田方行:沼津西浦
庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.05.03
静岡県沼津市であります。が、沼津市に編入されたというだけで今回歩いた地域は伊豆の内浦・西浦と認識されていた地域。ということで前回と違って正真正銘の伊豆編となりますです。前回の沼津行は以下から……
▶「沼津行」(2012.10.27) 最終盤内浦長浜まで下って来て日没エンドでしたな。今回はこのまったくの続きであります。 ところでこの辺りは旧郡域としては三島から連なる君澤郡であったりしたが、伊豆編では「君澤行」とはしない方向で。より古くは田方郡だった。やはり伊豆の神社巡りは式内九十二社というのが中心に来るので、北側は田方郡、南側と伊豆諸島が賀茂郡、南西が那賀郡という「田方と賀茂と那賀」の区分が良いでしょうかと。 |
長浜城址と弁天社
というわけで長浜スタート。長浜へ行くにはJR沼津駅からでなく、駿豆線の伊豆長岡駅から伊豆三津シーパラダイス行きのバスが便が良かったりしますのでその線で。朝の淡島であります。良いですねぇ、良いですねぇ。 | |
長浜には、前回もう影に入ってしまって写真も真っ暗だったのでパスした「長浜城址」がある。後北条水軍の伊豆の拠点であります。後ろの陸(おか)と同化して分かりにくいが、湾奥にぴょこんと岬が出ていて、その上に城があった。後北条氏というのは強力な水軍を持った人々でもあったのですな。江戸湾の方では里見氏から覇権を奪ったが、こちらでは武田と戦った。概要は以下など……
▶「長浜城」(沼津市公式サイト) |
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細かな図で見ると分かりやすい。このような岬の上から入り組んだ海を見渡すまさに「海城」なんであります。後北条氏滅亡後は在地の後に大網元になった家がここを守ったというが、もとより伊豆の海の人々の力が発揮された所であっただろう。 | |
岬先端の方から城のあった高台の方を見上げるとこんな。あ、城と行っても白亜の天守閣とかじゃないですよ。 | |
逆にその高台上から内浦の海を見渡すとこんな。すごいですねー。まさに一望、武田軍もこんなん攻め入りようもなかったのではないか。 また、より古い時代からのこの湾の(おそらく淡島を中核とした)信仰空間を考えていく際にも、ここからこのように「全部見える」というのは覚えておきたい。いずれ、ここにどのような信仰のラインが引きまわされていたのか、それが見える日が来ることを期待しつつ。 |
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岬の背後はこんな。まぁ、陸からの攻めは考えんでも良い勢いですな。実に後北条氏というのは鉄壁の守りを敷くことに執念を燃やした一族であります。 | |
もう地図の方は出したが(左地図)、この長浜城址に弁天さんが祀られている。先に述べたようにこの岬は下って大網元となる一族が守ったが、この湾の「魚見(後述)」として活用されて来ただろう。 | |
その弁天さんの木鼻の獅子どのは何とも「ぬーん」というお顔でありまして。獅子というかトドというか。これも海獣感覚なのかね。 |
内浦重須・熊野神社
この岬脇の蔭野川という川の拓いた内浦重須(おもす)の里。かつてはこの地域唯一の田所であったという。当然メインは漁だが。重厚な蔵も残る。 | |
この重須の鎮守は「熊野神社」さん。ザ・伊豆の社。鳥居後ろの門木がすでに大楠によって構成されている。 | |
この熊野さんの詳しい由緒などはよく分からない。文明年間の金鼓があり、慶安二年に再建された記録があるという。年代的には長浜城の守護という所か(韮山城の守護も熊野権現)。伊豆山の『伊豆峰記』には「三所権現」とあるそうな。 | |
「うっひょー!」というお顔の狛犬どのかと思ったら、下顎が砕けてしまっているようだ。んが、そうでなくとも? また、この社の上梁文に「重洲」の表記が見えており、重須という不思議な地名の由来を示しているかもしれない。 |
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海のお社となると、まっことこちゃこちゃと石祠などが増殖してくるのであります。 | |
この石は、ナニカであるのだろうな。力石というにはヘビーすぎる気もするが。神座石の感じがする。 | |
実は社殿側面には大胆な設えが(笑)。三津の氣多神社さんも子どもらがよく遊んでいたが、神社は子どもらの遊ぶ所という感覚が強い土地なのだろう。
▶「内浦三津の氣多神社」(沼津行) |
道行き
重須:弁天社
道行き
子聖神社
御崎神社
道行き・男島
鮑玉白珠比咩命神社
さあ、この浦の守護神が式内の「鮑玉白珠比咩命神社」さまであります。「あわびたましらたまひめ」という女神さまを祀る。不思議な名が連なる伊豆の神々の中でも飛び抜けた御神名といえるだろう。式内:鮑玉白珠比咩命神社の論社は他にもあるが、最有力論社がここ木負のお社、というか他は参考程度という感じだ。修善寺・湯ヶ島行の方で参った「佐野神社(鮫明神)」も論社のひとつでありました。
▶「佐野神社」(修善寺・湯ヶ島行) |
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「鮑玉白珠比咩命」とは、概ね真珠の神格化、ないし真珠のように美しい女神ということと了解されている。そういう美しい姫がいたのだという土地の伝説もある(後述)。ただし、ここは赤崎という岬の上なのだが、土地では赤崎明神と呼ばれて来たお社で、例によって鮑玉白珠比咩命という名が連綿としてきたわけではない。その赤崎明神とはいかなる神かというと、伊豆三嶋大神の妹である、又は伊豆三嶋大明神そのものであると信仰されて来たという。 式内の最有力論社に推される理由は主に以下の三点。まず、ここには古墳があって(木負峰古墳)、縄文・弥生時代からの遺跡でもあり、上古からの信仰の地であったと思われる点。次に、木負(きしょう)は『和名抄』にみる「吉妾(きしょう)郷」のことであると考えられ、美しい妃という神名と符合する点。そして、『式内社調査報告』には、元禄十三年の修繕の棟札に「木負鮑玉白珠比咩命神社」とあった(が、失われている)と紹介されており、本当にあったならこれがほぼ決め手であるだろう。なお、同様の次第で『伊豆國神階帳』の「宮玉の明神」に比定されている。 |
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で、ですな。『式内社調査報告』にあるようなことは既にネット上でも紹介されているので詳しくは検索して下さいということで、ここでは地元の伝説のことを特に紹介しておきたい。土地の古老がここの女神は比類なき美女であって云々、伊豆三嶋大神の妹(妃の意だろう)であって云々、と紹介されるのだが、実はそう単純な話でもないのだ。以下、『木負・河内の民俗』(沼津市史編さん調査報告書第四集)にあるそのままで紹介する。 |
アワビタマシラタマ姫:
コトシロヌシの神が蝦夷を征伐して、だんだんこう東へ東へ攻め込んできてねえ。で、この木負の里に美人があって、その美人に恋をしてねえ、一〇日居たか二〇日居たか、詳しいこたあ分からないですけどねえ。その間にその姫と密通していたあでしょうねえ。それで、いよいよここで仕事が終わったあって訳で、ずうっとだんだんだんだん東へ行ってしまったですねえ。行ってしまって、その姫を誰かがコトシロヌシノミコトの奥方だからアワビタマシラタマ姫という名前が付いたんじゃあないでしょうか。この地先でねえ。アワビがうんととれたですよ。昔はねえ。私等覚えている時っからですけんどねえ、このくらいのアワビをね、昔のお爺さんとってきて、スイホロ(風呂)の灰をかじったりした。そんなのへそのアワビを使ったあですがね。ですから、アワビダマ、海の事をあらわしているでしょうね。
先にも述べたように「アワビタマシラタマ姫」といわれてきた訳ではないので、そこはそういうことになってからの話だ。もとはただ「美人の姫」だっただろう。また、コトシロヌシというのは伊豆三嶋大明神を意味しているのだ、が、この東征のモチーフは伊豆三嶋神話の中にはまったくないものである。これははじめから伊豆三嶋信仰の一端だったのかどうかというとかなり微妙な話である。日本武尊か坂上田村麻呂かの話が、下って伊豆三嶋大神の話になった、と見た方がすぐ「なるほどね」と思えるような感じだ。 | |
さらに、ここには源頼政と菖蒲御前の伝説が絡んでんじゃないかね、とも見ているのだが(菖蒲御前の墓というのが先の河内の奥にある)、ともかく中々に不思議な女神のお社なのですよ。不思議なお社には不思議な狛どのがおりますな。 | |
あはははは。もはや謎の生物であります。白珠の姫はこういうのがお好きなのか。 | |
で、でっかい方の狛どのも独特な。というか、あー、こういうことか、という。 | |
内浦長浜の長浜神社で「おぉ?」となっていたが(左写真が長浜神社の狛犬)、どうもこのあたりの海の狛どののひとつの典型であるらしい。またあとでも見る。獅子というか狒狒のような風貌だ。
▶「長浜神社」(沼津行) |
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もう一点、指摘しておきたい事がある。社殿そのものは概ね淡島の方を向いているのだが、神社に登って行く登り口にある一之鳥居はまた別の方を向いている。分かりますかね、その向く先に男島を捉えているのだ。赤崎明神─男島と見るとまた違った側面が見えてくるのかもしれない。岬と島が夫婦の神ではないか。実は、男島が「女島」と表記されている地図もあるのだ(例えば『沼津市史 資料編 考古』に使われている地図など)。 これはかつて赤崎明神が「三嶋大明神」(男神)を祀っていた事と呼応していないか。岬のお宮が男神なら島は女神でなければならず、岬のお宮が女神ということになったら今度島は男神にならないと夫婦神にならない。そういう線があるかもしれない。 |
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木負の浦、先には淡島が見える。淡島には今度は式内:靑玉比賣命神社が祀られていた、と見る人も居る。青玉姫と白珠姫が並んでいたらすごかろうねぇ(靑玉比賣命神社比定説は難ありだが)。 | |
昔は本当に真珠を採っていたという木負の海。海が汚れて廃れたというが、すげえきれいに見えたけどね。まだ戻らんのか、見た目じゃ分からんのか。 |
道行き
久連神社
西浦平沢:八幡神社
道行き・エビス魚とウツボのこと
立保:神明神社
古宇:神明神社
道行き
足保:天神社
道行き:久料の六芒星漁船
現代はこのように切り通しを車道がはしり、西浦もどんどん渡って行ける。このあたりは切り通しの斜面もそのまんまで、地質を見るのにも良いのじゃないかね。発掘屋はこういうのを見るとジョレンで削りたくて仕方なくなる(笑)。 | |
そして次の浦の西浦久料(くりょう)。これは公料からだろうとされる。中世西浦のドン、熊野水軍の鈴木家の拠点江梨のお隣です故、そうそう陸の孤島チックなばかりではない。 | |
とはいえ船も少なくクルージング的ななんやかやも少なく、長閑な浦ですなぁ……とのほほんとしかけてあたしの目は飛び出た。 | |
六芒星の漁船がっ!ふおおぉ、もう今日の行程をここ迄にしてでもこの由来は訊き出さねばならんとコーフンしておりますと、なんとバッチリタイミングでこの船のおやっさんが船からおりて来られた。で、訊いてみますと、「星なぁ?この船はよお、中古で買ったんだ。岩手のあの小本港ってー、あー、八戸の下の方の……小本知らん?」ということで、中古で買った時からあるマークなんで何だかワカランのだそうな。確かに六芒星の中に小本とある。小本港とはこちら……
▶「小本港の概要」(岩手県公式サイト) 「ペンキで上から塗ったんだけど剥げてきちまった。あ?魔除け?そうなんか。なんだ、てっきり小本の漁協のマークかなんかだと……そんじゃあ中の名前を書き換えるかな……」ということで、次行ったらおやっさんの戸印かなんかが中に書かれていることになるかもしれない(笑)。 そんなわけであまりこの海の信仰とは関係なさげなのでありました。一応伊勢志摩の海女さん(が、五芒星を魔除けとして使う)のこととか訊いてみたのだけれど、「いやー、うちはよく知らねぇなぁ」という感じであります。 |
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まぁ、写真なんかなんぼでも撮ってくれということなのでおやっさん号の勇姿を一枚。もっとも、そうなるとなんで小本では六芒星を書くんだ、ということになるのでして(さっぱり知らんが)、どうも遠大な宿題を出されたような気はする。震災後の小本あたりはどうなっておるのか。ともかくこの話はこれ迄なので、久料の鎮守さんの方へ。 |
久料:熊野神社
江梨:神明八幡神社
おわり