田方行:修善寺・大見

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.06.29

伊豆半島の中央部を南下する行程。函南から下って(川からしてみると上っているのだが)、前回は修善寺からさらに狩野川を遡ったのでした。

▶「田方行:修善寺・湯ヶ島」(2013.02.23)

今回は、また修善寺から今度は東方へ、狩野川に合流する大見川という川を遡るのであります。その流域は大見の郷といわれまして(後の中伊豆町)、常陸大掾平貞盛の流れという大見氏が平末鎌初には領していた。
どちらかというと狩野氏より伊東氏との繋がりが深い氏族なのだけれど、大見氏は石橋山には頼朝側として参戦し、鎌倉御家人にも名を連ねた。んが、例によって北条氏に追い出されて越後へと去ることになってしまう。この辺は同じく越後に移った伊東氏系宇佐美氏との関わりが深かったことを示しているともいえるが、ともかくこの大見氏と狩野氏の領地の境が現代にまで反映されている土地であり、彼らの動向が重要となってくるだろう。もっとも本格的に大見氏を扱うのは今回の行程の「次」になるが。
また大見の郷は近代の区分では賀茂郡に入れられていたのだけれど、中伊豆町となり、今は伊豆市となり、概ね古代の区分であった田方郡に戻って来ているといえるので、伊豆市の範囲は田方行ということで(西伊豆はまた別)。それぞれ詳しくはまた道行きながら話して行くが、このように中伊豆と東伊豆と両方からの流れの重なる土地という点をまずは大雑把に思い浮かべておいたらよいということであります。

横瀬愛童将軍地蔵・八幡神社

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ということで修善寺駅下車。ちょっと初っ端寄り道いたしまして、大見川と反対に狩野川を渡る。前回はちょうどお色直し中でベールのかかっていた修善寺大橋も赤々と塗り直されましてございます。
渡ったたもとにはお地蔵さんなどが並ぶのだけれど、これは「横瀬愛童将軍地蔵」といって、二代将軍源頼家を偲ぶお地蔵さま。「伊豆に旗揚げして伊豆を舞台に亡びゆく源氏の運命や実に哀れ」というタイトルのドラマチックな解説がある。「鬼よりも尚残酷たり鎌倉執権時政に孫の頼家将軍を伊豆修善寺の山の家に出家となして押し込めたり……」ということで、子煩悩だった頼家はこの地の子どもらを可愛がってくれたという里人の伝なのだが、北条氏に対する伊豆の人の感覚というのはどうなのかね(ちなみに愛童将軍地蔵のドラマチックな散文調でない普通の解説は、次の八幡さんの境内にあります)。

その愛童将軍地蔵と対を成すのが、少し登っていった先にある横瀬の鎮守「八幡神社」さん。御祭神は源頼家。
もともとは源頼家が幽閉されていた「月見ヶ丘」という丘が狩野川縁にあり祀られていたのだが、丘が崩れて、一方は川端の愛童将軍地蔵となり、一方がこの八幡となった。位置的にいって修善寺は頼家の御霊を結界としているといえなくもない。
また、母子信仰・性神信仰と重複しているようで、頼家と並んで玉門石・孔門石と呼ばれる陰石が祀られてきた。母・北条政子の病を癒したという伝説がある。これを祀る比賣神社が末社群の手前端にある。
という感じでお社の由緒はわりと重苦しいのだけれど、ここを守護する狛犬どのが……何ともつぶらな瞳でありまして。ちょっと先出ししたら人気爆発(笑)。
しかしこの狛犬さんはですね、宝暦十三年の号があり、伊豆の年号入の狛犬さんとしては最古参の部類であるのですよ。変梃な狛犬さんが多い伊豆だが、その中でも頭領格といえる。
しかもデカイ。こういう「ふぁに狛さん」はもともと本殿前におったのじゃないかね、という感じで概ね小ぶりなのだが、ここは子どもちゃんならまたがれるほどにデカイ。

道行き

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修善寺といえば猪。猪最中もこんな感じ……か?
戻りまして、前回紹介しました柏久保の帳面持ちの道祖神さんを横目に。

▶「帳面持ちの道祖神
 (田方行:修善寺・湯ヶ島)

前回はここから南へ向ったのだけれど、今回は東へ。
大見の方へ行くにはこの県道を行くしかないはずなんだがなぁ。歩くようにできてないのでおっかねぇ。道脇に民家があったりもするんだけどね。歩いて出歩かんのかね。
そして今回主役の大見川。この川の切り拓いた地を行くのであります。もう友釣り師があちこちにおりますな。以前紹介したようにこの辺は鮎の友釣り発祥の地でもある。

田代:白山神社

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大見川を南側に渡りまして、ここはまだ旧修善寺町域(すなわち狩野)の田代という所。絵に描いたような鎮守の杜がある。鳥居前にトラクタが止まっているが、周辺田畑で作業する人たちに日陰を提供する「現役の森」なのだ。

ここには「白山神社」さんが鎮座される。地図で見ると県道の方から渡る橋がないのですが、航空写真にすると新しく立派な橋が掛けられてるのが分かりまする。
今は小さなお社だが、狩野氏の田代冠者信綱という武将が大見氏との境を守護するためにここ田代に住まい、守護神として持ってきたのがこの白山神社であると伝える。田代冠者信綱は狩野介茂光の娘と伊豆国司・藤原為綱の間にできた子と伝わり、義経に従軍して一ノ谷や屋島の合戦で活躍している。近くの叢林寺境内には一族の墓もある。狩野氏と大見氏、というようなテーマを持ったら重要となる所だと思われる。
三子持亀甲瓜花の紋ですな。白山神社というのもまちまちな所があるが、基本この紋が白山さんの紋であります。何気にはじめて実物を見たような?

道行き

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ていうかこんなに晴れるとは思わなんだで暑ちいのですよ(笑)。何たる飛び込みたくなる流れ。そんなことしたら友釣り師に八つ裂きにされそうではあるが。
遠目に山崩れの跡が見える。土砂が流れ下った様が分かりますな。だのによくその下に家を造るね。土地はいっぱいあるのにね。一度崩れた所は崩れないというようなのがあるのかね。

白山さんをあとに、また県道側に戻ってきまして、大見川に注ぐ年川という支流の流れる、そのままの年川という地区へ。年川(としがわ)は慶長年間の検地帳に狩野庄歳川村と見えているが、流れの早さから「ヲトシ川」と呼ばれていたのにちなむ地名じゃないかといわれる。
で、なんじゃこの城塞はという石垣が。見るに煙突があって温泉かと思ったが、醸造所のようだ。
でっかい釜だ。地酒をつくっているのだ。伊豆の酒蔵はもうここ「万大醸造」だけという。

▶「万大醸造」(公式サイト)

まぁ、ここで寄り道して呑んだくれるわけにはいかんので先へ進みますが(笑)。
道行きに石が積まれていた。伊豆を巡っていればこそ「あぁ、道祖神さんだろうね」と見える。ていうかこれが道祖神さんに見えたら「伊豆メグラー」だろう。

聖神社

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さて、年川には永松院という曹洞宗のお寺があって、この後背の山腹に目指すお社がある。どう見ても永松院の守護神なのだが、神社の方は遷座されてここに来たという話があり、よく分からない(永松院が移動したという話は今の所見ない)。
その脇が参道入り口なんだけどね。ナンというかよほどの理由がないとこれ踏み入らんないですわよね。まぁ、あたしに大した理由があるのかというと、どうか知らんが(笑)。
どうも登る道も人が通った痕跡というのがない。普段は地元の人もあまり来ないようだ。

ともかくここが年川の「聖(ひじり)神社」さんであります。創建は文禄年間で先にいったようにいつの頃かここに遷ったという。勧請理由その他不詳。御祭神は「聖大神」とある。

あたしの探求の線上ではここは子之聖を祀っていたのかどうか、という所が問題となる。結構中伊豆地方聖神社があるのだが、子之神は子之神でたくさんあって、同系なのか違うのかがよく分からない。伊豆の人が子之聖を信仰する理由も思い当たらない。また、狩野川の方では聖とは「聖天皇・仁徳天皇」のことなのだといって仁徳天皇を祀っている例もある。古代船軽野を発注した天皇だからだというのですな。中々色々な話が絡まっているのですよ子之神社周辺にも。
で、こちら年川はですね、『増訂 豆州志稿』には「聖天祠」だったとある。ならば単純に聖歓喜天を祀る所だったのじゃないかと思われ、それを補強するような話もある。「夫婦石」なる一長一短の巨石が社前にあったというのだ。旧地なのかここのことなのか分からなく、現地でもちょっと分からなかったが。しかし、そうだったなら聖歓喜天にまつわる性神信仰の場であった線は濃厚だ。子之神・子之聖信仰にはそういう面は薄い。
そして、その痕跡を思わせる石造物もあった。社殿向って左側にこうあったわけです。夫婦石が「巨石」というのが誤報で、これがそうなんじゃないのかね、と思えるほどの設えだ。なお、聖大神とは諾冉神のことであるともいう。
加殿の方の仁科神社でも素晴らしい配置の陰陽石を見たが、どうもそこも仁科から持ち込まれたというより、この地の文化である故にということのようだ。

▶「仁科神社」(田方行:修善寺・湯ヶ島)

いずれにしても、この辺りの聖神社は、子之神・子之聖の系というよりも性神信仰・聖歓喜天などのほうから来ていると考えるのがよいのかもしれない。ここ年川の聖神社はそれを示す痕跡のあるお社といえる。

おそうま伝説

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年川の流れはここで大見川に注ぐのだが、その合流手前くらいにかつて深い淵があり「おそうま淵」といったという。字をあてれば襲馬淵となる。今は川も整備されてその面影も写真のようだが。ここにその名のとおり馬に襲われた娘の伝説がある。

年川村に大変器量の良い娘がおり、名を「おそう」といった。家の馬の面倒をよく見ていたのだが、その馬はおそうに懐きすぎて、おそうのあげる飼葉でなければ食べないほどになった。馬はおそうに懸想してしまい、挙げ句の果てに猛って襲いかかってしまった。おそうは驚き逃げ、年川の淵へと落ちてしまう。そして馬もこれを追って淵へと飛び込んでしまった。このことから、淵を「おそうま淵」と呼ぶようになったのだそうな。

『修善寺の栞』より要約

こういった伝説があるのだが、あたしは大変ひっかかっている。現状は「何か引っかかる」という程度で勘のようなものなのだが、どうも里の昔話というより何か馬に関する信仰の縁起譚だったのじゃないか、という気がするのだ。そこで、少しここから枝を周辺に張っておきたい。

まず、伊豆三嶋信仰のかなり中心付近にこのモチーフがある。三嶋大明神の本地である三宅島の三宅壬生家が家のこととしてその伝承を伝えた。
伊豆諸島には年末年始(現在は一月後半)に恐ろしい神霊が飛行するので忌んで籠るという風習がある。島によって村によってその飛行する神がどのようなものであるかは様々に語られるのだが(見たら死んでしまうので見た人はいないのだ)、三宅島神着では首山(こーろべやま)の首(こーろべ)さまという馬の首が村中を巡るという。その縁起は次のようなものだ。

飼い主の一人娘が小用をたしているのを見て、馬がみそめる。馬は母親に、娘をもらいたいと申し込む。母親が馬に、角を生やしたらやろうという。馬は立派な角を一本、頭の真ん中に生やす。母親は娘の体を四十八反の白布で巻いて馬にやる。馬はいきなり娘を角で突いて殺してしまう。飼い主は、馬を殺して角を取る。

小島瓔禮:編『人・他界・馬』東京美術より引用

この娘は壬生家の娘であり、馬の角も壬生家にあるという。また、『壬生家系図』には、昌泰元年(八九八)に「三嶋明神に馬の角が一本生えたので、駒明神として勧請した」という謎深い記述があるという。この伝承の馬の首が飛行する神なのだ。伊豆三嶋信仰を考える上でも最難関の話といえる。
このような「馬婿入」の話は、オシラ祭文でも中国の『捜神記』の話でも(これらは補遺で)、養蚕の起源を語るものなのだが、三宅島や年川のような養蚕が出て来ない場合は何を語っているのか難しい。ともかく、伊豆三嶋信仰の内にもこうして馬と娘の話があるのだ、という点をおさえておきたい。
次に、より広くあった馬に関する信仰の方も見渡しておきたい。東北(特に南部藩)を中心に「蒼前(そうぜん)神」という神が馬の守護神として祀られる。馬頭観音・駒形神その他と複雑に絡み合っている難しい神格だ(左写真は普通の馬頭観音さんです)。
十和田では藤原宗善なる人にちなむという縁起があったりするが(その子が南祖坊)、実態はまちまちである。また、猿丸太夫を名のる祈濤師が正月に農家をまわり、蒼前神を祀って行くのが習わしであったので、日光修験がその中心にいたようなのだが、よく分からない。ここでは大雑把にそういう名の神さまを馬の守護神として広く信仰していたのだということを知っておかれたい。
で、この蒼前さまが何から馬を守るのかというと、その代表的な厄は「ダイバ・ギバ」という怪であった。旋風・鎌イタチのような「悪い風」がイメージされもするが(ダイバ風という)、形をもった妖怪としても語られる。馬というのは何らかの要因で「急死してしまう生き物」であると昔から捉えられていた。馬頭観音さんというのは多く馬が急死したその場に祀られたものだった。そして、この急死の原因がダイバのせいだとされた(この辺り詳しくは前掲『人・他界・馬』参照)。
端折って簡単に述べるが、ダイバは天から降りてくる小さな馬に乗った女で、これが取り付くと馬は急死してしまうのだという。この伝の中心は近江の大津で、ここの牛馬の皮剥ぎを生業とする家の娘が、家業を思うあまり(馬がたくさん死ねば皮剥ぎ屋の仕事が絶えない)、ダイバと化したのだという。これは全国で広くいわれるようになり、『静岡県史 資料編23 民俗1』には伊豆にもダイバを恐れる習俗があったとある。ただし地元資料の『修善寺の栞』には、この辺りで馬に急死をもたらすものは「わたり」と呼ばれたとあるが。
このような馬にまつわる広域信仰があったのだが、年川の娘の名が「おそう」であったことを思い出されたい。これは「襲馬」という淵の名に連なるように語られるが、本来は「お蒼前さま」にまつわる名であったのではないか。ダイバというのは他の所謂「行会い神」同様に、土地の境、川の渡り、坂のたもとに出るとされたが、年川は狩野と大見の境であり、年川を渡るのであり、東伊豆へ抜ける峠道のたもとであった。伊豆には大場(だいば)村もあったことだし、このあたりがどうも引っかかっているのだ。

しかし、現状少なくとも昭和になってからは伊豆の内に馬にまつわる信仰の強力なセンタがあったとは見えない。修善寺周辺も「しょうぜんさま」といって家内で蒼前(勝善とも書く)神を祀ってはいたというが、より重要とされたのは駿東郡小山の「鬼鹿毛頭観音」であったという(小山町の御殿場線足柄駅近くに、あの小栗判官伝説の人喰い馬・鬼鹿毛が死んだ所だという小栗開基伝の「圓通寺」があり、「鬼鹿毛頭観世音菩薩」なるすさまじい名の馬頭観音を祀っている)。
この辺のギャップが埋まるかどうかが当面の課題だろうか。三島宿から箱根越え、大場から熱海への峠越え、そして年川から大見を通って冷川峠を越え東伊豆へ、と馬の鬼門である峠越えには事欠かない伊豆である。その登り口にダイバ除けの信仰が強くあったとしても不思議はない。

清水:天神社

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ということで年川をすぎると大見の郷であります。大字は白岩(上白岩・下白岩)となる。しばし県道沿いに行くと下白岩の小字清水という土地になりまして、「天神社」が鎮座される。
もとは土地の旧家の守護神で清水を見下ろすどこかの山頂に構えられていたそうな。創建は不詳、元禄年間の再建棟札がある。今は菅公を祀る普通の天満天神さんだが、古くどのような社であったのか現状これ以上分かることはない。
社頭のこちらは道祖神さんなんかね。お首が傾いているような?如意輪観音とかだったのが、風化が激しくなんだか分からなくなって道祖神さんになっちゃいました、というようなこともあるだろうね。

千巌神社

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清水から大見西川を渡るあたりを下白岩の小字西といい、写真の橋は西橋。もとは西御堂なるすごい地名だった略なんだそうだが、その西御堂の鎮守さんが、前方の錐型の丘中腹に鎮座されている。これは「ナニカ」っぽい丘ですな。

先の道が丘麓に突き当たって向きを変える所に鳥居がある。「千巌神社」さんであります。登ってすぐに建物が見えているが、これは集会場のようなもので、お社は脇から登ってずっと上にある。
登り口からして中々凄い風情ですな。根が大石を抱えておって、子安信仰があったように見受けられる。ごろごろしている石も、石段の一部もあるが、そもそもここは土中から石が次々出てくる丘なのだ。
つづら折りに参道を登って行くが、このようにやはり石がごろごろ出ている。実際「千巌(せんげん)」という社名も浅間信仰の社の一環というよりも、まずこの多量の岩石が出土することが信仰されており、それを浅間を捩って千巌としたのだ、と『中伊豆町誌』にもある。
さらに坂道が折れて登って御社殿が見えてくる。御祭神は磐長姫命があてられており、この点憶えておかれたい。どうもここ白岩の地は土中からの岩石と子安を結ぶ信仰の理が支配的であるらしいことが後々分かってくる。
明治十一年に火災があり社殿棟札など一切を焼失ということで、創建由緒も皆不詳なのだが、土地の旧家の文書によるとその旧家の東の鬼門除の社であったそうな。先の天神さんもそうだが、この辺りも一族の守護神が地域の氏神へスライドし、実は未だにそう感覚の差のない所なのだろう。清水の天神さんの方で話を聞いていた所、「苗字なんて呼んだって意味ねえんだ。だってこの辺みんな○○だもん。出ていかねぇ限り一生子どもの頃からのあだ名で呼ばれんのよ。かっかっかっ」という感じなのであります。

小川神社

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ところで千巌が浅間のもじりであったように、磐長姫というのも似た名・神格の神さまを祀った、ということであると思われる。この地には子安の神「いわひめ」が祀られていたようなのだ。そういった話が大見川を南(写真右)に渡ったところにある。

このあたりは上白岩となって小字小川という土地になる。小川は小字地区としては広く、さらに四分割されていて四つの社があったのだが、これが「小川神社」として合祀された(ちなみに合祀令による合祀ではなく、昭和五年の北伊豆地震によって各社が倒壊したのを期に合祀されたのだそうな。地震がなければまだ四社あったかもしれない)。
子安・山神・八幡・瀧(不動)の四社が合祀されているのだが、この内下小川の子安社が小川全体の鎮守であったという。現在の小川神社は山神社の位置なのかな(よく分からない)。今は子安の神としては神皇産霊神があてられている。
この注連縄と〆の子もちょっと独特なものがありますな。何がどう独特なのか言葉にならんが、馬のことを考え考え来たので馬の尻尾のように見えるだけか(笑)。
閑話休題。さて、その中心的存在だった子安社だが、大見川の下手の川近くにあったという(写真左側のどこか)。そしてそこに祀られていた女神は記紀の神さまとかではなくて「そこに住んでいた女神さま」だったのだ。次のような土地の伝承がある。

子安のやしろ:
小川の里に美しい子安の女神が住んでいた。お産のとり上げが上手な神さまで、大見川のほとりに庵を作って住み、お産の手助けをして村人たちにたいそう感謝、尊敬されながら静に暮らしていた。
この子安の女神さまが、ある年の正月に雑煮をのどにつかえさせ、苦しんでいた。村人たちが必死に祈ると、にわかに空がかき曇りすさまじい雷鳴が轟いて、一同は気を失った。皆が気がつくと、女神はいなくなっており、小さな子安貝だけが残されていた。
そこで村人はその子安貝を祀る社を造り祀り、今でも正月三日は雑煮を食べない。また、無事子が産まれたら底抜け柄杓に産婦の髪の毛を結わえて社に供える。

『中伊豆町誌』より要約

子安の女神さんとはこういう存在なのだ。「お産のとり上げが上手な神さまで、大見川のほとりに庵を作って住み、お産の手助けをして村人たちにたいそう感謝」されているような神さまなのだ。なんと泣ける光景であることですかという。
ともかく、その子安社のあったあたりには生人場(精進場)・母居場(はまいば)・姫の井戸などの小地名があったといい、古くからの神地であったと思われる(多分産小屋の建てられた場所であるのだろう)。寛文五年(一六六五)再建棟札には「姫御前大見庄上下小川鎮守」とあるそうで、古老は「岩姫」と呼んでいたという。
伝説中の子安貝というのは、貝の化石の集まった岩塊のようなものだったらしい(『増訂 豆州志稿』)。この間相模原田名八幡で「じんじい石(左写真)」がそういうものじゃないかといった途端にこれだ。

また、この岩姫から伴信友はここを式内:伊波比咩命神社に比定したという。もっとも伊波比咩命神社は賀茂郡の社であり(最有力論社は南伊豆町の姫宮神社:左写真・地図)、古代に小川が賀茂郡であったとは考えられず、これは今は参考としても取り上げられないが。

しかし、「岩姫」であり「子安の女神」であるこの地の女神が伴信友の頃に式内社に比定されるほどの存在だった、というのは重要だ。先の千巌神社が「錐型の丘から岩石が産まれてくる場所」の信仰であり、磐長姫があてられ祀られていたことも思い出されたい。距離的にいってこの二社が全く連絡を持っていないとは思えず、丘を神体として川端に祭場があった、と見ても良いくらいの位置関係である。そして、このような理が白岩の土地を通じてあったかもしれないことは、続く土地の大社・大宮神社のことを考える際にも重要となると思う。
おまけで小川神社さん社頭には道祖神さんがあったのだが、「道尊神」とな。そんな表記があるのか。目の前にあるのだが。

道行き

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そんなこんなで大見も濃いねぇ、という塩梅なんでありますが、最も濃いいのはこの先なんであります。その前に道行きを眺めつつ肩の力を抜きつつ。鮎の飛び跳ねる小川橋を再度渡る。
渡った所に「越後21」とな「えちごとぅえんてぃーわん」であるか。まぁ、21はともかく、大見氏は越後に移ったわけだが、なんぞ関係あるのかね。
これは立派な庚申さん。既に何がどう手がかりになるかわからん最濃地帯に入っておるので、鵜の目鷹の目であります。

上白岩遺跡

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そしてやってきましたは国指定史跡「上白岩遺跡」であります。夕方じゃん、という写真ですが、看板とか何も撮っていなくて帰りに戻って撮ったのです(笑)。
この遺跡は縄文中期から後期にかけてのもので、全体では「三万平米」に及ぶ大規模遺跡であり、特に環状の配石がなされた遺構が目をひく所。発掘調査は昭和五十一年から行われたそうだが、当時はこのような遺構は珍しかったそうな。ここの配石遺構で重要な所は、その下部から墓と思われる多くの土壙や埋甕が発見されたこと。このようなサークル遺構が何であったか、その性格の一面が知れる考古資料となっている。
また、片隅に住居が復元されているが、訪れたならこちらもよく見ておくのが良い。変に現代風に整えられておらずに、中々良い感じの復元ですな。
重要なのは中だ。内部もきちんと作られている。で、中央に炉があって、その右奥に石が立っておるのが分かりますかね。これを「立石・神座」といい、要は縄文時代の神棚のようなものである(高くは作らんが)。
上白岩遺跡は大見川の河岸段丘上に広がった集落で、川に沿う低地から見上げると写真のよう(左側)。高低差が大きい所ではない。今は右端に写る家のすぐ向こう辺りに大見川が流れている。

大宮神社

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そのような縄文期の大規模集落があった、おそらくその範囲に入ると思われる場所に、大見の郷の古い総鎮守社である「大宮神社」が鎮座されるのだ。

中世以降大見の総鎮守はもっと奥の来宮さんに移ったが、古くはここが「はじまりの地」であった。今でも大きく杜が残されていて、社叢も市指定文化財になっている。当社は式内:大朝神社の有力論社でもある。式内:大朝神社の比定はどこも決め手がなく、既に紹介した沼津の「大朝神社」や田京の「神益麻志神社」なども名があがる。

▶「大朝神社」(沼津市下香貫)
▶「神益麻志神社」(伊豆の国市神島)
大まかには沼津の大朝神社とここ白岩の大宮神社が双璧という感じだろうか。地元の『増訂 豆州志稿』などは白岩大宮を最有力論社としている。で、ここ大宮神社の比定の根拠は「大見」の地名そのものにある。
大朝(おおあさ)はそもそも「大麻」のことである、というのがまず根底にあり、次いで大見とは「麻績(おうみ)」からの転訛である、というのがその説く所となる。社頭掲示には「古来式内社白岩大朝神社と呼称され……」とあるが、これは典拠とするところを知らない。
またここは古い棟札を多数伝えている社でもあり、最古のものは弘安三年(一二八〇)の「奉請大宮大明神 藤原氏女」とあるものだそうな。以降、応永・延徳・明応など二十八枚の棟札があるという。藤原・平名の記載がまま見えることから、官社の色合いが強かったといえる。
現在御祭神は「大己貴命・大国主命・大山咋命」となっているが、『増訂 豆州志稿』では「祭神不詳」であり、もとより、というわけではないだろう。元禄の上申書に「白岩大明神は日吉山王二一社の祖神なり」とあって、そういう結びつきもあったらしい。
いずれにしても式内:大朝神社であるかどうかという点に関してはやはり決定打はないといえるが、なにがしかの古代の官社には違いあるまい。そして、その遠源はさらに遡ると思われる。
本社殿後背はもうすぐに落ち込んでいて、大見西川の流れる低地になるのだが、渡った先の山腹に「白岩」があるという。故に地名も白岩といい、ぶっちゃけこの社はその白岩を遥拝する白岩大明神なのだ。もっともその白岩は土に隠れていて見えないというのだが(『増訂 豆州志稿』)、下白岩西御堂の千巌神社を見てきた目には「あぁ、そういうあれか」とすぐ了解されるのであります。
千巌神社の方は「この辺り一帯は白い巨岩が露頭して連なることから、自然を崇拝する信仰が、この神を祀る元になったものと思われる」と『中伊豆町誌』にあるが、この一文はそのまま白岩大明神である大宮神社のこととしても良いだろう。
で、さらにここには「地主さん」なる石棒が立てられ、祀られている。この前を掘ると祟りがあるのだと『式内社調査報告』の方で紹介されている。が、『式内社調査報告』は弥生時代や古墳時代の墳丘があってそれにちなむように見解しているが、これはどう見ても先の縄文遺跡由来の「立石・神座」である。そうならば、まったくのところ文字通り先住の「地主さん」なのだ。この祭場は実際縄文時代から途切れずに連続していたのじゃないだろうか。
その他境内社のことなども。姥神さんなども祀られており、小川の子安の女神などとの連続性も見える。また、来宮(木宮)神社も境内社にあるはずなんだが、名札は見えなかった。この木宮がかつて単独であり合祀されたのか、もとより末社なのか分からないのだが、折れた石棒を神体としてるとある(『増訂 豆州志稿』)。どうも韮山の方もそうだったが、中伊豆の来宮さんには地主の神という側面がまま見える。
また、小川神社とここ大宮神社には太鼓が備えられていた。双方バチの感じからして現役の役目があるようだ。なんだろうね。
そんな大見のはじまりの社、大宮神社さんでありました。お邪魔しましたと出ようとすると、手すりに小さなカエルどのが……なんかこのサイズにして既にヌシの風格が……「万事ぬかりなく参ったのか、人の子よ」とかいいそうだ。

道祖神さん・元村

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ここではもう一ヵ所、公民館(区民会館)に寄った。敷地の隅の分かれ道に面して伊豆型道祖神さんが三体。これはもう完全に東伊豆の「つくり」ですな。
こちらは桃をお持ちになっているのじゃないかと思う。笏から帳面まで色々な持物があるのだが、「桃持ち」の道祖神というのは絶対数が少なく、そもそも本当に桃なのかというのも胡乱で難しく、珍しいタイプだ。
こちらは普通のタイプだが、ずんぐりした造型が東伊豆的であります。漁師の里東伊豆ではヨリを掛けて子どもらがポカスカやるので、耐えられるように道祖神さんはだんだん細部の造型を廃してまるっこい抽象的な形になっていく。
そんな道祖神さんがあった「元村区民会館」であります。ここは「元村」の小字なのだ。上白岩遺跡、大宮神社と大見のはじまりの地なのだといってきたが、それは地名にもはっきり残されている。それを目に焼き付けておきたかった。今回は大見初見ということもあり、実は行くまではそこまで「オリジンオブ大見の白岩」という思惑はなかった。んが、千巌・小川子安・大宮元村と辿ってみた感じ、もっと詳細に辿るとさらに奥に何かありそうな気がする。旧中伊豆町の図書館の方にはもっと何か地元資料があるのかな。

関野神社

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さて、あとは隣接する大字関野の方も廻りましたよ、というところ。「関野神社」が鎮守さん。ここも合祀社で、神明・若宮(八幡)・天神が合祀され土地名が冠された。この位置にあったのは天神社さん。
んが、神明社が八田四郎(頼朝兄弟の末弟・常陸宍戸氏の祖にあたる)の守護神であり、若宮神社が関野の氏神で神井戸があったのだというので、そちらの方が重要社であったようだ。やはりここも合祀令ではなく、昭和になっての地震の際に合祀されている。
天神さんはなぜか疣取りの験があるお社だったそうな。願が果たされると「火付木を年齢数だけ麻糸で編み、スダレ状にしたものを奉納」するのだという(見えなかったが)。先にある城の白山さんでも(こちらは歯の神)クロモジの楊枝をスダレ状に編んで奉納するといい、ひとつの定型らしい。
今回出番のなかったお稲荷さんを。小川にも大宮にも祀られておりまして、お稲荷さんのない地域というわけではないです。が、ここはちょっと憶えておきたい所で、幾つかのお稲荷さんがまとまっているらしいのだが、中に「床浦稲荷」が入っている。床浦神というのは謎の神なのだが、東伊豆の方で境内社に良く入っている存在で、疱瘡神の神格である神さま。そういう点でも既に東伊豆からの流れが強いように見える。疱瘡稲荷というと伊東のようだしね。
社地は関川(関沢)のすぐ脇にある。疣取りはこの沢由来なんかな、あるいは雷か。ともかく「関野」であるが、「関」があったわけではなく、川の堰の方に由来するらしい。
社頭にはまた道祖神さんが。奥の一体はデカイなぁ。この大きさに造るというのは伊豆では実はあまり見ない。相模に行って真鶴の方で見るサイズだ。大きく造る理由、というのはあるのかね。
県道の方に出てきますと、大見川の奥が見晴せた。あの壁のような山々の向こうはもう伊東だ。当たり前だが近づくとそれを彷彿とさせる文物が増えてくるもので、そういうのが「ワカル!わかるぞっ!」となるのは楽しいですな。
また大変な山崩れがあったらしい斜面が。そしてまたその下に家が。やっぱり一度崩れたからもうそう簡単には崩れない、とかいう認識があるのじゃないか。

お蝶渕

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最後にもうひとつの土地の伝説を紹介しておこう。この交差する水路から水が溢れ落ちる何とも涼やかな城川(じょうがわ)という川が大見川に合流する場所の話。これは大宮神社、あるいは大見が麻績からの転訛だという説に関係するお話であります。
実は、その合流点に行きたかったのだけれど、どうも下りていく道とかないらしく、周辺登ったり下ったりしたが近づけなかった。対岸からなら見えるのか、よく分からない。写真の先にその合流点はある。

お蝶渕:
大見川に城川が注ぐところを落合といい、白い大岩で大見川の流れが変わる。近くの村の里にお蝶という、渡来の機織りの子孫である娘がいた。お蝶は村おさの息子・佐平と恋に落ちたが、よそから来た人の子孫であるからと結婚が許されなかった。しかし、村おさは二人の歎願を聞き、間近に迫った産土の祭に使う打掛を織ることができたなら結婚を許そうということになった。お蝶と佐平は寝ずの作業で必死に打掛を織り、どうにか祭の前にそれは完成した。
ところが、あまりの疲労にお蝶は灯明の火を完成した打掛に落としてしまう。打掛は瞬く間に焼けてしまい、お蝶は絶望のあまり渕へと身を投げてしまった。それから渕の底から機を織る音が聞こえるようになったといい、渕は「お蝶渕」と呼ばれるようになった。

『中伊豆町誌』より要約

狩野川台風の際に土砂で埋まって、今はもう渕というほどではないらしいが、確かに地図などで見るに大見川が直角に折れ曲がる所ではある。話の大筋は機織り渕の型そのものだが、主人公が渡来の機織り職の子孫、と明言するのは珍しいのじゃないか。
ともかく、大宮神社に関してこの伝説が紹介されることがないので、この地にはこうした機織り娘の伝説があるのだと強調しておきたい。あるいは伊豆式内の倭文神社を考える上でも参考となる話かもしれない。

おわり

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といったところで。距離的にはショートバージョンといった感じでしたが、内容的には盛りだくさんな大見突入編でありました。さらに写真の方へと進みますとね、また蛇息子だの来宮さんだの弟橘媛だのとエラいことになるので、今回はこの辺で。
しかし、来る前はその奥の方が本命で、今回行程は「まぁ、大宮さんがあるね」くらいだったのだけれどあにはからんや。歩いてみるとそこここにアヤシゲなゲートが開いている土地でありましたな。やはり詳細編をやることになる所かもしれない。
おまけ:なんぞ、これ。

補遺:

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補遺:

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田方行:修善寺・大見 2013.06.29

惰竜抄: