田方行:長岡・田京
庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.08.18
現在伊豆の国市となったが、今回まわった地域は長らく「長岡」「田京」と認識されていた所だ。特に今回はこの名が大変重要となるので、そちらで話をすすめたい。 ……ていうか「伊豆市」の北に「伊豆の国市」が隣接するというねぇ。遠方の方を混乱させるメダパニ中伊豆。今からでも何とかした方が良いのじゃないか。 ともかくこの路線は北から南下しておりますので、 前回「田方行:韮山」 その前の「田方行:函南」 も、併せてどうぞ。 |
豆塚神社
行程
珍場神社
北江間横穴群
熊野神社
日枝神社
大黒天
行程
劔刀神社
温泉神社
葛城山
駒形神社
小坂神社
行程
神益麻志神社
そして神島という土地に「神益麻志神社」が鎮座される。かんますまし・かみますまし神社。神益が小字。ここはかつて駒形神社でありました。 そう、玄松子さんが迷っておられましたが、ここが「神益村駒形神社」で良いのです。 ▶神益麻志神社(webサイト「玄松子の記憶」) 「往古白馬明神と称し、その後駒形明神となり現在の神益麻志神社となった」と『田方神社誌』にあり『増訂 豆州志稿』にも同様にある。 |
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『豆州式社考案』が式内:大朝神社に比定した神益村駒形神社はここで間違いないですね。長白羽命を祀る。こういうのがあるのですよ。で、浜岡行のときに、織物と白羽と馬の関係を気にしていたのです。 | |
その他にも、この次に見る広瀬神社の神領として色々の土地名があるのだけれど、神益も狩野川の形成する川の洲を「神洲」としたのではないかなどなど色々あったりと、中々難しいお社だ。はたしてどのような歴史を持つものか。 | |
もう一点、あまり鑑みられない点をメモしておきたい。写真は大仁の城山。大岩壁で有名ですな。岩壁側行っても超逆光なので今回は行かないけど。この写真の城山のピーク直下あたりが神益麻志神社。城山の大岩壁は古代からそりゃ目立ったと思うのだけれど、周辺「そこを祀る」という神社が見えない。大仁神社がそうなんかな。神益麻志神社は裏と言えば裏だが、直近ではある。その関係はありや無しやとちょっと心に留めておきたい。 | |
そして……夕暮れに晴れ出す空模様。ラーラーラーララーラー(TΔT)。 |
広瀬神社
おわり
といったところで。本当は田京駅の方の塞神社さんなど紹介して(「御門」という土地に鎮座されている)、地名から田京初期国府の伝を補足しておきたかったのだけれど、もはや日も暮れて(またかよ)、という感じでありまして、今回はこの辺で。 伊豆三嶋大神の北遷の謎は伊豆でも第一級の問題だが、その謎を解く鍵となるのが今回の長岡・田京の地でありました。大体三島大社は「国司の奉幣の便宜のために」北遷したのだとか簡単に書かれるが、そんな一宮がある方がオドロキの話ではあるのだ。まだまだ追うべき筋、詰めるべき課題は山盛りではあるけれど、今回歩きながら、あたしは大体その問題に了解がついたように思う。ここに了解がつくまで伊古奈比咩命には顔向けできない、と思っていたのだけれど、そろそろ白濱さんに参っても良いか、と思っている。 |
補遺1
補遺2:伊豆三嶋大神北遷の問題
補遺:伊豆三嶋大神北遷の問題
伊豆三嶋大神北遷の問題。まず、基本的な通論を。伊豆三嶋大神は九世紀前後の伊豆諸島の度重なる地震・噴火により中央から注目され、神意の顕現であると見なされ、神階を上げていった。その近古は三宅島にまします伊豆三嶋大神と后神・伊古奈比咩命の二柱が信仰の中核であったと思われる。 しかし、十世紀に編纂された延喜式の神名帳に記載される「伊豆三嶋神社(名神大・月次新嘗)」と「伊古奈比咩命神社(名神大)」は共に賀茂郡鎮座とあり、これは現代の下田白浜の伊古奈比咩命神社(白濱神社)の地に鎮座されていたのだろうと考えられている。三宅島から下田白浜への「遷座」がどのようなものであったのかに関しての私見は後述。概ね三宅島の噴火により奉祀氏族(三宅島壬生氏)共々白浜に遷ったと考えられる。 すなわち、十世紀には「三島大社」は下田白浜にあった、と考えるのが一般的である。反論としては三島大社は現・三島大社の地にはじめから鎮座されていたのであり「賀茂郡鎮座」の延喜式の記述に問題があるのだ、とするものがあるが、ぶっちゃけ三島市がそう主張しているくらいのものではある。 この後、三嶋大神がクローズアップされるのは、『吾妻鏡』に見る平末鎌初の源頼朝の三社詣の記録である。当初は箱根・伊豆山の二所権現を詣でる行程であったが、後に三島大社が加わり三社詣として定式化した。そして、この三社詣が日をあけずに繋がっているために、箱根・伊豆山と隣接した土地(即ち現・三島市)にこの時期すでに三島大社は遷っていたのだ、と考えられることになる。つまり、延喜式施行(967年)から頼朝の三社詣(1188年)の間の二百年ちょっとの間のどこかで北遷があったことになる。 以上が大まかな伊豆三嶋大神北遷に関する通論だ。この他、現・南伊豆町の月間(竹麻)神社(阿波命を后神とする)、加畑賀茂神社(溝杙姫命を后神とする)、下田市の柿崎三島神社などにそれぞれ北遷の伝があるが、これは今回はさて置く。 ここから問題点。まず、「名神大・月次新嘗」の大社・一宮が「国司の奉幣の便宜」の都合などで國の反対側まで遷座する、ということがそもそもあるのか、という問題がある。それが古代の神祇上あり得ることなのかどうかあたしには分からない。しかし、日本の神祀りの理からは考えられない。 そして、ここで広瀬神社も問題となる。延喜式から頼朝の二百年という短い期間で北遷が起り、その中継の社が広瀬神社であったとするには、広瀬神社の伝える往古の壮大さはおかしいのじゃないかとなる。また、レポートで述べたように田京に初期国府があり、広瀬神社はその国府のお社だった、とする場合、その初期国府は延喜式より昔になるはずであり(貞観年間以前か)、これが三島大社の前身であると言うならば、延喜式以前に北遷がはじまっていたことになり、通論と矛盾する。 さらに、現・三島大社を奉斎してきた矢田部氏は伊豆国造直系を伝える氏族であり、三宅島の大本の伊豆三嶋大神奉祭氏族の三宅島壬生氏とは関係がない。付け加えるならば、伊豆国造系は三嶋信仰を取り入れるためにあらたな神格を創出しようとしていた節もある(「比波預天神社」参照) さて、これらの諸問題に対するあたしの解答は、広瀬神社・三島市の三島大社は国府の機関「伊豆国総社」である、なのだと述べた。通論でも伊豆三嶋大社には「総社の機能も兼ね備えている」とされるのだが、そうではない。おそらく平安時代最終末期まで、あそこは純粋に総社だったのだ。 そう考えると、「北遷」したのは総社であるので、延喜式の時代に白浜に伊豆三嶋大神が鎮座していたことと矛盾しなくなる。つまり、三嶋大神北遷の伝は北遷した総社が三島大社「であることになってしまった」ことから遡って発生した伝承である。 ではだれが総社を三島大社「であることにしてしまった」のかと言うならば、これは鎌倉以外に考えられないだろう。三社詣を演出し、その神々を繋げた神話を必要としたのが鎌倉である(「杉桙別命神社」参照)。 ひとまず、このような線で通論に対して「龍学」の伊豆史観がある、ということを踏まえておかれたい。下って江戸中期に白浜のお社が建て替えられる際、そこには「両神が二殿に祀られて」あった。おそらく、「三嶋大神の北遷」は純粋な神祀りの観点からは「なかった」のだと思う。 補遺の補遺(?):下田白浜・伊古奈比咩命神社のこと。伊豆半島の三島神社の系列が概ね「海の方を向く」ないし「三島大明神のおられた三宅島・神津島の方を向く」という結構で造営されているのに対し、伊古奈比咩命神社は三宅島方に「背面して」造営されている。 この問題も純粋には遷座はなかった、という観点で見ると明らかだ。伊豆三嶋大神は三宅島にましますのである。白浜のお社はそこを遥拝する社、現代風にいえば観測地だった、のだと思う。そもそも島嶼の噴火が神意なのならば、神は島嶼にいなければ話にならない。 もっとも白浜の方には三宅島壬生氏の一団が移ってきていたらしくもあり(三宅島壬生氏の祖先を祀る「御館神社」があったという)、現実的には遷座と言って良いのかもしれないが(その辺は神学上の問題という観もあり、あたしには分からない)。 |
田方行:長岡・田京 2012.08.18