田方行:沼津西浦

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.05.03

静岡県沼津市であります。が、沼津市に編入されたというだけで今回歩いた地域は伊豆の内浦・西浦と認識されていた地域。ということで前回と違って正真正銘の伊豆編となりますです。前回の沼津行は以下から……

▶「沼津行」(2012.10.27)

最終盤内浦長浜まで下って来て日没エンドでしたな。今回はこのまったくの続きであります。
ところでこの辺りは旧郡域としては三島から連なる君澤郡であったりしたが、伊豆編では「君澤行」とはしない方向で。より古くは田方郡だった。やはり伊豆の神社巡りは式内九十二社というのが中心に来るので、北側は田方郡、南側と伊豆諸島が賀茂郡、南西が那賀郡という「田方と賀茂と那賀」の区分が良いでしょうかと。

長浜城址と弁天社

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というわけで長浜スタート。長浜へ行くにはJR沼津駅からでなく、駿豆線の伊豆長岡駅から伊豆三津シーパラダイス行きのバスが便が良かったりしますのでその線で。朝の淡島であります。良いですねぇ、良いですねぇ。

長浜には、前回もう影に入ってしまって写真も真っ暗だったのでパスした「長浜城址」がある。後北条水軍の伊豆の拠点であります。後ろの陸(おか)と同化して分かりにくいが、湾奥にぴょこんと岬が出ていて、その上に城があった。後北条氏というのは強力な水軍を持った人々でもあったのですな。江戸湾の方では里見氏から覇権を奪ったが、こちらでは武田と戦った。概要は以下など……

▶「長浜城」(沼津市公式サイト)
細かな図で見ると分かりやすい。このような岬の上から入り組んだ海を見渡すまさに「海城」なんであります。後北条氏滅亡後は在地の後に大網元になった家がここを守ったというが、もとより伊豆の海の人々の力が発揮された所であっただろう。
岬先端の方から城のあった高台の方を見上げるとこんな。あ、城と行っても白亜の天守閣とかじゃないですよ。
逆にその高台上から内浦の海を見渡すとこんな。すごいですねー。まさに一望、武田軍もこんなん攻め入りようもなかったのではないか。
また、より古い時代からのこの湾の(おそらく淡島を中核とした)信仰空間を考えていく際にも、ここからこのように「全部見える」というのは覚えておきたい。いずれ、ここにどのような信仰のラインが引きまわされていたのか、それが見える日が来ることを期待しつつ。
岬の背後はこんな。まぁ、陸からの攻めは考えんでも良い勢いですな。実に後北条氏というのは鉄壁の守りを敷くことに執念を燃やした一族であります。

もう地図の方は出したが(左地図)、この長浜城址に弁天さんが祀られている。先に述べたようにこの岬は下って大網元となる一族が守ったが、この湾の「魚見(後述)」として活用されて来ただろう。
その弁天さんの木鼻の獅子どのは何とも「ぬーん」というお顔でありまして。獅子というかトドというか。これも海獣感覚なのかね。

内浦重須・熊野神社

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この岬脇の蔭野川という川の拓いた内浦重須(おもす)の里。かつてはこの地域唯一の田所であったという。当然メインは漁だが。重厚な蔵も残る。

この重須の鎮守は「熊野神社」さん。ザ・伊豆の社。鳥居後ろの門木がすでに大楠によって構成されている。
この熊野さんの詳しい由緒などはよく分からない。文明年間の金鼓があり、慶安二年に再建された記録があるという。年代的には長浜城の守護という所か(韮山城の守護も熊野権現)。伊豆山の『伊豆峰記』には「三所権現」とあるそうな。
「うっひょー!」というお顔の狛犬どのかと思ったら、下顎が砕けてしまっているようだ。んが、そうでなくとも?
また、この社の上梁文に「重洲」の表記が見えており、重須という不思議な地名の由来を示しているかもしれない。
海のお社となると、まっことこちゃこちゃと石祠などが増殖してくるのであります。
この石は、ナニカであるのだろうな。力石というにはヘビーすぎる気もするが。神座石の感じがする。
実は社殿側面には大胆な設えが(笑)。三津の氣多神社さんも子どもらがよく遊んでいたが、神社は子どもらの遊ぶ所という感覚が強い土地なのだろう。

▶「内浦三津の氣多神社」(沼津行)

道行き

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この浦々には大きな川はまったくない故、大変真水が貴重。「水利図」なる地図が各里の街区図であったりする土地なのだ。こうした屋敷のぐるりに巡らす水路もキッチリ管理されており、後背丘陵から流れ出る水がさらさら音を切らさない。
対津波マウントはこの辺は櫓であることも多かった。どこまで耐えられんのかという感じもするが。もっとも神社が現役の対津波マウント(これはもうまったく現役でそう意識されている)なので、補助くらいだろうが。
この日のフレーム。浦フレーム。実はけっこ風が涼しい日だったが、日差しはもう夏の雰囲気だ。海がきれいなんで余計そう見えるのかもだが。

重須:弁天社

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その青空を映す海にぽかりと森が浮ぶようなのが、浦々の守護神。どこもこういった上に弁天さんが祀られている。赤い鳥居が見えているのが分かりますかね。この光景はもう泣いて良いね(笑)。
だがしかし、入り口が分からん。漁船の手入れをされていた漁師さんに訊いたところ、これが入り口なのだ。もう、陸からの径路なんざおまけということである。いやー、いくつになってもこういう所に入って行くのが嬉しいのでしてね(笑)。

あえていえば「重須弁天社」だが、各浦ごとにこうした弁天さんがあるので、由緒も蜂の頭もない。信仰が完全に生活の一部となっていると、そうした「記録」というのは消失する。
ここは地図を見ると分かるが、かつては島だった。せいぜい干潮時に繋がる陸繋島である。こういう所はすぐ海際に暮らして来た人々の対津波マウントであると同時に、浦に入り込む魚たちを見張る「魚見」の台でもあった。
これからいくつかのお社に「太鼓」が下げられているのを見るが、大型魚の群れなどが浦に入ったら「立ったえー!」とメガホンのお化けのようなもので声をかけ、太鼓を叩き、トンボ笠を振り回して舟を出している漁師たちに報せた。
既にこの太鼓はそうした漁が行なわれなくなったあとの奉納だろうが、そういったかつての浦の記憶をここに残したかったのだろう。参道を上から見れば、鳥居の先は参道でなく桟橋だ。こういうのが浦の社なのであります。

道行き

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内浦重須から先に進むと西浦木負(きしょう)という浦になり、ここから西浦地区となるのであります。が、浦の方はあとにしまして、ちと内の方にも。なんだかすげー樹々だな、と思ったら、下にお墓が見える。
墓とは杜なのだ。思うに、この構成の重要な点は木蔭なんではないか。「立派な木蔭」を作るために杜が作られている気がする。その「立派な木蔭」は半ばあちらの面なのだ。これを通して祖霊はこちらを見ることが出来る、そんな感覚なのじゃないか。
河内川という川を遡っていく。この座像は道祖神さんであるそうな。伊豆型道祖神さんのようだが、明らかにもう雰囲気が違う。似せて作った、という感じか。奥の祠はお稲荷さん。このあたりは道祖神さんと風の神が結びついて行くかもなんですよね。小正月の繭玉も、枝の一番上に一番大きな餅玉をつけて、「風の三郎さんに供える」などという。修善寺あたりからそういう傾向が強い。
入り口の上にマークがあるのが分かるだろうか。「介」の字に似ているが、そうではなくて、これは家のマークなのです。こういうのを「戸印」といって、あとで里の地図がみんなこれで示されているのを見ることになる。
河内川を遡ると西浦河内という土地になる。木負から広がっていって分村したのだが、漁主体だったこの地の人々が急峻な斜面でどうしたかというと、結局ミカンに落ち着いた。西浦ミカンという。
もっとも大昔からミカンを作って来たわけではなく、少し前までは陸でやることといったら炭焼きだったそうな。御殿場や小山の方からも炭焼きにきていたという。また、その技術のある人にとっては楠の樟脳が重要で、はるか九州の五島列島の方から樟脳作りの人々がきていたそうな。そんな河内の里へ向うのですが、この景色がまだ海から徒歩5分という感じなんですよ、えぇ。
西浦ミカン故にミカン畑。さっすが後北条縁故の地故ミカン畑もテッペキの…(違 「城塞ミカン」とかど…(さらに違

子聖神社

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目指すお社は大通りから外れてまた細々した道を入った先で分かりにくいのだが、遠目に位置だけは早々と分かっている。伊豆のお社は大楠があります故に。細道もそれを目印に入っていけば良いのです。

ここは「子聖神社」さんという。「ねのひじり」と読む。委細不明。現在は大国主命を御祭神としている。この点は端折るが、子の聖という伝説の行者を祀った社が各地にあり、子聖権現といったのですな。
市史などは武蔵飯能(が本地)からか、としているが、実はそこまで飛ばなくとも相模伊勢原にも聖の修行したという所があり、相模─伊豆の範囲でまま見るお社ではある。子之神と同一の枠組みにあるものなのかどうかという問題があるが、割愛。
ここでは、西浦河内の里において、このお社は「下の宮」として親しまれていることを知っておかれたい。下も宮があったら上の宮があるわけで、社号がどうであるかとあまり関係なく、この上下のお宮の関係の方にこの里の信仰の中心がある。

御崎神社

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大通りに戻ってさらに奥に入ることしばしでその上の宮「御崎神社」が鎮座される。下の宮の子聖神社は川近くの低地にあり、こちらは(同じく川近くではあるが)、このような斜面上に祀られている。
まだよく分かっていないのだが、どうも神祀りに関して、「高い所に祀らないといけない神」「低い所に祀っても良い神」というのは土地によってはかなり明確な別、理(ことわり)があったように思われ、ここもそんな一例になるかもしれない。
御崎神社は出雲の日之御崎から遷したとも、伊豆の三埼なる所(不明)から遷したとも伝わるようだが、祭神不詳でこの点はもうよく分からない。静岡県の「神社明細帳」には速須佐之男命として登録されている。「御崎」であることと速須佐之男命を祀るというのは本来別のことなのだろうが、そうなっているのだ。では速須佐之男命がどこから来たのかというと、これは天王さんである。拝殿側面も赤く塗られていた。んが、上の宮にも下の宮にも特に天王社を合祀するなり境内社とするなりという記録は見えない。
で、ここにこの地域の面白い所があって、神社の社号祭神はどうあれこの里の重要な祭とは天王祭なのであります。七月十四日に「おくだり」といって、御崎神社から子聖神社に天王神輿が渡御し、翌十五日には今度は「おのぼり」といって御崎神社に帰る。実は、西〜中伊豆の一部にはこういった「見えない天王さん」とでもいうべき存在が分布しているのだ。境内社としてあったり、相殿とされている所もあるが、あまりその点は本質的ではない。この分布域では天王さんは「夏神さん」であるのだといい、季節限定で出現し祀られる神格なのである。河内では上の宮と下の宮の往還という形を取っているが、海川の浜のある所では、祠・神輿があれば担いで「はまくだり」が行なわれ、なければ仮屋が作られ、一定期間その水辺に天王さんが祀られる。これを「天王さんのおすずみ」という。西浦に濃くあるのだが、修善寺加殿の方でもやる。

あたしはこの信仰形態は非常に重要であると思う。重要な理由も多岐に渡るほど重要だと思うのだが、一点あげると、東伊豆にもこのような普段は「見えない神」があったことを思い出されたい。そう、鹿島踊りの分布だ。
東伊豆から相模にかけて海際に鹿島踊りを行なう社がたくさんあるが、そのうち実際鹿島神社であるなり武甕槌命を祀る社であるのはごく僅かだ。あたしはこの東側の鹿島踊りと、西側の「夏神」である天王さんの対比は伊豆半島を見ていく上でも大変重要な課題になると見ている。
そしてここには、実際その浦にやって来た宗教者・御師の具体的な「縄張り」としての伊豆半島東西も浮んでくるわけだが、それは続くまた違う浦の(神明さんの問題もある)方で話そう。祠がいっぱいあって、実は天王祠もありそうだけどね。

おまけ:ここ西浦河内での話だが、「えな」に関して面白い話がある。後産の胞衣ですな。これを埋める際にそれを最初に跨いだものをその子は怖がるようになるとか、そのへんは各地と同じ。で、河内ではさらに「エナを洗うとその人の定紋が付いているので見るものではない」という(『沼津市史 資料編 民俗』)。胞衣というのはその赤子の分身(ダブル)として捉えられるものだが、これはそれをダイレクトに語っているといえるだろう。

道行き・男島

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そんなわけで「伊豆の見えない天王さん」への第一歩がこの河内の里だったのですな。上下宮の「高低差」などにふんふんと思いつつ脇を見ると……これはまた、ナント頼もしい消防団であることですかという。
既に言ってしまったが、ここで街区図が「水利図」という地図であらわされる土地なのだということを知った。で、管轄は消防団なのだ。ナルホド!あー、これはなるほどなのであります。

大きな川・水源のない浦というのは火事に見舞われるとひとたまりもないものだった。伊豆の海各地でかつて火が出て壊滅した、という話が語られる。故に、その地の火防の司は、その地の水利を熟知するものでなければならなかったのだ。そしてこのことは、時として水神の祀られるべき場所と見える所に、秋葉さんや愛宕さん(大概お不動さんだったわけだが)という火防の神がまま祀られていることを思い起こさせる。「水源の不動尊」というのは色々な意味があるが、これが大変現実的で重要な意味のひとつに違いない。
なんで今まで思い至らなかったんだべなーと喜ばしいのか沈んどくべきかと思いつつまた海の方へと下る道。奥に浦が見えますなぁ、しみるねい。今回あまりこちゃこちゃ考えている余裕というのがなかった(景色的に……笑)。
道の突き当たりが海なんですね。すてきですねぇ、すばらしいですねぇ(TΔT)。
これは渡らなければ負けだろう(笑)。写真じゃ分からんですが、こんなん固定して作ったらすぐ壊れちゃうわけで、つまり波でゆうらりゆうらりしているわけです。

その先に浦の対岸が見える。ここは戻って西浦木負(きしょう)の浦。で、鳥居が見えてますな。対岸のようだが実は間に平べったい島があり、そこに鳥居がある。弁天さん。「男島」という。
ズーム!この「男島」のことはあとでまた出てきます故に覚えておかれたい。
浮き桟橋に渡ったのでこういう角度から見ることができた。海の家とはかくありたいものであります。

鮑玉白珠比咩命神社

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さあ、この浦の守護神が式内の「鮑玉白珠比咩命神社」さまであります。「あわびたましらたまひめ」という女神さまを祀る。不思議な名が連なる伊豆の神々の中でも飛び抜けた御神名といえるだろう。式内:鮑玉白珠比咩命神社の論社は他にもあるが、最有力論社がここ木負のお社、というか他は参考程度という感じだ。修善寺・湯ヶ島行の方で参った「佐野神社(鮫明神)」も論社のひとつでありました。

▶「佐野神社」(修善寺・湯ヶ島行)
「鮑玉白珠比咩命」とは、概ね真珠の神格化、ないし真珠のように美しい女神ということと了解されている。そういう美しい姫がいたのだという土地の伝説もある(後述)。ただし、ここは赤崎という岬の上なのだが、土地では赤崎明神と呼ばれて来たお社で、例によって鮑玉白珠比咩命という名が連綿としてきたわけではない。その赤崎明神とはいかなる神かというと、伊豆三嶋大神の妹である、又は伊豆三嶋大明神そのものであると信仰されて来たという。
式内の最有力論社に推される理由は主に以下の三点。まず、ここには古墳があって(木負峰古墳)、縄文・弥生時代からの遺跡でもあり、上古からの信仰の地であったと思われる点。次に、木負(きしょう)は『和名抄』にみる「吉妾(きしょう)郷」のことであると考えられ、美しい妃という神名と符合する点。そして、『式内社調査報告』には、元禄十三年の修繕の棟札に「木負鮑玉白珠比咩命神社」とあった(が、失われている)と紹介されており、本当にあったならこれがほぼ決め手であるだろう。なお、同様の次第で『伊豆國神階帳』の「宮玉の明神」に比定されている。
で、ですな。『式内社調査報告』にあるようなことは既にネット上でも紹介されているので詳しくは検索して下さいということで、ここでは地元の伝説のことを特に紹介しておきたい。土地の古老がここの女神は比類なき美女であって云々、伊豆三嶋大神の妹(妃の意だろう)であって云々、と紹介されるのだが、実はそう単純な話でもないのだ。以下、『木負・河内の民俗』(沼津市史編さん調査報告書第四集)にあるそのままで紹介する。

アワビタマシラタマ姫:
コトシロヌシの神が蝦夷を征伐して、だんだんこう東へ東へ攻め込んできてねえ。で、この木負の里に美人があって、その美人に恋をしてねえ、一〇日居たか二〇日居たか、詳しいこたあ分からないですけどねえ。その間にその姫と密通していたあでしょうねえ。それで、いよいよここで仕事が終わったあって訳で、ずうっとだんだんだんだん東へ行ってしまったですねえ。行ってしまって、その姫を誰かがコトシロヌシノミコトの奥方だからアワビタマシラタマ姫という名前が付いたんじゃあないでしょうか。この地先でねえ。アワビがうんととれたですよ。昔はねえ。私等覚えている時っからですけんどねえ、このくらいのアワビをね、昔のお爺さんとってきて、スイホロ(風呂)の灰をかじったりした。そんなのへそのアワビを使ったあですがね。ですから、アワビダマ、海の事をあらわしているでしょうね。

『木負・河内の民俗』(沼津市史編さん調査報告書第四集)より引用

先にも述べたように「アワビタマシラタマ姫」といわれてきた訳ではないので、そこはそういうことになってからの話だ。もとはただ「美人の姫」だっただろう。また、コトシロヌシというのは伊豆三嶋大明神を意味しているのだ、が、この東征のモチーフは伊豆三嶋神話の中にはまったくないものである。これははじめから伊豆三嶋信仰の一端だったのかどうかというとかなり微妙な話である。日本武尊か坂上田村麻呂かの話が、下って伊豆三嶋大神の話になった、と見た方がすぐ「なるほどね」と思えるような感じだ。
さらに、ここには源頼政と菖蒲御前の伝説が絡んでんじゃないかね、とも見ているのだが(菖蒲御前の墓というのが先の河内の奥にある)、ともかく中々に不思議な女神のお社なのですよ。不思議なお社には不思議な狛どのがおりますな。
あはははは。もはや謎の生物であります。白珠の姫はこういうのがお好きなのか。
で、でっかい方の狛どのも独特な。というか、あー、こういうことか、という。
内浦長浜の長浜神社で「おぉ?」となっていたが(左写真が長浜神社の狛犬)、どうもこのあたりの海の狛どののひとつの典型であるらしい。またあとでも見る。獅子というか狒狒のような風貌だ。

▶「長浜神社」(沼津行)
もう一点、指摘しておきたい事がある。社殿そのものは概ね淡島の方を向いているのだが、神社に登って行く登り口にある一之鳥居はまた別の方を向いている。分かりますかね、その向く先に男島を捉えているのだ。赤崎明神─男島と見るとまた違った側面が見えてくるのかもしれない。岬と島が夫婦の神ではないか。実は、男島が「女島」と表記されている地図もあるのだ(例えば『沼津市史 資料編 考古』に使われている地図など)。
これはかつて赤崎明神が「三嶋大明神」(男神)を祀っていた事と呼応していないか。岬のお宮が男神なら島は女神でなければならず、岬のお宮が女神ということになったら今度島は男神にならないと夫婦神にならない。そういう線があるかもしれない。
木負の浦、先には淡島が見える。淡島には今度は式内:靑玉比賣命神社が祀られていた、と見る人も居る。青玉姫と白珠姫が並んでいたらすごかろうねぇ(靑玉比賣命神社比定説は難ありだが)。
昔は本当に真珠を採っていたという木負の海。海が汚れて廃れたというが、すげえきれいに見えたけどね。まだ戻らんのか、見た目じゃ分からんのか。

道行き

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そんな木負をあとに、ここからが陸の孤島と呼ばれた西浦の本領(?)が発揮される地だ。北には富士山が。すげえ狙ってたんだけど、この日は一日こんな感じで雲掛かり。この一瞬天辺が見えた。
少し内浦地区と西浦地区の最も基本的な違いだけ見ておこう。こちらが内浦地区。伊豆半島の付け根そのもの。ご覧のように起伏に富む複雑な地形で、海中もこれに倣う。お魚たちはそういう海が好き。
反対西を見ると、名の通り西浦。ご覧のように内浦と比べるとのっぺりしていて、海中もこれに倣う。潮もぶつからず速く流れてしまい、お魚はみんな内浦まで行ってしまう。要するに、隣接しているが、西浦はあまり漁の上がらない海だったのだ。

ところで、そんな内浦・西浦を行ったり来たりしていた沼津の商人には、この浦々を進む時の道中歌があった。

〽 私しゃ沼津の商人なれば、大瀬に願かけ南無大瀬明神、神はえのきか、きのえの江梨、目出度目出度の若松様よ、久料、足保よろしき古宇で、立保水仙、平沢の水で、久連婆にてこの子ができて、河内小袖をこの子に木負、重須羽織に裾長浜よ、三津で小海る内重寺よ……(八木節の節で)

大概こういう歌がある道中は大変な道行きだ。今は海岸を道路が続いているので想像もつかないが、かつては浜沿いの狭い砂利道があれば良い方で、あとは磯を越えたり岬を越えたりして進むしかなかった。浦の人々はそんななのであまり行き来しないし、日常的な荷物の運搬にも舟が利用されたという。ことに大変なのが木負から先のこの西浦久連以降で、久連の里は干潮時の浜を歩いて行くしかなく「潮が満つれば、道なし久づら」といわれたそうな。

久連神社

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しかしそうではあっても人々は住み、また島には弁天さんを祀り、あれこれ工夫をしつつ暮らして来たのだ。写真のまた島のような杜の上に弁天さんであったこの浦の守護神が祀られている。
久連(くづら)というこれまた難読の不思議な地名は、概ね崩壊地名(崖崩れなどが多いとされる所)だといわれているが、行って見た感じだと「さて、どうかね」というところであります。
言うほど急峻な崖があって海に直落ちしている浦という感じではなく、穏やかでなだらかという感じだ。個人的には「楠浦」からの転訛という可能性はないのかね、と思っているのだが、崩壊地名じゃないかも、というのはそれにはプラスであります。

※(後註)……と、思いましたものの、地元で「崩」だったと伝わっておるのでした。崖崩れではなく、大昔海浜が大海嘯で没したという伝説があるそうな。このあとに見る亀島がその時まで岬の先端だったという。実際そうなのかどうかはともかく、そう語られているのでありました。
そんな久連の鎮守さまはこの海につき出た杜に鎮座される。先に遠景は見ましたな。これは通り過ぎたあとの西側から撮ったものだけど(こちら側が広場になっていて憚りなく見ることが出来る)。この杜はかつては陸繋島で、名を神島といった。
参道入り口は陸側大通り沿いに。この杜は照葉樹がほとんど人の手の入らない形で繁茂している杜であり、杜全体が沼津市指定天然記念物となっている。

鎮座されているお社は「久連神社」という。結構この入り口の写真はネット上にも紹介されているのだけれど、なぜか皆上に登って行かんのよね。
まぁ、ワカランでもない(笑)。
久連神社は、ここに祀られていた弁天さんに、陸の方に祀られていた神明社を合祀して地名を冠したお社。現在は神明社である事の方が登録上は主体のようだ。漁師たちにとっては変わらず弁天さんなのだろうが、このような浦の守護神というにしてはお社は海に背面した形を取っている(普通は海・浦を見守るように構える)。おそらくこれも神明社と合祀して変わったのだろう。
これに関して注意しておきたいのは、市史などもここが陸繋島で「古くから〝神島〟」だった、というニュアンスで書かれているのだが、そうではないかもしれない、という点。地元の方によると、昔は弁天島だったという。神明さんを合祀して、久連神社となった際に、島名も神島となったのだという。弁天さんが祀られることになったさらに以前にまた神島といっていた、という可能性もないではないが、史料はなかろう。
んが、気になる事がひとつある。『静岡縣神社志』に一行だけ久連神社の事が書かれているのだが、「西浦村久連神社相殿は溝咋比賣命を祀り……」とあるのだ。現在はこの相殿は弁天さん・厳島神などとなっていると思うが、これが溝咋比賣命であったとしたら伊豆三嶋大神后神の意味である。そういう時代があったのかもしれない。額も三島大社の方で書かれていた。
そんな感じでここも中々難しいお社ですな。また、天然記念物指定の杜はやはりスゴイ。なんだべなこの木は解説にあったモッコクがこれか?モッコクってこんなに大きくなるのか。
こちらなど、もはや植物の域を脱しておる。このあとどんどん紀州なんかの方との繋がりの話が増えて来るが、この杜もそういった太平洋黒潮ルートの作り出した杜だろう。
まだ若い樹々も鋭意成育中。先に行けば行くほど「伊豆西浦に神島あり」と注目されていくことになるかもしれない。
おまけに参道入り口のレリーフの親子獅子。こういったレリーフ上の獅子が親子ってのは……あ、一点重要な事を書き忘れていた。
先に紹介した道中歌にも「〽久連婆にてこの子ができて……」と歌われていたが、『増訂 豆州志稿』には(小祠の合祀だろうが)久連神社は「姥神」も合わせ祀るとある。あるいは道中歌に歌われるような知れた子安の姥神さまなどが祀られていた浦だったのかもしれない。

※(後註)久連神社の溝咋比賣命だけれど、これは弁天さんではなくこの姥神さんの方がそうであるかもしれない。大正元年の『西浦村誌』では神明さんに相殿が弁天さんで、さらに溝咋比賣命とある。対応するのは姥神だけだ。ふーむ。

そして、そういう面があったとしたら、これまた洋上に浮かぶ小島とセットの夫婦神的な何かがあったのではないかとも思われる。久連の浦の西隣平沢に向う方にはこのような「亀島」がある。上に祀られてるのはまた弁天さん。木負の方で指摘したような大きなお宮と、海上の小さな島を繋いだ何かがあるようだったら、海の姥神さん、という線も絡んでくるかもしれない。
ついでに亀の話もしておこう。このあたりの海も海亀がちらほら流れ込んで来ていたようで、舟小屋に剥製が掛かっていたりもするが、他地域と同じく豊漁をもたらす存在として良く扱われていた。
西浦では亀が網に掛かったら、一升瓶を口につけて酒を呑ませ「魚持ってこい」といって逃がしたという。一方海亀というのは閉鎖空間(本当の島など)が不漁に陥った時の頼みの綱でもあり(一匹獲れたら四人家族がしばらくしのげたという)、相反する面もある。中々難しいですな。

西浦平沢:八幡神社

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お次は西浦平沢の浦へ。これは平易な地名に見えるが、実は平沢といってもそのような沢がない。で、ここで予告していた「戸印」の水利図を発見。すごいですねー。全部戸印で通じるわけだ。これ越して来た人はどうなるんかね。
その平沢の鎮守さんは「八幡神社」さん。少しゆるゆると登った先にある。実はこのお社の事は事前にはほぼ何も分からなかった(現在もお社そのものの事は分からんのだが)。
例の「夏神さん」である天王さんの関係で、平沢では七月になると天王さんの小祠に新しい麦藁で屋根を葺いて道端に祀った、などとあるので「まったく道祖神さんの半年逆版ですな」とか思いつつ、この祠かね、とかいっておしまい、のはずだった。
んが、これから見るように色々あって「ただもんじゃねぇ……」ということになったので帰ってから少し細かに調べたのだ。で、まず『増訂 豆州志稿』には「村老伝云、推古天皇二十一年建立スト」とある。「はい?」てなもんであります。
いくら村里の小社が勝手気侭な由緒を語るといっても、「オラが村のお社は古りい」ということをいうためだけに「推古天皇二十一年」などという大それた年号が出てくる事はまずない。出てくる以上何かあるはずだ。
で、境内脇にはまたしても「穴」なのであります。むふっ。
しかし、里の方へおりていって地元の方に訊いてみても「ありゃあ、戦時の防空壕だ。この辺あんなのいっぱいあるぞ?」とおっしゃる。まぁ、実際そういう風に使われたのだろう。でも穴奥のつくりがなぁ……
そして、調べてみると、なんとこの平沢には古くは「合渡四十八塚」と呼ばれた古墳群があったのだそうな(平沢古墳群『沼津市史 資料編 考古』)。八幡さんからは北西側の海に向った斜面にあったという。今はみんなミカン畑になってしまってないのだというが。一〜三号墳とされた横穴墓は調査がされていて、市史の方にも掲載されている。6C後半〜7Cの横穴墓群だそうな。「数基からなる古墳群が多い伊豆半島北西海岸地域にあって、傑出した群集規模をもつ古墳群である」とあり、「西伊豆有数の群集墳」だったと評されている。
防空壕に転用された穴も多かったのだろうが、周辺地域に見ない規模の横穴古墳群のある所であったのも間違いない。神社境内の横穴がどうなのかは分からんが、土地が古墳時代からの何かを引いている可能性があるといえるだろう。
その横穴斜面の上には石祠なども祀られている。ステキ石段。あたしをトラップにかけようと思ったらこういう石段を用意したら簡単にひっかかるだろう(笑)。
で、またまたこれまた不思議な石祠と神さまが。神像の方は女神さんかね。この石祠の中の石は……
なんだろうなぁ。パッと見は網につける重しのような感じであります。実際このあたりからは古代からの石錘もよく出土するというからその系統かもしれんが、分からん。
もうひとつ連想されるのは、このあたりの漁師の崇敬する神の大将は、西端の大瀬崎の神(大瀬神社)なのだが、舟で大瀬沖にいってお社の方の海中に石を奇数個投じて豊漁を祈願したという話。奇数個ってのはまぁ、三個だろう。その石に通じるものなのか、どうか。形がどうなんかな。このあたりでは「菱形」を魚の形だといって重視する。お正月に菱形に切った餅を鎮守さんに供えたり。その線と関係はせんだろうか。
おまけで境内の大樹。これはですね、大楠と大杉が密着して植えられ育てられたのですね。なかなかの見応え。さすがに楠と杉がくっつきはせんが、でもそれを狙ったのかもしれない。
古墳群があったという斜面のミカン畑。まだありそうな気もするが。鯉のぼりが立っている。西浦ではちょっと特徴的な幟が立つ。写真の右側の方。上段が嫁ぎ先の紋、中段が里方の紋、下段に武者絵という構成が決まりなのだそうな。
そしてまたアヤシの坂道。既に奥に石祠が見えている。八幡さんからちょっと下った所だが、境内の内に入るのか?
あぁ、良い木漏れ日の石祠さんでありますね、と終わりそうなところが、あたしは祠のすぐ背後に不自然な空間があるのに勘づいてしまった。たくさん見ていると「あれ、変だな」と思うようになるものである。
で、祠の背後にはこんな縦穴があるんですねぇ。なんじゃこりゃ。これまでに類似のものは見たことがない。井戸?斜面上に?
これも里におりてから訊いてみたのだが、そもそも石祠があるのは知っていてもその背後に穴があることを地元の人も知らんのですよ。うーん。「そんな穴があんならアレじゃねえ?水が出んべえと思って掘ったとか、ゴミ捨てとかよお」と、漁師は小さい事は気にしないのである(笑)。しかし、あたしは漁師じゃないから気になるのだ。じゃあ手前の祠は何だという話である。ワカランですなー。古墳の事といい推古天皇の時代を語るお社といい、なんだかずっとあとになって平沢という所には舞い戻らねばいけなくなるのかもしれない。

道行き・エビス魚とウツボのこと

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次の浦の西浦立保(たちぼ)への途中、多分境となる岬のあたりにお宮がぽつんと。また弁天さんかね。
こういう所が「魚見」なのだよね、と踏み入ってみますとまったくその通りのようで。今は釣りの人が下の磯におりるための足場となっている。
こんな風に魚見から浦を見張ったわけですよ。人間魚群レーダーですな。

ここでもうひとつ「エビス魚」の事を話しておこう。イルカや鯨がそうなのは西浦・内浦も同じだが、この海では「マンボウ」もエビス魚(豊漁をもたらすと考えられた大型魚の事)として重要とされた。曰くマンボウは「万本」に通じるから漁をもたらすのだそうな。ということでマンボウを見かけたら逃がすな、という事だったのだ。ここが亀と違う所で、エビス魚は捕まえると漁が入るのだ。マンボウに酒を呑ませて逃がしたりはしない(笑)。
ただし、同じ海でもマンボウを獲っても食べる事は禁忌になっている浦もある。食べるとマンボウのように骨なしの子が生まれてしまうといって忌むのだそうな。イカ・タコでそういう所もありますな。仮にも硬骨魚類のマンボウにしたら失礼な話だが(笑)。
また、さらにウツボの話もしておこう。西浦ではウツボが好んで食べられ、祭や結婚式などの祝いの料理であった。これは全国的に見ると珍しく、紀州和歌山や四国高知などに見られるという。黒潮ルートですな。腹の黄色いウツボをジャウタ・ジャウナギといい、赤いのをゴマジャウタ・ゴマというそうな。このウツボ文化は紀州と通じるという所が重要だろう。
漠然と紀州と黒潮が繋ぐ、というより、北条早雲が熊野党の海賊にここ西浦を治めさせた、という歴史があるのだ。西浦の西の端の江梨の昔の頭領は鈴木家といって熊野水軍の人だった。また江梨に行ったらその話はするが、ウツボ料理が通じる紀州和歌山と伊豆西浦をダイレクトに結ぶ一族の話なんかもあるかもしれない。

立保:神明神社

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と幕間の話をはさみつつ、西浦立保(たちぼ)の浦へ。ここの鎮守は「神明神社」さん。たまたま今回重須からここまで神明社が表看板なお社がなかっただけで、本来西伊豆は神明社を良く祀る。
長浜神社も神明さんだったし、久連も神明さんを祀っていた。そしてここ立保から西へ、古宇と江梨も神明さんが鎮守なのであります。何だか南豆のお社のような構えで社殿を撮る場所がないですな。
御本殿も急峻に登って覆殿と、下田か南伊豆町のようであります。なんか関係する所があるのかね。

さて、西浦には伊勢神宮の御師さんがたくさんきていた。だから神明さんがあるのだろう。というより、近世半ばまで、この浦々にやってくる外の人というのは御師か座頭であった。様々な職種の人が来るようになるのは幕末というか近代に入ってである。その御師の中でも突出して多いのが伊勢神宮の御師だった(次に多いのが尾張の御師:村入用帳の調査「海村を往き来する人々について」岩田みゆき:『沼津市史研究 11』)。この辺が伊豆半島を東西に分けての「東の鹿嶋」「西の伊勢・天王」という色分けのできる原因のひとつであろう。
とはいえこの辺の神明さんは軒並み「不詳」で、どういう来歴だったのかよく分からんのだが。『増訂 豆州志稿』にはこの神明社に「御多ノ社」なる境内社があり、これが旧祠であり地主の神であるとある。こちらかな。太鼓があるからこれは漁の神さんかな。
そうなると反対側のこちらの石祠かしら。どちらにしても「御多ノ社」が地主の神であるという以外どういった神さまなのかはまるで分からんが。
拝殿内には見事な大きな絵馬も。護法を操る行者かね。女神さまかね。字の書いてあった所が軒並みかすれているので何だか分からんが、中々の大作であります。
ここの狛犬さんはスタンダードで大変渋カッコ良い狛犬どのでありました。いや、この表情は渋い。ダーティー・ハリーといい勝負しそうであります(笑)。
おまけで。この神明さんの境内境の塀の一画が途切れていた。ここで「あれ?」と思うオレ様エラい(笑)。
こんな風に枝葉をかぶせて隠された後ろに道祖神さんが祀られているのですね。確かに半ば隠してあるような道祖神さんというのもないではなかったが、これほどはっきり隠してあったのは記憶にないな。というか、故に気付かなかったのかな。

古宇:神明神社

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さらに西へ、古宇(こう)の浦へ。古宇とは何かは分からない。古浦かな?違うかな。西浦の西への張り出しの真ん中くらいで一番凹んでいる所ではある。この浦にもまた戸印の水利図が。
「塩釜」という屋号が残っているはずなのだよね。西浦の西の方としか分からんが。「塩釜」はどういう印となるのか……ワカラン。西浦は漁は少ないので、昔から出稼ぎに良く行ったものなのだが、近世半ばまでは塩を焼いてそれを甲斐の方に売りに行くのが定番だったそうな。
で、古宇や二つ西の久料から(これは近代の話だが)駿河の清水港へ「清水通い」という舟があったそうな。東の方は沼津と繋がりが強いが、このあたりになるとそうなるのですな。写真右端が富士山で、清水港は左端のさらに外か。ここからの「塩の道」もあったのだろう。もっとも、幕末以降はこれも廃れ、もっぱら駿河遠江で盛んになった茶畑にお茶摘みに行くようになったという。どちらにしても西浦の多くは、中々漁だけでは捗行かない浦々なのでありました。

その古宇の鎮守さまはまた「神明神社」さん。由緒等全面的に不詳。伊豆納符(伊豆山の修験者が伊豆半島を一周する行があり、その際札を納めた寺社)のお社ではあります。
天正年間再建の記録があるというから、近世以前に遡るお社ではある。もとはここではなく「瀬之宮」という小字の地に鎮座されていたというがどこだか分からん。「瀬之宮」というのは何かありそうな名だけれどね。
古宇も夏に天王さんをよく祀る。というか「夏神さん」という呼称は古宇で採取されている。祠をハマクダリといって浜まで担いでいって「おすずみ」とする。台座が奥に見えてます故、この祠でしょうな。
本社殿とその天王さん(だと思う)の間に謎の祠(?)が。祠というか木箱?このあたりではこのような木箱のようなものを屋内神のうち(色々祀る)「産土神」といって祀っているはずだが、それかしら。一定期間鎮守に置く何かがあるのか。
こちらの狛犬さんがまた例の狒狒風狛どのであります。もう内浦・西浦には狒狒狛ありと心得ねばなるまい。こんな風にカッチリ作られていたらこのタイプも随分格好よろしい。
また、隅の方には小さなステキ狛さんも。古そうだねこれは。ひっくり返したら年号とか彫ってないんかね(いかんですよ)。相方はおらなんだ。
先に述べたように、神明社が多いのは伊勢の御師がよくきていたからだろう、伊勢志摩の海女さんが良くきていたからだろう、といえばそうなのだが、そのニ点は関係するのか、時代はどうなのか、ではそれ以前はどうなのか、と問うと何も分からない。しかし、東伊豆の海際には法人社の神明社というのは数えるほどしかなく、西伊豆には連なるというのはそうなのだ。そこには何か明確な理由があるはずである。このあたりの神明さんの由来も深く追跡せねばならない。

道行き

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道標があった。内浦から西浦は海沿いの一本道だったのに道標がいるのかね?古宇には真城(さなぎ)山に登っていく道があったからだろうか。あ、真城山の伝説はまた長くなるので、次の行程にまわします。
あー、そうだ。その「一本道だった」というのも今少ししっかり紹介しておかんとイカンだろうか。久連からこっちはもう、昔は道というより写真のような海岸に干潮時にできる浜沿いを行き来するしかなかった、というのはもういいましたな。そうであるので「村継ぎ」という浦から浦へとリレーする伝達システムで日々諸事を伝えていたのだ。おそらくこの次第は信仰の形態にも関係するのじゃないかと思われるので、少し詳しく引いておこう。

「海岸線に沿って一本道だった関係で、お布令の伝達、情報の提供等、悉く村継ぎに依ったことはいうまでもない。其他行路病人、浮浪者、乞食のたぐいで他国者は一宿一飯の世話をし乍ら村継ぎによって逐次地区外へ追放したもので、昭和の初期迄消防の仕事の一つとして夜中提灯の明りものものしく隣部落迄送って行ったことを憶えている。隣部落も決して異議を申さず又隣へと送って行ったものである。」/『沼津史談13』関野新吾「久連区有文書の中から」より引用

戦後くらい迄、このように村継ぎで万事送ったのだ。ということは、天王祭のような厄送りの次第もこれに準じていたのじゃないだろうか。河内の天王祭では厄を村境へ送る獅子舞が行なわれるが、浦ごとに一日ずつ送り出す日がスライドして行くというようなことがあったのじゃないだろうか。
(その末端に大瀬崎があったとしたら、あるいは祓戸神のような神格を想定することもできるかもしれない……というのは勇み足……笑)

足保:天神社

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次の浦の西浦足保(あしぼ)へ。中世文書には「葦保」とあるそうなので、そういう所だったのだろう。ここの鎮守さまは「天神社」さん。車とめるとこなんざぁ、他にいくらでもあんのにね……(TT)。
これが神社が現役の対津波マウントであるのですよの図(ゼイゼイ)。津波がきたら神社に逃げるのですかね、と訊いたら「そりゃ、お宮ってのはそういうとこに造るのだし……」と「ナニ言ってんだ?」という顔をされた(笑)。
相殿に王子・神明・山神とあるからここの浦にも神明さんがあった。王子社が古いらしく、古足保なる所に祀られていたという。天神・王子といったら賀茂郡だったら伊豆三嶋大神御子神の社か、となるところだが、このあたりはどうなんだろうかね。
無論近年は普通に天満天神さんという認識であります。この浦々に天神講が多く、梅干しのことを事前にいっていたのもこの絡み。梅干の種を海に落とすと海が荒れるというやつですな。それは菅公が流されたことにちなむのだと西浦の漁師はいう。
そんななので梅干しの種供養の何かがないかね(太宰府天満宮にはある)、とウロウロ探したのだけれど、そう話はうまくはいかない(笑)。
代わりに(?)何だか物凄いシャチホコどのがおられた。はあ。ナンだなあの尾びれは。
反対側の方が壊れてしまっている分、意図が明確に見える気がする。これは鎌ではないか。風切り鎌という呪物が据えられ風除けにされる風習があるが、それを兼ねているように見える。こういう鯱さんて結構あったりするものなんです?

道行き:久料の六芒星漁船

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現代はこのように切り通しを車道がはしり、西浦もどんどん渡って行ける。このあたりは切り通しの斜面もそのまんまで、地質を見るのにも良いのじゃないかね。発掘屋はこういうのを見るとジョレンで削りたくて仕方なくなる(笑)。
そして次の浦の西浦久料(くりょう)。これは公料からだろうとされる。中世西浦のドン、熊野水軍の鈴木家の拠点江梨のお隣です故、そうそう陸の孤島チックなばかりではない。
とはいえ船も少なくクルージング的ななんやかやも少なく、長閑な浦ですなぁ……とのほほんとしかけてあたしの目は飛び出た。
六芒星の漁船がっ!ふおおぉ、もう今日の行程をここ迄にしてでもこの由来は訊き出さねばならんとコーフンしておりますと、なんとバッチリタイミングでこの船のおやっさんが船からおりて来られた。で、訊いてみますと、「星なぁ?この船はよお、中古で買ったんだ。岩手のあの小本港ってー、あー、八戸の下の方の……小本知らん?」ということで、中古で買った時からあるマークなんで何だかワカランのだそうな。確かに六芒星の中に小本とある。小本港とはこちら……

▶「小本港の概要」(岩手県公式サイト)

「ペンキで上から塗ったんだけど剥げてきちまった。あ?魔除け?そうなんか。なんだ、てっきり小本の漁協のマークかなんかだと……そんじゃあ中の名前を書き換えるかな……」ということで、次行ったらおやっさんの戸印かなんかが中に書かれていることになるかもしれない(笑)。
そんなわけであまりこの海の信仰とは関係なさげなのでありました。一応伊勢志摩の海女さん(が、五芒星を魔除けとして使う)のこととか訊いてみたのだけれど、「いやー、うちはよく知らねぇなぁ」という感じであります。
まぁ、写真なんかなんぼでも撮ってくれということなのでおやっさん号の勇姿を一枚。もっとも、そうなるとなんで小本では六芒星を書くんだ、ということになるのでして(さっぱり知らんが)、どうも遠大な宿題を出されたような気はする。震災後の小本あたりはどうなっておるのか。ともかくこの話はこれ迄なので、久料の鎮守さんの方へ。

久料:熊野神社

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ここは「熊野神社」さんが鎮守であります。やや奥に上った所に鎮座される。元和元年の棟札があるというが『増訂 豆州志稿』は「古祠ナリト云フ」と書いてあるので、中世に遡る社と見たようだ。『増訂 豆州志稿』はそのくらいを「古祠ナリ」と書き、平安に遡るように見たら「極メテ古祠ナリ」と書く傾向がある。何度かいったように、熊野から来た鈴木氏の絡みだとすると戦国時代以前の勧請の可能性はある。

※(後註)というよりも『西浦村誌』では「延喜七年勧請」となっとるお社でした。本当かどうかはともかく、相当古いお社だと思われているのは間違いない。
拝殿の様式もちょっと伊豆では見ない形だ。眼前の建物が古いというわけではないが(というより元地は違う)、代々「こう建てるべし」というのがあったとしたらここにもヒントがあるかもしれない。
さて、それはともかく、あたしはこの絵馬をこそ見たくて延々歩いてきたのでした。これは建切網の方式でなんと「マグロ」を獲っているのであります。額の反射でうまく撮れなかったが、綺麗な絵は『沼津市史 通史編 民俗』の内浦・西浦パートの扉にありまする。
昔は特に内浦の方にはマグロ等の大型回遊魚が「岸を歩く」ほど接近したのだそうな。なので、これらを捕獲する沿岸漁業があったのであります。回遊が激減することで明治大正期には急速に衰えてしまったというが。こういう大きな漁があったのですな。この日歩いてきた沿岸にマグロ。信じられん。
もうひとつ大正時代の久料の浦(だと思う)の様子を描いたものも。あんまり変わっていないという気もするが。
だがしかし、先のマグロ漁の絵馬は昭和七年のものだが、あるいは久料はその時代になって動力船が投入されてようやくマグロを捕ることができるようになった、ということかもしれない。内浦へ行くマグロをインタラプトってな感じで。
久料から江梨に行く途中に用心崎という岬があるが、その沖には嘉永年間に万余に及ぶ石を投入して人工の根「あしぼじま」が造られたという。前に述べたように、西浦の海は単調で潮も速く魚が流れてしまうので、改良しようとした。そのくらい西浦は漁の難しい海であったのだ。
そう思うと、先の絵馬は動力船が入って、西浦の漁師が夢に見た内浦のようなマグロ漁をようやく実現したその記念なのかもしれない。そして、そのタイミングで回遊がなくなったというのだから、まさに一瞬の夢の実現であったのかもしれない。そうなら、西浦のドラマが凝縮したような絵馬なのであります。
熊野神社さん周辺にはなんだか物凄い廃小屋もちらほら。なんか祠のようなものも見えたので、かつては社域が広かった、という名残りなのかもしれない。

やれやれ、と。一応この日の目的はここで達成でありました。次の浦は江梨というが(行くが)、今回の終りというより次回のはじまり予定の浦であります。江梨まで普通に(といっても一本/1h以下だが)バスがある。で、大瀬崎を守護神とした件の鈴木氏の本拠が江梨だった。江梨─大瀬崎はセットで見る必要があるのです。

江梨:神明八幡神社

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でもまぁ、ちょっと時間はあるので、鎮守のお社くらいは寄りましょうかね、と江梨へ。ふむ。
「コーヒードーデスカ 6km」
どこからツッコムべきなのか。店名はなくていいのか。「ドーデスカ」という店なのか。
ミカン畑モノレール。あたしは子どもの頃これに乗って行きたくてしかたがなかった(笑)。
そしてカメラよアレが大瀬崎だっ!という感じに伊豆半島のアメージングスポット大瀬崎も見えてきましたね。あそこがこの西の浦々の総守護の神のいます御崎であります。あれを「琵琶島」といったですよ。
江梨の浦。江梨は大瀬崎という好漁場を持っていたので、他の西浦地区と違って漁の上がる浦だった。今もまだ、その名残りがあるかもしれない。

その江梨の鎮守さまが「神明神社」。「神明八幡神社」と相殿の八幡さんを併記する場合もある(さらに熊野神社を合祀している)。式内:文梨神社の論社として名もあがるが、そのあたりも次の西伊豆行で。
門前の(鳥居の後ろだが)神のような設えですな。写真左の方はダイコクエビスの像があったのでエビスさんだと思うが。
この土地は件の鈴木氏のことをよくよく学んでからでないと歯が立たない。パッと見は鈴木氏は大瀬明神をよく祀り、それ以外に当地に古社があったようには見えない。
熊野の神を祀ったはずだ、となれば色々考えられるけれどね。鈴木氏の仕えた後北条も何かと熊野権現を祀るしね。いよいよ西伊豆も西の端となると熊野の方のことも良く知らんといけなくなってくるのであります。
あれですよ、熊野の鈴木氏というのは熊野三党の榎本・宇井・鈴木から連なる鈴木氏ですな。三本足の烏の三本足とはこの三家のことであるともいう、神話の時代からの人々の一支柱だ。沼津には鈴木姓が多いが、この末裔かもですよ?
拝殿脇にシャチホコどのが。天神さんのに似てるね。これも風切りシャチだったのかもしれない。

おわり

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といったところで。長い長い沼津西浦行でありました。歩行距離というか、歩き疲れたという感じではなかったので、そんな距離はなかったはずだが、まぁ、ご覧の通りの盛りだくさんの海でありました。伊豆の西浦に神社的盛りだくさんを見る人というのもそうはいないだろうが(笑)。途中の立保から古宇・足保・久料・江梨は江梨五ヶ村といって鈴木氏の直接治めた所であり、この先の江梨─大瀬崎を詳しく検討する過程でまた振り返って「あ、あれは」となることもあるかもしれない。今はもういっぱいいっぱいであります、という感じだけれど。
ともかく、帰ってきてすぐに「もう今年のGWの心残りはない」と言い放った内容がこうであったのです。まったくその通りであったといえましょう。

補遺:

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田方行:沼津西浦 2013.05.03

惰竜抄: