駿東行:小山

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.10.06

静岡県は駿東郡小山町の神社巡りの模様を。もう前回訪れたのは平成二十三年二月でありまして、実に久々な感じ。しかし、ここは西相模からの半径50km内直近地元エリア内であります故に、できる限りの神社さんを(無論法人社は全て)巡る所存の土地なのであります。
ここは金太郎伝説の土地ですな。日本武尊の『古事記』における足柄峠越えと金太郎伝説が良く知られた土地なのだけれど、実は相模と駿河の境とあって、中世もなかなかドラマチックな人々の行き来・摩擦が多かった土地でもあります。

前回平成二十三年二月の小山行はこちら

道行き

a

そんな小山(おやま)。フッジッさーn(ry 御殿場線駿河小山駅で降り鮎沢川を渡る。土地の感覚としては御殿場のひらけている方へ向いているようで川は東へ相模へと流れる不思議感覚。
ちなみに駅の東あたりに八重山という小字が今もある。万葉の昔から足柄と言ったら八重山が枕詞になる象徴的な地名。金太郎のご母堂である八重桐というのもここからでしょうな。八重桐は足柄を体現する母であったことになる。
道行きには金太郎さんの消防団。こうして見ると火消しと金太郎というのは一脈通じるスタイルであるような気もする。

生土神社・乗光寺

b

さて、川沿いに東へぐるっと戻るようにして、生土という土地へ。「いきど」と読む。これも不思議な地名だが、意味はよく分かっていない。室町時代ここに後で小田原に入ることになる大森氏が城を築いていた。生土城である。今は僅かな城の痕跡がいくつか見えるだけだが、大森一族がこの地に勢力の拠点を持っていた、ということが後々全般を通して重要となる。そして、そこに鎮座されるのが「生土神社」。
いや、生土神社さん今日例祭だというのは事前に知っていたのですけどね。朝一(7:30am)ならば、まだ影響あるまいと踏んできましたですが……準備開始が早いですなぁ(笑)。しっかたねぇ、お邪魔にならんようにささっと……と思いきや。「あれ?あんた○○さんとこの旦那だっけ?」とか「ホレ、箒」という勢いでありましたが、違いますから(笑)。まぁ、こんな時間にお参りにくる余所者というのも想像がつきにくいのであろうことは分かる。
もっとも生土神社さんそのものは大正時代に周辺数社を合祀して土地の名を冠したお社。ベースとなったのは春日神社が応永十九年の創建と伝わり、これが大森氏台頭の前夜にあたることは意味を持つかもしれない。今は見えないのだけれど、合祀記録などからするとこのあたりは春日神社が大変多かったようだ。でも生土神社はなぜか武甕槌命を祀る。そういや小山駅隣の小山神社さんも春日ベースのお社でありましたな。そちらも武甕槌命だった。
神社すぐお隣には乗光寺というお寺がある。大森頼明(小田原城を築いた大森頼春の父)の開基。大森六代の墓がある(小山町指定文化財)。生土春日神社と一体だったのでしょうな。足柄上郡の方では「山北の方から来た人たちが持ってきたもので云々」と言われる文物がままあるが、それは大森氏が小山から小田原へと進出したことを反映しているだろう。そしてこれはそれまで足柄下郡を牛耳っていた中村党(土肥・小早川)の時代の終わりも示している。
西相模の神社の由緒には上杉禅宗の乱によって云々というものがままあるが、この結果として大森氏の進出が起ったのであり、鎌倉という枠組みが西相模で終わる流れを意味する。個人的に地元の神社さんを考えていく上でもこのあたりの事情は大変重要となる。

道行き

c

繋がれ猫さん。猫なんざ繋いだらストレスマッハでエラいことになりそうだが、毛はふかふかツヤツヤでなんか全然平気そうな。あたしよりも隣の木に来ているヒヨドリが気になって仕方ないの図。
珍しい凝った書体の道祖神さん。「道祖神」であります、えぇ。

雲霧神社

d


そしてお次は最初の橋まで戻りまして、同生土は小字音渕・乙渕という悩ましい地名が連なるところの「雲霧神社」さんへ。路地の奥にこうして登る参道階段が出現する。
もともと鮎沢川にここで合流している野沢川畔にあった小祠(不明)を大正時代に神武社とし、さらに昭和になって「須走雲霧神社」を遷してきて現社地に「雲霧神社」として祀ったという。雲霧の神としては科津彦命・科津姫命と風神を祀る。
んが、ここより西北西四キロほどの所の中日向という所に(今回範囲外)「雲切天神」なるお社があったそうで(今地図などには見えない)、関係のあるやなしやが大変重要となるだろう。なんとなれば、雲切天神は長雨に困った時に「雲を切る」火祭りが行なわれたという所なのだ。
「中日向で長雨の時は八か村入会の者が天神さんの前にみの笠着けて集まり、焚火して「日より乞い」をした(『小山町史 第9巻 民俗』より)」のだそうな。しかしこれは「天神」であり風神ではない。
また一方で、御殿場の方には日本武尊がこの地で霧に往生したという伝説があり、この濃霧を払ったのは雷神の嵐であった。さらに、小山奥の大御神(おおみか)には西相模にまで及ぶ風祭の中心だった角取の神がおり、その関係も気になる。いずれにしても「雲霧」の神が何かというのはこの土地のひとつの鍵になりそうだ。もはや広くその名が見えるわけではないので難しいかもしれないが。

熊野神社

e


またほど近くの「熊野神社」へ。ここはもう落合という地区になる。小山中学校の一画、という感じであって、この参道階段が子どもらの近道にもなっている。旗竿隣の碑は道祖神さんですな。
ここも色々なお社が合祀されているが、その一般の神々の列に続いて「北畠經道・新田堅秀・藤原為冬・源義貞」という人々が祀られているのが特異だ。これすなわち足利尊氏と新田義貞(源義貞)が激突した箱根・竹ノ下の戦いの新田勢であります。
なんだかこちらの狛犬さんだけ良さげな木陰におさまっておって。真夏には良さそうですな。
で、特に重要なのが二条為冬(藤原為冬)。合戦の舞台であった小山町竹ノ下には敗れた二条為冬以下七十四名が自刃した所というすさまじい話のある白旗神社があるが、この二条為冬の墓と伝えられてきたのが熊野神社境内の五輪塔(左写真)なのだ。
なんだか分からぬが味のある石祠。上に熊野さんの鳥居が見えている。

浅間神社

f


北西に進んで藤曲という土地の鎮守さん「浅間神社」へ。地図を拡大してみると分かるが、この辺は「浅間丁」「八幡丁」「久保丁」「坂下丁」などの地名が見える所。
富士山麓にはそりゃあもう浅間さんが無数にあるわけなのだけれど、中でも重要な浅間さんのひとつが小山須走にあり(東口本宮冨士浅間神社)、ここ藤曲浅間神社はその須走から文明年間に勧請されたと言う。
しかし、ここちょっと面白いのですよ。小規模な移動があったようで、近くはすぐ隣の小学校に敷地を割いたりもしているので細かく詰めてどうなるかは分からないのだけれど、図のような位置に鎮座されている。社殿の向きは富士山そのものより南、おそらく富士宮市の駿河浅間本社の浅間大社の方を向いている。4度ほど違うが、大まかには冬至の日の入りの方向にもなる。そして、勧請元の須走浅間と繋いでほぼ富士山頂から真東に連なる位置に来る。藤曲はかなり考えられて建てられた浅間さんではないか。
境内に欅の御神木が二本あって、夫婦欅状態なのだけれど、相模の方の注連柱的な鳥居状の植え方とは違って参道脇になる。小山町夫婦杉とか多いのだけれど、配置が鳥居的ではない。ちょっと感覚が違うのかしらね。
また、こんな不思議物件も。円板上になんとか居士と見えたので、あらお墓かしらと思って良く見ると「誠明院功譽報徳中上居士」だった。なんと二宮尊徳公である。
藤曲には昔、慶林寺というお寺があって(廃寺)、耕雲和尚という和尚さんがいたのだが(嘉永の頃)、この耕雲和尚が傑物で、尊徳公に私淑した果てに、たった一人で百五十間の用水トンネルを掘抜いて土地を拓いてしまったという和尚さん。この耕雲和尚が尊徳公の慰霊碑として先の石造物を慶林寺に造ったのですな。廃寺となって浅間さんに置かれることになったと。今でも浅間神社で二宮祭が行なわれているという。
もともと小山は尊徳仕法で復活した土地で、足柄駅の方の嶽之下神社にも尊徳公のことが延々書いてあったけれど、何とも縁の深い所なのですな。
鳥居脇に道祖神さんが。落合の熊野さんも参道階段脇にありましたな。このへんは相模っぽいと言える。

山神社・子産田・藤曲

g


藤曲を北に進むと、山神社さんがあった。さすがにどういったお社なのかなどはまったく分からないが、立派な神池があって中島にお不動さんが。水の不動だ。
川(野沢川、の支流?)を渡る手前に金太郎伝説のナニモノかが。全く事前情報になかったのだけれど「子産田」とな。

「金太郎の母八重桐が金太郎を産み落とした場所といわれています。八重桐は夢の中で結ばれた赤龍との間に懐妊し中島の地に住んでいましたが、出産前の養生のため毎日湯船温泉に通っていました。月満ちてか帰宅の途中で急に産気づき、この場所で真紅の男の子を産みました」のだそうな。
ご近所の方に訊いてみたが、先の石碑があるだけのようだ。しかし面白い。小山でも戦前はさほど金太郎金太郎とは聞かなかったと言うのだが、あちこちにこうした断片的な伝説の地がある。もっとも、この話も八重桐と金太郎というよりも山姥とその子、という感じが強いが。今の地名にはないが、正保四年の藤曲の検地帳があり、その中に「うば神・うば神入」の名が見える。他の資料によると姥神の祠があったようだ。金太郎伝説は一方でこの甲斐からこちらの姥神信仰との連絡も良く考えないといけない。
ともかく、先の伝説中八重桐が「出産前の養生のため毎日湯船温泉に通っていました」というところが特に注目される。湯船は最後に出てくるが、鍛冶の地にまま付く地名だ。これから金太郎伝説と鍛治師の伝承の話になるが、この湯船というのもひとつのキーワードになるだろう。
ところで「藤曲」という地名も難しいようだ。土地の伝では大きな藤があったからというお決まりの話である。大森氏の傍系に藤曲氏があるのだが、坂東武士の通例から言えば地名を名のるので地名の藤曲が先だろう(ちなみに現在まで藤曲浅間神社の鍵取家は藤曲家)。
ここで指摘のない線を考えてみると、ここは写真のように河川が合流する土地だ、という点が気にかかる。今はすっかり工事されて浅瀬になっているが、かつては淵だったろう。すなわち折口先生言う所の淵からの藤(フヂ)の可能性があるのじゃないか。とも思うのだが。現状見える史料からは証しようもないのだけれど。
そこから北の方はこのような。この奥があとで出てくるの柳島の集落。金太郎が本当にいたというならば、第一の遊び場はこの谷間だっただろう。

第六天

h

その斜面に何やら看板が見えた「第六天神社」とある。ほうほう。
中島の金時神社にも第六天があって(左写真)、坂田公時の末裔と伝える坂田屋敷の守護がそれだったというが、こちらにも第六天が(ここも同中島)。この奥かね。

でっけぇ女郎蜘蛛たちの巣を掻き分け掻き分け登りますとお宮が。こちらが「第六天神社」さんとなります。「高尾穂積神社」「保食神社」との寄せ宮であるようで、中には三扉の御本殿があった。このうち穂積神社というのは駿河にたくさんあるので駿河行では覚えておきたい。要するに静岡市の龍爪権現のことですな。「弾の神」として猟師たちが良く祀ったので、ここも山に入っていく猟師たちが祀っていたのかもしれない(一方「弾除けの神」として戦時中に大増殖しもした)。

中島神社

i


その尾根を回り込みつつ中島という土地の中心へ。手前高い木があるのが鎮守の中島神社。奥の丘陵麓に小さく金太郎さんの絵看板(左下写真)が見えているのだが、そこが金時神社。

金時神社は伝説を伝えた小山坂田家の坂田屋敷趾を昭和になって神社としたもので、昔から「金時神社」があったわけではない。ということで中島地区本来の鎮守はこの「中島神社」なのであります。
もっともこちらも合祀の上土地名を冠したお社、なのだけれど。しかし、ここが大変面白い。合祀前のお社は八幡宮・金刀毘羅社・山神社。八幡宮をベースに合祀された。で、まずこの八幡宮が御霊八幡宮であったという伝がある。
御霊社としては鎌倉権五郎を祀っていたという(現在は誉田別命)。片目の神だ。そして、金刀毘羅社の御祭神が金山比古命とされているのだ。実質金山神社であったらしい。いずれにしても鍛冶の社の側面が強い。
さらに、これも正保四年の中島の検地帳に見えるのだが、古い地名には「金口」「かな口田」の名があったらしい。金太郎伝説は鍛治師金工の伝えた伝説なのではないかと見る向きがあるが、確かにこの生地伝説を持つ中島にはその傾向がある。

道行き

j

お次は一旦西に戻ったあと、今度は柳島という土地を目指しまする。土地入り口に道祖神さん。今はこの道が通っているが、戦前までは山中の各家にそれぞれ道がのびているという具合だったそうな。

行く道に何やら祭壇が。後ろの石垣と同化して見難いが、中央の石碑には「辻八幡大神」とある。確かに今柳島の鎮守の八幡さんを目指しているのだが、手前に「辻八幡」なるものを祀ったりするのだね。よもや広島とかのじゃないだろうし。

柳島八幡宮

k


その柳島「八幡神社」入り口二之鳥居となる。物凄い杉林のお社だ。
ここがオドロキの茅葺き神社さんなのでありました。うひょお!と有頂天なアタクシであります。いや、もう今なかなかないですよ。写真左、社殿後背に大きな二本の杉があるけれど、これが御神木の夫婦杉。
で、ですな。さらに驚くべきことに、ご覧の通り「御霊八幡宮」の名になっておる。現在は普通に「八幡神社」として神社庁に登録されており、御祭神も誉田別命であるのだが。『小山町文化財のしおり』から、古老の伝によると現本社殿造営の延享の頃からそうであるそうな。これも中島神社が御霊八幡宮であったことと通じる事柄かもしれない。
ところで夫婦杉と違う大きな杉の所に天然記念物と碑があってなぁ。あれ?御神木の夫婦杉が天然記念物と違うの?よく分からん。
久々に「もうちょっと居たいでござる」の心持ちを体現するような鳥居。だがしかし、この日は午前中のみの神社巡りの予定なのでそうもいかんのだ(ノo`)。
ちなみにここ柳島八幡宮さんも一之鳥居そばの燈籠の陰に道祖神さんが。双体道祖神さんですな。
一応注意をしておくけれど、鍛治師金工にまつわる痕跡があるからといってそれがすぐに古代の話となるわけではない。はじめの方に述べたように、小山には室町時代に大森氏の城があり、城があればそのための武器職人たちの集団も居ただろう。柳島にしても大森氏関係の館・城があったと伝わる所であり、そのあたりの中世の職人たちの住まう土地だった、ということを真っ先に考えるべきである。

沼子弁天

l

道行きは件のアウトオブゼンリンの弁天さんへ。しかし、このように分岐には案内も出ているので迷うことはない。
分岐から延々田畑の間を抜けていきますと、公園らしき地が見えた。公園化がすすむとあったがその通りのようだ。ここが伝説の沼子池なのだ。随分明るくなっちゃってますな。

ここは金太郎さんがでっかい鯉を取っ捕まえるあの絵柄の舞台であるという池(だった)。本来は今砂利が敷かれている公園全体が沼だったと言う。
ちょうど公園のお手入れに来られていた地元のおば……ご婦人にあれこれお話をいただけたのだが、関東大震災でほとんど涸れたようになってしまった沼を菖蒲の名所として公園化しようとして頓挫中ということのようだ。水がはけないらしい。
さて、ここ沼子池の重要なポイントは金太郎伝説とはまた違う所にある(おそらく繋がってはいるが)。公園の端に単立の「沼子弁天」さんが鎮座されるのだが、ここが重要。
「柳島の谷の東にある沼子弁天は、その開基は不明であるが、弁天の池を三巡りして池をかきまわすと雨が降ると言われていた。(中略)池の神は白蛇であるという」(『小山町史』)という所だったのだ。
実はこの町史に載っている古い白黒写真とまったく様子が違うので、これも先の地元の方に訊いたのだが、弁天さんは昔は池の南側に池に背を向けるように建っていたのだという(今は北側)。そして、先の写真本社向って右にもう一宇あるが、石祠がおさめられていて「奥の院」と言う。
その奥の院の石祠が池の中島にあったのだそうな。ちなみに「柳島」の地名はこの沼子池中島に昔柳の木があったからだという。いずれにしても参拝の為の拝殿と中島に奥の院なる祠を持った随分と念の入った水神祭祀の池だったのだと言える。
沼子池から柳島の集落筋へと戻る道。両脇田畑になったのはごく最近のことなのだそうな。つまり、沼子池は集落からも外れた山林の中にぽつんとある池だったということだ。無論池周辺に人家はない。
ここで思うのは、この地には池の主の蛇神に由来する夜叉ケ池タイプの蛇聟入り譚でもあったのじゃないかということだ。

「夜叉ケ池」(日本の竜蛇譚)

八重桐がその蛇神に嫁いだ、という話が金太郎伝説の原型にあった、とすると非常に八方おさまる観がある。

道行き

m

子産田の所まで戻り、今度は湯船の方へ。懐妊した八重桐がそこの温泉へとかよったという湯船ですな。この話の通り温泉が湧くので湯船なのだと土地では言われる。そこへの道すがら。大樹の下の墓石群。両墓制的な埋葬の土地だったんかね。
先の墓石郡への登り口にある石造物と覆い。多分道祖神さんだろう。昔はどこもこのように杉の葉を葺いた小屋に道祖神さんはおさまっていたものだったのだ。

湯船八幡神社

n


そして湯船集落の鎮守「八幡神社」へ。こりゃまた立派な杉が聳えるお社で。天狗さんが居そうだ。
こちらも茅葺きの八幡さんだった。ちょうど先の柳島八幡とは丘陵を挟んで背中合わせのような格好になる。こちらの八幡さんには特に目立った話はない……はずだったのだがしかし……
なんと八剣輪宝の八幡とな。これは各資料指摘していないのだが結構重要なのでは?まー、箱根丹沢周辺なれば不思議はないと言えばそうだが(足柄上郡式内の寒田神社も八剣輪宝)。
しかしこれも正保の地検帳によると「山伏塚・地蔵免・鳥居・宮のまい」等々の修験的な地名が目につく。鍛治師金工と修験か。ふむふむ。ちなみにこのパートに「かうみ田」の名があり、これが先の「子産田」だと思われる。正保には既に記録があるのだ。
ともかく先にも述べたように、湯船と言う地名は赤熱した原鉱を冷却する池のことを言う場合があり(例えば、津軽の「竜神の刀」の舞台も湯舟)、八重桐が通ったというのは金太郎伝説が鍛治師金工の伝えた話であると見る線からは意味ありげである。

「竜神の刀」(日本の竜蛇譚)

そこが修験の拠点であったとするなら充分に勘案しないといけないだろう。そんな湯船集落なのでありました。

おわり

o

と、そんな所でそろそろお昼。まだ昼前なのだ(笑)。この日は午後からは自分の所の氏神さんのお祭のお手伝いがありました故に、このへんで小山行は幕としまして飛んで帰ったのでありました。
金太郎伝説とヒト口に言っても、それはこのような土地の信仰空間全体の上にあるのであり、やはりこうしてあちこち見て回ってようやく「何を考えるべきか」が考えられるというものなのだ。小山の奥はまだまだ深い。

ページの先頭へ

駿東行:小山 2012.10.06

惰竜抄: