼ばれるようになったのも修験の関与ありきだろうから興味深くはあるが(よく分からない)、伝統に沿って以降「三ヶ岡」としよう。これが「はやま(端山)」であることは先の航空写真で一目瞭然であると思う。

その三ヶ岡を神体とするであろう古社が一色の鎮守である「森山社」さんなのであります。後方に三ヶ岡を遥拝する位置取りになる。多分ここが古い。森戸大明神以前の葉山地域の総鎮守社だったと思う。
後に見る隣の玉蔵院と同じに、天平勝宝・良弁上人による創建であると伝える。中古は今の近代美術館のあたりにあったというが、さらに昔は三ヶ岡上に社寺ともあったと伝える(遷した時期は不明)。守山明神・佐賀岡明神とも呼ばれた。
古記録に寺社は見ないのだが、三ヶ岡そのものが信仰対象だった、ということだろう。立派な境内社を左右に従え、地域総鎮守格の面持ちもある。大体森山と森戸は関係する名と思われ、森戸の奥社が森山だと見えなくもない。
狛犬どのも森戸に劣らぬ風格であります。

で、ここ森山社は櫛稲田姫命を御祭神とする。するってぇと……とすぐ思うように、天王・素盞鳴尊との神婚の神事がある。逗子市小坪の須賀神社から、素盞鳴尊の渡御があり、七日間森山社に滞在される。三十三年毎に行なわれるので「三十三年大祭」という。伝ではほぼ創建以来、千二百年に渡って行なわれてきた、という。いずれ逗子─葉山の最重要の神事でありましょう。これはより大雑把に「夫婦神の行き来・神婚の次第がある」と見ることで、周辺の「じんじいとばんばあ」の問題に接続する。
手水の竜どんがなんだか独特であります。ここは普通の水道水なんかね?こちらの社は山の方から御神水を採ってくる神事もあるのだ。
例大祭に「世計神事(よばかりしんじ)」という占いが行なわれる際に、この先の吾妻社からそのお水は運ばれる。『和漢三才図絵』にも紹介されているのだそうな。
「陰陽道に則る豊凶予知の神占で、現在は八月〜九月の例大祭の前日、元末社吾妻神社(現滝の坂不動尊)からの〝お水取〟にはじまり、この水でといた麦麹を神器に入れ神殿に納め明年この日に神器を開く。器中の方向板、水(酒)の状況から豊凶、風位、気候を予知する(『葉山町郷土史』)」なのだそうな。熱田神宮の「世様神事(よだめししんじ)」に似たものですな。ナニユエに「お水取」を吾妻神社から行なうのかというのは熱田神宮というキーワードを挟んで考えるべきかもしれない。

玉蔵院・葉山長者伝説

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お隣のその玉蔵院。まぁ、社寺セットだったのだろう。しかし、どこから良弁上人開基という話が出てくるのか、という点は問題である。逗子の方で行基伝説が色濃く古代の交通の要衝であったかも、という話はしたが、そのような古代の拠点(具体的には国分寺ネットワーク)に見える伝説で双璧をなすのが良弁伝説だ。
逗子と葉山の境峰上の「長柄桜山古墳群」の発見により実際古代の拠点であった可能性は高いのであり、南側にもその展開は見られてしかるべきではある。

▶「長柄桜山古墳群」(三浦行:逗子)
そして、葉山には「葉山長者」伝説があるのだ。これが地名由来伝説でもあり、頼朝より昔の領主の存在を語る伝説でもある。三浦は三浦國というわけではなかったので国造というのではないが、良弁伝説などがある下敷きではあるかもしれない。
「今は昔此のあたりに某の長者ありて、木の実を蒔き木の苗を養いて、山にも海辺にも隈なく大木を植え候程に、年月経てよく生ひ育ち、その山を葉山といひ其の松原を長者ヶ崎といひ、其の邸を長者邸と呼び候」と、三浦大介が頼朝を案内した際、案内役の芦名三郎為清が解説したという(『葉山町郷土史』)。

そして実際この近くに古墳があったのだ。一色の打鯖というところになるが、葉山御用邸の敷地(北側の森か)であり、明治二十六年御用邸建設の際発見されたのだが、それまでも「稲荷塚」と呼ばれていた塚で、一応調査はされたようだ(今は消滅)。
「その四面は丸石で囲まれ恰も巨大な石棺のようでありその中に七体の人骨があった。そのうち一体は将であろうか石棺の中央部に横臥し、その前に婦人一体と齢一二、三の少年と思われる一体、左右に二体宛四体が並んでいた。骨格壮大で身躯何れも六尺以上と認られたという(『葉山町郷土史』)」
という感じで、より詳しくは『逗子市史 別編2 考古・建築・美術・漁業編I』にあり、「一色古墳」が正式名のようだ。いずれ土地の人は「長者の墓だ」と思ったようで、「古将の墓」と呼び、実教寺というお寺に副葬品なども納められているという。

▶「古将の墓(実教寺)
 (webサイト「葉山町地域資源MAP」)
ちなみに話は違うが、玉蔵院さんのこの手前の庚申さんは葉山町内で分かるものでは最古のものだそうな(寛文五年)。ともかく、堀内森戸と対を成してより古代へ遡るスポットが一色の方にはあるのであります。

山王塚・一色七塚

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「塚」に関係した話も。一色古墳の稲荷塚以外にも、一色には塚があちこちにあったそうな。「一色七塚」と呼ばれていたという(稲荷塚は入らない)。内四基は既にないそうだが、道中一ヵ所寄れそうだったので行ってみた。左写真のようで、今は塚というか道が折れる隙間だが、鳥居が見えていて、ここに一色七塚のひとつである「山王塚」があったという。
山王さんは寛文年間に祀られたそうな。まぁ、七塚自体三浦道寸と後北条の戦没者の慰霊の塚だと伝わり、何が出たという話も聞かんので、現状どれほどの意味があるのかはわからんが。一色七塚に関しては『郷土誌葉山 第2号 一色』に詳しいです。

吾妻神社(滝の坂不動尊)

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さて、あたくしは一色を東の山中へ向って進んでおるのですが、やや登って振り返りますと三ヶ岡がわかりやすく見えますなぁ。どうであるのかというより今まで見た山で一番「はやま」であると思う。奥に高山を望まないという問題はあるが。

で、登ってきまして何があるのかというと先の森山社の境外末社であったという今はお不動さんである「吾妻神社」があるのであります。
滝の坂不動尊なのだが看板にも「史跡 吾妻神社」とありますな。日本武尊を祀っていたという。郷土誌などは、古代東海道の浦賀へのルートと関係するのじゃないかと見ている。加えて世計神事と熱田神宮のことを考えるべきだ、という話は先にした。
もっとも滝(水源?)そのものは少し離れた所らしい。かつてはお社もそちらにあったのがここに遷ったという。んが、御神水そのものは元の水源から引いて来ているので間違いないのだそうな。
こちらがその世計神事を行なう御神水ですな。問題なのは、誰がそんな神占をリクエストしたのか、という点だ。ちょっと村里のやる範囲ではないと思う。三浦氏か、あるいはそれ以前の「葉山長者」か。

上山口:三嶋神社

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さらに東へ。一色を抜けまして上山口という大字に入りますと、北条政子開基の名刹、皇室の方々も来られるという「新善光寺」などがあるが、スルーしてしまうのがアタクシクオリティ(笑)。
スルーして向うのはすぐ近くの単立小社なのだ。テーマが明確すぎる人の道行きはこうなるという好例(笑)。手前の道が既に農道なのだが、さらにこんなところを奥へ入るのですよ。
地図も拡大したら道が出るので問題ないと思うが、「え、これ行っていいの?」という感じではあるので一応道行きを。これで良いのです。

実はあたしも「あれ、道違うかな」と戻りそうになったりしたわけだが、めでたく鳥居が見えて参りました。ここは「三嶋神社」さんであります。
由緒その他不明。まぁ、畑中の小さなお宮さんであります故。で、何故ここに参ったのかというと、ここの氏子さんたちに強力な「鰻の禁忌」があったと聞いて来たのだ。戦中辺りまで一切鰻は食さなかったという。
「鰻を食べるものは蛭に喰われるが、食べないものは蛭に喰われない」という独特な話であったというのが面白い(『郷土誌葉山 第6号 上山口)。三嶋大明神・エビス・蛭子……的な連絡があったりするのかね。
より問題なのは勧請元だ。わからんのだが、森戸大明神さんが要は三嶋さんな訳で、そこからというのがまず考えられるが、堀内の方に鰻の禁忌があっただろうか(聞かない)。こういう予定だったんで堀内の「鰻風鈴」とかに反応していたですな。
そして、この上山口からさらに奥の木古庭へ行くと、伊豆と直結する人々がいる、という問題があるのですよ。木古庭は実に三分の一くらいが「伊東さん」なのだ(現在はそこまでではないかもしらんが)。伊東祐親に従って三浦に来た人々の村があったのであります。まぁ、現状はその話のどこが「筋」になるのか良くわからんので今回は木古庭へは行かないけどね。一応もしかしたらその線と関係するのかもしれない、という鰻の禁忌を持つ三嶋さんなのでした。

蛇塚山

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道行きはつまり「葉山の杉山神社」を目指しているのだけれど、その手前に「蛇塚山」という小さな丘がある。三浦半島東京湾側は大蛇だらけだのに、相模湾側はふるわないのだが、ここには大蛇がおったという。

▶「三浦半島の大蛇」(日本の竜蛇譚)

んが、これがイマイチ不活発な大蛇さんなのだ。
先の丘を七巻きする大蛇がいたというのだが、何をするでもなくいつの間にか死んでしまってその頭骨が残っていたので里人が祠を建てて祀ったという(『葉山町郷土史』)。丘の脇に写真の「子之神社」があるのだが、おそらくこれがそうだと思う。
子之神さんの下の台座にこのように格子があってですね、中に石があった。蛇の頭骨ということではないかと思う。しかしまぁ「何をしたわけでもない大蛇」というのは難しいですねコリャ(笑)。
状況から思うに、これは雨乞いの線が強いように見える。蛇塚山(蛇骨山とも)の上で雨乞いが行なわれ、脇を流れる下山川に頭骨(だという石)が浸された、とかいうなら舞台はバッチリではある。んが、そういう話があるのかというと今の所はない。土地そのものはむしろ「水が豊富だ」ということの方をいう。

杉山神社

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やってきましたは上山口の鎮守さんである「杉山神社」さまであります。「葉山の杉山神社」というのは話題だけは以前から出ていて、武蔵の杉山神社群と関係するのかどうかという問題のある所。
都筑の鶴見川周辺に展開する杉山神社群のその本社は古く式内の社でありまた武蔵六宮であり(どこがそうかというと難しいのだが)、忌部の東国開拓と関係するのではないかという面もあり、その関係社が三浦半島にもあるとするとオオゴトだわね、という話があるわけです。
んが、結論からいうならば、ここ葉山の杉山神社はどうも「杉山」ではなかったらしい。明治八年に杉山神社となったが、それまでは「杉宮大明神」と呼ばれており、杉山の号などなかったという(各資料とも)。そうなると直接的に武蔵杉山神社群と関連づけて考える必要はなさそうであります。
ところで、一方ここは伊豆来宮と似た所がある、という問題もある。うちでは伊豆来宮と武蔵杉山を繋ぐかもしれない存在、という点が重要だったのだ。で、こちらの来宮と似るという点は依然有効だ。
「その昔、土人が神像を海中より得たが、折しも十二月末日の事で忙しかったため杉葉を集め仮に社の形を作って安置したことからこの神号(杉宮)が起ったといわれている(『葉山町郷土史』)」という創建伝であり、来宮の由緒によく似ている。
御祭神は現在大国主命(社頭掲示:『神社誌』には大物主命)となっているが、その海中より光り出た神像「杉の古木」が神体であるそうな。杉が重要というのは動かぬようですな(今社前の御神木はイチョウだったが)。ここ葉山杉山神社は、三浦の伊豆との類似というアプローチの一環となりそうだ。
その杉山神社周辺は小字「正吟(しょうぎん)」といい、山賊の一団がおって、宝物を吟味したからそういう、などとものすごい由来がいわれるが、ここに棚田が残されている。中央やや左下辺りに杉山神社が見える。関東ではもう中々見られない光景なので、杉山神社にお参りの際はこの棚田にも寄っておきたい。また、先の写真を撮っている裏手の山中に杉宮大明神はもともと祀られていて、これを元宮というそうな。ちょっと私有地のようだったので入っては行かなかったけれど。
正吟の庚申塔にも寄った。この辺も○○の庚申塔といってたくさんあるのだが、三浦の庚申さんにこだわりすぎるとそれで日が暮れてしまうので、経路沿いに絞りつつ。棚田から杉山神社の方でなくて下に下る方にある。
立派ですな。もう三浦の信仰基盤は庚申さんにあるといって過言ではない勢いだが、故にひとつひとつがしっかりと(おそらくは他地域と競って)造り込まれている。んが、同時に単に「庚申信仰」が基盤となるかね、という問題もある。

日月社

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上山口ではもう一ヵ所小さなお宮を訪れた。今は単立の小さい石祠だが『新編風土記』にも見えている「日月社」であります。ここでスペアをひとつ取っておこう。
森戸大明神で「畜霊社」を見ておいたが、このあたりはよく牛馬の霊を供養する土地だった。そして、「日月社」とはそのための社なのだとはっきりいっている土地でもある。
今も覆屋内に「南無阿弥陀仏為家畜役牛之……」云々と卒塔婆が置かれていた。北関東なら股木だろうね。日月社というのもたくさんあり、大まかに農耕の神さまで、素朴に太陽と月を信仰していたのだというのだが、ここは具体的なのだ。
また、ここには珍しい石製の絵馬もある。もっとも、頭数でいえば馬より牛で、尾根向こうの子安では文化年間の記録に三十の牛と二頭の馬とある。ともかく、先の棚田とセットで、そこでがんばっていた牛馬さんたちの事をこの日月社に見ておきたい。
この奥は先にいった伊東一族の住む木古庭ですな。その辺が伊豆との関係においてどう出るか。今はまだ時期尚早なので、ここは戻るのでありますが。

道行き

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行きと違って下山口の方へ下りていきますと、分かれ道にこのような。木の右下に覆屋がありますな。位置的には道祖神さんに相違ない。
石像はお地蔵さんのようでもあるが。三浦では双体像とかは見ないね。庚申さんが道祖神さんを兼ねている(道標にもなっている)ことも多い。が、見たいのはこの像の後ろであります。
このように五輪塔の先端部にある石が積まれている。これは西相模の方からも共通に「五輪石・ごろ石」といい、道祖神さんの分身のようなものであり、時には道祖神そのものでもある存在。三浦半島では際立ってこの五輪石を道祖神「さいのかみの石」としていて、どんど焼きの際に火にくべると「火の中で二つに割れてもう一つ五輪石ができることもあると言われており、このことを石が子を産むといった(『神奈川県史 各論編5 民俗』)」という。この点、覚えておかれたい。
下る道すがらに、なんか凄いお方がいた(笑)。これはなんだか分からんが、面白いのはお顔が丸石でできている点ですな。
こう、中心はお稲荷さんで、全体的にはこの辺りの誰かの実にパーソナルな信仰空間のようなのだが(一応地図にも出ている)、そういった所にも土地の古くからの信仰のコードが織り交ぜられているという所が面白い。
このあたりですな。だんだん増えてくる。
こちら下山口を下る道は実に「山間」だ。尾根一つ、谷戸一つでがらりと光景が変わる葉山でもある。

下山口:神明神社

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下り切りましてまた海際に戻りますと、御用邸の対岸下山橋近くに下山口の鎮守の「神明社」が鎮座される。もう、社地も砂地で、海で遊ぶ人々が準備する場にもなっていて、参拝するあたしが異質(笑)。
『神社誌』だと普通の神社さんだったのだがね。拝殿が集会場のようになっとりますな。で、額面上は普通の神明さんなのだけれど、ここの創建伝説は極めて注目すべき内容となっている。長者伝説や、杉宮との関係が推し量られるのだ。

伝説に元名主八右衛門はかつて村内に悪疫流行し、病魔に襲われ倒れる者の多いことを慮り、悪疫退散を天神地祇に祈ること七日七夜であった。満願の夜白衣の老翁枕頭に現われ、「爾吾を念ずること久しく洗心の懇祈により悪疫退散心身安楽疑いなし」と告げて長者ヶ崎の方へ幽去した。

『葉山町郷土史』より引用

と『葉山町郷土史』にある。八右衛門が夢から覚めて、長者ヶ崎へ行ってみると木片が浮いていたので、引き上げると、衣冠束帯の神像であった、そうな。いつのことかもわからないが、というのが残念だが、この話は杉宮さんの伝と併せてしまう事ができる内容だ。
流れ来る木片が拾われる→祀った所夢枕に神が立つ→木片を神像・神体として社が造営される、という話が元あり(典型的な来宮の由緒)、分裂したのが浜の神明と山の杉宮だということはないだろうか。上下山口はもとは山口一村だった。
伊豆の来宮には「海から寄り来たって海際に祀られ、後内陸地へ移動する」というベクトルがある。

▶「志理太乎宜神社(来宮神社)」など参照

この考えがあっての「杉宮は来宮と似ている」発言でもあるのです。
御本殿はちゃんと神明造であります。神明─杉宮のお社で神輿の渡御がある、なんてことになったら「ふはははは!」てなもんなのだけれど、今のところ以上は単なる推察というか空想に近く、特に繋がりを見せるものもないのだけれど。
境内のことなども。奥側は境内社のえびすさん。立地からいったら漁師の社以外の何ものでもないところであります。
そこに丸石が。この先に本場が来るが、この海の丸石はまず鉄板で子安信仰を示す代物である。それがこうしてえびすさんに置かれていると、おぉ、やはり浜石えびす石的な面と繋がっておるのだね、という気がする。
狛犬さんはこの辺では大変珍しかろう陶製。まぁ、なんとなく海際の方が馴染む気がしますな。
そしてまた庚申さん。社地入り口のところにあってこれも文化財のようだ。他所では内地農村度が上がる程に庚申さん率が上がるものだが、この辺は海も山もない。

というのも以前から度々指摘している三浦半島の海蝕文様のある石を石塔化する文化がありましてのこと(左下写真)。この石塔の下部もその流れだろう。これも海中から出現する神、なのだ。
大きな庚申さんのこちら、ショケラですが、神を引っ掴まれているのは通例通りだけれど、それで吊されている(多くはそんな感じ)というよりも青面金剛さんにしがみついているようにも見えますな。
ねこだと書いてるのだから猫なんだろう。ねずm……いや……猫、なんだろう(笑)。

長者ヶ崎

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さて、伝説にもあったように、神明さんから程近くに「長者ヶ崎」の岬があるのであります。ここから見る夕日は絶景とのことで、三浦八景の一「長者ヶ崎の夕照」の地であります。夕日はともかくこの日はちょっと一日写真のように霞んでいてちょっと残念だったのだけれど、ともかく下山口からの葉山と横須賀の境である峰の稜線がそのまま海に入っており(車道部分は今は切られているが)、竜蛇の尾のようだ。
大正七年の『神奈川県三浦郡志』も「蒼蚢の水に入らんとする勢を示し」と書いており、岩壁の先の細長くさらにつき出ている所は「尾が島」ともいう。実際、「峰山の高台に昔尾が島に尻尾を現わした大蛇が棲んでいたという言い伝えがある」と『葉山町郷土史』にもある。
で、そもそも先に述べた葉山長者の伝説を芦名三郎為清が頼朝に解説したというのはここ長者ヶ崎でのことであったそうなのだが、しかし「この長者はどこから来たのだろう」。ここがクリティカルになる。
伊豆との類似を示して来たのもそこに関係する。岬(左が岬の端)の脇にはこのように岩礁があるが、こんなの伊豆の海だったら鉄板で海から来た神さまが乗って来た船、ですな。

まぁ、葉山初見で論をどうこうというのもないので、端的に予想される落としどころだけ述べておこう。
つまり、ここに示顕した神・白髭の翁が上陸されたのだ。森戸大明神はまた神宝に翁の面と猿田彦の面を蔵している。地主の神である山王日吉の神、だろう(この場合白髭の神の方向で)。そしてそれは高砂海岸のばんば磯の姥神の相方であり、葉山長者でもあるだろう。土地の信仰の基調をなす無数の庚申塔はおそらく猿田彦神である意味合いの方が強い。それはまた海蝕紋様を持つ石で造られもする。これら見て来たこの地の文物は最終的にその結論を指し示すことになると思う。
これはまた、葉山に限らず、三浦半島のかなりの部分に共通する信仰空間の基盤であるだろう。白髭神社はあちこちに見えるし、庚申さんの性質も共通するだろう。逆にいえば、葉山にはそのひな形がある、ともいえる。

大崩れ・峰の赤牛の池

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長者ヶ崎を過ぎると横須賀市秋谷となる。このあたりは昔、大崩(おおくずれ)といわれ、名のとおり崩れやすい崖だった。三浦道寸と北条早雲の激戦地で、海辺から兜や刀が引き上げられたという。
長者ヶ崎へ続く稜線上に峰(峯)と呼ばれる所があるが、もうひとつここも伊豆に通じる話があるので紹介しておこう。この上の方に「峰山の大池」という池沼があったという。今は取水施設になってるようなので行かないけどね。
そこは底なし沼であり、赤牛が池の主であったという。晴れた日には赤牛が池底にうずくまる姿がのぞかれたそうな。この妖しの池の主が赤牛だというのは全国的には珍しくはない話だが、海から見上げるような高台上にその池がある、という点が似た所として伊豆にも二ヵ所その伝がある。
伊東市の大室山北の一碧湖(左写真)が赤牛の沈んだ湖だといい、また、反対側西浦江梨から登った所の真城峠(さなぎ峠:沼津市戸田)にあった大池にも赤牛がおったという(おそらく消滅)。そもそも池の主が赤牛だというのはなんでだ、というのも良くわからないのではあるが、これらのどこかにその理由が見えて来たとき、あるいは通じるものがあるかもしれない。伊豆と三浦の類似、という項目に、この赤牛の件も入れておきたい。

子産み石

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そして横須賀市へ突入。秋谷から芦名のあたり、大楠山の南西部を西浦村といった。このへんが大崩ですな。砂浜と磯が入り交じったような海岸が続くが、この磯部に特徴ある石が見られ、「ばんばあのターン」の強力なアイテムとなっていた。
ここの海岸は久留和といったが、さらなる小地名にその名も「子産石」とある。江戸時代の地誌紀行文にも見えており、昔からそう呼ばれている。バス停も子産石。で、バス停奥の白い柵の所にその子産石がある。
でっかいですな。もっとも子産石というのはこの地に出る丸石を皆そういったのであって、これはひと際大きいものを文化財(市指定市民文化資産)として据えたもの。
解説には「子を産み出す石ということから、生殖の神、安産の神が宿る石として崇拝されてきた。」とある。大きい丸石から小さい丸石が産まれてくると考えられたのだ。
大きい子産石をなでれば子宝を授かり、小さい子産石で妊婦さんのおなかをなでると安産、という具合にもっぱら珍重された。脇の祠にもたくさんある(出自が違う丸石も多かろうが)。
この辺りの土中から産するとか海岸に産するとか色々書かれており、少しそれらしいものだと磯の岩の柔らかいものの中に硬質の丸石があって、このまわりが海蝕で削れてきて丸石が出現するのだ、などといっているものもある。
多分もともとは磯の大岩の中から産まれる丸石、ということであったのが、大子産石から小子産石が産まれる、というイメージになっていったのだろう。布石(文字通り)にしておいた三浦の道祖神・さいのかみの五輪石の分裂増殖のイメージもこの辺りから発しているのではないかと思われる。
とまぁ、あれこれいわれるのだが、実際どうなのかというと、これはおそらく「ポットホール」にできる丸石だと思う。伊豆伊東市の方では市の天然記念物になっているものもある。これができるメカニズムなどは以下参照。

▶「伊豆東部火山群の時代・大室山
 (webサイト「伊豆の大地の物語」小山真人)
今秋谷の方は長年珍重されたために採りつくされちゃって(古墳時代の住居趾から既に出ている)、海岸整備と相まって天然に産出している状態は見られないらしいのだけれど。写真のくぼみとか採った跡じゃないのかね。
いずれにしても、このような丸石に関し、うちでは「山を母の竜蛇として生まれてくる〝タマゴ〟のイメージがあったのではないか」という線で追っているのだが(下「温泉寺の無縫塔」など参照)、何とも強力な実物が足元相模にあったものであります。

▶「温泉寺の無縫塔」(日本の竜蛇譚)

秋谷・熊野神社

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その子産石には「熊野神社」さんが鎮座されている。今は秋谷になっているが、古くは久留和といった方が通りがよく、その久留和の産土の社であるという。
久留和とは昔えらい殿様だかなんだかがこの地に遊んで「また来るわ」といって帰ったからそういうのだなんぞと「それでいいのか」という由来が語られるのだが(笑)、まぁ、曲輪とも書いたのでそっちだと思うが。
鳥居前にもこのように子産石が埋め込まれている。道祖神さんポジションですな。埋め込まれている以上は後づけでなく、こうあるべきだというのがあるのだろう。キリがないのでこの辺にしておくが、まわりにもポコポコ置かれている。
ここの熊野さんは詳しいことはよく分からないが、円乗院という十四世紀創立のお寺が別当だったので、同時期の勧請かもしれない。今回もうこの点には分け入らないが、この海沿い実際熊野の方から来たという人々が住む海で、熊野さんも多い。
鳥居脇の庚申さんがまた海蝕紋の石を巧みに庚申塔化した素晴らしい一品であります。こっちの方が手を加える度は高いのかね。
また、久留和ではもう一点牛馬の供養に関してメモしておきたい。ここも日月さんがその社であるのは同じで、子安の里という内地に入って行く途中に関根不動があるが(左地図)、そこに日月さんもあって、牛馬はそこで祀られた。で、これがなぜか「新箸」の民俗と祇園に関係していたようなのだ。
七月二十六日に、茅の箸とそばを家の座式の入り口に祀られる「おそうぜんさま」に供え、子安の里への道筋にある日月さまにも供えた、という。この日がまた日月さまの祀りで、御嶽講の行者のお焚き上げが行なわれたそうな(辻井善弥『三浦半島のまつりとくらし』かもめ文庫)。
ということなのだが、逗子の方で見たように新箸の民俗は祇園の時季の厄除・疱瘡除けという類のものなのだが、なぜか牛馬供養になっているのだ。牛頭、というような繋がりなんかね。

▶「新箸の宮」(三浦行:逗子)

立石

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ということで子産石の久留和は「ばんばあのターン」だったのでして、過ぎると今度は「じんじいのターン」。その名も誉れ高い秋谷の「立石」の海となるのであります。安藤広重「相州三浦 秋谷の里」に描かれていて、景観としては有名な所ですな。だがしかし、有名なんだが信仰の拠点としてなんだったのかというのがわからない。立石不動尊が近くにあるが、滝を祀るようで立石と関係あるのかどうか。漁師たちが立石をどう扱ってきたのかもよく分からない。
相模湾越しに見る伊豆や富士山と併せてこその景観なのだ……とあるのだが、霞んでましてねぇ。えぇ。「逆光は勝利!」と古の箴言にいいますが、むぅ。
ともかくモノからして「じんじいのターン」に相違ないと思うのだが、後の課題であります。
なお、芦名三郎為清の葉山長者の解説には先があって、長者ヶ崎のあとは「子産石は長者が子無き婦人達に訓え、子宝を得させ候遺称にして、立石は長者が遊覧の遺跡、長者窪はその館の遺趾と伝え候」と続くそうな。この辺りまでが一連の海と捉えられていたのかもしれない。

秋谷全体の鎮守さんは「神明社」さんなのだけれど、盛大にお祭でありましたので記録はまた今度。境内社の八坂神社の夏祭りですな。この辺も天王祭を盛んに行なう。

岩船地蔵

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秋谷を過ぎまして芦名という土地に入っておりまして、乗越(のっこし)という谷戸のとあるお地蔵さまを訪ねております。と、ありゃ、これは既に薮の中な……

なんとか脇の駐車場の方から登れるようでありますが、ここを乗越の「岩船地蔵尊」という。江戸中期に土地の名主の子どもたちが次々亡くなる不幸があって、その供養に建てられたという。
これがどういうわけか「舟地蔵」と化して、祈願し願い叶うと石舟が奉納されるようになったそうな。船酔い除けに特に験があるという。んが、相模原市田名の方で指摘したように、この石舟とは本来陰石であったと思われ、子の供養から子安に転じたのが本来ではないか、と思って来たのだ。

▶「陰陽石と舟地蔵」(高座行:相模原)

次に参るように芦名には知られた子安信仰の淡島さんがああり、また「ばんばあのターン」が強まる土地なのであります。
昭和の写真だと、覆屋の外までこのような石舟がうずたかく積まれておったようなのだけれどね。子安祈願でということはなかったんかなぁ。現状その記述はどこにも見ていない。

淡島神社・帯解地蔵

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ということで、この海には知られた「淡島神社」さんが鎮座される。加太から来た人たちがここに住み祀ったのだといい、本場直輸入の淡島さんなのであります。
鳥居の前の方を見るとこんな。もうすぐ海であります。
その勧請の時期は次に参るオーラス三浦十二天と同時期であると伝わり、本当なら平安時代のこととなる。三浦十二天の末社の扱いだったようであり、そうなると『吾妻鏡』に見る北条政子の安産祈願は十二天というよりこちらに行なわれたものだったかもしれない(と、『神社誌』には書いてある)。
また、加太の淡島さんというのは二重の神格となっているが、これがそのままここにも持ち込まれている。すなわち少彦名命(と大己貴命)という神格と、天照大神の娘・ないし妹で、住吉神の妻であったが、「こしけ」の病のため離縁され淡島に流された女神という神格の二重性だ。ここの由緒は続けて書いてるので予備知識がないと驚くだろう(笑)。
ともかくその後者の神格が民衆の間では主であり、故に淡島さんは女の下の病気・お産を助けてくれる女神さまなのだといって広く信仰され、桃の節句・雛祭り(雛流し)などと大きく関係する。ここでも桃の節句や安産祈願の際に、底抜け柄杓の柄に麻を結んで奉納したそうな。少し前の資料には今でも盛んに奉納されるように書いてあったんだけどね。見ませんでしたな。社殿の中なんかね。淡島の女神は「石船で」流されたのだといい、この辺で先の石船地蔵さんが関係するのじゃと思うのだけれど。
淡島さんから三浦十二天への途中(というより十二天脇)には、もう一ヵ所子安信仰のお地蔵さん「帯解子安地蔵尊」もある。小さなお地蔵さんが赤ちゃんを抱いている。神仏分離前はこの辺は一体だったのだろう。
そこにはまた子産み石も。連続している事柄なのだというのがわかりますな。

三浦十二天

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さて、そしてオーラスは三浦半島の雄、三浦一族の「十二所神社」へ。所謂三浦十二天だ。三浦大介の弟三郎為清(葉山長者伝説を解説していた芦名三郎為清)が芦名に館を構え、その守護として創建されたという。
まぁ、今から三浦氏に関して長広舌をふるったりはしませんのでご安心下さい(笑)。もう、この辺は先への布石、という感じで簡単に。というより未だに「三浦十二天」とは何であるのかあたしは良くわかっていないのだ。今は十二所神社として神世七代の神々を祀るが、「十二天・十二天明神」だったのであり、それは本来ではない。船の祀る十二方(十二船玉)と関係が深いと見ているが、よく分からない。
で、かてて加えて行くまで知らなかったのだがこういう社地構成なのだ。末社群の方が大鳥居からの参道の正面なのであります。これはちょっとナニかある。
うーむ。境内社は「八雲社・若宮社・稲荷社・大山社」手前一段低いのはお神輿殿。どういうことだろうかねぇ。「ハーイ、毎度おなじみラストクエスチョンです」となるのだね、どうも(笑)。
境内の不思議石祠。特に奥から二番目とかは「どうしてこうなった」状態。何を意図した造形なのか。
ともかく、この先の佐島・長坂の方も相当に謎深い文物山積みなのであり(例の武氏の土地にも入るし、なんと「祖母神社」まである)、そちらを一巡りしてからまた十二天のことは考えることになりましょう。その際にはまたひとつ、と。
おまけで、十二天さんの鳥居など撮っておりますとね(大概撮影順は掲載と逆)、猫さんがニャーニャーしつこいのですよ。ニャーっつってんだろコラ、わかんねーのかこのホモサピは、みたいな(笑)。
へいへい、とちょっとかまってやろうとすると、あたくしを呼びつけておいて自分はノビなんですなぁ。かまってもらえると思うとまずノビをするのはなぜだ。
そんなこんなの葉山から最後は西浦まで歩いた一日でありました。その最後に海上に輝く雲を眺めつつ、帰りのバスへ。まだまだ、という所もあるけれど、段々「三浦」の手がかり足がかりが増えてきました、といえる行程であったでしょう。

予想としてこの先重要になってきそうな点として、実は三浦はかなりアジールな空間だったのじゃないか、という感じがしている。江の島がそうだったというのはよく知られるが、三浦半島というと全然大きな舞台である。それをよく調べるためにはもっと奥に入り込む必要があるわけだが、三浦半島など広域地図で見れば小さな「出っ張り」だけれど、こうなってくると広い。あるいは「三浦行」そのものがどんどん変質していくような、そんな行程になっていくかもしれない。

補遺:

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三浦行:葉山・西浦 2013.07.06

惰竜抄: