東遠行・旧浜岡

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.07.28

あたくし今回は「英語にすると格好良い県名No.1」の座をほしいままにする(?)、〝SILENT HILL〟こと静岡県は御前崎市に出没しておりました(まぁ、予告済みだったけど)。
……と、書いてから思うに、伊豆だって静岡なんだけどね。えぇ。このへんにあたしの土地感覚が表れてますね(笑)。

ともかく、いきなり駿河をすっ飛ばしての遠州の東であります。今は浜岡町と御前崎町が合併して御前崎市ですな。その旧・浜岡町の方がこの度のメイン(最後少し御前崎の方へも入るけど)。JR菊川駅からバスに半時ほど揺られると新野(にいの)という土地になり、そのあたりで下車。するとですな。
バスを降りるや否や、いきなりキタコレ。なんてことのない祠さんのようだけれど、あたしは朝一脳内アントニオ猪木状態なのであります。
この辺りには「ジノカミサン」という屋敷神を祀る信仰があり、大変興味深いモチーフの数々を伝えている。写真がそのジノカミさんなのだけれど、実はここには確認したかったジノカミさんのバリエーションが全て含まれている状態だったのだ。ここでいちいち解説するのは煩雑になるので最後に補遺として紹介するが、ともかくこの日の三大目標の一つはこれにて了、という状態なのであります。
いきなりアッパーモードになりつつの浜岡行のスタート。田んぼに丘と何処も同じように見える景色だけれど、さすが東遠地方。どこかに必ず茶畑が見える。

そしてこの日最初の神社「上水神社」さんへ。いやもう絵に描いたような田んぼを見守る神社の杜なのであります。
朝っぱらからですね、これを登れというのですな。この石段が途中からブラックアウトする神社というのはまったくもって毎回緊張するですな。しかし……郷社、だと?
この南にある池新田の鎮守「下水(しもすい)神社」が、この辺一帯が開拓された際に勧請された守護神であり、上水神社は開拓が進むに連れ分けられた分社であると思われるのだが(現状資料なし)。何処から郷社が出てきたんだろうね。
ご覧のようにこじんまりとしたお社であります。土地の人は「おすいじんさん」というだけだが、一部資料では罔象女神を祀るとなっている。まぁ、「お水神さん」で良いのだろう。
ちなみにどこかの水道局の方がこの地の「上水・下水神社」を地図かなにかで見て、上下水道の神さまがいるのか、とびっくりしていましたが、関係ありません(笑)。「かみすい神社・しもすい神社」であります。
こりゃ一体なんだろうね。注連縄はしてあるのだからその代わりってことはないだろうし。
道行きに。これは飾りじゃないだろうなぁ。田んぼと丘との境に。
この辺りはこのように屋敷地の内に(ないし隣接して)墓地を持つ家をまま見る。先のジノカミさんは屋敷神であり、祖霊のことだ。大体五十年の最終年忌が明けると、「ジノカミさんになる」のだと言う。墓地の構えも関係しているだろう。

そしてお次の神社さんへ。またこのように丘の杜に隠れるように鎮座されている。ここが「天白神社」なのだ。単立社であり、詳細はまったく分からない。
しかし、まともに扱うのはまだ先になるが、この土地は天白羽神(長白羽神)に関係する社が散見される所でもある。天白信仰を見ていく上では小社とておざなりには出来ない。

「天白信仰」(wikipedia)

また、ここの天白神社さんは概ね南東を向いているのだけれど、これがジノカミさん信仰と関係するのではないかと思ってもいる。ジノカミさんは、屋敷の北西隅、ないし北西に背戸山がある場合はその山に祀られる。すなわち、天白さんがその丘を北西の背戸山と見て造営されたお社だとすると、両者に繋がりが見えてくる。これから進むに連れて、神祀りの全体がジノカミさん信仰のフォーマットの上に展開しているのじゃないかという感想を持つのだが、ここもその一例となるかもしれない。
池新田の地に入りまして、下水神社さんを目指しているのだけれど、川を渡った先に旗立が見えた。でっかい看板みたいなのは車は通んなという奴ですな。
こんなところにねぇ。後ろは崖で、確かにその上が下水神社さんの御本殿ではあるのだが、変なところに旗を立てるのだね。杉の葉の束がささっている。

そこからぐるりと回り込みますと、「下水神社」さんであります。
また、杉の葉が。よく魔除けとして使われるものではあるが、旗立にさすのだね。
一帯の古社としては高松神社があり、また池宮神社があるが、高松神社はかなり遠く(今回範囲外)、池宮さんは後半見るようにかなり特殊である故、ここ下水神社さんが浜岡の実質総鎮守格という感じなのだと思われる。
慶長年間に干拓され、池新田村が開かれた際に、丹生川上神社から弥都波能売命を勧請し、土地の守護としたという。この干拓地が浜岡町中心部の前身であるので、ともかく浜岡は水の女神の土地であるのだ。
また、ここ下水神社さんは秋祭りがまた素晴らしいお祭になっている。下参照サイト様に見るように、例のボンテンから進化していった華やかなお飾りの屋台が列をなすのだ。

「下水神社の祭」(webブログ「祭歳時記」)
その下水神社さんの拝殿直上に。これは櫂だね。拝殿の建築に同化していて危うく見逃す所だったが。漁師たちからの信仰もあったということだろう。
で、脇の境内社さんにこんな。津島さんだと思われるが、なんだなこれは。割拝殿ということなのだろうかしら。
後ろから見るとこんな。これで十全なんである、というならば割拝殿というのは衝立ということになるわね。
小振りながら迫力のある御神木。なんとなく、大きい、ということより枝振りが御神木の要だ、という感覚のある土地なのかもしれないなぁ、と全般を通じて思った。
下水神社は地図を見ると分かるように一帯の河川が合流する所に祀られているのだけれど、一番合流っぽい(?)所はこんな。堤である。これでは鋭角部分を祀るというわけにもいくまい。特に何もない。茂みの中がどうなのかは分からんが。
これまたジノカミさん。今はこのように石祠となっていることが多い。ここは畑の隅にきていて、ちょうど畑仕事していた爺ちゃんに写真撮って良いですかと聞けた。なんにせよお屋敷神なので、撮影できる機会は少ない。
赤い祠の中に小さな丸石が見えるが、このような石がご本尊として多いようだ。これはもうまったく卵である。世界卵ならぬ祖霊卵、とでも言うべきか。
小さな神々と言えば、道祖神さんはまったく見なかった。道の分岐には写真のように「何か」があったりはするのだけれど。
道脇にもこんな祠がある。で、この祠はなんであるべいかと道行く婆ちゃんにちょっと尋ねてみた所、「オレは知らねえけどよぉ、そこの家の婆さまに聞いたら分かるかもよ」と言う。
まぁ、別にそんなオジャマするほどのあれでは……ごにょごにょとあたしがやっていると、「かまわねぇよう。あたしの友だちだもん。なんだい、あたしが言ってやるよ。ちょっと○○さーん!」てな具合におなじみ婆ちゃんジェットコースターの開幕である(笑)。
結局何だというのは分からないのだけどね(笑)。昔、祠の後ろの空き地にあった一軒家のお婆さんがこの祠(観音さんだろ、と言っていた)大事にしていたのだそうな。そのお婆さんが亡くなり、家もなくなり、今はもうこの祠が何であるのか知る人もなくなった、ということのようだ。
これは何かの謎を解くようなことではまったくないのだけれど、あたしにとってはむしろより重要なことではある。この祠を大事にしていたお婆さん、という話を聞いて、その様子を思い描くようなことから、その土地が「実在する」という感覚が立ち上がってくる。
道行きに。これが現役のパチンコ屋さんだったらふらふら入っちゃって浜岡行第一回はこれにて了、だったかもですな(笑)。
また道行きに。なんだかさっぱり分からない。でも、「分からない」というのはセンサーがよろしい証拠でもある。はじめての土地の小さな神々などいきなり分かるわけがないのだ。

この辺から炎天下モードに突入。いきなりへばるあたし。で、ここは「浜水神社」を訪ねて来たのですね。上下に続いて浜にも水神社さんが展開していたのだ、と。
んが、これが石が立っているだけだった。あらー、と思ったが、帰ってから良く地図を見るに、どうもあたしは「隣のエリア」をまわっていたらしい(爆)。わはははは。早くも暑さでイカレてましたな。浜水神社さんはまたの機会に、となってしまいましたとさ(あほ)。
そこから浜岡砂丘へ登りますと、THE 遠州灘がはるばると広がっている。いやもう西相模のあたしからすると遠州灘はすでに西国の海へ通じる海、であります。はるばると、はるばると。
この砂がまた細かくて白いのですな。砂というより粉である。登るの超大変。
ここで最初のジノカミさんをもう一度。砂が敷かれているのが分かるかしら。『浜岡町史』にも砂を敷く事例がいくつかあるが、総じて消滅方向にある事例のようだった。それが初っ端にあったんで大騒ぎしておったのであります。
浜砂をお産の際に産小屋に撒いたという文字通りの「うぶすな」の話はすでに今見ることはなくなったが、年度毎に新しい浜砂を持ってきて鎮守の境内なり、このようなお屋敷神の前に撒く、という事例は今もままある。ここ浜岡のジノカミさんにもその要素があった、ということなのであります。
波間にぷかぷかと。すわ、「波小僧」か、という光景。遠州七不思議の波小僧は、「流された藁人形」が妖怪化している重要な例。これもあとあと話に絡んでくる。

「波小僧」(wikipedia)
ところでなんで砂丘上こんな厳重に柵があるのかしらね。波小僧の上陸を阻むのかね(笑)。

さて、そこから東を見ればこれがかの「浜岡原発」であります。この辺から見るとそう巨大にも見えず、必要ならペチャンと畳めば良いじゃないという感じだが、そう簡単にはいかないわけですな。

「静岡新聞」では震災前に「浜岡原発の選択」という特集が組まれ、震災後には「続・浜岡原発の選択」という特集が組まれた。

「続・浜岡原発の選択」(静岡新聞)

各記事はお読みいただくとして、最終章を「エネルギー新時代へ」と結んでいるように、脱原発を推進し、浜岡は周辺に広がる自然エネルギーによる発電の研究を進めていくべきだ、と提言している。そして、あたしが特に重要だと思うのは次の点だ。

浜岡原発1、2号機の廃止措置は、廃炉ビジネスとしての産業化や解体技術の開発・研究などの面で大きな可能性がある。新しい技術は、福島第1原発の解体作業にも貢献できるだろう。静岡県は先進的な技術開発拠点になり得る。

静岡新聞:続・浜岡原発の選択より引用

すでに浜岡1、2号機の運転終了は決定されている。加えて、先だって昨年五月の海水流入事故の際、5号機には5トンほどの海水が圧力容器まで到達したということが公表された。

「浜岡原発5号機事故」(時事通信)

最新鋭の5号機も、すでに運転再開するには余程の理由づけが必要という状態な訳だ。これらを見るに、日本全国の原発の中で、「元原発の街」に最短距離にいるのは浜岡なのだと思う。ここで出来ないなら他はもっと難しいだろう。
海外で見ても、先だってイタリアのトゥリーノ原子力発電所の閉鎖が最終的に承認されたが、それがニュースになるくらいに、原発の廃炉というのはチャレンジングな話なのである。手持ちの技術では「足りない」のだ。

「イタリアの原子力発電所は解体へ」(wired)

そして、問題は技術だけではない。原発を中心にまわっていた地域経済・文化をどうするのだ、という難門がある。個人的に「浜岡行」で考えたいのはこちらのことでもある。
中沢先生のグリーンアクティブが大飯原発の再稼働を「ニソの杜」から考えはじめたように、土地の伝えたものを通してその再生は図られるべきなのだ。

「中沢新一氏インタビュー」(web DICE)

これらのことに関して、浜岡はフラッグシップをとってしまって良いのじゃないかと思うのである。一応国も脱原発路線を口にしたのではあるから、「浜岡特区」構想をぶちあげてしまっても良いくらいだ。
たった一日歩いただけだが、思うに浜岡は「原発に骨抜きにされてしまった土地」などではなかった。土地の伝承も神祀りも濃く受け継がれている。あたしはこの土地を歩きながら、そのことを紹介していきたい。

ところで原発沖にあったこれはなんだろうね。
砂丘から街の方を見下ろすとこんな。浜岡砂丘は結構高いのだ。
防風林の松を炭にする炭焼き小屋だそうな。どんな風なのか見てみたかったがお休みのようだった。炭焼きって季節があるの?
道行きに無人販売所。空だが。神社巡りをしているとこの無人販売所が遠目に「おや、何かの祠さんかね」といつも見えるのだが、あるいはそう的外れでもないかもしれない。
道祖神さんなど境の神が時として集落の境で集落外の人との物々交換の場であったことはこれまでにも紹介したが、そこは日が当たらぬように覆い屋を設ける必要があっただろう。道祖神さんなんかがやたらと立派な覆い屋を持っている所は、そういった必要があったものと見ることもできるのじゃないか。
そんなこんなで。もうアチイのなんのって、毎年やってますが(笑)、ちょっとトンネルで一休み。海からの風がトンネルをヒュオオオと吹き抜けて天然(?)送風機状態なのであります。
一昨年の夏も伊豆のトンネルでくたばってたなぁ。去年の常陸行では「トンネル休憩」はなかった。常陸はトンネルが少ないのか?
お次はいよいよ東海地方でも指折りの竜蛇譚が伝わる桜ヶ池へと向うのでありますが、途中新野川を渡る所。はい。どちら様か存じませんが、お暑い中ご精が出ますね。おたがいさま。
さらに行く道に。舟がプランタになっとる(笑)。これがホントのキフネ(ry

ところであたしもバス路線・県道の方から行ったので見落とす所だったのだけれど、南の国道150号線近くにこのようなでっかい一之鳥居がある。額が池宮神社でなくて「桜ヶ池」なのだ。よろしいか。
ちゃお!

思わず境内の竜さん先に出しちゃいましたが(笑)、こちら「池宮神社」。後に見るように一帯公園で色々な経路があるのだけれど、ここが正鳥居であります。
そしてお分かりか。正鳥居から参道の伸びる先には御社殿はないのだ。池があるのである。すなわち、池を御神体とする社(?)という様式がばっちりと示されているのが、ここ池宮神社なのでありますな(もちろん社殿もある)。
池宮神社は敏達天皇の御宇にこの地に瀬織津比咩神が出現し……という瀬織津比咩を祀る社のなのだが、実際には法然上人の師であり『扶桑略記』を著したとされる僧・皇円阿闍梨が龍と化して入定した、という伝説が主体となるところだ。
皇円阿闍梨は人の身では弥勒下生に立ち会うことがかなわないと、龍身となって桜ヶ池に入定したのだ。桁外れの信仰、という話として語られるが、これはむしろ妄念を語るものだろう。仏道で龍に化すといったら通例は「畜生に身をやつす」という線である。
後、法然上人がこの師・皇円龍神の安泰と五穀豊穣を祈り、赤飯をつめたおひつを桜ヶ池に納めた。これが、以来八百数十年続くと言われる「お櫃納め」神事である。若衆が泳いで行くのですな。

遠州七不思議 桜が池(「静岡裏観光案内」)
じゃあ(?)竜さんとおひつの全体像も。箱根芦ノ湖や上州榛名湖同様に、これは赤飯がヌシの竜蛇に受け入れられるかどうかの占いにもなっている。
こちら池脇に控える瀬織津比咩の本社殿。お櫃納め神事でまた見逃せない話は、沈んだおひつが、遠く信州諏訪湖に浮ぶことがあった、という伝だ。桜ヶ池と諏訪湖は通底しているというのである。
かつて神事で用いた舟。諏訪との関係という点では先に引いたサイト様には「底を抜いた柄杓」を用いる祖霊供養の次第もあり(お産絡みではないようだが)、民俗の流れとしても侮れない。
諏訪では葛井神社が神事を行う葛井の池と遠州「さなぎ池」とが繋がっているという伝を持つ(さなぎ池は浜名湖東の佐鳴湖のこと)。この辺話が長くなるので補遺でまとめるが、この線も覚えておかれたい。
皇円龍神は本社殿と別にまた祀られている。さて、しかしここまでの話は「良く知られた話」であり、今回の行程からいえば「お通し」である。ここからが浜岡ディープになってくる。ここ池宮神社は、実はかつて「池宮天王」だった。

平安時代、一条天皇の頃、国司藤原某が〝桜の前〟という美しい姫を従えて国内を巡察していた。昼下がりとなり、ちょうどこの池の前に馬をつないで〝池宮天王社〟に参拝し、休息の酒宴となった。桜の前に舞を舞わせていると、突然池の怪物が現われ、桜の前を引きずり込んだ。怒った国司は領内の住民を集め、数万の石を真っ赤に焼いては池中に放り込ませた。これが三日三晩続きさすがの怪物も逃げだした。待ち構えていた役人たちが一斉に矢を放ったが、怪物は恐ろしい勢いで南方に走り、国司の馬を一撃で殺し、さらに逃げ惑ってついには行方をくらましてしまった。

『浜岡町史 通史』より要約

この伝説は『浜岡町史』の民俗編ではなく通史編の方で紹介されている。まったく何たるフェイントだという……(笑)。で、引き続きこのようにある。

桜ヶ池に住んでいた怪物は、牛が化けたものだといわれ、それは池宮神社が「池宮天王」とよばれていたこととも関連する。すなわち天王信仰とは、牛頭天王を祭神とし、その本体を素戔鳴尊とする。

『浜岡町史 通史』より引用

ということで、桜の前を引きずり込んだ池の怪物は「牛の化けたもの」であり、牛鬼と考えて良かろう。これがどのように下っての伝説と関係してゆくのかなどはこれからの課題だが、特に牛鬼の話の方はさらにこの後展開があるので覚えておかれたい。
まー、今はのどかな公園なんだけどね。ともかく、この桜の前と牛鬼の話は現在の境内の各種解説にも、『日本の神々』(白水社)の池宮神社の稿でまったく勘案されていない(少々問題である)ので、まずは注意しないといけない。
池宮さんおまけ。鳥居脇の狛犬さん。池宮神社はもと郷社であります故、中々立派な狛犬さんですな……と、思いつつ。よおーく見てみますと、これが……
oh……これ尻尾というより尾びれでないの?マーライオン状態?実は牛鬼を暗示しているとか言うんじゃないだろうね。
お次へ向う途中。ガソリンスタンドも律儀に北西隅に祠を祀っている。街中の新しい家も含めてかなりの割合できちんと北西隅にジノカミさんを祀っていた。北西に対する感覚は相当強い。
国道150号線から浜岡原発を眺めつつ東へ。そうなると浜岡原発の北西隅も何かあるのじゃないかしらねと思うのだが、いったいどこが北西隅になるのかというと広くてワカランですな。
しっかし暑くてねえ!もうなんだ。こんだけ暑いと矢でも鉄砲でも持ってこいや、ゴルァ!という感じになりますな。下って暫しで御前崎エリアに入る。まだ次の話は浜岡だけれど。
途中に常夜燈があった。秋葉信仰のものだとある。海に対するものではなくて、山中の人の行き来を助けるものだったそうな。コンクリ製は珍しいとあるが、言われてみればそうかも。

やってきましたは浜岡エリアの東の境の「筬川(おさがわ)」であります。ここに東から流れる用水の合流する所を「おべんが淵」という。
ちょっととんじゃっているけれど、左の白い看板に「おべんが淵」とあるのですな。この淵に以下のような河童伝説が伝わってきた。

浜岡町と相良町の境界を縫って流れる筬川の下流、筬川橋の辺りは昔ながらに蒼く澱み、魔の淵として恐れられてきた。この淵に棲むカッパが女衆の欲しがる筬(機織の用具)に化けて娘(婆とも)を誘き寄せ、手を伸ばして拾い上げようとしたところを捕えて水中に引き込んでしまった。

『浜岡町史 民俗』より引用

ということなのだが、筬とは機織り機の横糸を詰める櫛のお化けのようなもののことである。そして、この伝説はただちにみちのくに伝わった次の牛鬼伝説を連想させる。

昔、山中池の畔に、美しい娘が猟師の父親と暮らしていた。娘は機織りがしたくて、父から機織り機を作ってもらったが、滑りが良く使いやすい杼(ひ、横糸を通す道具)が無いため、なかなか機織りが出来ずにいた。
ある朝、娘は池の底に杼を作るのに適した、牛の角ような形の木を見つけた。この木で作った杼はとてもすべりが良く、不思議な音を奏でるので村中で評判になった。しかしある時、娘が一人で機織りに夢中になっていると、一人の若者がやってきて、娘の杼を取り上げてしまった。
この男は池に住む鬼(牛鬼)で、杼になっている自分の折れた角を取り返しにやって来たのだった。男の正体を見破った父親が鉄砲を撃つと、男は鬼の姿になり、怪我した足を引きずりながら池に逃げ帰って行った。
しばらくすると物寂しい夜などに、池の中から機織りの音が聞こえるようになり、村人たちも、池に集まり楽しく踊るようになった。

「まんが日本昔ばなしDB」より要約

筬と杼の違いはあるが、水中にある機織りの用具がカッパ・牛鬼に由来し、それに機織りの娘が手を伸ばしているのである。根本にあるモチーフは非常に近い。河童と牛鬼が本来非常に近しいものだったのではないかとはさんざん言ってきたが、これはかなり距離を縮める一件だと思う。
さらには、地図を細かく見た方は気がつかれたと思うが、写真の看板の背後の森のある所の小字は「蛇喰」なのである。「日本の竜蛇譚」でおなじみの竜蛇伝説につきものの地名「じゃばみ」だ。
先の桜ヶ池は水の流出先を持たない池だが、筬川はなんとなく桜ヶ池の方から流れて来る川、という感じではある。桜ヶ池の古伝が牛鬼伝説であった可能性と、ここおべんが淵の河童伝説が牛鬼伝説に通じるモチーフを持つということはよくよく頭に入れておかねばならない。
ちょっと下の筬川橋のあたりには新しい慰霊碑があった。辨ヶ淵とあるように「おべん」とは弁天さんに通じるのだろう(土地の娘「おべん」が悲恋の末ここに入水した、という話もある)。しかし、伝説の慰霊というのも変だから、実際水難事故もあったのだろうね。見た感じ今はそう深い流れには見えなかったけどね。
鵜さんは魔の淵上でも呑気なものでござる。鵜ってペリカン目なんですよ。言われてみると、はぁ、なるほどねえ、という面構えであります。
近くには「牛飼」という小字もあるようだった。菊川駅からバスの途中で見たのだけれど、浜岡の北西菊川市内には菊川に合流する「牛淵川」も流れていた。この辺の「牛」にまつわる話もどんどん探っていかねばなるまい。
旧御前崎町エリアに突入。ここでめずらしく「紅雲寺」というお寺さんに寄ってみた。もとは天長の伝・弘法大師作の脇物薬師如来像以下(文化財指定)を祀るという真言宗の古刹だった。
一旦衰廃に及んだものの寛永年間に曹洞宗の寺として再興。ここに「樹齢一千百年の玉の木」があると聞いてやってきたのだ。玉の木とはタブの木のことですな。ご覧のようなまたすさまじい枝振りのタブの木であります。
「我々の祖たちが、此国に渡って来たのは、現在までも村々で行なわれている、「ゆい」の組織の強い団結力によって、波濤を押し分けて来ることが出来たのだろうと考えられる。その漂着した海岸は、「たぶ」の木の杜に近い処であった。」と折口先生は言ったのです。そして、御前崎をまわって駿河湾に入っていけば、そこには由井正雪の出身地の由比の海がある。伊豆半島にタブ・楠を見つつ、鎌倉由比ヶ浜へと到達した人々がいたのであろうその並びがすこし手前でも展開していたように見えますな。
ここ御前崎は、よりこのような海の民の痕跡がしのばれる土地(海)であろうことが予想されるのであります。ということで地図上「西宮八幡神社」という単立のお社を見つけ、えべっさんかいな、と寄ってみたのであります。
んが、その鳥居の影の暗がりに婆さまがおってな?あなた、ちょっと日も傾いたお宮の鳥居の暗がりに九十は越えてるだろうという婆さまがおって「おめ、どっから来た」と言われた日にゃあ、はたしてあたくしこの世にいますか、いませんか、そうですか……と思うのも宜なるかなという(笑)。
しかし西宮八幡さんは通称「西宮さん」だそうだが、境内由緒には「品陀和気命・帯中日子命・息長帯比売命」とあって、八幡さん一色ですな。由緒頭には「神の子発祥地」とある。「神の子」とはまた穏やかではないが、なんだろうね。小(古)字か。婆ちゃんに聞いてみても「オレはそんなのしらねぇ」ということで神社そのもののことはよく分からなかったのだが。また由緒にはこの次の御前崎の古社「白羽神社」と同時期の勧請の社である、という伝があるとあり、あるいは白羽神社の境外社であり、「西にあるお宮」のような意味なのかもしれない。
ところでこの婆ちゃんが、あたしがお参りしたり撮影している間中、物珍しそうにしつつ、何かにと話し続けるのだけれど(方言全開で半分も分からなかったが)、面白い話があった。境内が妙に掃き清められているなと思ったのだけれど、婆ちゃん曰く葬式があったのだという。「きーからなんかがおっこってきてよぉ、気の毒だけんど年寄りだからしっかたねぇ。だからほれ、掃いてあんべぇ?」と判じ物のような会話なのだが(方言はいい加減です。わかんないので……笑)、要はその葬式に併せて神社でもなにがしかの儀礼がとり行われたらしい。
「鳥居んとこにお墓があんべぇ」ということで、このお社を守護とするような一族の墓地でもあるらしい。で、葬儀そのものはお寺で行なうのだが、神社でもなにがしかの儀礼を行なうのだ。この辺やはり「ジノカミさん」的なフォーマットの上に神社もあるのじゃないかと思うのである。
ここには樹齢数百年の町内最古クラスという椎の木が御神木としてあって、これも撮っておこうとしたのだけれど「なんだ、オレも撮んのかよ」とニイ、と笑って椎の木の脇に座るばあちゃん。いやいやいやいや……まぁ、いいか(笑)。

さて、これは大変教訓的な話でもある。これまでも何度も指摘したが、今一度指摘しておこう。この婆ちゃんにしても見た所十年単位でこのお宮で過ごしているのだと思うのだが、あたしが由緒を読んでいたら、「ほぉ、なんか書いてあんのか。しらねぇかった」ということで、「八幡さんなんですかね」と尋ねてみても「はちまんさまぁ?そんなご大層なもんじゃねぇよう」という感じなのである。土地の人にとっては氏神さんは氏神さんであってそれ以上でも以下でもない。
神社にはこのような地の方から生え出てきたような性格と、土地を治める領主などから与えられた天から降ってきたような性格の二つのベクトルが必ず混在している。その双方をよくよく見て回ることが神社メグラーの楽しみと言えるだろう。

そして「白羽神社」へ。西宮の婆ちゃんは「白羽さんに歩いてくって、おめ、日が暮れっちまうよ」(と、言いつつ中々解放してくれないのだが……笑)と言うのだが、そんなに離れているわけではない。
御前崎は古く「厩崎」であったとされる。馬ですな。そして、先端に「駒形岩」というたくさんの岩礁があり、往古沖で遭難した九十九(八十九とも)の馬が岩に化したという伝説がある。一頭が岸まで泳ぎつき、「駒形神社」として祀られた。
その駒形神社から遷座したのが白羽(しろわ)神社とされるのだが、ここは延喜式に載る白羽官牧の地であり、それに由来した社の構成が保存されているのだと言えるだろう。
境内にはおんまさんの像もありましたな。んが、駒形神社も白羽神社も、直接的に駒形的な神を御祭神としない。天津日高日子穂々手見命(山幸彦)・豊玉毘賣命・玉依毘賣命を祀る(両社共)。これ即ち「竜宮」である。この点に関し、白羽神社の社伝は直裁に次にように言う。
「当社は、往古は馬をお祀りしていた。これは、龍神信仰によるもので、海辺では名馬が育つと信じられたため。」
これはつまり竜馬の話である。

水に竜馬が棲み、その水場の近くからは名馬が生まれる(竜馬が親となる)、という伝説が広くあることは以前紹介し、また、古代海人族(阿曇連)と馬飼部には密接な連絡があったのではないかと見る向きがあることも以前紹介した。これをまた再録すると長くなるので端折るが、ここ白羽神社はその流れを汲むかもしれない所なのだ(しかし、東北の竜馬伝承の地は「羽黒」だったりするのだけれど、なんでこっちは「白羽」なのかね。この字面そのものに何かあるのかね)。

さらに、白羽神社は式内:服織田神社の論社としても名があがる。式内:服織田神社の最有力論社は北側牧ノ原市の「服織田神社」であり、麻立比古命・天八千千比賣命(天棚機姫神)を祀る名のとおりの機織りの社である。

服織田神社(「玄松子の記憶」)

白羽の牧は機織りのコードと何か関係するのだろうか。また、西側磐田市の天竜川左岸に白羽の地があり、牧地として牛馬を放養し、県内最古の白羽神社とうたう白羽神社があるのだが、この主祭神が「長白羽命」である。ここでも機織りと馬が交錯している。

白羽神社(「神社探訪 狛犬見聞録」)

さらにさらには、「河童駒引き」の線にも繋がって行くのかもしれないことは、浜岡の方の話を辿ってくれば逃げ道もなさそうだ(笑)。このように大物がぐるぐると巻きつき重なっている白羽神社さんでありまして、あたしの目がぐるぐるとなるのも暑さのせいばかりでもないのであります。
にゃあ。
ま、その辺は例によって追々、ということで。御神木はイヌマキの木だそうな。イヌマキと言やあ、螺旋に巻いてるイメージだが、これは「ほどけて」広がった感じだわね。やはりこう大きさよりも枝振りなんじゃないのかね。いや、大きいけどね。
ていうかですね。えぇ。あたくし恥ずかしながら御神木が神社庁の審査によって指定されるということをここではじめて知りましたね。あー、そうなんか。
そんな感じで。御前崎エリアに入ったら入ったらで、これまたゴチャマンと色々ありそうなのだ、という実感は十二分に得まして、この日はこの辺でグロッキーなのでありました。

浜岡−御前崎というのも(限った話ではないが)、太平洋を東西にとる軸の間にあり、同時に諏訪から天竜川が流れてくるという南北の軸の先にありということで、当たり前だけれどるつぼ的な様相を呈しそうな土地でありました。ヒトコトで言ったら「面白い」という所でありましょう。まー、面白すぎて「桜ヶ池」を「日本の竜蛇譚」でまとめるためにはあと何が必要なのかもよく分からん、という勢いでもあるのだけれど(笑)。
浜岡原発の地ということで、このことに関して「考えねばならぬ」という少々大上段なテーマのある東遠行となるのだけれど、それを支えていく「私個人が受け取った魅力」は十分である、と言えましょう。まずはそれが重要であり、第一歩なのです。

補遺:

ジノカミさんのこと。概略は以下のよう。

屋敷に祀る神をジノカミ(地の神)と称し、永代続いている家の屋敷地には普遍的に祀られていて、屋敷地の戊亥(乾)隅または西北側位置している背戸山を鎮座地としている。祭日は旧暦十一月十五日となっていたが、現行では基本的に新暦の十二月十五日としている。
(中略)ジノカミは屋敷の守護神として信仰されているが、亡くなった人の最終年忌が終わるとジノカミになるという伝承がある。
(中略)またジノカミをオシャガミと称し、ジノカミ祭りに際し子や孫に「おしゃがみ」といってしゃがませ、供物の赤飯や惣菜を手の平に分けてやる習慣が(あった)。

『浜岡町史 民俗』より引用

ということなのだけれど、この置かれる祠のことを「オフクラ」という。お−ほこら、だろう。石祠が用いられるようになったのは近年のことで、旧来は写真の藁祠がオフクラだった。概ね柱・棟木を竹で作り新藁・杉の葉を編み付け片屋根に作る。
「地の神」といい、屋敷神を祀る作法は全国に見られるが、浜岡地方で重要なのは祖霊の集合と一致した存在であるというイメージが確固としていることだ。先に見たように最終年忌(五十年・三十三年)が終わると、魂の個人としての性質が脱落し、「ジノカミ」になる。お年寄りが「お迎えがくる」と良く言う所を、浜岡では「オレはジノカミになるだ」と言ったそうな。東の熱海の方では人が死んだら日金山に行くのだ、という感覚が強いし、海の暮らしでは海上へ行く感覚が強いだろう。ジノカミさんの示す「魂の行方」のイメージはどう位置づくのだろうか。
また、ジノカミさんへのお供えに関しても少し述べておこう。写真の藁のお皿のようなものを「ジノカミのオワン」といい、祭日に赤飯等を盛って供える。で、この赤飯等が一晩でなくなる(動物らが取っていく)と「納まった」と言って縁起が良いとした。
これは例えば常陸の道祖神さん祭祀(左写真)などでも同じである。お供えが早くなくなるほど「吉」なのだ。この傾向がしっかり占いとしてまとまると「鳥占・烏勧請」のようになる。桜ヶ池の(あるいは箱根芦ノ湖・上州榛名湖の)「お櫃納め」はこの延長線上にあると見るのが良いと思う。

桜ヶ池と諏訪のこと。お櫃納めで桜ヶ池に沈められたおひつが、遠く信州諏訪湖に浮ぶ、桜ヶ池と諏訪湖は通底しているのだ、という伝説があることを紹介した。
そして、諏訪湖南東の葛井神社では、神池の葛井に投げ込んだ幣等が、遠州サナギの池に浮ぶという伝説がある、ということも紹介した。サナギの池とは天竜川と浜名湖の間にある今の佐鳴湖のことである。

葛井神社(玄松子の記憶)

もう一つ付け加えると、天竜川を遡る途中の浜松市水窪に間をつなぐ伝説がある。水窪は「日本の竜蛇譚」で「竜の玉」の伝説を紹介したその地でもありますな。各地ポイントは左地図を参照。
この水窪の「池の平」というところは、普段は山腹の何もない平地なのだが、七年に一度水が湧いて池になるのだと言うのである。そして、池は諏訪湖の竜が桜ヶ池に遊びにいくときに出現するのだと伝えている。実際何年に一度か水が湧くというのは本当である。

幻の池「池の平」(水窪情報サイト)

葛井の方が竜蛇の話なのかどうかと言うとよく分からないが、葛井はまた「九頭井」とも書くので、遠くはないだろう。さて、このような連絡を見せる諏訪と遠州なのだけれど、桜ヶ池に関してはこれはあとからの付会だろうと思わせる節もある。

実は、古く桜ヶ池は二つの池だったようなのだ。「二池有リ桜ヶ池ノ男池女池ト名ヅク。方五町許リ、其ノ深サ知ルベカラズ。」と『和漢三才図絵』(原文は漢文体、以下お櫃納めの様子が描かれる)にあるという(『浜岡町史 民俗』)。
また、「桜池、今池周凡九百歩、南方有堤、是曰女池、其西有男池、近世埋却墾田」「此池は遠江国笠原庄桜村に、男池女池とて、方五町ばかりの池二ツあり」と吉田東伍もまた別資料から引いており、桜ヶ池は男池・女池であったようだ。
「お櫃納め」に関して信州諏訪湖との通底が語られる先の伝説は、もとは男池と女池の通底という範囲で語られていたのかもしれない。これは竜蛇伝説の池沼にはよく見る光景である。桜ヶ池の竜蛇伝説を見ていく上で、この点はしっかり覚えておきたい。

東遠行・旧浜岡 2012.07.28

惰竜抄: