高座行:大和

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.12.08

あさぼらけ〜、あさぼらけ〜、ある日せっせと宮参り〜……あたくし昨日は神奈川県大和市周辺に行っとりました。相州サバ神社巡りの続きでもありますな。

前回「高座・鎌倉行:藤沢・横浜」

もっとも、今は寒川町だけとなってしまった高座(昔は〝たかくら〟)郡も、かつては相模川東側海から多摩手前までずっと高座郡だったわけでありまして、また違った高座行が間にもありますが、このシリーズは境川を中心に海から北上して行く行程、ということで。

スタートは相鉄いずみ野線いずみ中央駅から。横浜市じゃん、鎌倉郡じゃん、という感じですが、サバ神社群ということで。高座郡ぽい(?)所なのです。ちなみに横浜市泉区というのは昭和61年にできた区で、新しい地区。今回辿った部分の和泉町および上飯田町は、戸塚区の内であった。故に『神奈川県神社誌』にも「泉区」なんぞという区分はないわけなのだけれど、「ないじゃん!」とあせってはいけない(笑)。

佐婆神社

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その和泉川を遡っていきますと、ものの五分で都会ではなくなる。そこに神田橋という橋が。さらにすぐ上流部の橋は宮下橋だった。目指す和泉のサバ神社関係の名であるに相違ない。終日素晴らしい天気でしたな。強風でもあったが。
両橋の間くらいから和泉川に直角に対する道を進むと、鳥居が見え、一段登って社地が構えられている。典型的(だとあたしが確信している)サバ神社の構え。

ここが上和泉の「佐婆神社」であります。ご覧のように今は小さなお宮だが、先の橋名から見て神饌田を持った立派な鎮守さんだったのだろう。
創建は不詳だが、寛文年中伊予河野氏の後裔・石川治右衛門が守護神として奉祭したというので、龍学的にも縁がある(伊予河野氏は蛇祖伝説をもつ一族)。慶長年中の創建とも伝える。
サバ神社といえばの笹竜胆。なお、和泉川沿いに展開するサバ神社は源義朝ではなく、源満仲を祀る特徴があるが、ここもそう……とかいきなり書いてもワケ分からん話な雰囲気ですな、えぇ(笑)。

相州サバ神社群

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では、久々なので「サバ神社」に関する基本的な解説を少ししておこう。相州サバ神社といって、境川・和泉川の流域にこの名の神社が点在している。左馬・佐婆・佐波・鯖などと書かれる。近世はこのうち七社を巡る「七サバ参り」ということが行なわれていた。サバ神社自体はもっとたくさんあり、現在も十二社が数えられるが、このうち七社を廻った(どの社を数えるかは地域による)。
近世以降はサバ神社とは左馬頭の源義朝公(ないし満仲公)を祀った神社である、という了解であり、かつてこの地域が義朝公の所領だったから云々ということになっているが、概ねこれは「さば」の音からの付会だろうと考えられている。しかし、では本来何の社だったのかというと未だ定説がない。
大概のサバ神社は「鯖大明神」だったので、鯖を供える信仰に由来するのだろうとか、サバとはサワ(沢)からの転訛で水神信仰だろうとか、田の神の「サンバイ信仰」からだろうとか、産飯(さば・献じる飯の上部を少し取り分けたもの)からだろうとか、諸説紛々である。
このサバ神社とは何ぞやということを考えるために、あたしも藤沢の方から順に参っておるのですな。今は、なんとなく分かって来たけど、とりあえず全部参って話はそれから、という感じの状況。

佐婆神社2

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和泉の佐婆神社さんは、その「なんとなく分かって来た」イメージにバッチリ合致する神社さんだった。この参道を行くと和泉川が写真左から右へ流れているのだ。
境内の石造物群。もはやまったく読める風ではないのでこの四角柱たちもなんであったのか不明。この後の感じからすると庚申さん関係なんかなぁ。
また、一つキーワードをあげておこう。タブの木だ。ここ佐婆神社さんのタブの木も実に見事で保存指定樹となっているが、どうも意図して植え祀っているのじゃないかという観がある。大庭の方にも見えたね。

神明社

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和泉町から西へ。上飯田に入って「神明社」が鎮座される。ここはもう和泉川でなくて境川の土地。勧請年代は不詳。享保年中「境川の氾濫が多かったので、この地の古社を再興し」祈願したというから古くから何かあったのだろう。元地は分からないが、周辺上飯田団地の造営に際して遷り、今は団地の鎮守として祀られている。
サバ神社に限らず、この周辺同様する社地の構え方(川に対して)というのがあるのじゃないかと思っているのだけれど、境川の氾濫に対して祀られたという伝から訪ねてみた。
ま、遷座されてるということもあってよく分からなかったけどね。御本殿覆殿がこう一段上がって構えられているのはこの辺では珍しいのじゃないか。ちなみに神社前の道は鎌倉古道だったかもしれないそうな。

飯田神社

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そこからは上飯田のサバ神社「飯田神社」へ。もともと飯田郷の総鎮守の飯田大明神であったが、同時に「鯖明神」でもあったと新編風土記にある。中世このあたりを所領した飯田氏の飯田三郎能信が延応元年に奉祭したというが、本当なら古い。こちらは境川タイプのサバ神社で、義朝公を祀る。サバ神社はまた「境の神」ではないかとも言われるが、ここ飯田神社にはその伝があるという(詳細不明)。
ところで写真ひと目でお分かりでしょうか。以前に相模の社には注連柱的に樹木が植えられるケースがままあるということを紹介したが、ここはそれが御本殿覆殿前両脇にあるのだ。
これはちょっと記憶にない。片側前に大樹とか、両前に榊というのはあるけどね。ここまで大きな樹を注連柱的に構える場合は、大概参道脇か、拝殿前である。しかも、向って左は楠(多分)で、右が杉と違えてあるのも意味ありげだ。どういう意味だろう。

ちなみにここ飯田神社はサバ神社としては下飯田の左馬神社(左写真・地図)と非常によく似た立地に鎮座されている。南の方に境川の屈曲を望むような。上下飯田で共通した理のもとに建てられているのかもしれない。
キーワードそのニ。神社境内の鐘。まだ横浜市だが、大和市に入って南部も多いという(実際多かった)。大和市北部になるとなくなるそうな。南隣の藤沢市北部の方もまま見たから、好みの範囲があるかもね。
石造物は色々あるが、庚申さんがもっとも多い。この後大和市に入ってもそう。道祖神さんはあまり見なかった(すげえのがあとで出てくるが……笑)。どんど焼きなんかは昔から盛んなようなんだけどね。

道行き

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どんど焼きと言えば、十二月八日だったので「ようかぞう」の、一つ目小僧除けの目籠とかないかと期待していたのだけれど、残念ながら見なかった。このあたりもやっていたと記録にはあるのだけれど。写真はただの鳥除けの吹き流し。
この境川を渡ると大和市。超団地地帯になっていて、境川も半ば水路である。

下和田・左馬神社

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団地地帯を抜けて、大和市下和田の「左馬神社」へ。境川から登って来た所にあるのは良いが、社地は南を向き、川の方は向いていない。
左馬頭義朝公を祀る。創建などは不詳だが、寛文十年の棟札があり、同年間の常夜燈があったという。その常夜燈には「鯖大明神」とあったそうな。いやしかしイチョウの映える季節ですな。
社殿は神楽殿が拝殿位置にあるような結構になっているが、これは昭和十五年に火災で拝殿が焼失してしまい、やむなく倉庫をこのように移築したのだそうで、もとはこの日最後に参る上和田の左馬神社と同様の宮造りであったという。
そのような事情があるとはいえ、相模でこうして御本殿覆殿を直接参拝するようになっているのは大変珍しいね。
ここも鐘。ところでここ下和田では「鯖」の方で面白い話が伝わっている。曰く、大昔江の島で鯖が大漁にあがって、それを運んで来て皆で食べたら病が蔓延してしまったので、鯖の頭を祀ったのが鯖神社なのだと云々。大和の長老たちの座談会の記録(というのがあるのだ)など読んでも「いやぁ、さすがにそりゃあねえよ」という顛末になるので、笑い話のようなものなのだろうが、昔から何で「鯖」なのかという疑問はあったということだろう。
境内の、多分かつて参道石段であったろう石。このような石段から手水鉢から庚申さんまで、椀状穿痕がたくさん見える土地でもあった。

道行き

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高座渋谷駅南を西へ。十字路に庚申さん。まー、道祖神さんポジションの置換でありましょう。庚申文化圏のバロメータ的な景色だ。
今度は引地川の土地へ。大和市はこの川沿いも福田という大きなブロックになっている。引地川沿いにはサバ神社があまりないが、藤沢市石川に一社あり、まったく連絡が切れているというわけでもない。

蓮慶寺・うばさま

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んが、今回福田地区のキモとなるのは「うばさま」伝説だ。写真の「蓮慶寺」にその像が伝わっている。まずは伝説を見てみよう。

福田開拓九人衆の一人、小林大玄の妻いと(糸)は、大酒のみで残忍な性格であった。大玄はついに、いとを捨て家を出てしまった。いとは悲しみのあまり発狂し、福田から丑寅の方向の笹薮にひそみ、道行く人や幼児を殺して食べるようになった。困り果てた村人は、桜株の根本で花見を開き、酒に毒を仕込み、いとはその酒を飲み苦しんでなくなった。
その後も、恐ろしげな妖気は漂っていた。ある時、高貴な人物(徳川家康ともいわれる)が、その場所を通りかかり、
 相模なる 福田の原の山姥は
   いつがいつまで 夫を待つらむ
と詠み、いとの霊を鎮めた。村人は鎌倉の建長寺より優婆尊尼像を勧請して堂を建て安置したという。像の左手は布のようなものを握っており、これは幼児を食べたときに剥ぎとった衣服であるとも伝えている。

『大和市の民間信仰』大和市教育委員会より引用

安達ヶ原ならぬ福田ヶ原である。そして、何とこの像が「子どもの百日咳を治してくれる姥神」になっていて、治ったらお茶を献ずるというのである。町田のこうせん婆さんの大和市版であるのだ。

こうせん塚(多摩行:町田)

曰く、お茶は毒殺されたいとの「毒消しとなる」から献ずるのだ、という話になっている。はぁー、ほぉー。良くもまぁ色々考えるものである。
しかも、伝世した木像は伝説と同じく室町期から戦国時代のものと見られ、一見脱衣婆のようなのだけれど、独特であると評されている。つまり(公的資料ははっきりとは言わないが)、先の伝説を正に表した像なのではないかと考えられるということだ。まったく驚いた話があったものである。
かつてこの「うばさま」の像を安置したお堂は先の引地川の畔にあったという。後、この蓮慶寺の門前に置かれ、今は本堂内に祀られているそうな。

優婆尊尼像(大和市公式サイト)

いずれにしても、これは咳気の婆さん・しわぶき婆さんという姥神(それは勿論「おしゃもじさま」である社宮司の神と連絡している)、その「子どもの神」が「子どもを喰う」存在ともなっている実例だ。その経路には当然鬼子母神さんなどがおるわけだけれど、なぜ「咳」と繋がるのだろうか。それが分からないと社宮司と交錯する理由を語ることができない。逆に言えば、ここにはそこを辿るための入り口があることになる。
この「うばさま」の話は、南北に長い福田の端から端へと連なる話なので、この後も出てくるが、とりあえずはこんな伝説があるということで。話は変わって蓮慶寺だが、隣接して小さなお宮があった。
山王さんだ。蓮慶寺は真言宗のお寺なのだが、山王さんとな。このすぐ横は蓮慶寺の墓地だし、別物ということはないと思うのだけれど、庚申講が盛んだとそういうこともあるんかね。
さて、この後は福田を北上して行くのだけれど、なんとも猫的一等地な日だまり屋根を確保の三毛さんなどを眺めつつ。

若宮八幡神社

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蓮慶寺から福田の地を北へ、引地川を遡ると「若宮八幡宮」が鎮座される。
今はこのような小さなお社となっているが、新編風土記には福田村の惣社と記されており、近世後期にはこのあたりが福田の中心となっていたのかもしれない(本来的には上福田・代官の田中八幡が総鎮守格)。
福田はうばさま伝説にもあった福田開拓九人衆という人たちが永正年間から拓いた土地で、今に至るもその時の九人衆の子孫が旧家として各地の顔なのだけれど、大まかには上福田(北福田)・中福田・下福田(南福田)に分れ、この若宮さんは基本的には下福田の鎮守である。創建不詳・元禄十一年再建の棟札がある、ということなのだが、それぞれの土地の鎮守は九人衆が定住した所の鎮守として勧請したものと思われ、ここもそうであっただろう。延享三年の記録のある木造仁徳天皇座像が御神体として伝世している。

脇に石造物群が。道祖神さんが見えますな。双体像もある。どちらかと言えば引地川沿いの方が道祖神さんが多いかしら。甲斐の方と繋がりのあった土地でもある。

また、ここに限らずどこも(小さな社地でも)しっかりした神楽殿を完備している土地であった。特に大和市域に独特な神楽などがあるというわけでもないのだが(上福田には文化財指定の囃子獅子舞があるが)、鎌倉にも海老名・厚木の方にもアクセスしやすく、中原街道も通り、という土地故、お祭の際は賑やかな土地の一座を呼びやすかったようだ。
サバ神社群周辺ではこうして鳥居の先、川の方を確認するのが癖になっているあたし(笑)。ここは……違う感じだね。この鳥居の先に川に向う道があるかどうかというのが大きいかもしれない。
石段に綺麗に並んだ椀状穿痕。昔は子どもらがここに座ってぽこぽこやっておったのでしょうな。

中福田神明神社

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上下福田の間となる中福田の方へと。すると引地川畔に神明公園とな。確かに向っている中福田の鎮守は神明さんなのだが、まだ少し先なのだけれど。こういうのは後々「元地でした」とかいう話になるので要チェックだ。
さらに行くと坂の登り口に神明神社入口のピカピカの碑が。むぅ、そんな大それたお社ではないはずなんだが……あとで知ったのだが、写真の通り(奧に向って登り坂)は神明坂、このあたりの谷戸は神明谷(やと)と土地で呼ぶそうな。
こんな碑があるなら川の方も?と引地川に戻って橋名を見ると……おう、「しんめいばし」であります。先の公園も元地とかなんとかいうのでなく、どうも小字が「福田神明」になる一歩手前くらいの感じらしい。

その「神明神社」さんは、このような住宅地の合間のこじんまりとしたお社。これを事前に知っていたので、土地のあれこれの標示にちょっと驚いていたのであります。
もとは福田開拓の際に上下福田が先に整い、「宙ぶらりんになっちまった」感じの中福田の人々が少し遅れて神明さんを鎮守として建てたという。細かな創建年月日などは不詳だが、そういった流れの一社である。
ともかく、いきなりこのお社に来て参っただけでは、「あら、小さな神明さんだね」くらいの感想しかなかっただろう。公園・標石・橋と見て来て「あぁ、大事な鎮守さんなんだね」という感想になるのだ。
で、この神明さんにはちょっと面白い道祖神さんがあった。写真の石祠はお稲荷さん。手前の四角柱が「どう祖神」なのだけれど、この「どう」の字はユニコードにもない。
左のような字なのだ。これで「どう」と読むのだそうな。なんだろう「径」からかね。以前都留の方で「街祖神」なる石柱が道端にあったのだけれど、こういった異体字(「道」の古字にあるそうです)の道祖神さんから間違ったのじゃなかろうか。
また、ここ神明さんは引地川の方へと道がのびていて「それっぽい」。周辺地域の川を意識した造営感覚を持った神社であるように見える。

鬼子母神・タブの木

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さらに北上すると「鬼子母神」さんがあった。詳しい由緒などは現状見ないのだが、この後の福田総鎮守格の田中八幡宮は上飯田の本興寺(日蓮宗)によって再興されたというので、その関係で祀られているのだと思われる。
うばさま伝説の浸透度からして、この鬼子母神さんがそれを意識せずにあるとは思えない。「鬼」の一画目の点が取られてますな。角が消えた、ということなのだろう。
山姥鬼婆的なモノと咳の神、さらに「おしゃもじさん」の混合というのは、ここ福田のうばさまに限った話ではない。南南西に下って茅ケ崎の芹沢のあたりの話だが、咳の神ギャーギ婆さんと鬼子母神さんとおしゃもじさんが並んでどれがどれやらとなっている例も見つけている。
鬼子母神さんから田中八幡さんへの途中に大きなタブの木が。写真の道が丘上に、右の方には川へと下る道があって木はその間の単なる土地の斜面に生えている。
しかし、大和市指定の天然記念物(記第一号)であり、解説の看板も立てられている。これが樹齢は500年ほどだそうで、九人衆が入った時期と一致している。この後の八幡宮と関係あるかもしれない。

田中八幡宮

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そしてその「田中八幡宮」。福田開拓九人衆筆頭の代官・保田筑後守の所領は福田の中にあっても別格で単独で「代官」という地区となっているが、この丑寅鬼門の守護として勧請された八幡である。
もとは「地元のもんにしか通じねぇ」八幡山という所にあり、下って平地の田の中に下ろされたので田中八幡というようになったそうな。今は住宅ばかりだが、昔は延々田んぼで、遠くからも目立つ田の中の杜であったそうな。その元地の八幡山というのが先のタブの木の上の丘だと思うんだけどね。今は八幡山公園がある。それで、タブの木も鬼子母神さんもこの八幡宮関連物件ではないかと思うのだけれど。
また、ここは明治の神仏分離令時の面白い痕跡がある。本社殿に向って右手の社地の隅にひっそりとお堂があり、これを「正八幡大菩薩」という。田中八幡宮は文化財指定にもなっている応神天皇の木造騎馬像が御神体なのだけれど、先に述べたように日蓮宗・本興寺による再興ということもあって、神仏混合の度合いが強く、分離令後もこうして八幡大菩薩が祀られたのだ。
で、これを一名「坊主八幡」と呼ぶそうな。そのままである(笑)。なかなかこういった「実物」が残っている所もないだろう。

御嶽山神社

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そこから上福田へ。途中地図上「御嶽山神社」なるものが見えていたので寄ろうと思っていたら、アラ、あやしの塚山が。写真右側塚向こうは急峻に落ちて引地川で、左側道路の向こうは広大な厚木基地。

おや、なんだろうねと思ったらここが「御嶽山神社」そのものでした。しかも「みたけ」ではなく「おんたけ」の方だったのだ(木曽の御嶽山)。
あたしは境川の下の方(藤沢市西俣野)で、今にして思えば川を意識した造営だったなぁ、という御嶽(みたけ)さんに参っているのだが、同様のものがこちらにもあるのかね、と思ってこの引地川脇の御嶽山神社を目指していたのだけれどあにはからんや。
慶応元年に土地の人が木曽を信仰して御嶽(おんたけ)講が組織されて、明治十一年にこの塚山が築かれたのだそうな。今の倍の高さがあったといい、藤沢の方まで講員のある結構大きな講であったらしい。今は、前が公園となっていて、そこでどんど焼きが行なわれるくらいだそうな。
その先には今度は「猪山公園」なる塚があった。あとで色々調べてみても「昔、猪がいた」くらいの解説である。ていうか、公園といってもこれだけでベンチも何もない。どのヘンが「公園」なのかすら疑問である(笑)。
なんでこんな塚を造ったんだろうね。んが、実は境川の方を式内:深見神社の方へと向うと、川の堤と塚の問題が出てくるのだけれど、もしかしたら気の長いスペアをとるかもしれない。また、常陸出島に「シシ土手」なるものもあったね。あれは川は関係なかったか。

道祖神

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猪山公園から日本飛行機を見つつ東に転じ、引地川を渡ると上福田でも端となる所に出るのだが、今は引地台公園といって野球場などある丘を昔は「うばやま」といった。うばさまのうばやまである(後述)。これはひとまず置いておき、その麓に大和霊苑があるのだが、入り口に道祖神さんやら庚申さんやらが。で、お分かりだろうか。
道祖神さん自体はオーソドックスな双体像というだけなのだが、なんとオドロキの角(つの)状の注連縄飾りの藁祠なのだ。いやー、あるもんだね。
【これまでのあらすじ】
茨城県取手市(昔藤代町)の椚木の鹿島神社でおったまげたのが去年の六月(左写真)。
これがどうも道祖神さん系のものなんじゃないかと甲府の方の例を見つけたのが今年の九月。

甲府市塚原町の「おちょうや」
 (webサイト「とびだせ!市民レポーター」)

『甲府市史』にはもっと先の椚木の鹿島さんのように立派な「角」の飾りの写真がある。
そして、ついに地元神奈川県は大和市福田で間違いなく同様の発想であろう角状の注連縄飾りを持つ道祖神さんの藁祠を見つけたってなわけなのです。「あひゃひゃひゃひゃ!」とか通報されそうなオヤジになってしまうのも宜なるかな(笑)。
しかも、この上福田は、開拓九人衆の山下一族が広がった土地なのだけれど、その山下氏は「甲斐からやって来た」というのだ。むふふふふ。

福田神社

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上福田に広がった柴田・山下一族の氏神となる鎮守がここ「福田神社」。「うばやま」の南東側斜面に鎮座される。
もともとここにはお社はなく、明治に上福田の北側の柴田氏の氏神・日枝神社と南側山下の氏神子之社が合祀する際、新たに社地を設けて創建された。
この日枝神社(山王社)を氏神としていた柴田という一族は、福田開拓九人衆の時代より少しあとにやって来て、うばさま伝説の行方をくらませてしまった小林大玄の屋敷跡に住んだのだそうな。うばやまとはこのように、うばさまである〝いと〟がもと暮らしていた地故にそういう。
どうもこのうばさま伝説は、土地のお伽噺というには妙にリアルな側面を伝えるのですな。しかし、柴田一族の住んでいた場所は日本飛行機のあるあたりだそうだが、厚木基地の騒音で住めなくなってしまい、結局皆移住することになってしまったそうな。
一方の子之社は山下(小字)の山下一族の氏神であって、山下とは福田開拓九人衆の一人である。話せば長くなるので端折るが、この合祀も色々あり、現在の福田神社はかなり気を使って折衷した話の伝わる社でもある。
土地は山下氏のもので、社殿は日枝神社のものをベースにし、境内の樹々は双方の元社地から移し、何と写真の石段も山王・子之社双方の石段を公平に再利用する形で造営されたのだという。そういう合祀の顛末というのもあるのですな。
なお、山下氏の守護だった子之社(大黒・大国主命を祀る)の社宝として鰐口が伝わるが、これは要チェックだ。天文十四年の年号があり、「松木子大明神」とある。松木というのはこのあたりの古地名「松木ヶ谷」。すなわち十六世紀中葉には「子大明神」の信仰があったことを示している。これはこの福田の話に限らず、関東に多く見られる子神社一般のことを考える際にも参照される物証だろう。

金毘羅神社

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福田の地をあとにしまして、上和田の小田急桜ヶ丘駅の方へ。駅を越えて東に行くと「金毘羅神社」が鎮座される。
ここは古い社ということではなく、天保の頃上和田の某家が四国の金毘羅さんを信仰し、屋敷に祀っていた個人的なものだった。
当時このあたりはそもそも人家もまばらな土地だったのだ。明治になって人が増えていき、鎮守のお社が欲しい、ということになったので、その個人宅の金毘羅さんが遷され鎮守とされたのだそうな。なので「御祭神:金山彦命」とかなのだけれど、特に古い時代の動向とは関係ない。

で、ですな。「人家もまばら」だったのはここが「桜株」であったことにもよるのじゃないかという。小田急の駅以降、桜ヶ丘というようになる前は桜株といった。例のいとが毒殺されたという花見の行なわれた所である。いと亡きあと「妖気が漂っていた」という土地はここなのだ。
金毘羅神社のすぐ南には中原街道(県道45号線)が通っており、家康ともされる鎮魂の歌を詠んだ「中原街道をやって来た高貴な人」の話そのままの立地だ。それが意味するものはこれから考えるのだが、ともあれ伝説に出てくる地は廻ったことになるだろう。

上和田左馬神社

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ちなみに中原街道というのは先々重要となるかもしれない。平塚の中原(下っては大磯高麗)から丸子─虎ノ門を繋ぎ、相模─南武蔵をまっすぐ往来する道。古代からあったというが、後北条氏が重視して直線路として整備した(狼煙を上げて道を通したという)。近世は将軍家がこの道を通って相模に鷹狩りなどをしに来たので「鷹匠橋」なる橋が経路にまま見えたりする。この間紹介した平塚真土は終点に近い経路で、そこにも鷹匠橋があった。東海道が大名行列の関係で庶民には不便な所もあり、中原街道が良く用いられたという。
先の桜株の話は、そういった「天下の往来」を貴人がやって来て「境」である桜株のうばさまの霊を鎮魂したという舞台まわりなのだ。そんなことをつらつらと考えつつ、その中原街道を東北東へ進んで上和田のサバ神社へと向ったのであります。

桜株からの台地の端、境川へと下る縁に「左馬神社」は鎮座される。名のとおり、左馬頭義朝公を祀るが、ここも創建時という宝暦十四年には「鯖明神社」と書かれている。ここから境川を渡った先の横浜市瀬谷区の左馬神社(地図)が、実は義朝公を祀った「左馬」神社の最初ではないかと考えられるのだが、上和田はそこからもっとも近く、早い段階で「左馬」化していた可能性もある(文化十三年には左馬大明神と記される)。
そのようなわけでサバ─左馬の関係を考える上でも重要なのがここ上和田の左馬神社なのだが、ここは遷座されているので注意が必要だ。昔は一キロ近くも南になる、城山(大和南高校のあたり)という小字の地に鎮座されていたという。
飯田神社や俣野の方の社は遷座の過程が勘案されるのだが、なぜかサバ神社を論じるあれこれを見てもここ上和田はそれが勘案されていない。こう、御本殿を見てもねぇ。こりゃ神明さんなんじゃないかという……
境内社には三社殿なるお社があった。天照皇大神・神武天皇・須佐之男命が祀られている。このお社が元桜株にお祀りされてたというのだけれど、じゃあこちら桜ヶ丘の鎮守さんにしたら良かったような?タイミングか?
そしてまたタブの木。御神木としては拝殿前のイチョウに注連縄がされていたが、こちらのタブの木も根本フェンスで囲われていて、保存樹なのだろう(市指定天然記念物とかではない)。いずれにしてもこうタブの大木がある土地なのだ。
そして鐘。上和田の雨乞いは、軽度の日照りなら大山さんに水をもらいに行ったというが、よりひどくなるとこの鐘(のオリジナルは供出されたので先代だが)を境川へ運んでいって水につけたという。大山へ行ったというのは「自転車で」などとあるので、そのくらい最近までそうしていたのですな。
で、これもシリアスな話ばかりかというのでもなく、だんだんと「雨乞いの頻度が増えていった」のだそうな。なんとなれば、雨乞いをして雨が降ると、その日一日は「おしめり正月」といって農作業の休みになったのだという。昼から酒呑んでゴロゴロできたので、だんだんそのおしめり正月目当てで、何かと言っては雨乞いをしたりしたのだそうな。雨乞いというと乾涸びちゃった村人が必死に……というシーンがすぐ描かれるが(勿論そういった深刻な日照りもあったが)、実はこんな村里の平常運転の一部でもあったのだ。

また、上和田の雨乞いに関して二つばかりメモしておこう。まず、大山へもらいにいった水は、やはり途中で休んではならず、止まらずに村まで持ち帰らねばならないとされていた。途中で休むと「そこに雨が降ってしまう」とされたそうな。やはり、この理は広くあったのだろう。
そして、境川に鐘をつける次第だが、これは「神さまを怒らせて雨を降らせる」という理屈として了解されていたようだ。こう見るとサバ神社はやはり水神的である。あたしはこの件に関しては、本来鐘が竜蛇の形象であり、水につけるのは怒らせるのではなくて神威を強勢にする意味だったろうと考えているが、上和田では「怒らせる」と了解されていたわけだ(まぁ、基本どこもそうだが)。
さて、そんな所でこの日の目標は概ねクリア。あとはおまけを挟んでちょっと地形的なことなど。おまけその一。お賽銭箱の脇のみかん。「これは神さまの分」というようなことを自然に婆ちゃんたちはする。
おまけその二。先代の狛様発見。
おまけその三。不思議な庚申さん(写真右の二ヶ)。立方体?重しのような?大和市の石造物資料でも「その他」扱いなので、なんという様式なのか分からない。後ろには石臼も見えている。
おまけその四。さらに庚申さんファン(?)の方向け。下部の三猿が実に深々と彫刻されていて素晴らしい。

おわり

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左馬神社さんの北側程なくに中原街道が通っていて、写真の下ったところで境川を渡っている。サバ神社というのは概ねこのような境川・和泉川・引地川から一段上った所に鎮座されるのだと繰り返した。
川向こうから上和田左馬神社さんのある高台を見るとこんな。住宅の背後に樹々が並んでいるが、樹々というよりそれが長く連なる高台そのもである。

このような土地を川─平地─高台斜面─高台上、と帯状に切り取った感じが一家の土地であり、この地域の信仰空間の最小単位だったと考えて良い。平地(川は蛇行していた)に田畑、丘との境に住居、高台斜面に山林(里山にあたる)と並び、この帯内の山林から切り出された木材で住居も造られた。というよりその「帯内の山林から切り出された木材で造った家でなければ安心して暮らせないものだった」という。現代になって今風に建て替える際も、できる限り古い家屋の木材を活かして使ってもらえるようにしたものだという(『大和市史 8(下) 別編 民俗』)。イエとはそういうものなのだ。
そして、その高台斜面中程から高台上に墓地が構えられ、あるいは氏神さんが祀られた。このような高台から平地へ、そして川へという連絡を良くわきまえておかねばならない。サバ神社群も、その造営感覚の基本にはこの土地感覚がある。今小田急が通り、開けている高台の連なりの上が、元来の異界であり境であったのだ。

サバ神社を追う行程もすでに十二社中十一社を巡った。残るは先にちょっと述べた「左馬」の根本社と見られる瀬谷の一社のみである。しかし、サバ神社の解題はおそらくサバ神社群だけ調べてもよく分からない。今述べたように、この地域の根本的な土地感覚が反映されていると見られ、同地域他の鎮守の有り様ともよくよく見比べていかないといけないだろう。
すでに、式内の大庭神社や深見神社の古い時代の造営にその傾向が見えることも少し指摘した。サバ神社は名前が珍しいマニアックな神社群、というだけの存在ではない。おそらく、この解題は引地・境・和泉の三河川の流域の根本を扱うことになるのだと思っている。

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高座行:大和 2012.12.08

惰竜抄: