高座行:大和
庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.12.08
あさぼらけ〜、あさぼらけ〜、ある日せっせと宮参り〜……あたくし昨日は神奈川県大和市周辺に行っとりました。相州サバ神社巡りの続きでもありますな。 ▶前回「高座・鎌倉行:藤沢・横浜」 もっとも、今は寒川町だけとなってしまった高座(昔は〝たかくら〟)郡も、かつては相模川東側海から多摩手前までずっと高座郡だったわけでありまして、また違った高座行が間にもありますが、このシリーズは境川を中心に海から北上して行く行程、ということで。 スタートは相鉄いずみ野線いずみ中央駅から。横浜市じゃん、鎌倉郡じゃん、という感じですが、サバ神社群ということで。高座郡ぽい(?)所なのです。ちなみに横浜市泉区というのは昭和61年にできた区で、新しい地区。今回辿った部分の和泉町および上飯田町は、戸塚区の内であった。故に『神奈川県神社誌』にも「泉区」なんぞという区分はないわけなのだけれど、「ないじゃん!」とあせってはいけない(笑)。 |
佐婆神社
相州サバ神社群
では、久々なので「サバ神社」に関する基本的な解説を少ししておこう。相州サバ神社といって、境川・和泉川の流域にこの名の神社が点在している。左馬・佐婆・佐波・鯖などと書かれる。近世はこのうち七社を巡る「七サバ参り」ということが行なわれていた。サバ神社自体はもっとたくさんあり、現在も十二社が数えられるが、このうち七社を廻った(どの社を数えるかは地域による)。
近世以降はサバ神社とは左馬頭の源義朝公(ないし満仲公)を祀った神社である、という了解であり、かつてこの地域が義朝公の所領だったから云々ということになっているが、概ねこれは「さば」の音からの付会だろうと考えられている。しかし、では本来何の社だったのかというと未だ定説がない。 大概のサバ神社は「鯖大明神」だったので、鯖を供える信仰に由来するのだろうとか、サバとはサワ(沢)からの転訛で水神信仰だろうとか、田の神の「サンバイ信仰」からだろうとか、産飯(さば・献じる飯の上部を少し取り分けたもの)からだろうとか、諸説紛々である。 このサバ神社とは何ぞやということを考えるために、あたしも藤沢の方から順に参っておるのですな。今は、なんとなく分かって来たけど、とりあえず全部参って話はそれから、という感じの状況。 |
佐婆神社2
神明社
飯田神社
道行き
下和田・左馬神社
道行き
蓮慶寺・うばさま
んが、今回福田地区のキモとなるのは「うばさま」伝説だ。写真の「蓮慶寺」にその像が伝わっている。まずは伝説を見てみよう。 |
福田開拓九人衆の一人、小林大玄の妻いと(糸)は、大酒のみで残忍な性格であった。大玄はついに、いとを捨て家を出てしまった。いとは悲しみのあまり発狂し、福田から丑寅の方向の笹薮にひそみ、道行く人や幼児を殺して食べるようになった。困り果てた村人は、桜株の根本で花見を開き、酒に毒を仕込み、いとはその酒を飲み苦しんでなくなった。
その後も、恐ろしげな妖気は漂っていた。ある時、高貴な人物(徳川家康ともいわれる)が、その場所を通りかかり、
相模なる 福田の原の山姥は
いつがいつまで 夫を待つらむ
と詠み、いとの霊を鎮めた。村人は鎌倉の建長寺より優婆尊尼像を勧請して堂を建て安置したという。像の左手は布のようなものを握っており、これは幼児を食べたときに剥ぎとった衣服であるとも伝えている。
安達ヶ原ならぬ福田ヶ原である。そして、何とこの像が「子どもの百日咳を治してくれる姥神」になっていて、治ったらお茶を献ずるというのである。町田のこうせん婆さんの大和市版であるのだ。
▶こうせん塚(多摩行:町田) 曰く、お茶は毒殺されたいとの「毒消しとなる」から献ずるのだ、という話になっている。はぁー、ほぉー。良くもまぁ色々考えるものである。 しかも、伝世した木像は伝説と同じく室町期から戦国時代のものと見られ、一見脱衣婆のようなのだけれど、独特であると評されている。つまり(公的資料ははっきりとは言わないが)、先の伝説を正に表した像なのではないかと考えられるということだ。まったく驚いた話があったものである。 |
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かつてこの「うばさま」の像を安置したお堂は先の引地川の畔にあったという。後、この蓮慶寺の門前に置かれ、今は本堂内に祀られているそうな。
▶優婆尊尼像(大和市公式サイト) いずれにしても、これは咳気の婆さん・しわぶき婆さんという姥神(それは勿論「おしゃもじさま」である社宮司の神と連絡している)、その「子どもの神」が「子どもを喰う」存在ともなっている実例だ。その経路には当然鬼子母神さんなどがおるわけだけれど、なぜ「咳」と繋がるのだろうか。それが分からないと社宮司と交錯する理由を語ることができない。逆に言えば、ここにはそこを辿るための入り口があることになる。 |
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この「うばさま」の話は、南北に長い福田の端から端へと連なる話なので、この後も出てくるが、とりあえずはこんな伝説があるということで。話は変わって蓮慶寺だが、隣接して小さなお宮があった。 | |
山王さんだ。蓮慶寺は真言宗のお寺なのだが、山王さんとな。このすぐ横は蓮慶寺の墓地だし、別物ということはないと思うのだけれど、庚申講が盛んだとそういうこともあるんかね。 | |
さて、この後は福田を北上して行くのだけれど、なんとも猫的一等地な日だまり屋根を確保の三毛さんなどを眺めつつ。 |
若宮八幡神社
中福田神明神社
鬼子母神・タブの木
田中八幡宮
御嶽山神社
道祖神
猪山公園から日本飛行機を見つつ東に転じ、引地川を渡ると上福田でも端となる所に出るのだが、今は引地台公園といって野球場などある丘を昔は「うばやま」といった。うばさまのうばやまである(後述)。これはひとまず置いておき、その麓に大和霊苑があるのだが、入り口に道祖神さんやら庚申さんやらが。で、お分かりだろうか。 | |
道祖神さん自体はオーソドックスな双体像というだけなのだが、なんとオドロキの角(つの)状の注連縄飾りの藁祠なのだ。いやー、あるもんだね。 | |
【これまでのあらすじ】 茨城県取手市(昔藤代町)の椚木の鹿島神社でおったまげたのが去年の六月(左写真)。 これがどうも道祖神さん系のものなんじゃないかと甲府の方の例を見つけたのが今年の九月。 ▶甲府市塚原町の「おちょうや」 (webサイト「とびだせ!市民レポーター」) 『甲府市史』にはもっと先の椚木の鹿島さんのように立派な「角」の飾りの写真がある。 そして、ついに地元神奈川県は大和市福田で間違いなく同様の発想であろう角状の注連縄飾りを持つ道祖神さんの藁祠を見つけたってなわけなのです。「あひゃひゃひゃひゃ!」とか通報されそうなオヤジになってしまうのも宜なるかな(笑)。 しかも、この上福田は、開拓九人衆の山下一族が広がった土地なのだけれど、その山下氏は「甲斐からやって来た」というのだ。むふふふふ。 |
福田神社
金毘羅神社
上和田左馬神社
ちなみに中原街道というのは先々重要となるかもしれない。平塚の中原(下っては大磯高麗)から丸子─虎ノ門を繋ぎ、相模─南武蔵をまっすぐ往来する道。古代からあったというが、後北条氏が重視して直線路として整備した(狼煙を上げて道を通したという)。近世は将軍家がこの道を通って相模に鷹狩りなどをしに来たので「鷹匠橋」なる橋が経路にまま見えたりする。この間紹介した平塚真土は終点に近い経路で、そこにも鷹匠橋があった。東海道が大名行列の関係で庶民には不便な所もあり、中原街道が良く用いられたという。 先の桜株の話は、そういった「天下の往来」を貴人がやって来て「境」である桜株のうばさまの霊を鎮魂したという舞台まわりなのだ。そんなことをつらつらと考えつつ、その中原街道を東北東へ進んで上和田のサバ神社へと向ったのであります。 |
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桜株からの台地の端、境川へと下る縁に「左馬神社」は鎮座される。名のとおり、左馬頭義朝公を祀るが、ここも創建時という宝暦十四年には「鯖明神社」と書かれている。ここから境川を渡った先の横浜市瀬谷区の左馬神社(地図)が、実は義朝公を祀った「左馬」神社の最初ではないかと考えられるのだが、上和田はそこからもっとも近く、早い段階で「左馬」化していた可能性もある(文化十三年には左馬大明神と記される)。 | |
そのようなわけでサバ─左馬の関係を考える上でも重要なのがここ上和田の左馬神社なのだが、ここは遷座されているので注意が必要だ。昔は一キロ近くも南になる、城山(大和南高校のあたり)という小字の地に鎮座されていたという。 | |
飯田神社や俣野の方の社は遷座の過程が勘案されるのだが、なぜかサバ神社を論じるあれこれを見てもここ上和田はそれが勘案されていない。こう、御本殿を見てもねぇ。こりゃ神明さんなんじゃないかという…… | |
境内社には三社殿なるお社があった。天照皇大神・神武天皇・須佐之男命が祀られている。このお社が元桜株にお祀りされてたというのだけれど、じゃあこちら桜ヶ丘の鎮守さんにしたら良かったような?タイミングか? | |
そしてまたタブの木。御神木としては拝殿前のイチョウに注連縄がされていたが、こちらのタブの木も根本フェンスで囲われていて、保存樹なのだろう(市指定天然記念物とかではない)。いずれにしてもこうタブの大木がある土地なのだ。 | |
そして鐘。上和田の雨乞いは、軽度の日照りなら大山さんに水をもらいに行ったというが、よりひどくなるとこの鐘(のオリジナルは供出されたので先代だが)を境川へ運んでいって水につけたという。大山へ行ったというのは「自転車で」などとあるので、そのくらい最近までそうしていたのですな。 で、これもシリアスな話ばかりかというのでもなく、だんだんと「雨乞いの頻度が増えていった」のだそうな。なんとなれば、雨乞いをして雨が降ると、その日一日は「おしめり正月」といって農作業の休みになったのだという。昼から酒呑んでゴロゴロできたので、だんだんそのおしめり正月目当てで、何かと言っては雨乞いをしたりしたのだそうな。雨乞いというと乾涸びちゃった村人が必死に……というシーンがすぐ描かれるが(勿論そういった深刻な日照りもあったが)、実はこんな村里の平常運転の一部でもあったのだ。 また、上和田の雨乞いに関して二つばかりメモしておこう。まず、大山へもらいにいった水は、やはり途中で休んではならず、止まらずに村まで持ち帰らねばならないとされていた。途中で休むと「そこに雨が降ってしまう」とされたそうな。やはり、この理は広くあったのだろう。 そして、境川に鐘をつける次第だが、これは「神さまを怒らせて雨を降らせる」という理屈として了解されていたようだ。こう見るとサバ神社はやはり水神的である。あたしはこの件に関しては、本来鐘が竜蛇の形象であり、水につけるのは怒らせるのではなくて神威を強勢にする意味だったろうと考えているが、上和田では「怒らせる」と了解されていたわけだ(まぁ、基本どこもそうだが)。 |
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さて、そんな所でこの日の目標は概ねクリア。あとはおまけを挟んでちょっと地形的なことなど。おまけその一。お賽銭箱の脇のみかん。「これは神さまの分」というようなことを自然に婆ちゃんたちはする。 | |
おまけその二。先代の狛様発見。 | |
おまけその三。不思議な庚申さん(写真右の二ヶ)。立方体?重しのような?大和市の石造物資料でも「その他」扱いなので、なんという様式なのか分からない。後ろには石臼も見えている。 | |
おまけその四。さらに庚申さんファン(?)の方向け。下部の三猿が実に深々と彫刻されていて素晴らしい。 |
おわり
高座行:大和 2012.12.08