伊東・熱海・湯河原行

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2011.03.05

いや実によい天気だった。しかしまー、調子に乗って歩き回ってたら、駅で電車待ってる間に冷えた体がメキメキと……。じいさんみたいな立ち方しちゃったじぇ(TΔT)。
さて、本日は南豆行続きの予定だったのですが……朝起きたら首が回らねぇ……いや、お財布見たら空だったとかじゃないですよ?寝違えたのです(笑)。もう完全に右が向けない。あうあうあう。
とまあ情けない有様でちょっと道路事情的に危険が危ない南豆行は延期しまして「そういう時こそ足下を固めないとイカンのにゃ!」ということで、まずそうだったら即撤収可能な伊東〜熱海〜湯河原(結局途中で治って歩きまくった……笑)へ。

7:30 am 伊東市鎌田「山神社」。南伊東駅から颯爽と(首は回らないけど)坂道を登りまして。伊東熱海あたりまだ結構取りこぼし神社さんがありまして、今回は落ち穂拾い編ですな。
覆い屋はトタン造のささやかな神社さんですが、個人的には重要なのだ。ここはもと「大六天社」だった。伊豆における第六天分布の貴重な一例なのですな。大(第)六天社から山神社へと移行したというのも珍しい。あるいは記録がないだけか。
久々の伊豆型道祖神さん。ご無沙汰しております。以前は頭のない像などは遠慮して掲載しなかったりしたが、今ではそんなことない。伊豆の道祖神さんはこれが本懐なのだ。

少し下って「山王神社」。あまり庚申を見ないと思っていた伊東周辺だけれど(山の方の農村部はある)、山王さんはあるのかね、と思いつつ……んが、これが……
こんな扁額(?)ははじめて見た。これは……船霊を象っているのではないか。海まで歩いて30分くらいだと思うが……漁師達が住んだのか?朝一番から驚き桃の木である。
難しいことを抜きにしても、この山王さんの立地はすばらしい。この立地が何を意味するのか一目瞭然だ。朝の光に石塔が寄り添って……あたくし朝からナダソウソウ(花粉じゃないよ?)。

続いて岡という所の「秋葉神社」さんへ。地図上見ていても「秋葉さんがあるねぇ」くらいにしか思っていなかったが、これも行ってみて一目瞭然の土地だった。
伊東の港町を一望する立地。天王さんを合祀しているが、火防・疫病防ぎが丘上から一望に睨みを利かせていることになる。なるほど、なるほど。

「天照皇大神社」。要は神明神社で、創建も鎌倉後期と結構古い。しかしより問題なのは相当数の神社が合祀されている点である。中には式内論社クラスの存在もあったかもしれない。
伊豆には神社が多いと言われる。式内九十二社のイメージだろう。が、実は伊豆の神社は少ない。特に宗教法人格の神社は少ない。これは明治の神仏分離令の時に当時の伊豆のボス江川氏が仏教側を推したからだ。結果神社は大合祀されてしまった。今でも神職によって管理されている神社は数えるほどなのだ。
そんなわけで伊東のような古代からの要所にあって、現代は大合祀の「結果」として残っている神社は解読が大変なのだ。伊豆の神社資料があまり出ないのはその辺に一因があるのかもしれない。
そんなあたしの思惑も知らずに猫まっしぐら。時々あたしは猫にたかられるのだが。しかも突進してきたと思ったら足下でゴロゴロ転がりはじめやがった……こやつめ(笑)。
えー、先の大合祀を物語る一棟……ナンだが、何故そこに居座るのですか、アナタ(笑)。居心地良さそうな場所には見えんが。
再度西へと転じます道行きに電柱裏の道祖神さん。伊東の道祖神の記録に車が突っ込んで以降(道祖神さんで車が止まった)、大切にされるようになったというのがあったが、ここかしら。
同書で交通安全の祈願は道祖神さんの管轄にしたら良いのじゃないかとあったが、まったくあたしもそう思う。

伊豆急を越えて階段登って、登って、「松原八幡神社」。ここは以前も参拝しているのだけれど、その時は境内工事中でしっかり撮影できなかったのだ。今日は実に良い日和で撮れました。

その奥の「御嶽神社」へ。実は「みたけ」なんだか「おんたけ」なんだかいまだに分からん。単立。これまたこの階段を登る。今日はこんなんばっかりだった。
宇佐美などに木曽系があったので、ここもそうかなと思うのだけれど、先の松原八幡さんなど相模大山を境内社に祀っておるのでなんとも言えない。伊東の山の方の池にも相模大山があった。
そしてこの狛犬さんグァッ!昨日「狛犬・連」やったばかりの所にこれだ(笑)。いやー、これはどう見ても猿ですよね。孫悟空っぽい。なんで御嶽に申?
いやー、これは次の「狛犬・連」には鉄板で載るでしょうな(笑)。
頭がぐるぐるしつつ……あ、そう言えばこの時点でもう寝違えが気にならなくなってた。どの神社さんの御利益だったのかしら。

そんなこんなで本日伊東の第一目標(最後だけど)の「龍神社」へ。これがぐーぐる先生は「熊野神社」だと言うのだけれど、そんなものはなかった。
神社庁の『田方神社誌』の「龍神社」の項にも特に過去熊野さんとなっていたという記録もない。ぐーぐる先生間違ってますか、ゼンリンか。どうでも良いけど周囲坂道地帯を登ったり降りたり探してしまったあたくしの……(ry
さて、そんなことはともかくここは「吾妻神社」を合祀している、という点が重要だ。弟橘媛の櫛が流れ着き、それを龍神社に納めたのだという。
横須賀走水に端を発する弟橘媛の着物が流れ着いた、袖が流れ着いた、櫛が流れ着いたなどなどの伝承は、『日本の神々』(白水社)でも神奈川県二宮町を西限とする、と書かれている。
確かに東伊豆の宗教法人登録された神社には吾妻神社はないのだが、あたしは相当数の「吾妻神社・吾妻祠」があったことを江戸期の記録などで見つけている。また、稲取に単立の「吾妻神社」が今もあることを以前紹介した。そして、伊東のここもまた現代に痕跡が残っている一例なのだ。
おそらく相模湾の弟橘媛伝説は相当違った視点から見直す必要があると考えている。以前これは漁民の山アテの山などへの信仰を弟橘媛伝説が上書きしたものではないかと論じたが、東伊豆の吾妻神社の痕跡はそれを裏付けていっているように思う。
といったところで前半の伊東編は終了。お次は熱海へ向いました。報告は明日へ続く。しかし、アナタなんだってまー、一日中こんなんがそこここに……(笑)。酒呑みのおっちゃんにはたまらんかったですばい。

続き。熱海へ移動しまして、熱海駅の一つ手前の来宮駅で下車。来宮ってんだからキノミヤさんです。「来宮神社」。式内論社でもあるし、一般的には一番有名なキノミヤさんかも。
立地的にも伊豆山権現の縁起に見る(これがキノミヤの初見)「木の明神」とは、ここのことだろう。実は離しても離しても寄り着く木とか、潮騒を避ける場所に祀るとか、これまで話題になったあれこれにヒットする逸話が多いのだけれど、その辺は長いので「補遺」で。
ま、ここは何度も参拝しているのだけれど、今回は一点「小童」に関して再訪したのだ。南豆若宮の他に見ないと言っていた「小童」が、ここ熱海来宮にあったらしいのである。
過去の資料の熱海来宮の境内社として『豆州志稿』に「少童」、『静岡縣神社志』『田方神社誌』にそれぞれ「小童社」とある。どれも祭神は不詳。一資料だけなら誤りの可能性もあるが、こう揃ったら「あった」のは間違いないだろう。しかし、勿論今は境内社に「小童社」はない。
ま、結局分かんなかったんだけどね(爆)。社務所で尋ねてみても「現在お祀りしておりますのは……」って、そりゃ分かってるっちゅーねん、とイマイチ話が通らない。ていうか神社庁の出してる『田方神社誌』も「何それ」という感じだったし……orz アルバイトのニイちゃんだったのか?
うーん、似た神格はまとめた的な境内社の統合の次第だったら、この弁天さんに「小童社」も合祀されたんじゃないかしらと思わなくもない。思ってもしょうがないけど。巳さんが手前におりまする。
思惑は空振りに終ったものの、熱海来宮さん自体はすばらしい環境に鎮座されております。社殿裏の国天然記念物の大楠は有名ですが、参道にあって見逃されがちなこの「第二楠」も凄い。THE・生命。
お狐さんに見えますが、狼さんです。境内社の三峯神社を守る。

フガフガとなんか消化不良な感じで西へ。「丹那神社」。地図見れば一目瞭然ですが、丹那トンネルの大工事に際して殉職された方達を祀る場所であります。
今まで余りこういった「近・現代」の神社などには注目していなかったのだけれど、最近目があらたまりつつある。当たり前だが何かを祀るのに古いも新しいもないと言ったらそうなのだ。あまりに古さのみに引かれるというのはやはりファンタジーだろう。
救命石。この石が漏斗に引っかかったので仕方なく皆でトンネルから出て石を取り出そうとしたら落盤が起ったそうな。この石が引っかからなかったら……。という話である。
さて、ここで昨日あたりもちと話題に上っている「おしゃもじ様」を熱海に探るの巻、となる。「社宮司」「社宮神」「社護神」「石神(しゃくじん)」……等々と書かれる祠が信州を中心に関東に広がっており、もとは諏訪の「ミシャグチ」の神だろうとされる。
同範囲ではこの「しゃぐうじ」の音に「おしゃもじ(杓子・しゃくし)」が合わさって、「おしゃもじ様」と言う信仰民俗が見られる。風邪をひいたり、子どもが百日咳にかかると、土地の社宮司さんからおしゃもじを頂いてきて、喉につける。治ったら新しいおしゃもじを添えて社宮司さんにかえす。
必ずしも社宮司=おしゃもじ様ではありませんで、まるでおしゃもじ様の民俗のない社宮司もたくさんありますし、社宮司と関係ない所がおしゃもじを出している場合もある。この点は注意ですな。
そんな「社宮司・おしゃもじ様」は、大体信州から関東の民俗として語られ(少数愛知・三重にも)、静岡伊豆辺りがどうなのかというのが良く分からない。熱海の昔の地誌などにも社宮司は見えない(無論現代の資料にもない)。
んが、宇佐美の比波預天神社にどうもおしゃもじ様と風神が境内社としてあったようで、伊豆にもあったんじゃね?と思い探しておった所、熱海に地図上「風神社」とある。神奈川秦野の社護神社などは「風神なので風邪を治す」と言っておるので「もしや」と思って行ってみた次第なのであります。

「風神社」。場所は地図に見る通り「かんぽの宿」と言うでっかいホテルの本館別館を繋ぐ半ば敷地内のような所にありますな。
これまで何の資料も見つからなかったのですが、神社前に丁寧な由緒看板がありました。……で、どうもこれは純然たる龍田の風神の勧請である模様。昔熱海宿の大火事の際、風による延焼がひどく、勧請されたそうな。社宮司さんじゃないですな。
「違うと判明する」のもひとつの前進だ、と前向きに(笑)。お隣道祖神さんがおりまして、「子どもの神さん」の色が強いですね。お人形さんいっぱい。で、この道祖神さんのことも由緒にありまして何と「どうぶつ」さんと呼ばれていたそうな。
「どうぶつ」とは道仏でしょうな。お地蔵さんに近いものだという認識が濃かったのでしょう。伊東では道祖神さんを「オンゾウサン」と呼ぶ地域があり、これもお地蔵さんのことでしょう。うーむ、「お地蔵さんとの境界」というのもやはり微妙なのだ。
ふごふご。なんか連続空振り。この後「天神社」を目指したのですが、これも教派神道系のものだったりと三振(笑)。うーん、地名が天神山故あったはず、なんだが。どうしたあたしの神社センサー(TΔT)。
だがしかし。空振りに終る話の枕に基本説明をあれこれついーとするかしらと思ったアナタはするどい。あたくしこの後例によって完全に道に迷いまして(笑)、大まか「駅の南にいる」くらいだったのですが……やれやれととぼとぼ歩いてましてとある橋の袂に来て固まった。
「社宮神橋」……ふぅおおおおおお〜!!! こんな偶然というのがあるものか?社宮司さん空振りに終わって道に迷ったら「社宮神橋」が出た。ナンじゃそりゃアァァァ〜!!!

そして橋の向こうに鳥居が。まごうことなき「社宮神社」であります。押忍。
これで風神社どころかダイレクトに社宮司の流れが熱海にもあったことが分かったわけですが、おしゃもじは?おしゃもじは?と聞いて回ってみたものの、「しゃもじ?いや、ワカんねぇなぁ」とのことでした。ま、そう上手くは行かない(笑)。

空振り続きで帰ってふて寝しちまおうかと思っていたのが息をふき返し、意気揚々と次は「湯前神社」へ。熱海の温泉の恵みそのものの神格化とも言える神社であります。
式内:久豆彌神社の論社でもある(最有力は伊東の葛見神社)。いずれにしても古くからの鎮座だろう。境内にも温泉が出ていまして、御祭神の大己貴命と少彦名神がおられる。
また、この湯前神社は万巻上人が海中に吹き出していた源泉を地上に出るように改めたとの伝説もあり、箱根−伊豆山権現との関係も深そうな所。以前も参拝しておりましたがその時はお祭で、今回ようやく落ち着いて写真の撮影ができたのでした。そして復活したあたくしは熱海を後にし、さらに湯河原へと。

熱海のお隣湯河原町「産土八幡神社」。湯河原にはなぜかキノミヤがない。あたしはここと五所神社のどちらかがそうだったのではないかと疑っている。何の根拠もないけれど(笑)。
御神木の大楠。湯河原には八幡が五所神社も入れると三社もあるが、頼朝旗揚げを助けた土肥実平の土地故さもありなんという所。

海の方へ行くとまた「八幡神社」がある。神社巡りの「方法」でタイトルバックの写真云々言っていたけれど、こんな風なのもどうだろう。てか早くタイトルバックを必要とする記事を書けt(ry
この八幡さんは由緒通りなら971年創建ということになる。あるいは中村党の何かを示すかもしれない。資料上鹿島踊りを持っているとあるが、今はどうなんだろう。余りにも海に近くて(しかも平地で)ホントにそんな昔からあったのかという気もするが。
ここには道祖神さんの列が。あったかそうで良いですな。こう見るとやはりお地蔵さんだと捉えられてるのかなぁ、とも思ってしまうのだが、次に行った所であたしは衝撃的な光景を目にすることになる。
吉浜稲荷神社の社頭におられました道祖神さん。見えるでしょうかしら。この道祖神さんは唇に紅がひかれておる。これははじめて見たと思う。少なくとも今でもこのタイプの道祖神さんを女性として扱っている人はいるのだ。
伊豆型道祖神の祖系は姫神だと言っているのはあたしでありまして、一般には「僧形であり、女性形の〝ものもある〟」程度の認識なのだ。虚仮の一念じゃないけれど、また一歩姫神に近づいたと思った瞬間でありました。

その「吉浜稲荷神社」。漁師達の稲荷である。古く七騎落ちした頼朝と実平一行は海上からこの稲荷神に祈って、無事三浦党と接触できたという伝説を持つ。海上の安全を守る稲荷さんですな。
ここに面白い額が奉納されていた。鳥居は穴あき銭でできている。面白いこと考えるね、というだけでなく、これは船霊の中におさめる銭なんじゃなかろうか。
狛犬ばかり強調していたが、この木鼻の所の獏や獅子もそれぞれの神社さんに特色があって楽しい。ここの獅子はなんか……平べったいのか?妙なバランスの獅子殿だ。

東側「素鵞神社」へ。昨年道祖神さんの調査で社頭まで来てますが、出雲は絶賛神在祭中で「この時期須佐之男命お参りしてもなぁ」と参拝はしなかったのでした(凝り性)。
ここはもっとも古型を保つ、とされている鹿島踊りを現代にまで伝承している神社だ。相模湾西側に分布する鹿島踊りへの調査が本格化したら大変お世話になる(お騒がせする)事になるであろうということで念入りにご挨拶。
そしてここの境内社さんの前の狛犬ぐあぁぁぁ!うあー、このタイプはこういう型なのか!ひらめいたっ!
小田原酒匂神社、そしてこの素鵞神社、さらについった前なんで「狛犬・連」にないけれど、真鶴の貴船神社にも同様の狛犬がいたのを思い出した。皆海べりだ。これは「海獣」なんではないか?たてがみ……トド?

と、一人でもり上がってはいたものの実はもう電池切れ寸前でして(笑)、ラストスパートでまたヒイコラ坂を登って「熊野神社」へ。もう日暮れであります。
ここは古くもあり、新しくもある。五百年以上前から鎮座していたとされる神社なのだけれど、明治に先の素鵞さんに合祀されてしまった。昭和に近隣の方達の活動で復活したのだ。
本殿脇の祠達もよく祀られておって鎮守さんがないと落ち着かんかったのだろうなぁ、と思う。

最後に近くの「山神社」さんへ。山神社にはじまり山神社に終る一日(笑)。
ここには大小18基の道祖神さんがおられるのだ。……って、ぐーぐるマップで見つけるまでこの山神社の存在を知らなかったので、来てみてビックリなのだけれどね。
そんなこんなで日も暮れまして。あたしも電池が切れますた(笑)。首寝違えてのスタートでしたが、伊東〜熱海〜湯河原と終ってみれば二十社近くを回った大行脚の一日でございました。ていうか地味に知る人ぞ知るの発見が多かった一日かもです。

上で稲取の吾妻神社について言っとりましたが、報告してなかったみたいでした(笑)。昨年九月の稲取行なんですが、帰ってくたばっちゃってそのままちょっとだけ触れただけだったですな。というわけで稲取吾妻神社(吾妻権現神社)の模様を追加しておきます。

大通りを歩いていたらハイキングコースの地図看板がありまして、そこに「権現」とあって鳥居マークがあった。事前情報無し。これは行かねばだろ、と突撃しますと行く手に鳥居が。
良い所ですなー、などと思う間もなく道行きはひたすらコンクリ階段の連なるヘビィなものに。あたくしこの前の夜二時まで呑んだくれておりましてヒイコラ言っております(笑)。
おおよそ登りきりましょうかという所にようやくお社が見えて参りました。これが「吾妻権現神社」だった。なんとなぁ。記録のみに見えていた東伊豆の「吾妻」の社は現代にも存在していたのだ。
かなり山の上ではありますが、ここを守っている人たちは漁師達であると境内の由緒にある。漁師達の信仰した吾妻の社。ここに行き当たっちまったからには「やれ」と言うことでしょう。
しかし参道は本当にこんな階段がずっと続きます。単独行では充分にお気をつけて。二日酔いで登ったあたしの言うこっちゃないですが(笑)。

補遺:

さて、そんな伊豆の吾妻社なのだけれど、伊東の方は紹介した「龍神社」一帯を「吾妻の森」その後ろの山を「吾妻山」と言っていたそうな。今はまったく地図に見えないですが。

ころでここ「ちず丸」も熊野神社となっとるな。江戸期の『伊東誌』でも龍神社に吾妻祠なんだが。どういうこっちゃ?

しかもその『伊東誌』(嘉永二年)でも、付近の式内論社の葛見神社の四倍以上の紙面を割いてこの「吾妻祠」を取り上げている。かなり重要なものだと思われていたのだ。

また、『伊東誌』で面白いのは弁天とは元々このような弟橘媛を祀っていたものが変化したのだろうと考えている所だ。そうならより一層「伊豆の吾妻祠」は色濃かったことになるだろう(例えば網代の弁天さんとか)。もっと面白いのは一生懸命走水から櫛が流れ着くかどうか考証している所だけれど(笑)。

いずれにしても現状まずは「今に残っている伊豆の吾妻祠」を記録することが第一だろう。熱海の伊豆山近辺にもまだあるような情報も入手している。さて、どれだけその痕跡をとどめることができるか。

熱海来宮神社:江戸時代までは「木の宮明神」とされ、明治期に式内「阿豆佐和気命神社」をうたい(『静岡県神社志』にはこの名で掲載されている)、「来宮神社」に現在は落ち着いている。主祭神は五十猛命・大国主命・日本武尊。中心は五十猛命ですな。

和銅年間に漁師の網に「ボク(木の根)」がかかり、捨てても捨てても網にかかった。これはと思い持ち帰ると夜夢枕に五十猛命を名乗る神が立ち云々……ということでこのボクが神体として今も祀られているという。

で、このボクを現在の位置に祀った理由は「潮騒の届かない所」というものなのだそうな。これは「海上の舟を停めてしまう神」の話(伊豆では八幡宮来宮神社と河津来宮杉桙別命神社)と繋がる話に思う。

熱海の「湯前神社」。「ゆぜん」と読む。絵に書いて額に入れた湯桶読み(笑)。ここが式内:久豆彌神社の論社であり、最有力論社が伊東の葛見神社であることは述べたが、この二地点にはもうひとつの連絡コードがある。

伊東には「湯尾権現」があったようなのだ(今はない)。先の『伊東誌』にそういう祠があるとある。『伊東誌』でも湯前明神との関連を考察して、共に伊豆山権現に縁があるのだろうとしているが、あたしもそう思う。

箱根権現を尾とし、伊豆山権現を頭とする赤白の夫婦龍が地下におるという伊豆山権現の縁起の話は以前もしたが、同様の話が熱海湯前・伊東湯尾の間にもあったんじゃなかろうか。そうなるとまたぞろ伊豆山の修験がなんぞ話をこさえようとしていたということになるが。

伊東・熱海・湯河原行 2011.03.05

惰竜抄:

関連ページ:

熱海行
昨年八・十月の熱海行はこちら。多賀から網代、伊豆山などはこちら。
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