稲取・河津逆川行

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2010.11.06

9月11日

さーて、昨夜二時まで呑んでカラオケやってようが今朝は六時に伊豆の神社へゴーなのですよ。本日は東伊豆町の稲取へ。詳しいあれこれはしんどいので周辺的なことを。

「素盞嗚神社」の参道階段から稲取の港を望む。見守るというより「見張っている」のだろうか。ここは八坂さん系天王社だったようだ。

山の中へ農道を分け入ると突如として鳥居が(未チェック)。ナンダナンダと進みましたら延々階段を登らされまして、吾妻神社がありましたとさ。実はこの吾妻神社が東伊豆の古記録に多いということが最近分かってきた。
「愛宕神社」へ向う道すがらふと海の方を見てたまげた。伊豆大島が雲の上に浮いておる。はぁ〜。こういった「見え方」もまた神格になるんだろうね。

「愛宕神社」の鳥居。今まで見た中でも一番背が低いかも。愛宕神社自体は現在絶賛改装中でやんした。ここは先の素盞嗚神社の旧社殿を移築したものとのこと。ちょうどこの二社が稲取港の南と北から港を睨むようになっている。

そして山から下って港の方へ。途中見つけた未チェックの神社さん。「諏訪神社」だ。公民館に連立している。

「稲取・三島神社」の獅子。すぐそこが港。いかにも海辺の風化という感じだ。実はこの三島さんは稲取から奥に入ったところにある「赤松神社」が元地なのだそうだ。

港の漁師のおっちゃんと話していて、「蛭子神社」を「おれら漁師は “オイベサン” っつってんけどなぁ」と聞いた。多分「オエベサン」だろう。エベッサンに御がついたのだ。写真がその「オイベサン」。
続けて漁師のおっちゃんは「向こうの○○旅館の先に行きゃ “リューゴンサン” もあるぞ」と教えてくれた。いやはや資料で「竜宮さん」を「リューゴンサン」と伊豆の漁師は言うと読んではいたものの、当たり前に実際言われるとカンドーする。

その「リューゴンサン」の鳥居。すばらしいロケーションですな。ところで知らないフリして漁師のおっちゃんに「リューゴンサン?漢字でどう書くか分かります?」と聞いてみたら「分からねえ」と来た。
もちろん鳥居に「龍宮神社」と書いてあるので、知らんということはないのだろうが、多分「リューゴンサン=竜宮さん」だという認識は希薄なのだ。そのくらい当たり前に「リューゴンサン」なのだろう。

さて、岬の突端の方へ行きまして「どんつく神社」。ドンと突くからどんつく。何をかと言えばナニを(笑)。あからさまな写真はあとでサイトの方で(笑)。

また港の方へ戻ってきまして「稲取・八幡神社」。ここでまたたまげた。式内を謳っておる。式内:穂都佐氣命神社との由。いや、資料的にはまったく論社にあがってないようなのだけれど。スマッシュヒットか?あがらない理由が既に明らかなのか?
この八幡さんは狛犬がおっかねえ。境内入っても見えなく、参拝のために社殿域に登るといきなりこれが茂みの裏から現れる。マジビビった(笑)。
稲取の港脇の道祖神さん。いやこれもずいぶんポカポカやられてるみたいですな。子どもらが道祖神さんを叩く話はもうちっと膨らむ。やはりこれは「海の神」なのだ。
さて、稲取奥地の「赤松神社」とかはもう吾妻神社と愛宕神社で「登り成分」を使い果たしましたので(笑)今日はスキップなのでした。
11月6日

というわけで今日は昨日の伊豆行の次第を。まずは東伊豆町片瀬白田 7:30am。いきなり不思議な光景が。お屋敷神だけがぽつんと残ってる感じかしら。
そしてフォロワさんからタレコミ(笑)のあった「剣をもつ道祖神」を捜索。公園をお掃除されてた地元の方に聞いたらすぐ分かった。ハイキングコースかなにかのスポットして紹介されて一頃話題を呼んだらしい。
確かにこれは剣だろう。左手は数珠だろうか。道祖神は「疱瘡除け」の神と習合することが多いので、牛頭天王の像に近接した例かもしれない。台石に何か刻まれているが、おそらく「子供中」だと思う。道祖神さんの祭祀権が子供にあることを示す。
その後しばらく片瀬エリアをぐるぐる回ってみたものの、ここと片管神社前以外には道祖神さんは見かけなかった。そういえば地元の方にたずねた時に「ドウソジン?」と首を傾げられたな。「サイノカミ」と言ったら、ああ、サイノカミさんね、と通じた。一般名よりサイノカミが現役呼称なのだ。
その後は稲取へ向いまして、後回しにしていました稲取の奥へ向います。


まず飯盛山の「山神社」へ。ぐーぐるまっぷの簡易等高線でも良く分かる、正に「飯を盛った」状態。かつて「卑弥呼の墓」説を唱える方が出たほどの特徴的な地形である。この天辺に山神社さんが鎮座する。
神社の参道階段というのもただしんどいだけなのと、おぉ、登りてぇ!と思わせるものと、う、なんか登ったら取り殺されそう、と思わせるもの(笑)と、三様にありますな。ここは実に「登ってみてぇ」と思うステキ階段です。
そしてこの山神社さんはそりゃもう見事な陽根様がたくさん並んでるところなのです。今稲取では岬の「どんつく神社」にでっかい陽根神輿があり、半ば観光名物的に行なわれている陽根神の祭りは、実はこの土地の古くからの重要な祭祀だった。
古い稲取の陽根祭祀の面白いところは、稲取港脇の素盞嗚神社からこの山神社へ陽根神が渡御する、というところにあると思う。海から山へ移動するのだ。まだ何も詳細は調べていないので何とも言えないが、このベクトルはいずれ重要になるかも。
その後奥まで進みまして、大変気になっていた「赤松神社」へ。稲取の海際にある三島神社の元宮であるという。んが、由緒書きはあれどもお社はどこやねん(回り込んだ奥にありました)。

このように元地がまだ神社として祀られている場合の中には、その地勢にあることに意味がある、というケースがままある。多分この赤松神社はそれである。
この土地からは、稲取の岬が一望でき、さらにその向こうの海原に伊豆の島々が望めるのだ(この日は海上ガスっていて島は見えないが)。おそらくその類いの祭祀の場であったのだろう。

下って来まして山神社さんのあたりで昨日行っていたおっちゃんたちにつかまりまして、この土地を拓いた三姓それぞれの祀る「権現さん」の話を聞く。この「熊野神社」がその筆頭でここは町指定天然記念物のホルトの木があるので地図にもある。

他の二権現は場所を聞いても説明のしようもない、という入り組んだ先とのことだったのだけれど、何となくアヤシいと思って突入した先に「三嶋権現」さんを発見。
こうなると欲が出まして(笑)、残る権現(おっちゃんたちにとっては「権現さん」は「権現さん」で「なに権現」かには興味がないらしい)も、とまた登り直しまして……確かに農道の入り組む先に鳥居発見。

ここは「熊野権現」さんでした。ところでこのあたりは山神社さんもそうだけれど参道階段にしめ縄を渡すというならわしらしい。こういうのは地元の人に理由を聞いても当たり前に思ってやっているので「え、他は違うの?」となる。
そんな感じで思わぬ「三権現捜索隊」と化しましての稲取でした。時間は圧してしまったものの、良い経験でしたな、これは。そしてお次は河津の奥、というか下田から稲生沢川を遡りましての逆川の地へ。
下田の稲梓駅からてくてくと徒歩で。歩かないと距離感が分からんノーミソなのでいたしかたなし。歩いて行くところじゃないことは歩道のなさ加減が教えてくれる(TΔT)。

そしてついに逆川「三島神社」に。うおお〜ん!あたしはついにここまで来ましたぜ。なんか賀茂郡に突入した頃からここさえ行ければ(行ってしかるべき考察ができそうならば)その先も何とかなるんちゃうかという漠然とした思いがあり、感無量。
ふん、来おったか。時間がかかり過ぎじゃ馬鹿者め。……という感じの狛犬さん。
拝殿裏から石段がズオーッと延びて本殿へ。脇に緩いスロープの道もあります。
御本殿の周囲にはとてつもなく精密な彫刻群が。しかし如何せん暗い。シャッタスピード1/2。ぶれるなあぁあ〜!くわっ!喝っ!という感じの撮影。
この逆川(さかさがわ)三島神社は式内:布佐乎宜命神社(ふさをぎのみこと)の有力論社。しかし、『式内社調査報告』以降の研究で、この三島神社が河津筏場の三養院付近の三島神社が分かれて来たものであることが分かっている事などは以前も指摘した。
ここが正しく布佐乎宜命神社であるならば、河津三島神社が遷座してくる以前からここに布佐乎宜命が祀られていた、とするよりない。逆川には「布佐屋敷」という地名が残っていることが有力な手がかりとなるが、あたしはここに『式内社調査報告』にも記載のない一つの手がかりを指摘しようと思う。
それが「見目(みるめ)神社」である。逆川三島神社から川を渡った対岸に祀られている。現在は三島神社の境内社には載らないが、江戸・明治期の幾つかの史料に「末社の見目神社」とある。『河津町の神社』にも小社の項に記述があり、不鮮明ながら白黒写真もある。少なくとも昭和の時代にはあったのだ。

というわけでまた村の人の助けを借りまして(ていうか大騒ぎになってしまって村中の人が出てくるんではないかとオモタ…笑)、この見目神社を捜索。例によってクモの巣だらけになりながら、見つけましたよあたくしは。
面白いのは村の人は三島神社を布佐乎宜命神社などと言ってもさっぱりだけれど、こちらは「みるめさん」と呼んでいることだ。意外とこういった小祠の方に古い名が残っているものである。
今はもう一年に一度かつての例祭(十月二十日)に手入れがされるくらいのようで、何の神さまなのか知る人もなく、という感じのようだが、三嶋大神と大変縁の深い神さまなのだと説明したら大変驚かれて嬉しそうだった。
大体三島神社に関しても「上まで登ったか?」「あの彫刻がすごかろう」とくり返し皆言う。三島さんがこの村の誇りなのだ。見目神社もその縁と分かって少しでも埋没がくい止まったら良いのだが。
そんな、伊豆半島の三嶋信仰を探る上でかなり重要となるであろう逆川でやんした。

補遺:

さて、この「見目(みるめ)神」だけれど、この神は『三宅記』によると三嶋大神が三宅島に来られた際、島に住まう齢三百二十歳という老翁が自分の「若宮・剣御子・見目」の三子を三嶋大神の従僕として捧げたという由来の神である。以後三神は三嶋大神の島造り・后探しなどに活躍する。

見目神のみが女神で、大弁天の化身であり一名海龍王であるとも言う。いくつかの神社取り調べ史料に「三嶋大神の后神」としているものもあるが、『三宅記』的には従神であるのが正しい。

今回重要なのはこの「見目神」は『三宅記』のみに見える神で、そもそも祀られているケースがきわめて少ないという点である。三宅直系と思われる白浜神社・そして三嶋大社に末社としてある以外半島側で祀っている例をあたしは知らない。

つまり、河津逆川三島神社は三宅直系の三嶋神信仰が流入した土地である可能性が大きい、ということだ。式内:布佐乎宜命神社を論ずるにあたっては、この「見目神社」の存在を外すわけにはいかなくなるだろう。

で、この「見目(みるめ)」だけれど、これが折口信夫の言う「水の女」である「ミルメ」とどう関係するのかがのしかかる。

「産湯から育みのことに与」り、「禊ぎを助ける神女」を水の女に見た折口は、これは氏族で言えば壬生氏であったろうという。見目神の元地三宅島は壬生氏の島であり、『三宅記』も壬生氏の管轄のもとに編纂されている。

これが偶然だというならあたしはウツホ舟に乗って下田から船出してしまいたい(笑)。伊豆三嶋大神とその眷属を助けた従神「見目」。「はんたーずろぐは「みるめのかーど」をてにいれた」。それが何を意味するかは……神のみぞ知る(笑)。

逆川「高根神社」。『式内社調査報告』などにもかつて三島神社の境内社に高根神社があったが今はない、とされている。んが、ある。『河津町の神社』の小社一覧にあり、「見目神社」を探している際にも地元の方が「コタカネさんじゃなくて?」と言ったのをあたしは聞き逃さなかった。

少なくとも現在も「コタカネさん」と呼ばれる神社はあるのだ。「高根神社群」に関しては、当初南伊豆に固まっており、下田などにはほとんどないと思っていたが、古記録などを見ると結構ある。逆川を筆頭にこの辺りもリストアップしておかないといけない。

稲取・河津逆川行 2010.11.06

惰竜抄: