小田原行

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2010.11.13

昨年(2010年)十一月の小田原行。平日朝夕に一社・二社と回ったもののまとめです。

2010年11月2日


早朝モードでにょろっと西相模小田原市の酒匂川の東側。「小八幡八幡神社」と「酒匂神社」へ。

まずは小八幡にあるその名も「小八幡八幡神社」。このあたりは平安期の「駅」、「小総駅」の比定地。酒匂から国府津にかけてでピンポイントで所在が確定していないのだが、この八幡さんが小総駅の鎮守だったのではないかと言われる。
もしそうなら式内でもおかしくない古社ということになるが、神社由緒も意識して「式外村社」と表現している。しかしこの柱飾りは面白いですな。木鼻の下にこんな風に。これははじめて見たかも。
屋根飾りも変わってます。で、さらにここは中井の中村党の本拠、五所八幡宮に関連して興味深い祭りの一角を担っていたところだ。かつて中村党近隣の四つの八幡の神輿が五所八幡に集結するという祭りがあった。
相模総社の大磯六所神社に一〜四宮、そして五宮格の平塚八幡の神輿が神揃(かみそり)山に集結する「国府祭(こうのまち)」という祭りがあり、これは律令制の施行に端を発すると言われるが、あたしは平末に中村党の意向で今の形になったのじゃないかと考えている。
その理由の一つが同様の形式を持つ五所八幡への中村党傘下の地の八幡社の神輿が集結する祭りがあった、という事にある。そんな関係でその集結する一社であったこの小八幡八幡さんも興味大なのですな。
境内の道祖神さん。天辺に椀状穿痕。こうも見事にひと穴天辺に穿たれているというのもあまり見ないね。

酒匂川の近くまで行きましてのその名も「酒匂神社」。んが、酒匂川を祀ったりしたわけではなく、もとは箱根権現を分霊した「駒形神社」だった。今はなぜか諾冉二柱が主祭神となっている。祭神が良く分からなくなっちゃった場合の典型ですな。
ここが由緒書きにとんでもないことが書いてある。駒形社の前があり、それは七世紀に大和直系の統治者が勧請した八幡として創始されたのだとある。そして、高麗人(高句麗)の渡来が大規模にあり、機織りが広まったので「棚機社」も併せ祀っていたというのだ。
実際「七夕社」が明治期に合祀されているのであったことはあったのだ。しかしどこから出たのだこの話は。社伝なのだろうか。額面通りではなくとも少しでもそれらしいのであったら、大磯高麗山と高麗若光に繋がる話に食い込んでくることになる。
だがしかし。うーむうーむと頭がこんがらがるあたしの目の前にこの境内社が。倒壊寸前であるが、「元本殿」のような系統に見える……とか言ってる場合じゃなくて問題はお賽銭箱の両脇である。
あなた一体どうしちゃったのっ!という感じの狛犬(???)さんが。もうすべての思考はぶっ飛びましたのことよ、ええ(笑)。
一応阿吽になっている。年号とかは何も無いようだ。新しい……ってことはないだろうなぁ。ポケモン的なものを生み出すのはきわめて日本的なのだ、と思った(笑)。
そんな感じの波乱の早朝神社巡りでやんした。おまけで酒匂神社の大石。周辺に椀状穿痕。これだけの石なのに何の由来もないのかしらね。伊豆山神社にあった大磯高麗山の神が降り立った石、よりは少し小さいが同じ様なものなのに。

2010年11月10日



さて、本日は早朝ちょこっと小田原篇。西相模は小田原市の久野(くの)という所へ。
道行きの途中にありました「荒神社」。神社庁管轄外だしすぐには由来不明。『新編相模国風土記稿』とかあたるとあるかな。どの系統から「荒神社」になったのかは知りたい所。しかしこのクラスのお社には鳥居と社殿が直角になるケースが多い。
小田原市と言っても小田原駅から一時間も歩かずにこんなである。
珍しく観音堂(「欠ノ上(かきのうえ)観音堂」)。隠れキリシタンの痕跡があるという。痕跡というか中興の住職の法号が「骨相紋随」とあって「コスモス」なのだそうな。スゲエ。全然「隠れ」ていない(笑)。
秦野市の方にも「隠れキリシタン」の話は多いのだけれど、全般的にあまり「隠れ」ていない印象がある。割と普通にあった話だ、と思っていないといたずらに「謎」を見てしまうことになりかねない。
道端道祖神さん。西相模ではこれがデフォルトの形の双体道祖神。しかし旗立まであるのはすごいな。道祖神のお祭りが盛大なのは秦野・大磯・南足柄・山北とかだと思っていたのだけれど、小田原も山の方は結構盛んなのか。

そして目的の「子ノ神社」さんへ。実はここは以前どこかで書いた同じ久野の「神山(こうやま)神社」の元地ではないかと思っている。子ノ神社・子神社は時として「根の神社」の意で、遷座した神社の元宮を表している場合がある。
そして「茶堂」っぽいか?と見えた御社殿。どうだ?周囲半ばまで板が張られているのがちょっと違うが…いずれにしても普通の神社とはまったく違う。床板は張り替え作業中のようでした。
社殿側面にくぼみがあって境内社を祀っているのも他に見たことがない。反対側も同様だった。
拝殿(?)にはむき出しで大きな絵馬がたくさん掛けられている。結構文化財に思うのだけれど、良いのかしら。
「子供連中」は「子供中」などと同じく道祖神さんの祭祀権が子どもらにあって、その集団を示すものだろう。道祖神さんの親玉的な神社でもあるのだろうか。
そんな早朝ちょこっと参拝篇でした。しかし早朝から電車のって一時間も歩いて神社参拝て……。半年前にはこんな健全な日がわが人生に訪れようとは露程も思わなんだ(笑)。

2010年11月13日


ほーんじつは昼間に所用の挟まる展開でして伊豆方面には行けず(TT)。早朝小田原篇と午後から松田の丹沢山奥篇での神社巡り。まず早朝小田原篇。

大雄山線飯田岡駅から南西方にずんずん坂登って行きますと、突如と一面芝生の公園地帯が出現してその中に「諏訪神社」がある。通りに面していると思っていると行き着けないので注意。
一帯の小字を諏訪原といい、諏訪神社も江戸期には上下社があった。今は上社だった方に統合されたのですな。覆殿の大きさからいくと結構立派な御本殿があるようだ。ちなみにこのあたりは「久野古墳群」という古墳が連なる所でもある。
まわりはこんな感じに整備されとります。しかし、こういった池があって中島があって、そこに祠の一つもないとなんか落ち着きませんな。とても「よろしくない」感じがする。こういうのは職業病とも違うし…なんと言うのだ(笑)。
飯田岡駅の方へ戻って来まして道祖神さんが。お雛さんが捨てられております。これはタイヘン古式に則った道祖神さんのありかたですなぁ。時折そのまま道祖神さんが自治体のゴミ捨て場になってる所がありますが、あれも故のあることなのです。
古くから道祖神さんは「ゴミ捨て場」だった。無論今のように大量なゴミは出ない生活で、ですが。お雛さんとか壊れた農具とか、道祖神さんの所においておくと道祖神さんが「良いようにしてくれる」という次第があったのだ。道祖神は村の境のサイノカミだ。
つまり、農村の外の「農民でない人たち」がそれらを持って行った、ということだろう。道祖神の持つ境界としての機能も単に「村の外れ」とだけ見てるとダメである。それは一種の交易の場でもあったのだ。

その近くの「北ノ窪天神社」。江戸期の『新編相模国風土記稿』に北野天神を勧請したものだとある。その当時には菅公の天神ではあったのだ。相模の「天神」ももとは「○○天」のお堂だったんじゃ?という感じが強い所も多いが。特に第六天。
この天神さんの境内に久々に見る「純空っぽ」祠が。資料には境内社の記述が無く何やらまったく不明。
これまでに見た中でも屈指のファニー木獅子さん。だっしゃあぁぁ!という感じ…か、違うか(笑)。

大雄山線沿いに「穴部(あなべ)」という所の方へ下りまして、清水新田という所の「八幡神社」。地図上は「清水神社」となっている。徳川時代から付近住民の尊敬を受け云々とはあるが、詳細はまったく不明。
この八幡さんは「屈まないと潜れない系」鳥居なのだけれど、これ系の鳥居はなんか共通するものがあるのかな。時代的なものとか流行的なものとかなのか。イマイチこの系統の鳥居を持つ神社に共通性がない。

ほど近い所の「姥神社」。箱根周辺にこの「姥神社」がちらほらある。玉依姫などを祀るというが、ぶっちゃけ「山姥」を祀っていたのだろう。谷川健一氏によると「姥ヶ懐」などは山間に抱かれたささやかな平地を指す地名だともある。
箱根周辺の「姥」はいずれ追いかけねばならぬ。何となればこの地の「金太郎伝説」の特色は育ての山姥とセットである点が重要に思うからだ。しかし多分神社庁管轄外の小さな祠が結構あるんだろうなー(遠い目)。そんな気がする。
そしてこの姥神社になぜか「鶴嶺」の文字のある碑が。んんっ?茅ヶ崎の八幡のことか?「鶴嶺■神」の■が読めねえ。しかし鶴嶺八幡と何の縁が?日付は明治だけれど…はて、さて。

今度は穴部から東北方へずいっと進みまして、小田急線沿いの蓮正寺という所の「稲荷神社」。この参道入口であたしは「うっ」と思わず声が漏れてしまった。「足柄五社」この記述でささやかな謎が解けたのだ。
ここより北の富水に「五社稲荷」という名の稲荷が二社あったのだけれど五社とはなんやねん、というのが謎だった。日本のどこかにそういうお稲荷さんがあって、揃って勧請したのかとも思ったけれども調べてもそんなのない。これがどうも近隣五社の稲荷を繋いだという意味らしいのがこの看板で分かった。
これで三社目の「足柄五社稲荷」が確定した訳だ。こうなると残り二社も突き止めたくなるのがヒトノサガである(笑)。穴部新田に一社稲荷があるのは分かっているが、これはクサい。しかし後一社は見当もつかない。うーむ。
ぐお、穴部新田の稲荷も行きてえ、とは思うものの、本日早朝篇はこの辺りでタイムアップ(早朝と言っても蓮正寺ではもう九時半)。五社稲荷探索はまたの機会ですな。ちなみにこの五社稲荷に関する記述は『神奈川県神社誌』にはまったく触れられていない。

小田原行 2010.11.13

惰竜抄: