多摩行:町田

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.10.20

はたして本当に東京都なのか、神奈川県なんじゃないのか、いや、マテマテ結論を急いじゃイカン、実は……とミクロ百家争鳴時代が訪れている土地、町田。この日はその町田市へと神社巡りに行ってまいりましたのでその模様を。
実際のところ昔から胡乱と言うか線引きもまちまちでして、現在の境である「境川」がその名となって境界とされたのは江戸幕府の成立に併せてである。それ以前一時期は多摩川の方まで相模だったという人もいる。逆に近代になる際も一時期三多摩地方が神奈川に編入されたりもした。このあたりを武相・相武(そうぶ)と言ったりもするが、古代律令制前、相模國成立前は、相武(さがむ)國があったという。ともかく歴史的に繋がりを持ってきた地域ということでありますな。

札次神社

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そんな町田へ。今回は北から突撃でありまして、小田急多摩線から京王相模原線に乗り継いで多摩境駅で下車。ザ・ベッドタウンという風情であります。「多摩境」というくらいですので町田市と八王子市・多摩市の境が入り組んでおる所であります。

その多摩境駅の丘から下りてすぐの所に「札次神社」さんが鎮座されている。「ふだつぐ」と『東京都神社名鑑』には振られているが、『町田市史』には「札次(ふだつぎ)大明神」のルビがある。
地元の方によると「ふだつぎ」が正しいようだ。もっともこの名の意味は分からないのだけれど。ともかくその実態は鹿島神社なのであります。武甕槌命を御祭神とし、鹿島神宮より直接勧請されたという伝(時期などは不詳)。
ギョロリと目力大の龍どの。境川流域で鹿島といったら、「高座行:相模原」で参った、ここより下った相模原市側の三鹿島だ(神奈川県相模原市)。そことの関係やいかに、という点がまず気にかかる。

▶高座行:相模原
拝殿側面にはよく社殿新造の折寄に付を行なった氏子の方々の名札があるが、これまたスゴイ一覧ですな。扉以外一面に。

蚕種石

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また、ここは境内に「蚕種石(こだねいし・子種石)」という石が据えられており、これが興味深い(注連縄のまわしてある石)。
写真は後ろから。もう一つ似たような石もあった。どうも町田市内にいくつかの「こだね石」があるようで、養蚕と結びついているのが特徴だ。ここより西側の相原町のその名も蚕種谷戸という所では次のようだという。

近年まで、このあたりで蚕の守り神として崇められていたもので、石のかたわらにある桑の大木の嫰葉(わかば)を摘んで毛蚕にあたえ、養蚕の良くできるよう願うならわしだったといい伝え、そして八十八夜ころになると、この石は、いつの間にか緑色に色変わりして、人々に「蚕のはきたて」の準備にかかる時季を知らせてくれたと伝えられる。

『町田市史・下巻』より引用

色が変わるというのが面白いですな。また、「繭の形をした大石」とあるので、そういう認識であるらしい。「相模原行」の相模原市の皇武神社のおきぬさま・蚕守神の石碑の下にも言われてみればそのような石があったが(左写真)、同様するものかもしれない。

「子種石」とも書かれてるように、子のできぬ嫁がこの石をなでると云々という性神信仰の方へも連絡しているそうな。養蚕と子安か。境川の養蚕には弁天さんが係ってくることが問題の中心にあるのだけれど、こだね石も見逃せないですな。

さて、一方のこの札次神社の蚕種石に関しては、神社そのものの創建に関係するかもしれない伝がある。地元の伝では、弘治年間に島崎某という武将が常陸國行方の島崎から来て小山の地に土着したという。その島崎氏が行方から子孫繁栄を願う「子種石」として持ち込んだのがこの石だというのだ。

▶「札次神社
 (webサイト「The Life with Steels」)

もとは別の場所にあったというものの、この話は極めて示唆的である。行方は性神信仰が盛んではある(あった)が、このような石をごろんと転がしてどうこうという信仰はない。また、「蚕種石」という存在からして甲斐から武相に分布するものである(上野原・八王子など)。そうなると、札次神社(鹿島神社)の創建そのものが島崎氏の来住によるのではないか。

で、この社が水神的な祀られ方をした下流相模原の方の三鹿島と関係するかどうかという点だが、社そのものは境川から離れすぎているように見える。んが、社頭からのびる道をずっと行ってみると200mほどの所に札次神社の標柱があった。かつては参道がここまであったのだろう。神社前の道がまっすぐのびていたら(現在参道でなくても)、辿ってみるのが良い。かつて参道であったことを示す何かがあることがある。それはかつての神社の規模を示すものかもしれない。
こうなってくると、かなり境川に近くなり、川を意識した神社なんではないかとも思えてくるわけだ。ただし、三鹿島が川直近に川に背・側面を向けて造営されていたらしいことを思うと感覚が違う気もする。札次神社はむしろ、もっと下流のサバ神社群の造営感覚に近い気がする。

道行き

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札次神社さんを後に行く道に。境川に棲む生き物たちの写真がずらっと。なんとな、イタチがおるのか境川。

天縛皇神社

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そして境川を渡っちゃいまして、神奈川県相模原市になるのだけれど、ちょっと寄り道。ここに「天縛皇神社」という物凄いお名前の神社があるのであります。
天縛(てんばく)は天白(てんぱく)信仰のお社だったということでしょうな(帝釈天を祀っていたそうな。今は諾冉神を祀る)。天照皇大神を主神とした「足穂神社」を合祀されたので皇神社と付いたのだろう。
「天白信仰」(wikipedia)

その内容などは伝わらないようだが天白信仰の分布を示す神社ではある。甲斐の方からかなぁ。相模の南から北上という分布は今の所まったく見えない。

ちなみに合祀された足穂(たるほ)神社の方。御祭神は他に神呂岐命・大山昨命だったというのだが、神呂岐命というのは珍しいのじゃないか。今も天縛皇神社の祭神五柱の中に祀られている。

ところで、先の札次神社さんのある方は小山町といい、こちら相模原市の天縛皇神社さんのほうは今、宮下本町という土地なのだけれど、相模原の方も昔はこのあたり小山村といった。「境川」で別れているように見えて実は連続した文物が多ございますのがこのあたりなので、そのあたりの注意が必要だ。
例えば天縛皇神社さんの社地の端の外に地神塔があるが(写真右奥が鳥居)、社頭近辺に地神塔を置くというのが土地のスタイルのようで、相模原側から小野路の方までこの後見ていくことになる。

縁切り橋

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境川に戻って河岸の柳。幽霊ポジション(笑)から見上げると大きい柳はこう見える。

天縛皇神社さんからもう少し上流に遡ると、蓬莱橋という橋がある。別に大井川のように木橋が架かっているとかじゃなくて普通の橋なので行きはしないが、そこは「縁切り橋」だった。『境川流域民俗調査報告書』町田市立博物館・相模原市立博物館より引いてみよう。

また、ある時、嫁入り行列があったが嫁の姿が見えなくなり、それからは精進橋(現在の蓬莱橋の横にあった木橋)は嫁入りの時に通ってはいけない橋となり、架け替えて蓬莱橋となっても嫁入りの時にはこの橋を通るのを嫌う気持ちがあるという。

『境川流域民俗調査報告書』(町田・相模原市立博物館)より引用

この一文を目にするまで迂闊にも気がつかなかったのだが、これは葬儀の際の野辺送りの葬列から遺体が消える(竜蛇・化猫などに獲られる)という話とまったく同じ構造のものだ。縁切り橋とはそういうことであったのだ。縁切り橋や橋姫の伝説は「蛇クサい」と思ってあたっていたのだけれど、やはりそうだ。何が「やはりそう」なのか書き出すとエラいことになりそうなので端折るが、特に縁切り橋の伝は交換にローカライズというファクターが重なる所が興味深い。
ともかく、この蓬莱橋の上下に、境川のこのあたりには嫁入り行列の禁忌を持つ橋がずらりと並んでいたのである。先の『境川流域民俗調査報告書』が数え上げているのでマッピングしたのが左地図。
そして、面白い、ということでは下りながら見えた橋が面白い。写真は地図にもあった嫁入り行列の禁忌を持つ「大正橋」。
そのすぐ下流に同じく禁忌を持っていたという「昭和橋」がある。奥に赤く見えるのが先の大正橋ですな。こんな近い距離に同様の禁を持つ橋が並ぶのだ。しかも、昭和橋というからには昭和にできたのだろうが、その頃まで禁が現役であったことを示しもする。

で、昭和橋から下って行くとすぐ下手には「平成橋」があった(これは知らなかった)。平成橋には禁は語られない。当たり前といやそうだが、あたしは平成橋に立って「なるほどねぇ〜」という感じ(笑)。平成にできた橋なんだろうからさもありなん。大正橋から平成橋は、そのような禁忌の伝と時代の流れを見ることが出来る面白い所であります。

御嶽神社(小山町)

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また町田側に渡りまして、なんだかエラい立派な……道路?線路?がのびて来ている。また新しい橋も架かるのかしらね。何年かして来たら随分様変わりしてそうでありますな……と思いつつ。

そんな所に「御嶽神社」が鎮座されている。ここも小山町地区の内。日本武尊を祀る御嶽神社であります。
創建などに関する諸々の事情はよく分からない。寛文年間の検地帳に御嶽社領の除地が与えられている記録があり、『新編武蔵國風土記稿』に記録があるくらいのようだ。
しかし、周辺に見える単立のお社の多くが「御嶽神社の境外社」とされる点が目をひく。それらを考え合わせるとだいぶ影響力のあった神社であるということになりそうなのだ。この後の道行きが平末鎌初の武士団の話になっていく今回の町田行なのだが、その内の武蔵七党筆頭の横山党が八王子から境川流域に進出するのに併せて御嶽神社(当時は蔵王だったかもだが)を勧請していっている面があり、ここもそうではないかと疑われるのだ。町田側である所が重要で、覚えておきたい。

道行き

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また境川へと戻りますと三毛さんが。「にゃーお、にゃああぁーお、に゛ゃーおー!」となんだかエラい騒ぎで突進して来た。余程腹が減っているのか。
こちらは鴨さん。本当は近くの石の上で甲羅干ししていた巨大な亀を撮ろうとしたのだけれど、カメラ向けた途端にすげぇ勢いでぼちゃんと水に飛び込んでしもうた。やっぱ奴らはカメラに反応する。

御嶽神社(相模原市上矢部)

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さらに下りまして、写真左側が相模原市側なのだけれど、こんな感じに社叢がある。少し下流の古淵の鹿島神社の杜(は、もっと丘状だが)と感じがよく似てくる。これがさっき言っていた横山党絡みの御嶽神社の杜。

このあたりは上矢部といって、横山党矢部氏の所領だったのだけれど、矢部義兼によりその館の北東方鬼門の守護としてこの「御嶽神社」が造営されたという(当時は「三獄社」だったという)。
無論御祭神は日本武尊。しかし、なんで横山党が御嶽神社を据えてまわった(ないしそういう伝ができた)んかなぁ、という。横山党と青梅の武蔵御嶽神社の関係か。多摩だもの不思議ないといやそうだが、あまり考えたことがなかった。しかも「三獄社」と書いたそれが三峯を併せて意味しているのなら、秩父である。この後の行程は秩父党と横山党の話になっていくのだが、符合する。もしかしたら符合どころじゃないのか。
うーむ、うーむと、大六天さんと蚕影さん。淵野辺の方の景色と似てくる。「高座行:相模原」の淵辺氏も横山党の人。

▶高座行:相模原
こちらは別格という感じで祀られていた境内社の日枝神社。山王さんが良く祀られる土地でもある。淵辺義博が大蛇討伐の願を掛けたのも山王さんだった。このあたりも横山党とどういった関係があるのか考えにゃならんかもしらん。
鳥居脇には物凄い切株が。少し前まで木の結構も残っていたようで、二本の木が融合してあったらしい。鳥居木・夫婦木の類の切株はこんな風になるのですな。
境内には神楽殿が二棟あるようなのだけれど。タイプ違いで何か演目が異なるものがあるのかしらね。
そして、本日のステキ狛犬さんコーナー。あっはっはっは。子狛たちが間違いなくこの狛どのの血筋(?)であることが分かるお顔(明治狛)。なんか……誰かに似とるね。
ここは社頭から謎の三角エリアがあって、その先端に地神塔が据えられていた。どういう意図があるものか。

神明神社

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さあ、そこからまた境川を渡って、常盤台へと登って境川流域をあとにします。ここからは今度は小山田氏の所領。都留の方から何度となく出ていた小山田氏の本地がここなんですな。土地に入って丘上にまず「神明神社」さんが鎮座される。

小山田二郎義重による創始であると昔の社殿の木製扉の裏書きにあったそうな。伊勢の伊十鈴川(五十鈴川)に境川か鶴見川を見立てて神明社を祀ることにしたと云々。

拝殿に午後ティーと蜜柑が。随分ハイカラな。小山田氏の所領とした範囲の各社には(関係は分からないが)「ゆだま」という神事が伝わっている。四本竹に注連縄をはって、釜で湯立てをして榊の小枝で湯の雫を振る。ここ神明さんでは今も行なわれているようだ。「湯花」ともいい、かつては市内に二十社以上のこの神事を行なう社があったという(今は七社だそうな)。
壊れちゃった石造物の一群なんだけれど、亀ですな。燈籠の台座か。甲府にはこういった亀の台座の丸石道祖神さんがおると耳にしていて今から期待しておったのだけれど、先取りしてしまいましたの巻。

ところで小山田氏勧請の神明さんというのは、この場所ではなかった。近代に周辺八社合祀の上でこの場に最終的に社が来ることになったのだけれど(その中に神明さんもあったということ)、どうも当初は「山王社」としてまとまったらしい。
この社地にはもう一つの鳥居と参道があり、そちらの古い鳥居には「山王宮」の額が今も架かっている。横山党から連なって、小山田氏も山王さんを重視していたのかもしれない。

道行き

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神明さんをあとに、この丘を下ると、今度は鶴見川の上流部が拓いてきた谷戸になる。ここが小山田氏の本拠地だった。
しかし、鶴見川の上流はこんな風に暗渠化するのですな。さらに遡ると復活するのか?
(上流は復元した流れがしばらく続き、さらに上流は源流の谷戸から流れる本当の流れもある、ということです)
日当り良好の斜面に墓域と棕櫚。こういう所は丹沢の方とそう違わない。
行く道に道祖神さんとお地蔵さんが。一宇に並んでいるというのはありそうでないような。道祖神さんは四角柱で地神塔とほぼ同じである。
バス停の名が「山の端」。まぁ、そのまんまではある(実際小字が山の端)。で、これが噂の東京都町田市なのに神奈中(神奈川中央交通)バス!って奴であります(笑)。
中沢新一先生は里山はインターフェースだと言っておられた。なるほどねぇ。
バス停の小屋。今時こんなのもそうそう見ないですな。ここがこの後の大泉寺のバス停なんだけれど、昔はたくさん人が来る所だったのかしら(ちなみに夕焼けのようですがまだ昼過ぎくらいであります)。

大泉寺

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そしてその「大泉寺」。小山田有重の開基という(小山田氏そのものの話などは煩雑になるので補遺にて)。同時にここが小山田氏の居館であったという。
総門。中に小山田有重の慰霊碑及び子らの墓などがあるが、どうもちょうど葬儀が行なわれているようだったのでお邪魔せず。

小山田有重は秩父党の秩父重弘の子で、頼朝挙兵時は平家方であったが、後に頼朝に帰伏し重用された。んが、早くも子の代で頼朝なき後の北条氏に疎んじられて有重とは兄弟の系となる畠山氏共々追いやられ、離散するはめとなる。
境内には色々古めかしいものがあちらこちらと。離散後の小山田氏がその後所領したというのが甲斐郡内の都留の方(はっきりとした記録はない)。そういう流れの発端がここなのですな。

都留行:都留

上根神社

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で、大泉寺の寺領のうちに「上根神社」が鎮座される。「かさね」と読む。見た目どおり新しい神社で昭和四十六年に地域守護の五社を合祀して創建された。
小山田有重公も御祭神となっているが、いずれの社も大泉寺及び小山田氏に連なる人々の守護神であったと思われ、中でも筆頭社であった「宇都社」が気になる。御祭神は「宇津姫命」。委細は不明だ。万治三年の創立記録があるというから近世のことだが、小山田の守護神五社、という感覚は強く、それ以前の信仰を引いている可能性が高い。都留では弁天信仰を小山田氏が持ってきた、と伝えるのだが、宇津姫が水神格の姫神だったら……と思うのであります。

八石地蔵尊

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まるで話は変わるのだけれど、大泉寺さんの入り口に「八石地蔵尊」なるお地蔵さまが。ま、このお地蔵さんの由来などはともかくデスな……
その傍にはドジャーンと!どなた様でありますのかあなた様は(金精さま?)。まー、大黒さんの頭巾なんかは「そう」なんだけど、これはまたあからさまな。しかも新しいし。

小山田神社

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鶴見川に戻って少し下ると橋のたもとに。田畑の神さまか、水神さまか。

そして川端に「小山田神社」が鎮座される。この社名となったのは新しく、もとは「内の御前社」といったという。ていうかですね……蓮田?
なんと千葉市検見川遺跡(落合遺跡)から発見された二千年前の蓮の実から発芽・開花させた「大賀ハス」なんだそうな。古代蓮である。

「大賀ハス」(wikipedia)

しかも、あたしは蓮から作る織物、藕絲(ぐうし)というのを初めて知ったね。これはいつか実物を見てみたい。

「町田:大賀藕絲館」
閑話休題。小山田神社は現在天照皇大神を御祭神とするが、「内の御前社」とは、小山田有重公の夫人を祀った社であったという。しかし川っぺりに祀るかね、という気がまずする。内の御前・宇津姫、うーむ。
社殿脇にはガラスケースの中に色々伝わったものが陳列されていた。御嶽さんもあったようですな(昔このあたりを「嶽の内」といったとも)。狼・蔵王と並ぶのが武蔵御嶽。

小山田緑地公園

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小山田神社の後は、丘を越えてお隣の谷戸へ向おうという寸法であります。このあたりは「小山田緑地公園」として整備されていて、案内も完備でありますので安心。
入ってすぐにこんなお宮が。土地の人のお稲荷さんかね。それにしては立派な旗竿まで。合祀されたという各社の元地がこうして残っていたりするのじゃないかね。
緑地内は素晴らしい道行き。土質が滑りやすいものなので足回りには注意が必要だが、好天の休日散策にはうってつけ。
やはりですなぁ、こういった「直線のない視界」を定期的に見て、感覚をリセットせにゃあイカンですなぁ。

白山神社

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山林を抜けて、鶴見川に注ぐ支流の谷戸に入るとすぐに「白山神社」さんが鎮座されている。なかなかの雰囲気の石段神社さんです故に緑地公園におこしの際はぜひ、みたいな。
白山神社さん自体のことは概ね「不詳」とだけ。上根神社に合祀された社の中にも白山社があるが、それとはまた別のようだ。
なお、ここまでの小山田の土地の神明・上根・小山田(内の御前)・白山各社はみな「湯花神事を行なう」とあり、現在行なっているのが市内で七社となると、このあたりが神事の中心だったのだろうか。まあ、湯立神楽だと思えば別に物凄く特徴的なものというわけでもないが。
白山神社はこのように台地をえぐって社地が造営されている。このスルッとした削り具合がステキ(笑)。
時折見せる現代狛さんの本気。
こちらも鳥居脇に地神塔。この「四角柱感覚」が都留の方の道祖神さんが皆四角柱なのと通じるものなのかな。まさかこれは小山田氏まで遡らんだろうが、多摩から郡内を辿ってどうなるか。

道行き

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白山神社さんをあとに、小野路城址へと向う道。これどうやって出んのかね(笑)。
この西側から小野路城址へと向う道は色々見てもあまり出てこないのだけれど、近くのおっちゃんに聞いたら「通ってるよー、この道」と教えて下さった。こんなだけど……まー、大丈夫だろ(笑)。
道すがらにすげえ小屋が。炭焼き小屋ってのはこんなだったんかね。これがなんだかは分からんかったけれどね。
奥の方からはブイーンブイーンと機械音がしていたのだけれど、草刈りをなさっておる最中でした。このように標識もあって、迷うようなことはないかと(標識のない分かれ道もあったが)。

小野小町井戸

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城趾近く。このようにご夫婦で散策、という方もおられるので、小山田緑地公園ほどではないものの、割と気軽に歩いて行ける所であります。
ピークが城趾だけれど、その脇に「小野」といったらつきものの、「小野小町の井戸」がある。汲めるような設えにはなっているけれど……水が澄むときもあるんかね。
病にかかった小町がこの山に千日籠ってこの水で目を洗ったら治った、という色々混ぜこぜになったような伝。「仙人水」とも呼ばれたとあるが、いずれにしても小野路城の水源ではあっただろう。

小山田城址の八坂社

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そしてピークの「小野路城址」。今は天王さんの小さなお宮が建っている。小野路城は小山田氏の支城で、有重の次男・重義の築城と伝わる。

ちなみに、小山田に入ってすぐの神明神社さんが「次郎義重」の勧請であるとあると述べたが、『町田市史』にそうあるものの、これは小山田「重義」のことだと思われる(「次郎義重」という人は系図に見えない)。実際の「扉の裏書き」というのがどうだったのかは分からんが。
また、この天王さん(城山の天王さん、と呼ばれるようだ)には大蛇伝説がある。町田の各社に関して大変詳しいwebサイト「The Life with Steels」様より引かせていただこう。

小野路の台の田極源兵衛さんは、小山田へ行こうと思って、小町井戸のところを通った。そのとき、松の根と思っていたら、これが動いたので持っていた刃物で切った。すると、それは大きな蛇であった。どうしたことか、翌年から疫病が蔓延しだしたので、蛇の崇りと思って、城山の頂上に祠を作り、蛇を祀ったら疫病がなくなった。

『町田の民話と伝承』(町田市文化財保護審議会編)

諏訪でなく弁天でなく、天王さんを祀ったのですな。山にはヌシがいる、という発想があるわけで、このように小野路城址と城址ではあるのだけれど、この山はまた土地の信仰の地としてもあった。ピークの城址をあとに、今度はそんな所へ。

乗越八幡跡・こうせん塚

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小野路宿の方へ下る途中に二つの塚がある。片方は「乗越八幡跡」と呼ばれている。ちょうど車道(といっても農道だが)が登ってきた所に案内もあるのですぐ分かる。
八幡のお社があったのかというとよく分からない。塚そのものを「乗越(のりごえ)八幡跡」と呼んでいるきらいもある。古墳だったかもしれないというのだけれど、どうなんすかね?
読めにゃい……(TT)。

そして、そのまま先の道を行くと今度は「こうせん塚」という塚がある。こちらが興味深い。
「むかし、麦こがし(こうせん)にむせて死んだ老婆を祀ったもので、咳の病が治るよう、茶碗や竹筒に茶を入れて奉納し祈願するようになったそうです。」とある。「こうせん婆さん」なのだ。いやしかし素晴らしいですな。
また、ここは小野路城の門があって「通せん場」と呼ばれたのが変じた、ないし戦があった「交戦場」からだという説もあるそうな。堰が咳になるという話は定石ですな。んが、町田市には他にも「こうせん塚」がある。
今は塚、ではないのかな。ここよりずっと南の町田市金森の杉山神社さんに「光専神」という石塔があり、同じく「こうせん婆さん」・咳の神としてお茶などが奉納されるという(『町田市史』)。
いずれにしても落石にあって亡くなったお婆さんが疣とりの神さまになっていたり、むせて亡くなったお婆さんが咳の神になっていたりというのは広くあり、こうせん婆さんは甲斐の方からの姥神の一系「しわぶき婆さん」であるのは間違いない。
埼玉の方では「しゃぶき婆さん」などだし、沼津の方では「がいき(咳気)婆さん」である。で、宮城の方には道祖神・金精様の信仰と習合して、百日咳の子に男根を授かってきて与えるなどという風習があるのだが、「こうせん婆さん」も金精(こんせい)様との交錯ではないのか。お隣相模原の方では甲斐からの姥神と爺神がセットになって性神化している面がある。町田の方でもそのような流れの末に……と思えなくもない。ともかく「こうせん婆さん」に関して金精様との関係を指摘したものを見ないので、ちょっと強調。

アラハバキ神のこと

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小野路城址の山から下ってくると「万松寺」というお寺がある。小野路城址周辺の古道散策の起点として良く紹介されるお寺だ。

さて、ここから小野路宿に入るのだが、その前に。「龍学」が武蔵七党の動向に関して注目している理由を少しまとめておこう。はじめにその中心に来る問題をぶっちゃければ、「武蔵一宮・小野神社はアラハバキの神を祀ったのか」ということになる。あ、長広舌を振るうからといって、今回何か大発見があった、ということではないですよ?あまりにも「何でそんな所にこだわっとるのだ」という流れに見えたので、ちょっと背景を説明、というだけであります。では、以下いくつかの問題を箇条書きで。

a.)武蔵七党筆頭の横山党は八王子を拠点とする、古代の武蔵小野氏の後裔であるという。武蔵小野氏は一宮・小野神社の奉祭氏族であり、国造氏族であると思われる。ここで、横山党は祖系の武蔵小野氏を近江小野氏の小野篁の末であると仮冒した。一宮・小野神社である多摩の小野社は篁より古くに記録にあるのだから(『太政官符』)、これは明らかに仮冒である。武蔵小野はまた小野牧という官牧であったが、これも古くの記録にある。小野は地勢的特徴を指した地名より起った名であり、近江小野氏との直接の関係はないだろう。まず、この横山党が小野篁の末であると仮冒した、という点が関係各所に頻出する問題の解となるのでおさえておきたい。
b.)武蔵一宮の小野神社の御祭神には難しい問題がある。現在主となる御祭神二柱は天下春命と瀬織津姫命で、多摩川そのものの神格としたと思われる瀬織津姫命はさて置くとして、天下春命とは秩父国造の祖、思兼命の子であるとされる神である。つまり小野神社は秩父の後裔を意味していることになる。しかし『国造本紀』によれば、往古武蔵の西側(胸刺という國であったという)を治めたとされるのは、出雲臣の系である兄多毛比命(えたもひ・武蔵の東側「无邪志國」を治めたという)の弟である伊狭知直(いさち)となっている。出雲系なのだ。『国造本紀』の是非はあるが、この通りなら武蔵小野氏は伊狭知直の後裔ということになり、祀るならば出雲系の神を祀るはず、ということにはなる。一宮・小野神社にはこういった問題がある。
c.)武蔵の代表的な古社が、その境内社などに「アラハバキ」なる神を祀っている。古代二宮・二宮神社(小川大明神)の境内社にも今祀られているし、古代三宮・中世以降一宮となる氷川神社(本社)の門客人神も元アラハバキ神であったという。氷川系は特に良く祀る。しかし、このアラハバキ神が如何なる神であるのかはさっぱり要を得ない。詳細を語るとキリがないので簡単に二点を示すと、門の神として社頭・城門に祀られた一種の塞の神であるとするもの、地主の神である蛇神であるとするもの。というところが注目される。あたしの神社巡りでよく鳥居脇の道祖神さんなどを強調しているのはこの含みである(今回は地神塔だが)。そのアラハバキの神なのだけれど、前述の小川・氷川に加えて武蔵総社の大國魂神社摂社にも祀られていたとされ、何れも武蔵の古代に深くかかわる。そして古代一宮である小野神社はどうだったかというと、随神門の像がかつて氷川同様門客人神でありアラハバキ神であったとも言われるのだが、はっきりとはしない。「龍学」としてはこの蛇神かもしれないアラハバキ神の分布が中心に来るのだ。

d.)相模の式内社に愛甲郡(現・厚木市)「小野神社」がある。『新編相模国風土記稿』に(当時は「閑香明神社」だったが)「祭神下春命」とあるのがほぼ決め手で、式内小野神社に比定された(現在の御祭神は日本武尊)。そして、ここ相模小野神社の境内社に「阿羅破婆枳神」が祀られているのだ。相模小野神社が武蔵一宮小野神社の分社であるならば、既に平安中期には小野氏がここまで進出していたことになる。また、その小野氏がアラハバキ神を祀る信仰を持っていた可能性も出てくる。しかし、これは分からない。分かるのは中世になって横山党の愛甲氏が進出してきて、自らの祖の社と同じ名の神社があったので良く祀った、という所からではある。双方の小野神社が偶然同名だった、という可能性もなくはない、ということだ。もっとも武蔵と違って相模にはアラハバキを祀るという風はほとんど見られないので、相模小野神社に祀られているということが古代武蔵の動向と無関係とも思われない。

まだまだキリがないが、とりあえずこの位を俯瞰するだけでも武蔵一宮・小野神社がアラハバキ神を祀ったかどうかに関して、多摩から南下して今の神奈川県厚木市に至るルートにどの段階でどのように小野氏・横山党が進出したのかが重要となることはお分かりだろう。
また、その一宮小野神社が秩父国造祖神の天下春命を祀ることから、秩父との関係がどうあるのかも重要なのだ。町田というのは、小野氏の末の横山党と(おそらくは秩父国造末流である)秩父党の小山田氏が隣接している土地だ。

もしかしたらそこに古代を反映する何かがあるかもしれない。今回の境川から小野路への横断で見ていきたかったのは、そういう背景をもとにした何か、であったのですな。
実際ここまでの行程で、横山党の矢部氏なり淵辺氏と小山田氏はあたかも同族のように問題無く隣接地を治めており、これは小山田有重以前からこの地はそのような治め方がされていたのではないかとも疑われる。そんなことを思いつつ小野路宿へと進んだのであります。

小野神社

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さて、長広舌の果ての小野路の「小野神社」。そう、武蔵多摩・相模愛甲に次いで、もう一社ここに小野神社があるのであります。
そもそも小野路とは鎌倉から多摩の小野へと続く道故にそう言う。ここ小野路の小野神社は現在小野篁一柱を御祭神としているが、これがどういうことかは先に述べた通り。武蔵国司として赴任した小野孝泰(篁の七世孫という)が祀ったというが、実際は横山党の影響だろう。
もとは天下春命が祀られていたと伝わり、『東京都神社名鑑』には天下春命・小野篁の二柱が御祭神として掲載されている。詳しい由来などは分からない。しかし、小山田から小野路城址と見てくれば、横山党−小山田氏の流れでの創建と思われる。
そのあたりを示すかもしれないのが、逗子行のあとで騒いでいたこの鐘。「武蔵國小山田保小野路縣小野大明神宮鐘銘竝序」とあり、応永十年(1403)の年号がある。本物は廻り廻って逗子の海宝院にあり、こちらは複製だそうな。
残念ながら小野路の小野神社には相模のようにアラハバキが摂末社にあるというようなヒントもない。写真は境内社がまとまった一宇なんかな。天満宮と八坂神社と資料にはあるが。
はたして平末鎌初の武士団たちがどれだけ古代の信仰を引継いでいただろうか。横山党に秩父党の小山田氏が親しく隣接するのは偶然だろうか。まだまだ、分からぬことだらけではあるが、ひとまず問題の土地を横断したこの日でありました。

んが、実際見てあるいたという以外にもちょっと「これは?」というヒラメキもあった。三峯と武蔵御嶽というのはこの問題に大きく関わるかもしれない。まだそれを口にする気にはならんが、キーは大麻止乃豆天神社の櫛真智命だ。
小野路の小野神社の社頭にも地神塔が。はたしてこれは門客人神の末だろうか。それを見抜くにはもう少し眼力が必要なようだ。

といったところで。何の因果の町田行なのかと申しますと、その実態はついった開始当時から騒いでいたアラハバキ問題への斬り込みなのでありました。これまた何たるスロースタートっぷりという話ではある。もっともそれ以外でも多摩から甲斐郡内への小山田ルートの問題とか、養蚕信仰とか、さりげなく今後の課題が盛りだくさんだった気もするが(キノセイじゃありません)。
小野神社のあとは本当は野津田の方へ行ったりしようかとも思っていたのだけれど、このへんで「お腹いっぱい」というところだったので、「神奈中バス」に乗りまして、町田の地をあとにしたのでありました。

補遺:小野小町伝説について

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補遺:小野小町伝説について
小野路城址のすぐ脇にあった小野小町の井戸だが、こういった伝承がいつどのように、というのも重要だ。特に化粧井戸などの系統は巫女の活躍とオーバーラップしている面があるとされる。

小野路の方はその昔どう言われていたのかなどはさっぱり分からないのだが、話に出ていた相模小野神社のすぐ近くに小町神社があり(写真)、ここには十五世紀の記録がある。関白・藤原房嗣の三男・道興准后の紀行文『回国雑記』文明十八年(1486)の条に「熊野堂といへる所へ行きけるに、小野といへる里侍り。小町が出生の地にて侍るとなむ。」とあるそうで、これが厚木市の小野・小町神社付近のことなのだ。
今は小さなお社があるだけだが、かつては化粧井戸をはじめ七つの小町にまつわる古跡があったそうな(ある時の大山火事で皆焼失してしまったという)。ともかく『回国雑記』の頃にそう書かれたということはその時点で「旧跡」という感覚だったのだろう。と、なるとこれも横山党が近江小野氏の末流と仮冒した流れの一環として広められたものなんじゃないのかと思えてくる。つまり、あまり巫女の活躍などとは関係ないかもしれん、ということだ。ナニゴトも一事が万事とはいかない。
それはさておき、この相模小野神社と小町神社の関係を見ると、小野路の小町の井戸の伝も同じ枠組みでそのあたりの時代から言われていたものかもしれない。横山党周辺では小町伝説もまたこのような方向で見ていく必要があるだろう。

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多摩行:町田 2012.10.20

惰竜抄: