田方行:修善寺・大見
庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.06.29
伊豆半島の中央部を南下する行程。函南から下って(川からしてみると上っているのだが)、前回は修善寺からさらに狩野川を遡ったのでした。
▶「田方行:修善寺・湯ヶ島」(2013.02.23) 今回は、また修善寺から今度は東方へ、狩野川に合流する大見川という川を遡るのであります。その流域は大見の郷といわれまして(後の中伊豆町)、常陸大掾平貞盛の流れという大見氏が平末鎌初には領していた。 どちらかというと狩野氏より伊東氏との繋がりが深い氏族なのだけれど、大見氏は石橋山には頼朝側として参戦し、鎌倉御家人にも名を連ねた。んが、例によって北条氏に追い出されて越後へと去ることになってしまう。この辺は同じく越後に移った伊東氏系宇佐美氏との関わりが深かったことを示しているともいえるが、ともかくこの大見氏と狩野氏の領地の境が現代にまで反映されている土地であり、彼らの動向が重要となってくるだろう。もっとも本格的に大見氏を扱うのは今回の行程の「次」になるが。 また大見の郷は近代の区分では賀茂郡に入れられていたのだけれど、中伊豆町となり、今は伊豆市となり、概ね古代の区分であった田方郡に戻って来ているといえるので、伊豆市の範囲は田方行ということで(西伊豆はまた別)。それぞれ詳しくはまた道行きながら話して行くが、このように中伊豆と東伊豆と両方からの流れの重なる土地という点をまずは大雑把に思い浮かべておいたらよいということであります。 |
横瀬愛童将軍地蔵・八幡神社
道行き
修善寺といえば猪。猪最中もこんな感じ……か? | |
戻りまして、前回紹介しました柏久保の帳面持ちの道祖神さんを横目に。
▶「帳面持ちの道祖神」 (田方行:修善寺・湯ヶ島) 前回はここから南へ向ったのだけれど、今回は東へ。 |
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大見の方へ行くにはこの県道を行くしかないはずなんだがなぁ。歩くようにできてないのでおっかねぇ。道脇に民家があったりもするんだけどね。歩いて出歩かんのかね。 | |
そして今回主役の大見川。この川の切り拓いた地を行くのであります。もう友釣り師があちこちにおりますな。以前紹介したようにこの辺は鮎の友釣り発祥の地でもある。 |
田代:白山神社
道行き
ていうかこんなに晴れるとは思わなんだで暑ちいのですよ(笑)。何たる飛び込みたくなる流れ。そんなことしたら友釣り師に八つ裂きにされそうではあるが。 | |
遠目に山崩れの跡が見える。土砂が流れ下った様が分かりますな。だのによくその下に家を造るね。土地はいっぱいあるのにね。一度崩れた所は崩れないというようなのがあるのかね。
白山さんをあとに、また県道側に戻ってきまして、大見川に注ぐ年川という支流の流れる、そのままの年川という地区へ。年川(としがわ)は慶長年間の検地帳に狩野庄歳川村と見えているが、流れの早さから「ヲトシ川」と呼ばれていたのにちなむ地名じゃないかといわれる。 |
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で、なんじゃこの城塞はという石垣が。見るに煙突があって温泉かと思ったが、醸造所のようだ。 | |
でっかい釜だ。地酒をつくっているのだ。伊豆の酒蔵はもうここ「万大醸造」だけという。
▶「万大醸造」(公式サイト) まぁ、ここで寄り道して呑んだくれるわけにはいかんので先へ進みますが(笑)。 |
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道行きに石が積まれていた。伊豆を巡っていればこそ「あぁ、道祖神さんだろうね」と見える。ていうかこれが道祖神さんに見えたら「伊豆メグラー」だろう。 |
聖神社
さて、年川には永松院という曹洞宗のお寺があって、この後背の山腹に目指すお社がある。どう見ても永松院の守護神なのだが、神社の方は遷座されてここに来たという話があり、よく分からない(永松院が移動したという話は今の所見ない)。 | |
その脇が参道入り口なんだけどね。ナンというかよほどの理由がないとこれ踏み入らんないですわよね。まぁ、あたしに大した理由があるのかというと、どうか知らんが(笑)。 | |
どうも登る道も人が通った痕跡というのがない。普段は地元の人もあまり来ないようだ。 | |
ともかくここが年川の「聖(ひじり)神社」さんであります。創建は文禄年間で先にいったようにいつの頃かここに遷ったという。勧請理由その他不詳。御祭神は「聖大神」とある。
あたしの探求の線上ではここは子之聖を祀っていたのかどうか、という所が問題となる。結構中伊豆地方聖神社があるのだが、子之神は子之神でたくさんあって、同系なのか違うのかがよく分からない。伊豆の人が子之聖を信仰する理由も思い当たらない。また、狩野川の方では聖とは「聖天皇・仁徳天皇」のことなのだといって仁徳天皇を祀っている例もある。古代船軽野を発注した天皇だからだというのですな。中々色々な話が絡まっているのですよ子之神社周辺にも。 |
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で、こちら年川はですね、『増訂 豆州志稿』には「聖天祠」だったとある。ならば単純に聖歓喜天を祀る所だったのじゃないかと思われ、それを補強するような話もある。「夫婦石」なる一長一短の巨石が社前にあったというのだ。旧地なのかここのことなのか分からなく、現地でもちょっと分からなかったが。しかし、そうだったなら聖歓喜天にまつわる性神信仰の場であった線は濃厚だ。子之神・子之聖信仰にはそういう面は薄い。 | |
そして、その痕跡を思わせる石造物もあった。社殿向って左側にこうあったわけです。夫婦石が「巨石」というのが誤報で、これがそうなんじゃないのかね、と思えるほどの設えだ。なお、聖大神とは諾冉神のことであるともいう。 | |
加殿の方の仁科神社でも素晴らしい配置の陰陽石を見たが、どうもそこも仁科から持ち込まれたというより、この地の文化である故にということのようだ。
▶「仁科神社」(田方行:修善寺・湯ヶ島) いずれにしても、この辺りの聖神社は、子之神・子之聖の系というよりも性神信仰・聖歓喜天などのほうから来ていると考えるのがよいのかもしれない。ここ年川の聖神社はそれを示す痕跡のあるお社といえる。 |
おそうま伝説
年川の流れはここで大見川に注ぐのだが、その合流手前くらいにかつて深い淵があり「おそうま淵」といったという。字をあてれば襲馬淵となる。今は川も整備されてその面影も写真のようだが。ここにその名のとおり馬に襲われた娘の伝説がある。 |
年川村に大変器量の良い娘がおり、名を「おそう」といった。家の馬の面倒をよく見ていたのだが、その馬はおそうに懐きすぎて、おそうのあげる飼葉でなければ食べないほどになった。馬はおそうに懸想してしまい、挙げ句の果てに猛って襲いかかってしまった。おそうは驚き逃げ、年川の淵へと落ちてしまう。そして馬もこれを追って淵へと飛び込んでしまった。このことから、淵を「おそうま淵」と呼ぶようになったのだそうな。
こういった伝説があるのだが、あたしは大変ひっかかっている。現状は「何か引っかかる」という程度で勘のようなものなのだが、どうも里の昔話というより何か馬に関する信仰の縁起譚だったのじゃないか、という気がするのだ。そこで、少しここから枝を周辺に張っておきたい。
まず、伊豆三嶋信仰のかなり中心付近にこのモチーフがある。三嶋大明神の本地である三宅島の三宅壬生家が家のこととしてその伝承を伝えた。 伊豆諸島には年末年始(現在は一月後半)に恐ろしい神霊が飛行するので忌んで籠るという風習がある。島によって村によってその飛行する神がどのようなものであるかは様々に語られるのだが(見たら死んでしまうので見た人はいないのだ)、三宅島神着では首山(こーろべやま)の首(こーろべ)さまという馬の首が村中を巡るという。その縁起は次のようなものだ。 |
飼い主の一人娘が小用をたしているのを見て、馬がみそめる。馬は母親に、娘をもらいたいと申し込む。母親が馬に、角を生やしたらやろうという。馬は立派な角を一本、頭の真ん中に生やす。母親は娘の体を四十八反の白布で巻いて馬にやる。馬はいきなり娘を角で突いて殺してしまう。飼い主は、馬を殺して角を取る。
清水:天神社
千巌神社
小川神社
子安のやしろ:
小川の里に美しい子安の女神が住んでいた。お産のとり上げが上手な神さまで、大見川のほとりに庵を作って住み、お産の手助けをして村人たちにたいそう感謝、尊敬されながら静に暮らしていた。
この子安の女神さまが、ある年の正月に雑煮をのどにつかえさせ、苦しんでいた。村人たちが必死に祈ると、にわかに空がかき曇りすさまじい雷鳴が轟いて、一同は気を失った。皆が気がつくと、女神はいなくなっており、小さな子安貝だけが残されていた。
そこで村人はその子安貝を祀る社を造り祀り、今でも正月三日は雑煮を食べない。また、無事子が産まれたら底抜け柄杓に産婦の髪の毛を結わえて社に供える。
道行き
上白岩遺跡
大宮神社
そのような縄文期の大規模集落があった、おそらくその範囲に入ると思われる場所に、大見の郷の古い総鎮守社である「大宮神社」が鎮座されるのだ。 | |
中世以降大見の総鎮守はもっと奥の来宮さんに移ったが、古くはここが「はじまりの地」であった。今でも大きく杜が残されていて、社叢も市指定文化財になっている。当社は式内:大朝神社の有力論社でもある。式内:大朝神社の比定はどこも決め手がなく、既に紹介した沼津の「大朝神社」や田京の「神益麻志神社」なども名があがる。
▶「大朝神社」(沼津市下香貫) ▶「神益麻志神社」(伊豆の国市神島) |
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大まかには沼津の大朝神社とここ白岩の大宮神社が双璧という感じだろうか。地元の『増訂 豆州志稿』などは白岩大宮を最有力論社としている。で、ここ大宮神社の比定の根拠は「大見」の地名そのものにある。 大朝(おおあさ)はそもそも「大麻」のことである、というのがまず根底にあり、次いで大見とは「麻績(おうみ)」からの転訛である、というのがその説く所となる。社頭掲示には「古来式内社白岩大朝神社と呼称され……」とあるが、これは典拠とするところを知らない。 またここは古い棟札を多数伝えている社でもあり、最古のものは弘安三年(一二八〇)の「奉請大宮大明神 藤原氏女」とあるものだそうな。以降、応永・延徳・明応など二十八枚の棟札があるという。藤原・平名の記載がまま見えることから、官社の色合いが強かったといえる。 現在御祭神は「大己貴命・大国主命・大山咋命」となっているが、『増訂 豆州志稿』では「祭神不詳」であり、もとより、というわけではないだろう。元禄の上申書に「白岩大明神は日吉山王二一社の祖神なり」とあって、そういう結びつきもあったらしい。 いずれにしても式内:大朝神社であるかどうかという点に関してはやはり決定打はないといえるが、なにがしかの古代の官社には違いあるまい。そして、その遠源はさらに遡ると思われる。 |
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本社殿後背はもうすぐに落ち込んでいて、大見西川の流れる低地になるのだが、渡った先の山腹に「白岩」があるという。故に地名も白岩といい、ぶっちゃけこの社はその白岩を遥拝する白岩大明神なのだ。もっともその白岩は土に隠れていて見えないというのだが(『増訂 豆州志稿』)、下白岩西御堂の千巌神社を見てきた目には「あぁ、そういうあれか」とすぐ了解されるのであります。 千巌神社の方は「この辺り一帯は白い巨岩が露頭して連なることから、自然を崇拝する信仰が、この神を祀る元になったものと思われる」と『中伊豆町誌』にあるが、この一文はそのまま白岩大明神である大宮神社のこととしても良いだろう。 |
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で、さらにここには「地主さん」なる石棒が立てられ、祀られている。この前を掘ると祟りがあるのだと『式内社調査報告』の方で紹介されている。が、『式内社調査報告』は弥生時代や古墳時代の墳丘があってそれにちなむように見解しているが、これはどう見ても先の縄文遺跡由来の「立石・神座」である。そうならば、まったくのところ文字通り先住の「地主さん」なのだ。この祭場は実際縄文時代から途切れずに連続していたのじゃないだろうか。 | |
その他境内社のことなども。姥神さんなども祀られており、小川の子安の女神などとの連続性も見える。また、来宮(木宮)神社も境内社にあるはずなんだが、名札は見えなかった。この木宮がかつて単独であり合祀されたのか、もとより末社なのか分からないのだが、折れた石棒を神体としてるとある(『増訂 豆州志稿』)。どうも韮山の方もそうだったが、中伊豆の来宮さんには地主の神という側面がまま見える。 | |
また、小川神社とここ大宮神社には太鼓が備えられていた。双方バチの感じからして現役の役目があるようだ。なんだろうね。 | |
そんな大見のはじまりの社、大宮神社さんでありました。お邪魔しましたと出ようとすると、手すりに小さなカエルどのが……なんかこのサイズにして既にヌシの風格が……「万事ぬかりなく参ったのか、人の子よ」とかいいそうだ。 |
道祖神さん・元村
関野神社
お蝶渕
お蝶渕:
大見川に城川が注ぐところを落合といい、白い大岩で大見川の流れが変わる。近くの村の里にお蝶という、渡来の機織りの子孫である娘がいた。お蝶は村おさの息子・佐平と恋に落ちたが、よそから来た人の子孫であるからと結婚が許されなかった。しかし、村おさは二人の歎願を聞き、間近に迫った産土の祭に使う打掛を織ることができたなら結婚を許そうということになった。お蝶と佐平は寝ずの作業で必死に打掛を織り、どうにか祭の前にそれは完成した。
ところが、あまりの疲労にお蝶は灯明の火を完成した打掛に落としてしまう。打掛は瞬く間に焼けてしまい、お蝶は絶望のあまり渕へと身を投げてしまった。それから渕の底から機を織る音が聞こえるようになったといい、渕は「お蝶渕」と呼ばれるようになった。
狩野川台風の際に土砂で埋まって、今はもう渕というほどではないらしいが、確かに地図などで見るに大見川が直角に折れ曲がる所ではある。話の大筋は機織り渕の型そのものだが、主人公が渡来の機織り職の子孫、と明言するのは珍しいのじゃないか。 ともかく、大宮神社に関してこの伝説が紹介されることがないので、この地にはこうした機織り娘の伝説があるのだと強調しておきたい。あるいは伊豆式内の倭文神社を考える上でも参考となる話かもしれない。 |