田方行:長岡・田京

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.08.18

現在伊豆の国市となったが、今回まわった地域は長らく「長岡」「田京」と認識されていた所だ。特に今回はこの名が大変重要となるので、そちらで話をすすめたい。
……ていうか「伊豆市」の北に「伊豆の国市」が隣接するというねぇ。遠方の方を混乱させるメダパニ中伊豆。今からでも何とかした方が良いのじゃないか。
ともかくこの路線は北から南下しておりますので、
前回「田方行:韮山」
その前の「田方行:函南」
も、併せてどうぞ。

豆塚神社

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前回韮山行はこの土地を北流する狩野川の東側だったのだけれど、今回は西側を。韮山駅から狩野川を渡って西へ向うと、式内:石徳高神社の後裔社とされる「豆塚神社」が鎮座される。
韮山行で参った守山八幡宮と二社に分かれたという一方のお社ですな。あたし韮山行の時点ではちょっと勘違いしておりまして、より正確な石徳高神社の変遷の過程はこの図のようになります。
で、今はここ豆塚神社に「延喜式内」の標石が立っておる。しかし、豆塚神社は鎌倉二代執権・北条義時が守護として創建した、とも土地では伝わる。今回この北条義時(江間小四郎)が前半の主役であります。
そもそも石徳高神社が分かれた理由は、東方を流れていた狩野川が流路を西に変え、郷(依馬郷)が二分されたために双方に鎮守として分け祀った、ということになっている。最終的に狩野川の流路が今の流れとなったのは鎌倉時代の守山開削によるというが、石徳高神社の分裂はそのあたりの事情を反映しているのかもしれない。
そして、この豆塚神社さんは本社殿向って左側に写真のような塚があって、古墳だろうとされている(豆塚古墳)。お社の名前はここからだろうね、と言われる塚(地名が豆塚だった)。
墳丘上にはこのような石が。石室の石材なんだろうかしらね。豆塚古墳のことは地元資料にも触れられていなく、よく分からない。古墳であるとするならば、石徳高神社が遷って来る前からの何らかの祭祀場であったかもしれない。

行程

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豆塚神社から西へ。すると南側に大男山が望める。この大男山が、かつて石徳高命が降られたという雄徳山のことであります。んが、この話は一旦置いておいて、次は手前の田んぼ地帯にあったという池のヌシの話になる。大蛇がおったと言うのだ。
その伝説を伝える山懐の里へ。中伊豆はこういった「懐」に不思議神社がある。背後に見えているとんがった山は鷲頭山。
行く道に道祖神さん。良いですねぇ。函南の方からそんな感じだったが、用水の脇に置かれるような感じがある。
珍場(ちんば・ちむば)神社という不思議なお社を目指しておるのだけれど、道が分かりにくい。写真を登ると民家に突入しちゃうようなのだけれど、これが公民館で、その脇に神社がある。

珍場神社

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ここが「珍場神社」であります。先の下の土地にあったという池の主の大蛇が、こともあろうに北条義時の息子・泰千代丸を呑んでしまったのだそうな。怒り心頭した義時は大蛇を射、大蛇は逃げ去ったという。
これが「元久元年」の棟札に書かれているというのだが(『町史資料第二集・伊豆長岡町「宗教編」』)、そりゃあねえだろうとしても(おそらく天明の棟札に「写し」として書かれたものと思う)古くからこの伝説があったことは間違いないようだ。
また、神社の由緒としてもそう書かれてしまっているが、ヌシは雌雄の大蛇であった、というバリエーションもある(もともと珍場神社側の伝説では一頭の大蛇)。これは前々回騒いでいた函南町日守地区で伝えられていた話だ。義時に射られた雌雄の大蛇が日守山を越えて逃げていった、と日守では言うのですな。
また、珍場神社は昔三社神社といい、三つの神格が寄せ宮となっていたのだが、一つは先の泰千代丸の霊を祀る若宮(八幡)・もう一つは子之神大六天・そしてもう一つ「大鵡大明神」なるこれまた不思議なお名前の神が祀られていた。
大鵡大明神は資料上読みが分からなかったのだが、社頭掲示によると「おおしま大明神」であるらしい。何の神さまかはさっぱり分からないのだが、天正元年の絵馬版木が残されており、現物として遡れるものとしてはこの神が最古の祭神ということになる。
そんな摩訶不思議な珍場神社をあとにしまして、一旦下って今度は北側を眺めてみると日守山(中央)が聳える。先の雌雄の大蛇が逃げたという話では、写真の右隣(東)側の低い山間を雌大蛇が越え、左隣(西)側の高い山間を雄大蛇が越えたと言う。それでそれぞれを「女蛇ヶ山(坂)」「男蛇ヶ山(坂)」と言うのだそうな。池沼の大蛇退治に関しては、実は前回韮山行の江川邸近くにも同じような話があるのだが、あるいは北条氏の湿地干拓事業と関係するのかもしれない。

北江間横穴群

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そこからは場所が分かりそうだったら行こうと思っていた国指定史跡「北江間横穴群」へ。地元の婆ちゃんに訊いたら分かった。「あんた、雨降ってるよ」と婆ちゃんは言うのだが、婆ちゃんは雨の中畑仕事してんじゃん、という(笑)。
こんな民家の間を入っていく。一名「大師窟」でもあるようだ。もっと目立つ入り口看板もあるので、ここと知っていれば迷うことはない。
その北江間横穴群であります。えぇ、雷ゴロゴロ雨シトシトのうすら暗い中一人でこんなとこにいるんですね、あたくしは。病膏肓に入りまくってますね。えぇ、えぇ。
しかも、ここはこんな風に石棺がどでんと。さすがにこえーだろこのシチュエーションという感じ(びびびびびってなんかないよ?)。
珍しくフラーッシュ。北江間横穴群は七〜八世紀のものとされ、規模の大きさと技術の高さから、相当力のあった一族の墓群と考えられている。日守山周辺はこのような横穴群が連なっているのだ(残念ながら北江間横穴群の副葬品は盗掘により失われているが)。

熊野神社

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そこから熊野神社へと。このあたりが石徳高神社が最初に遷座されたという珍野(もとは新野・にゐのであったと考えられている)。その熊野さんのちょっと手前の道祖神さん。中伊豆も伊豆型が主流ですねぇ。

そして「熊野神社」さん。熊野神社自体「霊亀二年(奈良時代)創立」という「はい?」という由緒なのだが、あたしはここが石徳高神社の後裔社とかになるのではないかと思っての参拝。
石徳高神社は山頂からはじめ西麓の珍野に遷されたというのだが、航空写真で見ると熊野神社さんの社地は実にばっちりな土地のように見える。
また、資料にはその痕跡として珍野に「大明神」という小祠があるとあるが、正確な位置を記したものがない。んが、この熊野神社さんの境内社に「明神宮(事代主命)」とあるのだ。雄徳山に降られたのは三嶋大明神であるともいい、この明神宮が痕跡の大明神祠なんじゃないのかね、という感じであります。
境内社二社あって社標もないのでどちらか分からなかったのだけれども、感覚的にこちらかな。参道階段脇にはよく分からない自然石のようなものもあったけど。ともかく珍野・石徳高神社はこの辺ではあっただろう。
森から出てくると(熊かよ)、狩野川放水路が。すでに着工されていたものの、完成前に狩野川台風の直撃があったという因縁がある。写真奥のトンネルを抜けるともう沼津の江浦湾なんですよねー。まさに伊豆半島の付け根という所だ。

日枝神社

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国道414号線を南下致しまして、その名も長岡(字)に「日枝神社」が鎮座される。「長岡鎮守」とありますな。式内とかなんだとかではないが、ここが伊豆長岡の地名の由来を伝えるお社なのであります。
清和天皇の御宇貞観年間に大臣本常公なる人が大極殿焼失の責で伊豆に流され、長岡京に倣ってこの地を長岡と呼んだのだそうな。その本常公が山王権現を尊崇され、この地にも造営云々という社伝となっている。
しかしまた、本常公帰京の後、村人たちが公を忍んで勝田山仙光寺(天台宗)を建てたともいう(本常公は勝田朝臣仙光という名でもあったそうな)。この仙光寺はすでに廃寺であり、この近くだったろうとしか分からないが、日枝神社さんはその後の社というところだろうか。
南に聳える葛城山もその流れで大和葛城山に倣って名がつけられたということになる。このあたり、関白・藤原基経公が伊豆に流され云々となっているものがあるが、これは本常(もとつね、と読める)公の話を有名な藤原基経にスリかえてしまったということだろう。
ステキ境内社さんと御神木のコンビ。この長岡の話は、続く田京の話と連なって、「伊豆国の初期国府はこの地にあった」という伝としてまとまっていく、という点がクリティカルにくる。これが今回最大のテーマです故、覚えておかれたい。

大黒天

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行く道に。あら、こんな神社さん事前情報にありませんのことよ、というお宮が。法人社であるわけはないのだけれど、単立社にしちゃ規模が……と思って寄ってみたら「大黒天」さんでありました。
境内の土俵もしっかり手入れされておるようで、忠魂碑も立派でなぁ。これ現役の鎮守さんなのかしら(確かに周辺神社がない)。
千羽鶴も。「○○天」などのお堂が土地の鎮守というところもまだあったりする、ということなのだろうかしら。長岡は温泉の街であります故、千客万来縁結び(?)のダイコクさんを他のものに代えるわけにはいかねぇ、ってな感じがあるのかね。

行程

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葛城山を望みつつ、かくんと西に折れて山間へと進んでおるのだけれど、その道行きに。なんてぇことのない道端お稲荷さんなんですが……
なんと瓢箪装備のお狐さんとな。あはははは、良いですなぁ。古くは漢の『説文解字』にその姿が瓢に似る(からめでたい動物だ)と記されたお狐さんです故にお似合いかもしれん。昔話のマジックアイテムとしては瓢箪は山姥かなぁ、という気もするが。あれか、尽きぬ水とか酒とかか(そりゃ河童だ)。なんか瓢箪と狐のお話でもあるのかしら。
そしてあたしは戸沢というこれまた山懐な集落を目指しておるのであります。ふところふところ。それにしちゃ伊豆に姥系の地名はあるのか?今まで気がつかなかったが、古地名にあるのかしら。
また行く道に今度は馬頭観音さん。はぁー、こりゃまた立派な設えで。もう趣味の域ですな。この馬頭観音さんは用水絡みだろうね。

馬頭観音さんにもお供えされていたガマ。ガマガマ。何とも不思議な植物ですな。美味しそう。

劔刀神社

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目指していたのは式内:劔刀乎夜爾命神社である「劔刀神社」。たち神社、たちおやにのみこと、ですな。論社と言えば論社だが、大筋ここだろうと見られている。
これ以上下がれませんのことよ、という泣ける境内。この劔刀乎夜爾命なる神さまがどのような神さまかというのも分からないのだけど、神宝として鉄製の古剣が祀られているとあり、また棟札に「日本武尊・草薙剣霊」と併記したものがある。その棟札の年代が分からないというのがどうなんだという話だが、社頭にも日本武尊と草薙剣を祀ると書いてある(祭神の項ではないが)。んが、その鉄製古剣は「剣形と思われる小鉄器」ということで「草薙剣が祀られている」とイメージでもないようだ。
不思議石造物。法具のようでもあるけれど、その御神宝の鉄器を引きのばした形とかじゃなかろうかね。伊豆で日本武尊というのもどうなんだという話だが、実はおかしくもない。大体この山の向こうは沼津の海で渡れば駿河である。また、伊豆国造祖は若多祁・若建命というが、尊の子の稚武王とよく似た名でもある。十中八九「劔」の名よりの付会だろうが、アウトオブ眼中(古)で良いということにはならないだろう。
ところで、このお社には実にシャイな狛犬さんがおる。これ写真右が参道石段でして、普通に登ってくるとまず見えない。むふっ。しかしあたしの目は逃れられんのですよ(うそ。資料で「ある」と見てなければ見逃していた)。
吽像の方はもうアンブッシュ状態であります。しかし、資料にも「極めて小型であるが丁寧に作られたもの」とあるように、お参りの際には見逃したくない中々独特な狛犬さんであると言えましょう。

さて、ここ劔刀神社でもう一点おさえておきたい件は、「この地に式内社の存する理由は、「中越地」(神社正面の谷奥)方面が古くより良質の□土を産し、花坂と共に布目瓦などを大量に産出し、地方の有力な工業地であったこと」と境内の古い由緒書きの方にあったことだ。
これはこの先の田京の初期国府の伝と併せて覚えておきたい所である。また、三島市に「剱刀石床別命神社」というまた別の式内社がある。これを先の石徳高神社とも併せてメモしておきたい。現状その件について考えるまで手がまわらないが。

温泉神社

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戸沢の奥から長岡温泉街に戻る途中に道祖神さん。これは新しいですな。伊豆型じゃなくて最近のラブラブ双体道祖神さん。後ろの解説が面白い。
「日本では男女和合、子授けの神として、発展的に庶民の信仰をあつめています」とある。伊豆型道祖神(左写真)は単体であって、性神の側面が著しく脱落しているという特徴がある。長岡温泉街ではそれではイカンかったのだ(笑)。
このような「温泉街長岡」の気風というのは中々歴史のあるものでもある。鎌倉時代から武将たちは長岡に遊んだのであり、今にはじまったことではないのだ。先の道祖神さんは新しいものだが、古くからの信仰もあった。お次はそんな所を訪れるのです。
またこんなとこをぐねぐねと分け入ってますが、これで合っているのです。

温泉街東方の丘上に「温泉神社」が鎮座されている。単立社で、『田方神社誌』にも載っていないが、ここが面白い。
かつてこの丘上に「子の神社・男石神社・女石神社」の三社が祀られていたそうな。それぞれ大国主命・男沙胡神・女沙胡神を祀っていたといい、子の神社は普通に子(ね)の神社のようだが、本質は「子ども(子宝)」ということだろう。
温泉神社にまとまる前は、男石神社の祠域には石棒があったそうで、これが主神であったと思われている。まさに「男女和合、子授けの神」だったのでしょうな。周辺からは土器片等が多く見つかり、また古墳を祀っていたという伝もあり、かなり古くからの信仰だったようだ。
今は、三社とも記録上は先の長岡日枝神社に合祀されている形になっているが、ここにこうして「温泉神社」として温泉街の方達が後裔社を建てておるのでありました。
境内の石祠も面白い設えに。それぞれの神さまが像として前に置かれている(手前は道祖神さんか)。石祠に限らずお宮の前舞台というのはこういうことなのだ。

葛城山

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登る時に「なんだよ、こっち来んなよ」という感じで逃げてった猫さんが、降りて来たら同じ位置に戻って来ていた。余程お気に入りのポジションなのだろう。風の通り道か。
件の伊豆葛城山はこの日はこんな調子。天気がよけりゃぁ、噂の石祠を見にロープウェイでピョーンと登ろうかと思ってもいたのだが、雲の中ではね、ということで葛城山頂はまたの機会に。

駒形神社

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そこから小坂(おさか)の「駒形神社」へ。神社というか古墳ですな。駒形古墳。一応七世紀前後の円墳と考えられているが、周辺の掘削が激しく、すでによく分からなくなっている。
墳丘上に駒形神社さんの祠と碑が。かつては周辺から出土したのであろう「土偶」が祀られていたそうな。その後建築用地として北側が造成された折には人形埴輪が出たらしく、祀られていたものも同様のものだったのだろう。
で、実はこの古墳南側のゲートボール場になっておる地下に石室があるという。古墳前の解説にもそうあった。このことから、この部分を前方部とする前方後円墳ではないかと見る向きもある。
これは伊豆として重大なことで、なんとなれば伊豆には前方後円墳は三島市向山古墳群に一基あるだけなのだ。それとて平成になってから見つかったもので、それまで伊豆には前方後円墳はない、とされていた。
駒形古墳周辺はかつては相当な古墳群であったと考えられているのだが、そのほとんどが調査前に消滅してしまった、という所。それでもこの駒形古墳の東斜面からは蕨手太刀・環頭太刀などが出土している。つまり、国造クラスの一族の古墳群であった可能性がある、ということだ。田京に初期国府があった、という伝の補足として、この古墳群の意義は大きい。
ところで古い写真とかだともっと「神社」っぽいお宮だったようなんだけどね、と思っていると脇にこんな祠が。碑になる前の駒形さんなんかな。ていうか見てくださいよこの両脇の棕櫚。
蕨手太刀などが出たという駒形古墳の東側。お稲荷さんだけど、かつて塚があった、とかいう記憶を引いているのかもしれない。ひょっこり埴輪が祀られてたりしないか……と思ったけど、そんなうまい話はない(笑)。

小坂神社

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そこから小坂の鎮守である小坂神社へ……が、拍手うった途端に土砂降りの雨に。おぉ、道行きの間でなくて助かったじぇ(助かりました、か)。雲は低くないのでそうは続かんだろうと思いつつ、小一時間の雨宿りに。また神社での雨宿り。

ようやく雨あがりまして、改めましての「小坂神社」。た、太陽が……(TΔT)。小坂神社さん自体は子神社(子神宮)であったのでして、そこに十七社もの周辺神社が合祀されて小坂神社となった。
その中で重要なのが、かつて葛城山の山頂に祀られていたという葛城神社。現在また山頂に葛城神社が再建されているけれど、そちらは神社庁管轄ではなく、現状古くからの葛城神社は未だこの小坂神社に合祀されているということになっている。
この葛城神社を式内:倭文神社に比定する説があるのですな。葛城繋がり、ということだが、最有力論社は三島市の鍬戸神社。葛城神社が倭文神社であったかどうかはともかく、伊豆葛城山の象徴性から言ったら何らかの古社であったのは確かだろう。
しかしこの小坂神社さんがですね。御覧下さいこの「社 神 坂 小」。「はーい!ちゅうもーく!」ってなもんです(笑)。
境内にぽつんと石祠が一基。『町史資料第二集・伊豆長岡町「宗教編」』には境内社に「木火土金水神社」なるまたナニゴトでありますかというお名前の社があると書いてあるのだけれど、こちらかしら(他、三社あるともある)。
これはなんぞ?

行程

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予定ではここから狩野川を渡って田京の街中を通って……というはずだったのだけれど、雨宿り中にもう日が傾いて来ちゃったのでスキップ。一気に南下してるのだけれど道行きに庚申さん。随分立派ですな。街道がこっちにあったのか。
と、思ってさらに行くと、道辻用水脇に燈籠が。むぅ。やっぱ街道……か?
さらにさらに道行きに田の端道祖神さん。良いですなぁ。子どもらがぶん投げていたりした感じですね。この辺田京周辺はすでに旧長岡町ではなく、旧大仁(おおひと)町になる。

神益麻志神社

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そして神島という土地に「神益麻志神社」が鎮座される。かんますまし・かみますまし神社。神益が小字。ここはかつて駒形神社でありました。
そう、玄松子さんが迷っておられましたが、ここが「神益村駒形神社」で良いのです。

神益麻志神社(webサイト「玄松子の記憶」)

「往古白馬明神と称し、その後駒形明神となり現在の神益麻志神社となった」と『田方神社誌』にあり『増訂 豆州志稿』にも同様にある。
『豆州式社考案』が式内:大朝神社に比定した神益村駒形神社はここで間違いないですね。長白羽命を祀る。こういうのがあるのですよ。で、浜岡行のときに、織物と白羽と馬の関係を気にしていたのです。
その他にも、この次に見る広瀬神社の神領として色々の土地名があるのだけれど、神益も狩野川の形成する川の洲を「神洲」としたのではないかなどなど色々あったりと、中々難しいお社だ。はたしてどのような歴史を持つものか。
もう一点、あまり鑑みられない点をメモしておきたい。写真は大仁の城山。大岩壁で有名ですな。岩壁側行っても超逆光なので今回は行かないけど。この写真の城山のピーク直下あたりが神益麻志神社。城山の大岩壁は古代からそりゃ目立ったと思うのだけれど、周辺「そこを祀る」という神社が見えない。大仁神社がそうなんかな。神益麻志神社は裏と言えば裏だが、直近ではある。その関係はありや無しやとちょっと心に留めておきたい。
そして……夕暮れに晴れ出す空模様。ラーラーラーララーラー(TΔT)。

広瀬神社

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またもや螢の光的な状況で大神社。今回は余裕を持った行程だったはずなんだが……ともかく、こちらがかの式内「広瀬神社」であります。伊豆の要、かもしれない。
ていうかですね。なんか普通じゃないですね、ここは。大鳥居のあとまず下るんですよ。
で、参道が鍵に曲ったあとにミチキリ状の注連縄と実際用水を流した上を渡る橋と二之鳥居と続く。何というか……「念入りなお社」という感じだ。桑原タタル的に。
そうなんですか、QEDなお社なんですか、狛犬どの、と尋ねてみるも「わしゃあ知らん」という感じ。さて、はて。
社名は狩野川に支流の合流する所であったことから、大和広瀬大社に倣ったものと見て間違いないだろう。
そんな広瀬神社なのだけれど、三嶋溝杙姫命ほか不詳二神を祀り、伊豆三嶋大神は白濱からここに一旦鎮座され、後に現・三島大社の地へと遷られたと伝わる。各資料ともその伝を簡単に紹介するのだけれど、これは少し注意が必要だ。
この三嶋大神中継の伝の文脈は、予告していたようにこの地田京に伊豆の国府があり、その国府の社が広瀬神社だったのだ、という点がキモなのだ。まず田京初期国府の伝があり、広瀬神社が三島大社の前身であるというのが付随しているのである。これは一体の話であり、分けて考えるとおそらく各問題は解けない。ここでその問題の各々を列挙すると長くなるので補遺に譲るが、結論だけ言うと現・三島大社及び広瀬神社は国府の伊豆國総社だった、があたしの現段階での解答だ。
しかしまたこの御本殿(覆殿か?)の千木が。どういうんです、こういう千木は。あたしは分からないのだけれど、何という作りになるのかしら。
現在本社殿以外には本殿真後ろにこの祖霊社があるのみ。しかし、以前は別に境内社・見目神社として波布比賣命・久爾都比咩命・伊賀牟比咩命・佐伎多麻比咩命・伊波乃比咩命・優波夷命という伊豆諸島各島の伊豆三嶋大神の后神たちが祀られていたという。
ところで広瀬神社は近くは田の神として篤く祀られてきてもいる。その祭祀は「田んぼ」にまつわる行事が目白押しだ。特にこの御神木の楠にまつわる「御田植祭」が面白い(七月半ばの日曜・もとは旧暦六月十五日)。
神島の神田から早苗を採って来て、式典の後にこの御神木の楠に早苗を投げつけるのだ。もしゃもしゃ生えてるのは先月行なわれた際の早苗でしょうな。うまく楠に早苗が乗ると豊作が約束されると言う。この御神木の楠も、あまり大きくはないのだけれど、実は昭和三十年代に台風で倒れ、根株の部分だけになってしまった所からまた育ってきたという脅威の生命力を持つ楠なのだ。倒壊前は樹齢千五百年とも言われる大楠だったそうな。
この辺の田の神の性格は川の合流地に祀られた(かつては深沢神社とも呼ばれていた)お社という感じでありますな。さらには先の城山を修行場とする修験者たちの僧坊六坊も抱えておったといい、まだまだいろいろな逸話のありそうな広瀬神社さんなのであります。

おわり

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といったところで。本当は田京駅の方の塞神社さんなど紹介して(「御門」という土地に鎮座されている)、地名から田京初期国府の伝を補足しておきたかったのだけれど、もはや日も暮れて(またかよ)、という感じでありまして、今回はこの辺で。
伊豆三嶋大神の北遷の謎は伊豆でも第一級の問題だが、その謎を解く鍵となるのが今回の長岡・田京の地でありました。大体三島大社は「国司の奉幣の便宜のために」北遷したのだとか簡単に書かれるが、そんな一宮がある方がオドロキの話ではあるのだ。まだまだ追うべき筋、詰めるべき課題は山盛りではあるけれど、今回歩きながら、あたしは大体その問題に了解がついたように思う。ここに了解がつくまで伊古奈比咩命には顔向けできない、と思っていたのだけれど、そろそろ白濱さんに参っても良いか、と思っている。

補遺1

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補遺:

補遺……というか単なる書き忘れなのだけれど、神益麻志神社と大仁城山の関係はあるのか、という話についてのこと。『田方神社誌』神益麻志神社の稿には「明治十三年の神社明細帳によると境内社として山神社・稲荷神社・琴平神社・磯邊神社と記されているが、現在、その四社は近くの岩山の頂上に祀られている」とある。この「近くの岩山」が分からなかったのだが、あるいは城山のことではないか。
(地元の方の話によると特にそれらしいものは頂上に見えないそうな)

補遺2:伊豆三嶋大神北遷の問題

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補遺:伊豆三嶋大神北遷の問題

伊豆三嶋大神北遷の問題。まず、基本的な通論を。伊豆三嶋大神は九世紀前後の伊豆諸島の度重なる地震・噴火により中央から注目され、神意の顕現であると見なされ、神階を上げていった。その近古は三宅島にまします伊豆三嶋大神と后神・伊古奈比咩命の二柱が信仰の中核であったと思われる。
しかし、十世紀に編纂された延喜式の神名帳に記載される「伊豆三嶋神社(名神大・月次新嘗)」と「伊古奈比咩命神社(名神大)」は共に賀茂郡鎮座とあり、これは現代の下田白浜の伊古奈比咩命神社(白濱神社)の地に鎮座されていたのだろうと考えられている。三宅島から下田白浜への「遷座」がどのようなものであったのかに関しての私見は後述。概ね三宅島の噴火により奉祀氏族(三宅島壬生氏)共々白浜に遷ったと考えられる。
すなわち、十世紀には「三島大社」は下田白浜にあった、と考えるのが一般的である。反論としては三島大社は現・三島大社の地にはじめから鎮座されていたのであり「賀茂郡鎮座」の延喜式の記述に問題があるのだ、とするものがあるが、ぶっちゃけ三島市がそう主張しているくらいのものではある。
この後、三嶋大神がクローズアップされるのは、『吾妻鏡』に見る平末鎌初の源頼朝の三社詣の記録である。当初は箱根・伊豆山の二所権現を詣でる行程であったが、後に三島大社が加わり三社詣として定式化した。そして、この三社詣が日をあけずに繋がっているために、箱根・伊豆山と隣接した土地(即ち現・三島市)にこの時期すでに三島大社は遷っていたのだ、と考えられることになる。つまり、延喜式施行(967年)から頼朝の三社詣(1188年)の間の二百年ちょっとの間のどこかで北遷があったことになる。
以上が大まかな伊豆三嶋大神北遷に関する通論だ。この他、現・南伊豆町の月間(竹麻)神社(阿波命を后神とする)、加畑賀茂神社(溝杙姫命を后神とする)、下田市の柿崎三島神社などにそれぞれ北遷の伝があるが、これは今回はさて置く。

ここから問題点。まず、「名神大・月次新嘗」の大社・一宮が「国司の奉幣の便宜」の都合などで國の反対側まで遷座する、ということがそもそもあるのか、という問題がある。それが古代の神祇上あり得ることなのかどうかあたしには分からない。しかし、日本の神祀りの理からは考えられない。
そして、ここで広瀬神社も問題となる。延喜式から頼朝の二百年という短い期間で北遷が起り、その中継の社が広瀬神社であったとするには、広瀬神社の伝える往古の壮大さはおかしいのじゃないかとなる。また、レポートで述べたように田京に初期国府があり、広瀬神社はその国府のお社だった、とする場合、その初期国府は延喜式より昔になるはずであり(貞観年間以前か)、これが三島大社の前身であると言うならば、延喜式以前に北遷がはじまっていたことになり、通論と矛盾する。
さらに、現・三島大社を奉斎してきた矢田部氏は伊豆国造直系を伝える氏族であり、三宅島の大本の伊豆三嶋大神奉祭氏族の三宅島壬生氏とは関係がない。付け加えるならば、伊豆国造系は三嶋信仰を取り入れるためにあらたな神格を創出しようとしていた節もある(「比波預天神社」参照

さて、これらの諸問題に対するあたしの解答は、広瀬神社・三島市の三島大社は国府の機関「伊豆国総社」である、なのだと述べた。通論でも伊豆三嶋大社には「総社の機能も兼ね備えている」とされるのだが、そうではない。おそらく平安時代最終末期まで、あそこは純粋に総社だったのだ。
そう考えると、「北遷」したのは総社であるので、延喜式の時代に白浜に伊豆三嶋大神が鎮座していたことと矛盾しなくなる。つまり、三嶋大神北遷の伝は北遷した総社が三島大社「であることになってしまった」ことから遡って発生した伝承である。
ではだれが総社を三島大社「であることにしてしまった」のかと言うならば、これは鎌倉以外に考えられないだろう。三社詣を演出し、その神々を繋げた神話を必要としたのが鎌倉である(「杉桙別命神社」参照)。
ひとまず、このような線で通論に対して「龍学」の伊豆史観がある、ということを踏まえておかれたい。下って江戸中期に白浜のお社が建て替えられる際、そこには「両神が二殿に祀られて」あった。おそらく、「三嶋大神の北遷」は純粋な神祀りの観点からは「なかった」のだと思う。

補遺の補遺(?):下田白浜・伊古奈比咩命神社のこと。伊豆半島の三島神社の系列が概ね「海の方を向く」ないし「三島大明神のおられた三宅島・神津島の方を向く」という結構で造営されているのに対し、伊古奈比咩命神社は三宅島方に「背面して」造営されている。
この問題も純粋には遷座はなかった、という観点で見ると明らかだ。伊豆三嶋大神は三宅島にましますのである。白浜のお社はそこを遥拝する社、現代風にいえば観測地だった、のだと思う。そもそも島嶼の噴火が神意なのならば、神は島嶼にいなければ話にならない。
もっとも白浜の方には三宅島壬生氏の一団が移ってきていたらしくもあり(三宅島壬生氏の祖先を祀る「御館神社」があったという)、現実的には遷座と言って良いのかもしれないが(その辺は神学上の問題という観もあり、あたしには分からない)。

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田方行:長岡・田京 2012.08.18

惰竜抄: