多摩行:町田
庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.10.20
札次神社
そんな町田へ。今回は北から突撃でありまして、小田急多摩線から京王相模原線に乗り継いで多摩境駅で下車。ザ・ベッドタウンという風情であります。「多摩境」というくらいですので町田市と八王子市・多摩市の境が入り組んでおる所であります。 | |
その多摩境駅の丘から下りてすぐの所に「札次神社」さんが鎮座されている。「ふだつぐ」と『東京都神社名鑑』には振られているが、『町田市史』には「札次(ふだつぎ)大明神」のルビがある。 | |
地元の方によると「ふだつぎ」が正しいようだ。もっともこの名の意味は分からないのだけれど。ともかくその実態は鹿島神社なのであります。武甕槌命を御祭神とし、鹿島神宮より直接勧請されたという伝(時期などは不詳)。 | |
ギョロリと目力大の龍どの。境川流域で鹿島といったら、「高座行:相模原」で参った、ここより下った相模原市側の三鹿島だ(神奈川県相模原市)。そことの関係やいかに、という点がまず気にかかる。 ▶高座行:相模原 |
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拝殿側面にはよく社殿新造の折寄に付を行なった氏子の方々の名札があるが、これまたスゴイ一覧ですな。扉以外一面に。 |
蚕種石
また、ここは境内に「蚕種石(こだねいし・子種石)」という石が据えられており、これが興味深い(注連縄のまわしてある石)。 | |
写真は後ろから。もう一つ似たような石もあった。どうも町田市内にいくつかの「こだね石」があるようで、養蚕と結びついているのが特徴だ。ここより西側の相原町のその名も蚕種谷戸という所では次のようだという。 |
近年まで、このあたりで蚕の守り神として崇められていたもので、石のかたわらにある桑の大木の嫰葉(わかば)を摘んで毛蚕にあたえ、養蚕の良くできるよう願うならわしだったといい伝え、そして八十八夜ころになると、この石は、いつの間にか緑色に色変わりして、人々に「蚕のはきたて」の準備にかかる時季を知らせてくれたと伝えられる。
色が変わるというのが面白いですな。また、「繭の形をした大石」とあるので、そういう認識であるらしい。「相模原行」の相模原市の皇武神社のおきぬさま・蚕守神の石碑の下にも言われてみればそのような石があったが(左写真)、同様するものかもしれない。
「子種石」とも書かれてるように、子のできぬ嫁がこの石をなでると云々という性神信仰の方へも連絡しているそうな。養蚕と子安か。境川の養蚕には弁天さんが係ってくることが問題の中心にあるのだけれど、こだね石も見逃せないですな。 さて、一方のこの札次神社の蚕種石に関しては、神社そのものの創建に関係するかもしれない伝がある。地元の伝では、弘治年間に島崎某という武将が常陸國行方の島崎から来て小山の地に土着したという。その島崎氏が行方から子孫繁栄を願う「子種石」として持ち込んだのがこの石だというのだ。 ▶「札次神社」 (webサイト「The Life with Steels」) もとは別の場所にあったというものの、この話は極めて示唆的である。行方は性神信仰が盛んではある(あった)が、このような石をごろんと転がしてどうこうという信仰はない。また、「蚕種石」という存在からして甲斐から武相に分布するものである(上野原・八王子など)。そうなると、札次神社(鹿島神社)の創建そのものが島崎氏の来住によるのではないか。 |
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で、この社が水神的な祀られ方をした下流相模原の方の三鹿島と関係するかどうかという点だが、社そのものは境川から離れすぎているように見える。んが、社頭からのびる道をずっと行ってみると200mほどの所に札次神社の標柱があった。かつては参道がここまであったのだろう。神社前の道がまっすぐのびていたら(現在参道でなくても)、辿ってみるのが良い。かつて参道であったことを示す何かがあることがある。それはかつての神社の規模を示すものかもしれない。 こうなってくると、かなり境川に近くなり、川を意識した神社なんではないかとも思えてくるわけだ。ただし、三鹿島が川直近に川に背・側面を向けて造営されていたらしいことを思うと感覚が違う気もする。札次神社はむしろ、もっと下流のサバ神社群の造営感覚に近い気がする。 |
道行き
天縛皇神社
そして境川を渡っちゃいまして、神奈川県相模原市になるのだけれど、ちょっと寄り道。ここに「天縛皇神社」という物凄いお名前の神社があるのであります。 | |
天縛(てんばく)は天白(てんぱく)信仰のお社だったということでしょうな(帝釈天を祀っていたそうな。今は諾冉神を祀る)。天照皇大神を主神とした「足穂神社」を合祀されたので皇神社と付いたのだろう。 | |
▶「天白信仰」(wikipedia)
その内容などは伝わらないようだが天白信仰の分布を示す神社ではある。甲斐の方からかなぁ。相模の南から北上という分布は今の所まったく見えない。 ちなみに合祀された足穂(たるほ)神社の方。御祭神は他に神呂岐命・大山昨命だったというのだが、神呂岐命というのは珍しいのじゃないか。今も天縛皇神社の祭神五柱の中に祀られている。 ところで、先の札次神社さんのある方は小山町といい、こちら相模原市の天縛皇神社さんのほうは今、宮下本町という土地なのだけれど、相模原の方も昔はこのあたり小山村といった。「境川」で別れているように見えて実は連続した文物が多ございますのがこのあたりなので、そのあたりの注意が必要だ。 |
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例えば天縛皇神社さんの社地の端の外に地神塔があるが(写真右奥が鳥居)、社頭近辺に地神塔を置くというのが土地のスタイルのようで、相模原側から小野路の方までこの後見ていくことになる。 |
縁切り橋
境川に戻って河岸の柳。幽霊ポジション(笑)から見上げると大きい柳はこう見える。
天縛皇神社さんからもう少し上流に遡ると、蓬莱橋という橋がある。別に大井川のように木橋が架かっているとかじゃなくて普通の橋なので行きはしないが、そこは「縁切り橋」だった。『境川流域民俗調査報告書』町田市立博物館・相模原市立博物館より引いてみよう。 |
また、ある時、嫁入り行列があったが嫁の姿が見えなくなり、それからは精進橋(現在の蓬莱橋の横にあった木橋)は嫁入りの時に通ってはいけない橋となり、架け替えて蓬莱橋となっても嫁入りの時にはこの橋を通るのを嫌う気持ちがあるという。
御嶽神社(小山町)
道行き
御嶽神社(相模原市上矢部)
さらに下りまして、写真左側が相模原市側なのだけれど、こんな感じに社叢がある。少し下流の古淵の鹿島神社の杜(は、もっと丘状だが)と感じがよく似てくる。これがさっき言っていた横山党絡みの御嶽神社の杜。 | |
このあたりは上矢部といって、横山党矢部氏の所領だったのだけれど、矢部義兼によりその館の北東方鬼門の守護としてこの「御嶽神社」が造営されたという(当時は「三獄社」だったという)。 | |
無論御祭神は日本武尊。しかし、なんで横山党が御嶽神社を据えてまわった(ないしそういう伝ができた)んかなぁ、という。横山党と青梅の武蔵御嶽神社の関係か。多摩だもの不思議ないといやそうだが、あまり考えたことがなかった。しかも「三獄社」と書いたそれが三峯を併せて意味しているのなら、秩父である。この後の行程は秩父党と横山党の話になっていくのだが、符合する。もしかしたら符合どころじゃないのか。 | |
うーむ、うーむと、大六天さんと蚕影さん。淵野辺の方の景色と似てくる。「高座行:相模原」の淵辺氏も横山党の人。 ▶高座行:相模原 |
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こちらは別格という感じで祀られていた境内社の日枝神社。山王さんが良く祀られる土地でもある。淵辺義博が大蛇討伐の願を掛けたのも山王さんだった。このあたりも横山党とどういった関係があるのか考えにゃならんかもしらん。 | |
鳥居脇には物凄い切株が。少し前まで木の結構も残っていたようで、二本の木が融合してあったらしい。鳥居木・夫婦木の類の切株はこんな風になるのですな。 | |
境内には神楽殿が二棟あるようなのだけれど。タイプ違いで何か演目が異なるものがあるのかしらね。 | |
そして、本日のステキ狛犬さんコーナー。あっはっはっは。子狛たちが間違いなくこの狛どのの血筋(?)であることが分かるお顔(明治狛)。なんか……誰かに似とるね。 | |
ここは社頭から謎の三角エリアがあって、その先端に地神塔が据えられていた。どういう意図があるものか。 |
神明神社
道行き
大泉寺
そしてその「大泉寺」。小山田有重の開基という(小山田氏そのものの話などは煩雑になるので補遺にて)。同時にここが小山田氏の居館であったという。 | |
総門。中に小山田有重の慰霊碑及び子らの墓などがあるが、どうもちょうど葬儀が行なわれているようだったのでお邪魔せず。
小山田有重は秩父党の秩父重弘の子で、頼朝挙兵時は平家方であったが、後に頼朝に帰伏し重用された。んが、早くも子の代で頼朝なき後の北条氏に疎んじられて有重とは兄弟の系となる畠山氏共々追いやられ、離散するはめとなる。 |
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境内には色々古めかしいものがあちらこちらと。離散後の小山田氏がその後所領したというのが甲斐郡内の都留の方(はっきりとした記録はない)。そういう流れの発端がここなのですな。
▶都留行:都留 |
上根神社
八石地蔵尊
小山田神社
鶴見川に戻って少し下ると橋のたもとに。田畑の神さまか、水神さまか。 | |
そして川端に「小山田神社」が鎮座される。この社名となったのは新しく、もとは「内の御前社」といったという。ていうかですね……蓮田? | |
なんと千葉市検見川遺跡(落合遺跡)から発見された二千年前の蓮の実から発芽・開花させた「大賀ハス」なんだそうな。古代蓮である。
▶「大賀ハス」(wikipedia) しかも、あたしは蓮から作る織物、藕絲(ぐうし)というのを初めて知ったね。これはいつか実物を見てみたい。 ▶「町田:大賀藕絲館」 |
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閑話休題。小山田神社は現在天照皇大神を御祭神とするが、「内の御前社」とは、小山田有重公の夫人を祀った社であったという。しかし川っぺりに祀るかね、という気がまずする。内の御前・宇津姫、うーむ。 | |
社殿脇にはガラスケースの中に色々伝わったものが陳列されていた。御嶽さんもあったようですな(昔このあたりを「嶽の内」といったとも)。狼・蔵王と並ぶのが武蔵御嶽。 |
小山田緑地公園
白山神社
道行き
小野小町井戸
小山田城址の八坂社
そしてピークの「小野路城址」。今は天王さんの小さなお宮が建っている。小野路城は小山田氏の支城で、有重の次男・重義の築城と伝わる。
ちなみに、小山田に入ってすぐの神明神社さんが「次郎義重」の勧請であるとあると述べたが、『町田市史』にそうあるものの、これは小山田「重義」のことだと思われる(「次郎義重」という人は系図に見えない)。実際の「扉の裏書き」というのがどうだったのかは分からんが。 |
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また、この天王さん(城山の天王さん、と呼ばれるようだ)には大蛇伝説がある。町田の各社に関して大変詳しいwebサイト「The Life with Steels」様より引かせていただこう。 |
小野路の台の田極源兵衛さんは、小山田へ行こうと思って、小町井戸のところを通った。そのとき、松の根と思っていたら、これが動いたので持っていた刃物で切った。すると、それは大きな蛇であった。どうしたことか、翌年から疫病が蔓延しだしたので、蛇の崇りと思って、城山の頂上に祠を作り、蛇を祀ったら疫病がなくなった。
諏訪でなく弁天でなく、天王さんを祀ったのですな。山にはヌシがいる、という発想があるわけで、このように小野路城址と城址ではあるのだけれど、この山はまた土地の信仰の地としてもあった。ピークの城址をあとに、今度はそんな所へ。 |
乗越八幡跡・こうせん塚
アラハバキ神のこと
小野神社
補遺:小野小町伝説について
多摩行:町田 2012.10.20