多摩行:狛江

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.05.18

東京都狛江市は狛江村が狛江町になって、そのまま市になったという所。もっとも近世には狛江という特定のエリアはなかったのだが。無論江戸時代にも「昔狛江郷といった」というのは知られた事で、狛江というと大体このあたりを指す、というのはあっただろう。古代の狛江郷は今の狛江市・調布市・三鷹市・武蔵野市の一部を含む広い地域だった。神社巡り編ではこの枠組みを皆「狛江」として扱いたい。
狛江の由来は古代に高句麗(高麗・こま)から来た人々が集住した土地、ということによるとされ、南関東では指折りの早期に当時最先端の仏教文化が入ったところでもある。大体浅草寺に続くくらいだと思えば良い。
また、多摩川の氾濫と戦いつづけた土地でもあり、さらに水もよく湧き、右も左も竜蛇伝承だらけの土地でもある。それは全域でそうであり、古代でもそうだっただろう。つまり、竜蛇信仰と渡来文化がどう交錯するのかが見えるかもしれない土地なのだ。そんな狛江。

玉泉寺

a


小田急線和泉多摩川という駅で降りますと、駅すぐ東隣に「玉泉寺」というお寺がある。
玉泉寺として再興されたのは永正元年のことだが(普通これを開創とする)、ここはそれ以前から多摩川対岸にあった大輪寺という古刹の後裔であると伝承している。で、なんとその大輪寺は舒明天皇六年の創建だというのだ。大化の改新の前である(ちなみに『角川 日本地名大辞典』には「欽明天皇六年」とあるのですよ。んが、浅草寺の伝承より古いってのは変だろ、と思って調べ直しましたところ、どうも舒明天皇六年が正しいようだ。多分角川の誤りである)。
ま、そのあたりは現状さて置きまして、あたくしここに興味を持って参りましたのは「おしゃもじさま」の件によるのです。ここ玉泉寺境内に、柳田翁も紹介した知られたおしゃもじさまがあるというのだ。
こちらかね。今はもう杓文字は奉納されないんかね。で、ですな。『新編風土記』にはここは「石神」とあるのだけれど、神体は木像で、豊磐間戸命、櫛磐間戸命であるとあるのだ。これすなわち随身門に祀られる神であり、多摩ということでいえばぶっちゃけアラハバキの神である。
本堂前左右に向かい合ってお堂があって、おしゃもじさまはさっきの側(本堂に向って右)なのだと思うが、反対のこちらは観音堂かな。ともかく門前の神が祀られていた風を少し残しているのかもしれない。ともかく、のっけから「アラハバキからおしゃもじさまへ」という華麗な変転を遂げた(だろう)例がここにあるのですな。
ちなみに多摩ということで、このあたりも八王子同様、お杓文字でよそったご飯を食べると治る、という系統が多いようだ。なお、お寺の方ではこのお堂を「社母子尊」と書いていたそうな。あちこちでおしゃもじさまが姥神化している例を見てきたが(相州秦野のお社護さんとか)、表記から連絡していく経路が見えるところでもあるだろう。

道行き

b

道行きお稲荷さん。非常に稲荷祠が多い。というかお稲荷さんだらけ。お屋敷神としても多いが、道辻にも多い。
そして古墳。狛江百塚、といわれるほど円墳がたくさんあった。明治期に好事家が数えたところ、実際には160基以上あったそうな。今はもう十数基を残すのみで、「あ、塚だな」と見えるものは写真を含め数えるほどだが。
で、大概塚上にはお稲荷さんの祠があったといい、今道辻にお稲荷さんが多いのも繋がった話だろう。かつてそこに古墳があった痕跡の稲荷祠というのもかなりあると思われる。狐に化かされる昔話も大変多いのだが、そういう古狐は塚穴に棲むものだと噂されたそうな。

白幡菅原神社

c


東へ向っておりまして、ここは猪方という所の「白幡菅原神社」さん。白幡明神社は先の玉泉寺境内続きにかつてあった社がこちらへ合祀されたもの。源頼朝を祀ってきたそうな。
この場所には天満宮が祀られており、天神森と呼ばれていた。また、このあたりは井伊掃部頭の領地でありちなむ文物が多いが、ここに井伊直弼公も祀られている。さらに併せてなぜか水戸光圀公も祀られている。
そんなお社なのだが、重要な点はかつての社前の風景だとあたしは思う。今は皆街路で中学校がありという風景だが、かつてこのお社の前は水で溢れていたという。
お社対面の神社の倉庫のまわりにやや面影があるかしら。後に見る泉龍寺の湧き水からの流れが、ここから幾筋にも分れていったそうで、お社の前に洗い場があり、農具や作物を洗ったものだったという。
洗い場では「足場の石の上で子どもたちが青菜を摺りつぶして遊んだ。何度も何度も繰り返してつぶしたところには摺鉢形のくぼみができた」という。今の石段に残るこの椀状穿痕がそうかもしれない。
そのように、ここは「水際の天神森」だったのだ。これが今回のキーワードの一つである。ここの天神さんがいかなる天神さんであったかその由緒はもう分からないが、この昔日の光景が、多摩の他の「水際の天神さん」たちと関係してゆくかもしれない。

ちなみにこの辺りの昔日の狛江の様子は狛江市企画広報課『狛江・語りつぐむかし』によっているが、狛江市のサイトで皆読むことができまする。この猪方の様子は「猪方風景」より。

狛江・語りつぐむかし「猪方風景」
 (狛江市公式サイト)

駒井の日枝神社

d


天神さんからお隣駒井という所の「日枝神社」さんへ。駒井の鎮守さんだが、要は隣接するお寺・圓住院(天台宗)の守護神であった山王さんである。
また、この日のキー。どうもこう鳥居額の縁は龍でないと、という土地柄らしい。この後、調布の方までそう。
『新編風土記』によると山王さんはもっと東の方にあったようだが。今はお寺とお社が並んでいる(写真右手隣に圓住院)。
見上げる先の木獅子どの……この位置に掲げられるというのは見ないなぁ。

ところで「駒井」という土地の名が重要なのだが、先にいった通り「狛江」という土地名は近世にはダイレクトに使われていなかったので、ここ駒井が端的には狛江の遺称地である(あと調布の柏江・今の佐須町……後述)。高麗から駒へ直接変化している可能性もあるが。古代狛江郷の中心地はもう一方のその調布の柏江・佐須町の方だったと考えられるが、こちらに「駒井」と残ったのもなにかあるのかもしれない。まぁ、すぐそこは世田谷区であって「トーキョーの住宅街」であります故、これから何かを探すというのも難しかろうが。

岩戸の八幡神社

e


そのなにかあったかも、というひとつがお隣岩戸という所の「八幡神社」さん。創建は不詳なのだが、戦国時代の伝説がある。後北条の北条氏康の主催による力自慢の力比べが行なわれたそうで、そこに当岩戸からは鬼五郎の異名を持った秋元仁左衛門という人が出たそうな。そして、見事鬼五郎は相撲に勝ち、勝者に贈られるとされた鶴岡八幡宮のご神体の一体を持ち帰ったのだという。
ということで、この八幡さんは鶴岡八幡宮のご神体を祀っていたという八幡さんなのだ(返した、という話もあるが)。実際どうなのかは知らない。

で、ですな。気になることというのは『狛江村誌』(昭和十年)の記述なのだが、その祭神は「足摩知大神」なる神であると古文書にあるというのだ。それ以上はまったく不詳。足摩乳神、ということだろうか。ともかく八幡となる以前になにかであった可能性がある。
実はそう遠くなく氷川さんもあるので、そちら系の流れがあった、ということかもしれないが、どうなんですかね、狛犬さん。面白い子狛ですな。前面でくるんと。
鳥居前には弁天池も。このあたりは鶴岡を意識したのかもしれない。源平池にはなっていないが。

泉龍寺

f


大きく西へ戻りまして、小田急線狛江駅のすぐ脇に森があるが、その中に「泉龍寺」がある。良弁上人の開基を伝える古刹だ。御開山拝登。
シンボルとなっている特徴的な二層の鐘楼門。東大寺を開いた良弁は、こちらのほうでは相模に生まれて鷲にさらわれたのだという伝説があり、帰国して相州大山の大山寺を開いたのだと語られる。
その良弁上人がこの地で里人に乞われて雨乞いをしたのが泉龍寺の開山であるという。
お地蔵さんの話など色々あるが(子安信仰の拠点でもあった)、まーなんだって文化財もてんこ盛りなんでして、細かくあたっているとそれで終わってしまうのであります。ここでは開山伝説と竜蛇伝説のみに絞って紹介しよう。

まず、この良弁の雨乞い伝説は「三分される龍」の伝説でもある。良弁の雨乞いにより龍が出現し、大雨が降って泉が湧いたというのだが、この時の龍は三つにちぎれて落っこちたのだそうな。よそのように「なぜちぎれたのか」は語られないようだが。頭が落ちたところは後で行くが三島という所で、龍光寺なるお寺があったそうな(今はない)。ここ泉龍寺には「一番大きなかけら」が落ちたところなのだという(胴か)。詳しくは以下参照。

狛江・語りつぐむかし「ちぎれて落ちた竜」
 (狛江市公式サイト)
泉龍寺前にあるこの弁天池が、その時湧いた泉なのだという。この湧水が狛江の田畑を潤してきた。この地は江戸時代は和泉村といって今も和泉という地区だが、この池がその由来だ。
池脇には弁天さんが祀られ(併せてお不動さんも祀られている)、当然ながら白蛇がニョロニョロすることになる。変事があるときは姿を見せ報せるといい、昔寺の僧たちが池に入って戯れ、怒った白蛇が出てきたところを打とうとしたところ、その僧は死んでしまったそうな。このあとも狛江の蛇の話が続くが、どうも蛇の肩を持つ土地のようであり、白蛇を打ち据えるなどとんでもない話だったのでしょうな。
まぁ、今は駅横の長閑な公園という感じで「皆さんの浄財で、池の鯉達も仲良く元気です」とのことで大変結構、という所であります(笑)。
白蛇どのの眷属でないのかね、という鯉さん。で、これまた当然のことながらこの池は和泉の続く時代の雨乞いの奥の手でもあった。この辺『狛江市史』が面白い指摘をしている。和泉は旱天になると、まず相州大山に人をやって水を貰ってきて、これを鎮守の伊豆美神社で拝んでもらったのち、川に流したという。そして、それでも雨が降らないときは、奥の手として泉龍寺の池で雨乞いをしたのだそうな。
市史ではこのはじめの大山から水を貰ってくる次第について、両寺が良弁開基を伝える寺であり、何らかの繋がりを持っていた名残りではないかと指摘している。もっとも雨降山の二つ名を持つ大山に人をやるのは広くあるので、それだけでは何ともいえず、市史自身もそう書いているが。
んが、広く見渡すと、高句麗からの人の移動として、度々扱っている相模大磯から武蔵高麗への高麗若光の移動というのがあり、若光の伝説が大山麓の日向薬師にある。ここ狛江の地はその動向と大きく関係したはずであり、泉龍寺と大山寺の繋がりがその一環としてあった、という可能性も考えられるだろう。
そういった一見竜蛇伝説と別な方向で先々スペアを取ることがあるかもしれない、という思いもあるのだ。写真は『江戸名所図会』にあるという弁天池の様子。アヤシいですな。ていうか右のニイちゃんはナニを覗いているのか(笑)。

道行き

g

伊豆美神社へ向うために泉龍寺をぐるっと回ると、裏手にあたる県道対面に古墳がある。経塚古墳というのであって、名のとおり泉龍寺の経塚に転用されていたそうな。良弁上人のお墓だという伝説もあったという。
道行きましてお稲荷さん。田中橋というところなのだが、この交差点向こうに穴守稲荷という楽しいお稲荷さんもあるのだが、そちらは以前紹介したので今回はこちらの道端稲荷さんを(高千穂稲荷、という)。
以前はその穴守稲荷さん(左写真)の見た目の楽しさにひかれたわけだけれど(螺旋階段の上にある)、今はこちらの道辻と祠の関係に目が行くのだ。
写真左方が県道で、右手からの道が合流する三角地帯に祀られている。で、このように、稲荷祠と庚申さんなどが背中合わせに配置されているのですな。面白い。古くからこうだったなら、何らかの土地の感覚を伝えるものだろう。

兜塚・亀塚

h


そして伊豆美神社近くの「兜塚古墳」へ。これ以上引くと前景に家々が入ってくるし、中々街中古墳の全容を見せるというのは難しい。かててくわえて、そうは見えないが、実はこの時遠足だか社会見学だかの園児ちゃんたちが大挙して塚に登っておって、塚のアヤシさに大騒ぎ大爆発状態(笑)という有様でしてな、こりゃ撮影もできんわな、という感じ。
ということでここは以前も来ているのでその際の写真を。非常にしっかり塚が残っているところで、狛江百塚を見る上では一番良いところかもしれない。
兜塚古墳は一応円墳とされているが、帆立貝形の前方後円墳の可能性も指摘されている。保存優先で主体部の発掘などはまだ行なわれていないが、次に紹介する亀塚古墳の次世代の盟主の墓ではないかと考えられている。六世紀前半頃のものですな。

ここで有名な狛江亀塚「亀塚古墳」も併せて紹介しておこう。今回は行っていないので以前の写真を。こんな「はい?」という所を入るのです。
すると住宅の狭間にこうある。古墳全体が残っているわけではなく、帆立貝形の前方後円墳だったのだが、その前方部がちょこんと残っているだけなのだ。
かつてはこんな風であった。狛江百塚の中では最大規模だった古墳であり、首長墓であったと考えられている。もっとも近世既に削平が進んでおり、「亀塚」と呼ばれるのも、そう手足があるように見える形に削られていたからなのだそうな。

亀塚は主体部が調査されており、大阪出土の銅鏡と同鋳型と見られる後漢時代の神人歌舞画像鏡が発見され、また、竜や麒麟が描かれた飾板が発見されたこともあり、その高句麗の古墳文化との類似が注目された。んが、このことから「なるほど名の伝承の通りに高麗(こま・高句麗)の地であったか」と、狛江があたかも「リトル・高句麗」であるかのような印象が広まったのだが、そういうわけではない。
狛江の古墳群も先行する弥生時代の方形周溝墓から繋がって発展してきたものであることが分かっており、何もない所に高句麗の人たちが来て村里を作ったというわけではないのだ。畿内王権のもたらす舶来の最新文化に興味を示して、大いに取り入れた集団がここにあった、ということだろう。

伊豆美神社

i


行程戻りまして和泉の鎮守にして狛江市総鎮守の「伊豆美神社」さん。この二之鳥居は慶安四年のもの。由比正雪の乱の頃に立った鳥居だ(乱鎮圧に手柄があった石谷貞清という旗本が立てた)。
社伝では宇多天皇のころに武蔵総社・六所宮(大國魂神社)を分けたのをはじまりとするという。故に長らく六所明神でありまして、現社名は地名を冠した近代以降のもの。昔は多摩川縁の水神社のある近くに鎮座されていたというが、天文年間に洪水を避け、現社地に遷られたという。ともかく大國魂神社の分社なのでありまして、祀る所の神々は総社に同じ。相模では総社の分社ってのは聞かないけどね。そのあたりも平末武蔵七党の動向とかと関係すると思うのだが、今回はより謎めいた所を強く指摘しておきたい。
多分知らずに参ったら気がつかないだろうが、社務所と神楽殿の間に入り込むと、社地の隅にこういう場所があって、ここに「御霊神社」が祀られている。左方に見える森が兜塚。一名腰掛塚といい、本社が遷られる際に仮宮を奉安した所と伝わる。んが、さらに元々この塚は御霊大神を鎮斎した御霊神社跡地であったとも伝わる。この「御霊大神」が問題になる。伊豆美神社の本家は先に述べたように武蔵総社の六所宮・大國魂神社。
で、その大國魂神社は東西殿に武蔵一宮から六宮の神を祀るが、中殿には大國魂大神・御霊大神・国内諸神をお祀りしている。国内諸神はその通りとして、御霊大神という神格が主祭神の大國魂大神と並び祀られているのだ。この御霊大神の御神輿は例大祭・くらやみ祭の渡御において、他の神々の神輿とまったく異なるコースを辿り、御旅所へも他の神輿と異なる門より入る。神輿そのものも特異な形状をしている。異例づくしの謎の神なのだ。

▶「御霊宮神輿
 (webサイト「祭り好きの隠れ家」)

そういった大國魂神社の御霊大神が伊豆美神社の御霊神社(あるいは伊豆美神社そのもの)と深くかかわっているのではないかと思うのだ。
現在では大國魂神社の御霊大神の神輿の渡御は府中の本町中組の方で担当されているそうだが、かつて、その担当をしていたのは和泉の人々であったというのである。さらに、御霊とは所謂御霊信仰の御霊のことだろうとされもするが、地元には不思議な伝承もある。この御霊大神とは六所の神の后神であるというのだ。その名を「志多女郎様」という。はたしてこれが大國魂大神の后の意なのか、総社となる以前の話を伝えているのかも分からないが、きわめて興味深い。
このように伊豆美神社というのは(その「向き」も謎だが)、いろいろ不思議な所が多い。単に「武蔵総社の分社」では捉えきれない面のあるお社であるといえる(この話は『狛江市史』を参照)。
蛇さんの話も。今はないが、昔このお社には大松の御神木があって、ウロに大蛇が棲んでいたという。そして、松が倒れるのを防ごうと根をコンクリで覆った所、氏子の夢枕に大蛇が現われ、息ができなくて苦しいと訴えたそうな。

狛江・語りつぐむかし「白蛇と大蛇の話」
 (狛江市公式サイト)

この大蛇を祀った妙玉様という石祠があったのだというが、今の境内石祠の内に入っておるのかね。なんにしてもどうもこの辺りの人々は蛇と仲が良いのであります。同じく和泉の旧家に目の悪い古大蛇がおって、子どもらに追われて井戸に落ちてしまったのだけれど、後に掘り出された骨を「リュウコン様」と言って祀ったそうな。

狛江・語りつぐむかし「目の悪いリュウコン様」
 (狛江市公式サイト)

リュウコン様というと何だか神々しいが、漁師たちの祀るリューゴンサン(竜宮さん)のことでしょうな。多摩川に沿って海の人と山の人が行ったり来たりした所でもある。この旧家はまた、トラコーマなどの目の病を治す秘術を持っていたというが、目の悪いヘビを竜神様として祀ったことにかかわりがあるかもしれない、という。蛇の甑の話も多いが、概ね「それを見たら幸運が舞い込む」という話になっている。おそらく地主の神は蛇、という感覚が非常に強かったのだろう。

道行き

j

和泉をあとに道行きますと、新古の道標が並んでいた。古は庚申さんですな。新はなぁ、あんまり「ステキっ!」という感じじゃあねぇなぁ(笑)。
そしてまた覆い屋もついた庚申さん。どうも庚申さんばかりで道祖神というのを見ない。んが、昔はこのあたりも小正月のどんど焼きをサイノカミの祭だとして盛んに行なっていたのだ。
どういうことかね。庚申像が一部サイノカミさんだとして認識されている、という土地なのだろうか。
何だか大変なことになってしまっている椀状穿痕だらけの青面金剛さん。
趣味だねぇ。

覚東三島の千手院

k


さて、道行きは東野川という地区に入っているのだけれど、ここに「千手院」というお寺がある。これがですね。東野川とか西野川というのはごく最近できた住所で、このあたりは「覚東(がくとう)」という土地だった(『角川 日本地名大辞典』の頃はまだそう)。さらに昔は「学堂(から学東→覚東)」という地名だったという。大きなお寺の学堂があったのだろう。覚東はまた上下に分かれていて、双方の鎮守のお社の別当だったのがここ千手院。
そして、ここから南東側の覚東の下分とされたのがまた一名三島といった土地なのだ。泉龍寺の三分されちゃった龍の頭が落ちたという土地ですな。龍光寺というお寺があり、そこだったという(龍興寺であったともいう。「龍の頭」ということでは龍口寺ということはなかったか)。三島地区の鎮守は三島神社さんで(この次の子之神社に合祀)、その辺だったと思うんだけれどね。
千手院は今の所詳しい資料が見えないのだが、伝説の龍光寺の後裔だったりしないのかしらん、みたいな訪問。ふむ。弁天堂を再興する工事なんだそうな。再興するような弁天堂があった、ということだ。

ここ三島の土地にはまたかなり強力な鰻の禁忌があったというのだが、そもそもその三島神社がどういう来歴なのかも分からない。

「ウナギを食べない三島の人たち」
 (狛江市公式サイト)
龍の落ちた話と鰻の禁忌が結びつくようだとホームランクラスなのだが、現状は下見といったところであります。ねぇ、亀さん……いやー、まさか亀伝承があったりするのじゃないだろうね(笑)。

覚東の子之神社

l


西野川という所だけれど、かつての覚東の上分の鎮守さんだった「子之神社」さんへ。先に述べたように下分の三島神社が合祀されている。創建も由緒も軒並み不詳なのだが、足を治してくれる神さまだと信仰されており、妙見信仰のお宮だったともいう。市史は飯能の子聖権現からだろうと見解している。
ひとつ目をひく所としては、『狛江村誌』に地元の旧家に文安五年(1448)の創立だと伝わったという話が載っている、という件がある。もしそうであるならば、明らかに後北条氏に先行する子権現であったということになるだろう(子之神社は後北条氏の領地に分布するという特徴が見えている)。まぁ、その話の真偽を含めて何かを示す実例となるほどの史料があるというわけではないだろうが。飯能との繋がりというのはまた高麗(こま)系の連絡のある可能性のあるところでもあり、少し気にしておきたいお社ではある。
社号はこうなっていた。合祀の際は三島の氏子に強硬に反対する家があって殴り合いの騒動になったというが、そんな経緯から気を遣う所があるのかもしれない。

小足立:八幡神社

m


また同じく西野川の「八幡神社」さんへ。だがしかし、ここはかつてもう覚東ではなく、小足立(こあだち)という所だった。小足立の鎮守の八幡神社。こうしてお社と土地の繋がりが胡乱になっていく。
立派な由緒の石碑があるが、元禄十年の検地帳に見えるという以外は要約すれば「沿革不詳」である。んが、小足立という旧地名の方がタダモノではなく、仁徳天皇の御代にのびる話になる。
「仁徳天皇の御代小足立の住人、強頸(こわくび)直という人が勅命により、難波堀江の難所に築堤した。以来二千有余年の間連綿として伝わり、村の総鎮守にして当本殿はその当時よりの創建と思われる。」と、『神社名鑑』にはあるのだ。
強頸直とは『日本書紀』仁徳紀の例の茨田堤の話に見る「武蔵人強頸」のことだろうが、その出身がここだったというのだ。まぁ、武蔵人強頸は人柱になってしまっておるのだが。その居館から「強館(こわだて)」と呼ばれ、小足立となったのだと『狛江村誌』にいう。お社の創建が『神社名鑑』にあるようにその頃の話かどうかというのはともかく、この伝承をもった小足立という地名を失うのは惜しすぎるだろう。せめて神社の由緒石碑にこの伝承を書き加えたらイカンのか、と思うのだが。
そんな小足立八幡神社さんなのであります。武蔵人強頸を配祀してもいいくらいに思うのだけれどね。どうですかね狛犬どの。
おー、なんか物凄く上品なお顔の狛犬どのだ。「ニュッ」と飛び出した感じの子狛もステキ。
ここの八幡さんにステキ庚申さんもある。社殿向って左側にこうしてお稲荷さんと庚申さんのエリアがあるのであります。
ショケラもおってなぁ。でも女人という感じではないね。ともかく大変作り込まれた青面金剛さんの庚申塔でありましょう。

そういった所で、ここ八幡神社さんで狛江市パートは終了なのでありました(この後調布市の方へも行く)。で、ですな。直前に「ななとこまいり(補遺参照)」の話をしておったのがこの行程に関係するのでした。
このあたりでは戦前までは、春の社日に爺ちゃん婆ちゃんがさかんに「七鳥居参り・七所参り」といって巡ったのだそうな。橋を渡らないで行ける「七つのお社の石鳥居を潜る」というのがその願かけの方法だったという。調布・府中の方でも同じようだったそうな。
また、弱い子を背負って同様なお参りをしたともいう。この時は近所から貰い集めた端切の服を着せ参るのが良いとされたそうな(「はぎ着物」という)。そんな狛江・七所参りをあたしもやっていたわけです(社日じゃないが)。
現在狛江市の法人社は六社で、ここまでで全社廻ってきたですな。みな石鳥居だった。七所参りが意識されての設えに相違ない。あ、じゃあ六ヶ所じゃん、とお思いかもですが、伊豆美神社さんには一之鳥居と二之鳥居の石鳥居があるので七鳥居になるのであります。いや本当に。府中では総社さんはたくさん石鳥居があるので人気だったのです(笑)。
(この辺りのことは狛江市教育委員会『狛江市文化財調査報告書第18集 狛江の医療伝承』より)

布多天神社

n

実はこの日はお昼前くらいのスタートでありましたので、既に日が傾きつつある時間。そこで狛江市小足立からはバスでスキップしまして、お隣の調布市中心部へ。調布エリアというのは迂闊に攻めるわけにはいかぬ難しい所ですので、この期に下見をば、という感じであります。
ところで「調布」という地名もここで地名としてずっと用いられていたわけではなく、近代の合併時に用いられはじめたものだ。もちろん有名な「多摩川にさらすてづくりさらさらに……」という万葉歌の通りに布を調として納めていた地だ、という話はずっとあったわけだが。

中心地区となる京王線調布駅あたりは布田(ふだ)五宿と呼ばれたところだった。その布田五宿総鎮守のお社が式内の「布多天神社」さん。他に論社はなく、式内:布多天神社としてわりと連綿としている。別名としては布田五宿鎮守なので五宿天神などとも呼ばれた。現在は「ふだてん」と訓む。「神のやしろを想う」の twitter@Jinja_Kikou_Net さんでおなじみ(?)のお社でありますな。
いやもうご覧の通り立派な神社さんで、しかも人が多い。「あれ?お祭の日?」とか思ったくらいに多い。どうにか人が引いた瞬間で。別に別表神社とかではないよねぇ。長く盛んだった土地の古社の面目という所なのかしら。
「天神社」というので、今はもっぱら天満宮のように思われているのだろう。でっかいなで牛さんもおって、まぁ、天満天神さんという風ではある。
んが、ここは少彦名命を主祭神とし、文明年間に多摩川そばの「古天神」という所から洪水を避けて遷座される際に菅原道真公を併せ祀ったという所。伝承ではこの地の長者が布多天神(古天神の)から木綿布の製法を授かった、という由緒が語られる。だから布多(布田)なのだ、調布(たづくり)の地なのだという土地の特徴と併せて語られるのだが、少彦名命が織物を?というピンと来ない側面もある。
そもそも少彦名命が古代に祀られていたと示すなにかがあるわけではないのだ。『式内社調査報告』では「強ひて言へば、布多天神を祀る、としか答ひやうがない」と見解している。菅公「ではない」天神というなら(五条天神などからして)少彦名命だろうと後世主祭神とされた可能性は多分にあるだろう。
そのような布多天神社なのだが、ここでは一点、多摩川との関係が深いだろうことを地名のことと併せて考えておきたい。土地の伝説に次のようにいう。

ところがね、向かい側の、稲城の百村(もむら)の妙見様の近くに、同じ少彦名を祀った天神があって、向こうの伝説では、川の出水のとき、子どもが現れてですね「我を祀れば、川の水が退くであろう」というので祀ったらば、川の流れが変わったって。これは、ほんとにね、多摩川は、向こうの山の麓を流れてたわけですよ。いまも、あっちの方から、流木の古いものが、ずいぶん出るんですよ。それが、現在のような、多摩川がね、調布の方に寄って流れちゃったんだから、そんなことが伝説になったんじゃないですかね。(布田 明治三十七年生 男)

『調布市史 民俗編』より引用

このように稲城の方を流れていた多摩川が調布の方を流れるようになったのだ、という話があるようなのだ(おそらく百村の天神とは穴澤天神社のことだろう)。布多天神社が少彦名命を祀ることに関して語られる話であり、つまり多摩川の水神格としての少彦名命なのだといっていると考えられるだろう。

そして、このことは「布田」という地名にも関係するのじゃないかとあたしは少し思っている。この地名は先に見たように木綿(あるいは麻)布に関する地名だとされるのだが、あたしは常陸の古地名、霞ヶ浦沿岸の古渡(ふっと)・古高(ふったか)などと同系の地名ではないかと疑っているのだ。古渡・古高がどのような地名かというのも色々あるのだが、現状あたしは『潮来町誌』などが見解しているように、泥田地や泥地に近い砂州などを「ふっと・ふった」などといったのに由来する地名なのだろうと思っている。
これは深い田を「どぶっ田・ふけっ田」などという所に少し残っている。また、「釈迦は田の畦から生れて来た。田に入ると釈迦の頭をうなってしまうからというので田に入らぬ」などといって灌仏会の頃に田に入るのを忌む話があるのが長らく謎だったのだが、このあたりも泥地「ふった」と仏陀を掛けた話だったのかもしれない。
ともかく、そのような多摩川の造成した泥地も「ふった」といったのだとすれば、「ふたてんじん」とはまったく川端の神の社ということになるだろう。どうも多摩地域に関してはこのような「川端の天神」が後々クローズアップされてくるような気がしている。
と、そんなことを細々語っていたらレポが終わらんのじゃないかと思った(笑)。この先このクラスの謎が並ぶんだけど、どうしましょうか、狛犬どの。
あはははは。頭がないのかと思いましたよ。いえ、あるのです。小顔の狛さん。
ちょっと、社寺を簡単に紹介して、面倒な話は補遺にまとめる方向にしましょう。布多天神さんについてはあと一点、狛江市和泉の方とも繋がりがあることを。写真は境内社の大鳥神社と金毘羅さんの祠。この大鳥神社の方。今は普通に酉の市のお酉さまなのだけれど、このお社は元々和泉の泉龍寺の境内社「鳥明神社」だったという。神仏分離でお寺から出されてこちらに祀られた。泉龍寺では疱瘡守護の神で、疱瘡除けの祈願が行なわれていたという。そういう小社が遷ってくるような繋がりがあるのですな。
まだまだ境内には「この祠さんは一体……」という所もあるのだけれど、先へ進みます。

虎狛神社

o


北東方佐須町という所へ進むと、式内:虎柏神社論社の「虎狛神社」が鎮座される。基本的にはここが最有力論社だ。「こはく」と訓むが、意味合い的には「とらこま」である。
柏なのか狛なのかという感じだが、神名帳の「虎柏」が「虎狛」からの誤記だろうと考えられ、同様なことが地名にもいえる。佐須町の辺りは古く柏江郷といったが、これすなわち狛江が誤ってそうなったものだと考えられる。
つまりここが古代狛江郷の中心地であったと考えられているわけだ。そのフラッグシップとなるのがこの北方に位置する古刹「深大寺」なのだが、虎狛神社はその開基伝説と密接に関係するお社なのであります。
その伝説に「トラ女」が出てくるのだ。ははぁ、ちゃんと虎がおるねぇ。もう二年前から「深大寺ガー、トラ女ガー」といっておったのだけれど、いよいよ大磯虎御前との関係を探る行程にやってき……あ、「下見」だったですね(笑)。
現在は大歳御祖神を主祭神として祀るが、おそらくあまり関係ない。各説共に、深大寺を開いた祖を祀る社であろうとしている。それが「狛江のトラ」を祀ったの意なのか、どこまでその話は遡らせることができるのか、そのあたりが難しい所になる。
奥に虎狛神社の鳥居が見えている。この道が往古参道だったのだろう。今は高速道路にぶつかって終わるが、その先に深大寺の森がある。

青渭神社

p


深大寺の前にもう一社。深大寺から見ると東の高台となっている上に「青渭神社」が鎮座されている。こちらも式内:青渭(あおい)神社の論社だ。
式内:青渭神社の比定はどこも決定打がなく『式内社調査報告』も三社紹介している。ここ深大寺の青渭神社は、かつては社前の谷戸(池ノ谷戸)に池沼があり、それにちなんだ「青波(あおなみ・あおは)天神」と呼ばれていた(今でも「あおなみさん」である)。
ここは字義の類似から青渭神社に比定されたのだろうとされるが、他の論社も池沼の水神を祀るという点で大差はない。今は青渭大神を祀る、となっているのかしら。水波能女命・青沼押比売命(青沼馬沼押比売命:大国主命の娘)を祀るともある。
写真左にちらと道が見えていて、その向こうが青渭神社。こうして前が谷状に急落しており、ここにその伝承の池沼があったのだろう。『北多摩神社誌』には「社前大池に棲む蛇を祀ったともいわれているが明らかではない」とある。
この絵馬は……巳年の絵馬ですな(笑)。さて、ここ青渭神社は深大寺が別当のお社、というか往時は深大寺の一部だったと思われるのだが、水にちなむ伝説に溢れる「真蛇大王」の寺、深大寺がさらに高台上に水の蛇を祀るかね?という疑問はある。祭祀的にも繋がりは深く、青渭神社の氏子は深大寺の奥院にあたる深沙大王堂の転読会にも出るものだったというが、「どこまで深大寺の一部といえるのか」がこのお社を見ていく上での重要なポイントになるだろう。
また、青渭神社にはものすごい御神木の古槻がある。『新編風土記』も式内であるのは疑問としながら、この槻の老樹からして古き勧請なることは疑うべからず、としている。いやー、しかしまぁ、鉄板でなにか棲みつきそうなウロですな。
実際土地の怪談があって、この木の上からは、なにか呼びかけてくる声が聞こえるのだそうな。んが、伊豆美神社のようにウロに大蛇が棲みついたってな話はないなぁ。おしい。

深大寺

q


そして各話の核心に来る「深大寺」。天台宗のお寺であります。まぁ、順番から行くとここの伝説をまず見て、あとはそこからということになる。
天平五年に満功(まんくう)上人なる人が開いたと伝える。古い。法相宗の寺院であったというが、天台となったのも貞観元年というから古い。今回頭の玉泉寺(大輪寺)の伝承を除けば、東京では浅草寺に次ぐ古刹となる。
深大寺のもうひとつの顔、元三大師堂。拝んどけー、みたいな。有名な「深大寺だるま市」はこの元三大師堂の厄除元三大師大祭の一環ですな。あー、そうか。この辺りの庚申さんの元締めともなるんかね。
さてしかし。ここの開山伝説にちなむ本日第一目標であった所の「亀島弁財天」さんなんだが……「立入禁止」っ!っ!キャー!
あああああ……なにしに来たんだおいらは……まぁ、伝説の「本当の亀島」がここにあったというわけではなくて、あくまでもこの池と中島はそれを偲ぶ庭園の一画、ということではあるのだけれど。
反対に回ってもよく見えへんのです……orz
んー、まぁ、この名のごとく「亀」が出てくるのですよね。このお話。虎と亀と弁天が揃う。ジャックポット予告かという(笑)。
そしてその伝説に登場するのが「深沙大王」。玄奘三蔵の前に現れたという神さまですな。日本の西遊記では河童の沙悟浄になってしまっておるが、もとは随分とオッカネェ神なのであります。
深大寺は奥に祀る深沙大王にちなむ故、そういうとされる。珍しい神を祀るというのだけれど、日光開山の勝道上人も近い時代に深沙大王に助けられている。この辺なんかある。
実際はお堂の裏のこの湧水が最奥となるのだろう。奥にはお不動さんの像もあった。もう日も落ちて撮影的には無理ゲーとなっておりますが。実に「水の寺」なんですな。
水神とトラねぇ。
〽虎と龍じゃないが〜……まさか、そんなシンプルな理由じゃないだろうね(笑)。

おわり

r

というわけで、調布の方はこういった社寺を巡って、それぞれが連絡して行くのが問題となるのですよ、という紹介でひとまず切りましょう。おまけで調布といえば鬼太郎であります故、深大寺にも鬼太郎親子がいる(笑)。
調布市立図書館には「水木しげるコーナー」もあるのだ!街中も何だか鬼太郎だらけだしね。あ、水木御大は調布におられるのです。もしやお見かけすることがあったり……と、無駄に街中も歩いてしまった(歩かれてるとしたら平日昼間だろうなぁ)。
ではレポは一旦これにて。補遺の方で、深大寺の開山伝説から周辺を細かく見ていくことにいたしましょう。

補遺1:ななとこまいり

s

補遺1:ななとこまいり:


相州大磯の「ななとこまいり」や、甲府の七所(ななとこ)天神さんや、相州七サバ参りの事などを紹介してきたが、どうもこの「七ヵ所お参りする」というのはやはり広くあれこれあったようだ。
神奈川県中郡大磯町の「ななとこまいり(七所参り:左写真)」は、今でも小正月のどんど焼き(左義長)の前日まで各地区に構えられている道祖神さんの仮小屋「おかりや」を七ヵ所巡る。今は祭に参加する地区が増えて九ヵ所のおかりやがあるが、もとはちょうど七地区で七つのおかりやがあった。これは石城(福島県)や那須(栃木県)の方でも「ななこやまいり」などといって同じようにしていた例があるという(以下主に『綜合日本民俗語彙』参照)。
どんど焼きに限らず、「七つ鐘参り」とか「七つ鳥居」とかいい、七つの社寺を巡って願掛けする話は東西南北各地にあり、相州七サバ(七つの「サバ神社」を巡って願掛けする)などもそれらの一画といって良さそうである。特に「社日参り・社日詣で」といって、春の社日(暦)、また春の彼岸の中日(あるいは近い戊の日)に七つの石鳥居を潜るとよい、という例が多い。このあたりでは伊豆韮山でそうだったという。爺ちゃん婆ちゃんのお宮巡りという感じなのだが、より古い側面が伺えるものもある。
「七軒乞食・七軒貰い」(しちけん・ななけん・ななとこ、など読みは様々)という風習は、生まれてはじめて正月を迎える赤子を背負って、七軒の家を巡り、七草を貰ったり、端切を貰ってそれで着物を縫ったり(七機という)したという。七ヵ所から力を分けてもらう、という感覚が重要だ。
また、七月七日の飾り饅頭を七軒から盗むと長者になるといって、子どもらが暗躍するところもあった(長野県小縣郡)。お月見団子なんかも「村の子どもらにかっぱらわれるのが吉」というものだったので、同じような感覚だろう。
九州では「ななとこがね・しちけんがね」などといい、はじめて鉄漿(お歯黒)をつける際に、七軒の家から鉄漿を貰う習俗が多かったという。この際「川向こうは七軒の中に入れてはいけない」といい、これは社日の七所参りでもそういう。
死後の供養にもこのような次第はあり、甲賀では盆の十四日、新精霊の家から家毎に一人ずつ白衣を着、夜中に山中の墓地七ヵ所に詣でたという。また印旛では寒中に新仏ある家のために近所の女たちが七ヵ所の墓と七ヵ所の橋に、ひとつまみの散供を供えて廻ったという(七墓詣り・七橋詣り)。
これをさらに「七人で」行なうようなところもあり、どうも古くなるとシリアスな神事がこの形態を持っていたのではないか。故に逆に七人で狩りに行くのはよくない(どうしてもそうなる場合は「八人目の紙人形」を持って行く)などというところもある。そうなってくると「七人ミサキ・七人同行・七人童子」などの怪の事も連想されるが、今はこの辺にしておこう。

ともかく、こうして見ると、七福神が流行ったから七ヵ所廻るのだ、というよりもとから七ヵ所巡る次第があって、七福神の方が倣った、という感じである。狛江の七鳥居参りも(「石鳥居を潜る」となったのは近代以降だろうが……近世記録にはあちこち木鳥居とある)、これらに連なる一例なのだ。

補遺2:蛇甑の話

t

補遺2:蛇甑の話:


蛇どもが群れてトグロを巻いた様子を甑(容器)に見立てて蛇甑(へーびこしき、など)という。「ヘビコシキはめったに見られないので、見るといいことがある(和泉)」という。また、「子どものころ、ヤマッカガシがたくさん寄って、とぐろを巻いているのを見た。十匹くらいが頭を揃えて持ち上げているのだけれど、赤いのでとてもきれいだったんですよ(中略)そういうものが出来ていると、その家にいいことがあるといってましたね(和泉)」などといい、土地によっては蛇甑なんてのは薄気味の悪いもんだと嫌がられたりするものだが(粗末に扱ったりしてはいけない、というのは共通する)、和泉の方では「とてもきれい」と認識されるように、かなり「親蛇」の度合いが高い(広報こまえ『狛江・今はむかし』より)。
この蛇甑の話は藁積みを屋敷神の蛇の住処として造作する風習などに繋がるものと思われ、大変重要だ。和泉の方では明らかに屋敷神としての「家に幸運をもたらす」存在として語られる(以下など参照)。

▶「五郎兵衛淵」(日本の竜蛇譚)

なお、これは調布市入間町の方の話だが(調布ブッククラブ『調布の民話集』)、この蛇甑に「簪を突っ込んでやるといいことがある」というような話が採取されていて興味深い(そういう話がある、ということは『狛江・今はむかし』でもいわれている)。多く蛇甑の中には「蛇石」があって、それを得たら長者になれる、などとされるが、逆に中に簪を突っ込むというのだ。これは憶えておきたい。

補遺3:深大寺縁起と虎女

u

補遺3:深大寺縁起と虎女:


深大寺の縁起そのものはそう古いものではない。少なくとも今に伝わる「真名縁起」は慶安三年の奥書のものであり、以下に引く「仮名縁起」は享保七年のものである(内容はほぼ同じ)。それ以前に話があったのかどうかというのは分からないのだが、ともかく内容を追って行こう。

聖武天皇の御代。多摩郡柏江にひとりの長がおり、狩猟を好んだ。長は年を重ねても良き妻が得られなかったのだが、ある時どこからともなくひとりの美女がやって来て妻となりたいと申し出た。名を訊くと虎であるといった。虎は長に殺生を止めるよう諭し、長は狩りをすることを止めた。するとしばらくして玉のような女の子が生まれた。
月日が経って、娘が十二三歳になろうという頃、どこのものとも知れない福満という童子がこの娘に恋をし、千束もの文を送りつづけた。しかし両親は出自も知れぬ福満に娘を会わせるわけには行かぬと、池中の島に住まわせることにした。舟がなければ渡ることができぬ中島に去ってしまった娘を思って福満は嘆いたが、往昔玄奘三蔵が流沙川を渡る際に深沙大王の助けを受けたことを思い、深沙大王に島に渡し給えと祈願した。すると大きな亀が浮び、福満はこの亀に乗って島へと渡ることができた。両親もこの瑞祥に驚き、福満を許して、聟とした。娘と福満の間には男子が生まれ、人々が感心する大変賢い子となった(この子が深大寺を開く満功上人となる)。

『深大寺仮名縁起』より前半部要約

(『深大寺仮名縁起』原文は『調布史談会報6号』を参照)

このように親子三代に渡る話の末に深大寺は創建されるのだ。大雑把には童子・福満が深沙大王に祈願し、願いが叶うならば祀りましょうといい、子の満功がそれを受け継いで果たした、ということになる。(以下満功上人を基点に続柄を示す)なお、祖父の長は土地の話では「右近長者」とされる。
そして、色々異同もあるが、概ね「虎狛(柏)神社」ないし別当寺の「虎柏山祇園寺」が右近長者の家のあったあたりで、祖父となる長者と祖母の虎を祀るのだという。地元の伝説では、祇園寺こそが満功上人が最初に開いた寺であり、深大寺より古いのだそうな。また、祇園寺にある薬師堂が以前あった所(寺の東南方になるらしい)を「亀島」ないし「虎ヶ淵」ないし「虎ヶ嶋(『新編風土記』)」といい、そこに伝説中の大池と中島があったのだという。これを模したのが、今深大寺内にある亀島弁財天の池なのだ(『調布市史 民俗編』参照)。

余談だが、このあたりは関東各地に語られる、道祖神さんが弁天さんに恋をして言い寄ったが、弁天さんは嫌で池の中島に逃げてしまう、という話に近いものがある。そういった民俗伝承を取り込む必要などがあって話が親子三代に渡るややこしいものになっているのかもしれない。

ともかくこれが難しい所で、島にいたのは母となる長者・虎夫妻の娘なわけだが、「虎ヶ淵」とか「虎ヶ嶋」とかいうのだ。というより、重要なはずの母の名がないというのが妙である。柳田翁のいうようにトラが個人名でなくそういう巫女集団を意味するのだとするなら、母もまた虎だったのかもしれない。実際に満功上人の母の名が虎だとして語られる地元の民話も採取されており(『調布市史 民俗編』)、母と祖母の重複度は高い。つまり、亀島弁天とは虎弁天といっても差支えない存在なのだということだ。

さて、ここで問題となるのが一連の話が曽我兄弟の話を想起させる所である。曽我十郎と良い仲であった大磯の遊女が虎女・虎御前であり、兄弟の母は満江御前であり、『式内社調査報告』などはこの縁起の虎は大磯の虎と繋がり(その流用であり)、物語的であるので憑拠とし難いとバッサリだ。しかし、何故深大寺の縁起が『曽我物語』の人物名を流用しないとイカンのかというとあたしにはさっぱり分からない。そこを問うべきだろう。通底する別の側面というのは、はっきりとあるのだ。それは高句麗・高麗(こま)である。

大磯の虎女は一般には単に美しい遊女として記憶されているだろうが、これはそう簡単ではない。虎は大磯高麗山の北麓に住んだ「山下長者」の娘なのだ。母は平塚の遊女で名を夜叉王といい、いずれただものではない。
で、高麗山には高来神社(左写真:本来ここは下宮遥拝所)があるが、ここは高句麗からの貴人・高麗王若光がやって来てはじめ住んだ所だと思われ、今でも祭祀の木遣歌にその模様が歌われる。高来神社は古く周辺に神人家を配し、彼らがこの山を守ってきたというのだが、この人々が高句麗から若光に従ってきた臣下の末裔である可能性は高く、山下長者の家というのもこれにあたるだろう。高麗氏は武蔵高麗に移ってそのような里を作っている。

深大寺の虎が嫁いだ右近長者は柏江(狛江)の長者であり、もとよりこちらは高麗人であったとされる。その妻・娘が水神に仕える巫女のように描かれ、結果、弁天として祀られているのだ。大磯の虎女もただの遊女ではなく、その住まったという所には長らく虎池弁天という池とその中島に祀られる弁天祠があり、神格化されていた(この弁天に長者が祈願して生まれたので虎という)。さらに、虎女は十郎の無事を大磯の海の竜神に祈願しつづけたといい、その竜神祠の末は今もある。

このように、単なる名の流用とはいえない類似が深大寺と大磯の虎女にはあると思う(さらにいずれは近江の「虎」も繋がるだろう)。狛江郷の深大寺、そして式内:虎柏神社に関しては、このような虎と高麗の関係やいかに、というのがあたしの興味の中心にある。

補遺4:青渭神社のこと

v

補遺4:青渭神社のこと:


レポの中でも水神の寺である深大寺の管轄において、さらに別の池沼の蛇神・水神を祀る社があるというのは不自然だ、といったが、さらに補足しておく。亀島弁財天の池の結構とも被るところがあるのだ。

亀島弁財天池は(マップを拡大して行けば分かるが)東西にT字に中島があり、東方に弁天が祀られ、反対には対面して大黒天が祀られている(左写真)。青渭神社の御祭神も青沼押比売命(青沼馬沼押比売命)であればこれは大国主命の娘神であると指摘しておいたが、この構成は同根のものじゃないのか。例えば大黒天(大国主命)が右近長者で、弁天・青沼押比売命が虎女(母娘)というような。
深大寺はまたダイコクエビスをよく祀っているが、亀に乗って島に渡った福満をエビスに見立てて、父(義父だが)の右近長者をダイコクに見立てて、というところではないか。そうなると青渭神社(青波天神)もやはり深大寺縁起の枠の中のなにかであったと思うのだが。いずれここも「水際の天神」でもあったわけで、それがどのような神格なのかを考える上でも以上の関係の有無に気を配っておくのは重要だろう。

ページの先頭へ

多摩行:狛江 2013.05.18

惰竜抄: