駿東行:小山

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.01.19

静岡県駿東郡小山町の神社巡りの模様を。
これまでの行程は……

前回平成二十四年十月(柳島・湯船など)
前回平成二十三年二月(足柄峠越え)

小山行は金太郎伝説・足柄峠と日本武尊・西相模の中世のオーダが終了していく流れ、などを眼目として辿っていく行程だった。
んが、調べていくうちに、小山町大御神(おおみか)というところの角取八幡神社が伊豆から相模にかけての風祭(豊風講という)の元締めの地であったことが分かり、さらに風祭・風神角取(つのとり)さまに関するテーマが加わった、という感じでの今回の訪問となるわけです。

道行き

a

そんなわけで大快晴の中(寒いけど)、JR御殿場線・駿河小山駅を後に、前回終了したあたりまでまずは行きますと、もう抜けるような青空でありまして、庚申さんステキっ!道祖神さんもステキいいっ!……と、なんだか収拾がつかなくなりそうな感じ(笑)。
そして早くもなんとなく道を外れて川を眺めて「むむっ」っと唸る午前八時。なんで川縁に行こうと思ったのかは神のみぞ知る。で、あれは「何か」であるに相違ないのだが……橋がない(TT)。
限界ズーム(こういう時便利)。道祖神さんでありますな。で、柱が両前に立っておる。甲府の方では道辻の道祖神さんに注連柱状の設えがあったが、同様する物じゃなかろうか(こちらは六角柱のようだが)。小山では初めて見たと思う。
ちなみに甲府の方ではこんな

菅沼・八幡神社

b

てくてくと道行きますと、あらこんなところに鳥居さん……あせったね(笑)。実はここ法人社なのにチェックもれしていたのだ。ぐーぐるマップになかったので見落としていた。

ここは菅沼(小字茅沼)という所の「八幡神社」さんであります。ここまで小山は主に大森氏と関係して武家の神として春日・鹿島系が祀られ、八幡系は御霊八幡だったりと変わっていたのだが、ここは下って今川義元の家臣だった尾崎家が土着し祀ったという正統派の源氏守護の八幡。生土の方に主家があったというが、こちらの方へ展開したらしい。文政年間の棟札がある。
社地の北側は須川に用水が流れ込む合流地点なのだが、災害があったらしく、新しい護岸壁が連なり水神さんが祀られていた。小山は何神社と限らず水の流れの要所を意識して神社がある感じがある。

道行き

c

行く道にお墓。ひらけていく土地とせめぎ合っているという感じか。奥まった湯船の方にはまだしっかりした墓地があったが、こうなるともう風前の灯である。

小山町湯船地区の墓地

最近(というのも変だが)、やはり埋葬の形態というのは大きいな、と痛感している。とある近年まで土葬のあった土地で聞いた話なのだが、土葬だと墓地に行けば亡くなった人がそこに居て会えるような気がしたけど、火葬になったらその感じはしなくなった、とのことだった。地域共同体を成り立たせる要のひとつはこの感覚にあるのだと思う。その再現は容易なことではない。

菅沼・日吉神社

d


ここも菅沼なのだが、小字が入り組んでる所でして、こちらも鎮守さん。「日吉神社」。「日吉」になっていくのですかな。神奈川県だと法人社は37:5で「日枝」だが。
長享年間の創建と伝わるから世は戦国時代である。由緒には戦国の動乱の鎮静と村づくりのために勧請されたとある。小山は南北朝時代に激戦が行なわれた土地であり、早い段階でもう戦は嫌だという感が強かっただろう。
神社のすぐ背後は大きな貯水池となっている。天神原貯水池というそうなので、天神さんも強く祀られていたのかしら。今は単立小社としてあるようだが(日吉神社に合祀されたという記述はない)。
もう一度社地を見ると、このように建物が並立している。社務所兼公民館(コミュニティセンタ)であり、小山はどこの神社もこのよう。珍しいわけではないが、あとで、このことを良く物語る物件が出てくる。

道行き

e

行く道に小さな水神さん。川が近いわけではないのだが、このあたり山肌から流れ出る水で、どこの側溝も始終勢いよく水が流れている。もしかしたら少し特異な水神さんの分布がある土地かもしれない。
実は古い道というのが分からないまま、「まぁ、ぐねぐね登ってくのが古いだろ」と超いいかげんな道の選択だったのだが、嘉慶年間のものという宝篋印塔があった(町指定文化財)。当っていたらしい。
さらに道祖神さん(奧)なども。ふむふむ。この並びは道標だろう。峠越えルートとしてこの道は古かったようだ。で、ですな。一番手前の石造物は何さまであるのか分からないのだけれど、この御頭がですな……
この頭巾(冠?)は陽根を表してるのじゃないですかね。あたしがそんなものばかり興味を持っているからそう見えるだけですかね。

道行き

f

良い感じに登ってきまして振り返る小山の街並。中心あたりに高い木があるのが先の日吉神社。小山町の駿河小山駅あたりはこんな風にザ・山間、という感じなのであります。
峠を越えればそこにはもはやナニモノも遮ること能わずな富士山が。貯水池で逆さ富士撮って喜んでいるという阿呆もそうはおるまい(笑)。
道祖神さん、庚申さんなどとお堂。お堂としか言いようがないが何のお堂だかは分からない。扉を開けようにも開けたら最後閉まらなそうだしね。
駿河相模甲斐と文化の入り乱れる地故に道祖神さんも色々なタイプのものがある。このように直立双体像の道祖神さんは西相模っぽいですな。

阿多野・天神社

g


阿多野(あだの)というところの「天神社」さんへ。「あた」というのは山の向こうという意味があるらしい。峠道を越してくるとそのままの実感ではある。
実は勝手に小さな祠のような神社さんだろうと思い込んでいたのだが(なぜだ)。立派なお社で驚いた。寛文年間の創建伝。小山の天神さんというのも(実は多い)、どこまで菅公の天神さんだか分からない所がある。そのあたりはまた後で見るとして、こちらは「角取神社」が合祀されている、という点が重要な所だ。この日の目的、小山大御神の風神角取さまは、もはや土地でも薄れつつある記憶であり、そもそも神社として祀られるものだったのかどうかもあやふやな存在だ。
しかし、ここには合祀記録があり、規模はともかく社を構えて祀られていたことが分かる。同時に、大御神だけでなく、周辺にも祀られていたことが分かりもする。合祀記録というのはまったくおろそかにできない。
そしてここにはまた、面白い石碑があった。「衆中談合 一味神水」とある。
昔は神社というのは村人が集まって話合いをする集会所であった。それはもうのべつまくなしに寄り集まって、ああでもない、こうでもないとやっていた記録が、宮本常一先生の記録などにもある。小山町の神社が公民館とセットであることを先に強調したのはこんな碑があったからだ。
この文言は村の室町時代の古文書にあるそうで、話がついて一致団結する際に社の水を汲んで飲み交わしたのでそう言ったそうな。どこもそうで、別段珍しい話ではないが、こうして碑を立てるほどにその記憶をのこしたかったのだ、という所が珍しい。
さて、峠を越え、天神さんの森を抜けるとそこはピカピカの図書館だった(笑)。まったくもって一歩で千年のギャップである(いや、目的地のひとつだったんだけどね)。ここには小山町の文化施設が集約されているのだ。
小山町の図書館はこんなに立派(中庭まである)なのにネット検索に対応しておらんでなぁ。実はこれまでどんな資料があるのか未知だったのだ。お隣御殿場市の図書館にはあたっているので、概ね基本資料は得ているのだけれどね。しかし、ズバリ地元の図書館というものにはやはり次元の違った資料があるものなのだ。

道行き

h

小山町立図書館をあとにしますと、屏風のような山並みが見えてくる。あの向こうは富士五湖の山中湖。
これが今回重要な地形であり、図にするとこうなる。富士山からの冷風が角取山(現・大洞山)の尾根からどばっと吹き下ってくるのを「つのとりおとし・つのとりおろし」と呼び、強風であることもさることながら、その冷害が恐れられた土地なのであります。これを鎮めようとした風祭が行なわれ、それが広く北伊豆から西相模までの信仰を集めたのが大御神の土地なのですな。

棚頭・産神社

i


とはいえその風祭のメイン会場(?)まではまだ暫しありまして、途中の棚頭(たながしら)という所の「産神社」さんへ。「さん神社」であります。
なぜかここもあたしはとても小さなお社だろうと思い込んでいた。理由判明。「三文字」だからだ。天神社、産神社。あたしは全部で三文字のお社を地図上見ると小さなお社だと無意識のうちに思い込んでしまうクセがあるらしい(笑)。
実際はこれまた大きな杉がそびえる立派な土地の鎮守さんでありました。写真中央の大杉と、参道右に日があたって見えている杉が町指定天然記念物の大杉。
棚頭とは「滝の上」を意味するのだそうで、小山町第一の大滝「葛滝」の上の台地故にそう言うとある。そうか、滝を棚と言ったのか。平安時代末にはあった里のようだ。その鎮守の産神社さんは八幡と姥神の合祀を中心とした神社。
殊に姥神社の方が重要であり、御祭神は「石凝姥命」とある。湯船の方の昔の台帳に「かうみ田(子産田)」とあり、姥神だったのじゃないかという話はしたが、後の調べで実際「かうみ大明神」が柳島の方に祀られていたことが判っている。

かうみ田(子産田)

すなわち「かうみ」というのは土地名というだけでなく神名であったに相違ない。これらはみな姥神であったと思われ、ここ棚頭の姥神さんも連なる存在であるだろう。こういった中から金太郎伝説も生まれてくるわけだ。
しかしですな。そうはいってもここ棚頭の鎮守の社が特に外の世界に名が知れる存在だったとは思えないのだが、なぜか千社札がぺたぺたと。問答無用の有名社のように多いわけではないが、ナニユエこう貼られているのか。今回行かなかったがその葛滝が須走への道すがらの観光目的となっていたりしたのか?あるいはここの姥神さんが子安の神として広域信仰を形成していた、とかなのだろうか。
また、大杉に関してもちょっと。ここも参道に直交して鳥居状に並ぶようにはなっておらず、ハスになっていた。小山の神社は「二本」の大樹を神木としている例がままあったが、その初見だった藤曲の浅間さんで思ったように、参道両脇に注連柱的に並べるということはしないようだ。

藤曲・浅間神社

つまりあたしは初見でピンと来ていたという自慢ですね、えぇ(笑)。

道行き

j

♪つららんつららん(バナナン調で)。写真じゃ良い天気でポカポカお散歩日和に見えるでしょうが、一応富士山麓故にサムイは寒いんですよ。歩いている間は良いけど、ちょっと休憩したりするともう体が固まる。
で、あたくしはどうも産神社からの道を一本西に間違ってしまったらしく、大御神の里に来てしまった(アホ)。いや、隣の中日向に行くつもりだったんだけどね。しかし実に「里の入口」という感じですなぁ。やはり木が二本。

まぁ、大御神はオーラスであります故、針路修正で東隣の中日向の方へ。すると道行きに石造物が。このへんどこも石造物だらけではあるが……分かりますかね。中央日と陰の境に。

これが一体何さまでありますことか。うーん。見たことがないな、こんな造型は。女神さま、ということなんか。

中日向・浅間神社

k


地図を見ると分かるようにここは富士スピードウェイのまわりとなりまして、パオーンパオーンと車の音が絶えない所なのでありますが、その中日向という所の鎮守さんは「浅間神社」さん。
寛保年間にはすでに浅間・神明・八幡・山王の合祀社であったようだ。そして、さらに近代山神社(子ノ神)と天神社が合祀されているのだけれど、この天神社が問題となる。
これが、生土の雲霧神社の方でいっていた、中日向の「雲切天神」なのである。再掲すると「中日向で長雨の時は八か村入会の者が天神さんの前にみの笠着けて集まり、焚火して「日より乞い」をした(『小山町史 第9巻 民俗』)」とある天神さんなのだ。

生土・雲霧神社

各資料「雲切天神」と記したものは先の町史のみで、あとはただ天神とだけなのだが、大正元年の『北郷村誌』に「雲霧ノ霽レンコトヲ神ニ祈リタルニ忽チ効験アリ」の社だとあるので間違いあるまい。さらに、これは頼朝伝説が根底にあるようだ。
同村誌によると、富士の巻狩りの際、頼朝がこの地で雨に降られ、枝を折って立て、そこに大帷子を掛けて干したのだという。その木の枝が根づいて大木となった所を天神としたそうな。それで晴れ乞いということなのだろう。またこのことから、周辺を帷子ノ里ともいったとある。
いずれにしても菅原天神からはほど遠く、「天神」が天満宮とは違う意味で使われていた例と思って良いだろう。無論近世には天神だから天満宮だろうという記述(棟札など)となるわけだが、菅公に晴れ乞いをしたわけではない、ということである。
鳥居脇の道祖神さんと庚申さんと……後ろの大石はなんだろうね。このあたり普通に庭石としてこういう石がゴロゴロあるのだが、「宝永の時富士山から飛んできてなぁ」とかいうのだろうか。
富士スピードウェイ以外はまったくもってこんな感じの長閑な土地である。田畑もこのように直線的になったのはつい最近のようだ。というかこの日も耕作地をまっすぐにする工事が行なわれていた。

上野・神明宮

l


お次はさらに東の上野という所の「神明宮」さんへ。
予定では今回上野までは来ないつもりだったのだが、このあたりの昔の諏訪信仰が重要ということが先の図書館で知れ、諏訪社を合祀しているここの神明さんはあたることにした。
現在の法人社としては、小山町には諏訪神社は一社もないのだが、各鎮守に合祀された中にはちらほら諏訪社が見える。殊にここは問題となる大御神諏訪社(神明宮)と近く、同じように山里の猟師たちの奉じた諏訪の神であったと思われる。上野諏訪社本来の場所は少し違うが(諏訪原の小字がある)。
またここにはスバラシイ樹勢の古樹がありましたな。ツクバネカシというそうな(町指定天然記念物)。
所謂「根あがり」状態になっており、根の下には小さな子どもなら潜り込めそうである。この里に育ったら一度は潜ってるのじゃないだろうか。どえらい祟りがあるとかいってこっぴどくしかられる……という線もあるが。
ここ上野からの写真の道が明神峠を越えて山中湖へと向うのですな。須走からの篭坂(加古坂)道は近世に開通した道で、それ以前はこの明神峠ルートが駿東から甲斐への道だったという話がある。
日本武尊を白竜となって追った弟橘媛が越えたというのもこの明神峠だが、足柄峠の方を振り返るとこんな感じ。中央のとんがりが金時山で左下が足柄峠。なんかスタスタ来た気がするが、こう見ると結構遠いねぇ。
大御神へ同じ道を戻っているので、また中日向の浅間さん前に来ますと、先の道祖神さん庚申さんに良さげな日差しが。庚申さんは「ガーッ!」という青面金剛(もあるが)よりも、穏やかな感じが多い気もする。

大御神・神明宮

m

さて、いよいよメイン会場の大御神へ戻ってきまして、神明さんに向うのだけれど、市道と公道の差がない感じの所で非常に(行って良いのか)分かりにくい。入り口はこの道祖神さん。

人家からは離れた林の中に鎮座される大御神「神明宮」。すぐ背後はスピードウェイなんだけどね。それができる以前はかなり「深奥」だっただろう。
ここは昔はむしろ諏訪社であることが主であったお社であり、そのことがこの地の風神祭祀に関して重要なヒントをもたらすことになる。これは、次のその風神の社の角取さんの方でまとめて話そう。

大御神・角取八幡神社

n

富士スピードウェイ西ゲートを横目に行く。ここ十年でジムカーナとかも随分下火になってるような気がするのだけれど、それでも結構走行音は途切れることなく、でしたな。

そして「角取八幡神社」さんへ。神社庁には単に「八幡宮」と登録されている。これはこれでその通りであり、この場所の社は八幡さんに相違ない。先にそちらのことを述べておこう。
藤原光親(葉室光親):Wikipedia

この大御神の土地は、藤原光親(葉室光親)の最期と密接な関係のある土地だ。光親卿は承久の乱において加古坂峠で処刑されたとあるが、当時まだ現在の篭坂道は開通しておらず、この大御神が終焉の地であったと土地では伝わって来た。
というよりも、光親卿の戒名が「天光院殿守法大御神」であったことから土地をそう言うようになったというのが土地の伝である(口碑のみなので他の論も色々ある)。八幡宮そのものの創建は不詳だが、元村内古宮という所にあって、そこは光親卿が隠れ住まった所であったという。
故に大御神八幡宮は藤原光親をまた祭神とするのであり、ここはまったくその八幡さまなのだということではある。
そして、風神講・風祭の祀る所の「角取さま」というのは、角取山(現・大洞山)山頂の石祠(奧宮と呼ばれる)がそうなのだ。しかし、各地から人の集まる講の神事を山頂でやるのも大変なので八幡さんで行なった。角取八幡とはそういう関係なのですな。
この風神講は豊風講といって、沼津から秦野の方まで広く信仰され、七月二十八日だった例祭日には各地からたくさんの人が来ていた記録がある。皆新しくなった縄を持ってきて供し、前年供した縄を持ち帰り田畑の縁に渡して、悪い風が通らないよう結界としたのだそうな。
しかしこの講も戦後はまったく廃れ、その存在もほとんど忘れられていた。戦前の講員の記録などが見つかり、おやこれは、と聞き取りが行なわれ、辛うじてその様子が記録されたのであり、今や土地の人でも往時の様子を知っている人は居ない。
明治の神社改めにあたっては、風神というのだからと級長津彦命・級長戸邊命を御祭神としたのだが、はたしてこの地にこの神への信仰があったのかというと甚だ疑問であり、そこで箱根博物館の元館長であった田代道弥氏が、七年に渡って大御神の地に通い調査をされることとなったのだ。この成果は『どるめん』など民俗学誌に発表されたり、『風神つのとり考』(昭和四十三年・自費出版)としてまとめられたりしたが、この日小山町立図書館で、そのあたりの記録を読むことができたわけです。

ここでまず重要となるのは、豊風講の祭神名が小田原市風祭(地名)の方で伝えられていたことで、「しかかふべのみこと」という(これはあたしも調べていた)。これは級長戸邊命からの転訛というには遠いのではないかと思われ、田代氏は「鹿頭(しかこうべ)」ではないかと言う。そうなら昔は「ししかふべ」であっただろう。この小田原の風祭では、芋を田楽刺しにして供える風祭の神事があり、本来は芋ではなくシシ肉であったのではないかと思われる。すなわち、豊風講の本来は諏訪の風祭の伝播ではないかという話になる。
諏訪の祭祀の解説はエラいことになるので端折るが、要するに鹿・猪(共にシシ)を贄として供える非常に狩猟民族的な祭祀である。そして、実際大御神にはそれを思わせる社があったことも分かっていった。これがちらちら言っていた大御神神明宮のことで、かつては諏訪社であったこの社の鎮座地を猪ヶ久保といい「いがくぼ」と今は読むが、これも昔は「ししがくぼ」であったそうな。そして、土地の古老はこの社を「ししがみさん」と呼んだというのである。

「ししがみ」が「鹿頭(しかかふべ)」の神であったとしたら……宮崎駿氏はこれ読んでたんじゃね?という驚きの展開であるわけだが(笑)、さらに驚いたことに、大御神の地は、宝永の富士山の噴火でほとんど一旦壊滅したのだが、その際、村人の多くが秦野に移住したと伝わるというのだ。神奈川県秦野市は、その北西の方の地域で、社宮司と思われる「おしゃご(社護)さん」を咳の神というよりダイレクトに「風神」として祀るのである。そもそもこれは諏訪の人が持ち込んだのだと言われるが、大御神からではないのか。これは繋がる話になるのではないか。

もちろん全部を全部現段階で妥当とするわけにはいかないが、風祭や社宮司さんや、これまでに出てきたあれこれの、似ている所がありつつ、どこでどう繋がるのかというと難しい……というその大きな結び目が大御神にあったかもと期待はできるだろう。
そして、実際それが繋がるものならば、それは角取山を風と一緒に越えて来たものに相違ない。相模から諏訪というといかにも遠いが、甲斐にまで話が通るのだとなると前進する手ごたえはある。はじめは「足柄峠の向こうだしね」という程度の感じで足を運んだ小山町だが、辿れば色々出て来るものだ。まったく今見える文物というのも、その背後はあれこれこんがらがっているものである。

おわり

o

そんなこんなの角取の風神へのファーストアプローチの巻でありました。まだこれ三時半くらいなんだけどね。この奧の富士霊園からのバスが唯一の戻る交通手段であり、最終が三時五十分なのだ(この時期土曜の路線バスは止まっている……TT)。というわけでちと早いですが、この日は帰途についたのでありました。

補遺

p

補遺:

大御神角取八幡神社の風祭・豊風講について神奈川県足柄上郡開成町の方に少し報告があったので、メモしておこう(『開成町史 民俗編』「角取講(豊風講)」)。
代参方式がとられており、金井島では二名ないし三名、岡野では一名か二名の代参者を出していた。代参者は山北まで歩いて東海道線(現・御殿場線)に乗って小山で下車して、そこから二時間半ほどかけて角取神社まで歩いていったそうな。多分あたしが歩いた道程じゃないか。
また、代参者は出かける時、五〇尋(大人の人が手をのばした長さが一尋)の縄を持って行き、戻る時に前に他の講中があげた縄を持ち帰った。この縄で田の周りをはりめぐらし、風よけにしたという。五〇尋と簡単に言うが、多分80m超となる縄である。これを担いで大御神へというのはエラいことじゃないか。
もっとも、だんだん本来の風祭というより、台風除けの祈願(お札が主体)になっていったといい、やはり「しかし、町内では昭和になってからはほとんど角取神社に出かけることもなくなり、いまでは角取神社の存在すら忘れ去られている。」という感じのようだ。

ページの先頭へ

駿東行:小山 2013.01.19

惰竜抄: