小田原行

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2010.10.26

昨年(2010年)十月の小田原行。平日朝夕に一社・二社と回ったもののまとめです。

2010年10月7日


本日は気になっていた小田原は千代の三島神社へ。鎌倉初期に伊豆三嶋を勧請したと由来のある三島神社である。小田原のお隣の大井には頼朝鎌倉開幕由来の三島社もあり、鎌倉で三島、という流れのある土地である。
ちなみに今日の千代から西に一里の間に三島神社が三社もある。後の二社は江戸時代の勧請だが、こんなに三島神社が密集しているのは伊豆にも見ない。なんか流行でもあったのだろうか。いずれにしても起点は今回の千代三島神社だろう。
伊豆の三島さんは要は「エビスさん」なわけなのだけれど、これが小田原にも持ち込まれてたら面白いわよね、近所の人に話を聞いたら「昔はエビスさんて言ってたけどなぁ」とか出たらヒットだわよね、というのが気になっていたとこなんですが……ですがですがと思いつつ……おもい…おも…

四の五の言う(聞く)までもなく「えびす様」でーしーたー(笑)。
あらまあ、という感じで、あたしが知らなかっただけで結構「三島=事代主=えびす」の図式は広いのかも?三島=エビスの通用する範囲を押さえたくなってきましたわよ。全国的にはどうなのだ?そもそも「三島神社」自体がそうそう広くにはないか。
そんな境内に秦野名物の天社神。西相模ですニャー。しかしこんな離れた所まで天社神が来ているとは結構驚きだ。秦野→松田→大井→国府津丘陵西はもっと注意して見ていくべきかもしれない。誰か天社神の分布とかやってないかな。
どことは言えぬがやはりなんか西相模と東伊豆の神社とは違う。なんだろう。言葉にならないまでもそれがはっきりと「違うんだな」と分かるようになったら結構すごいんでないかと思う。
おまけ。小田原は今半分実っていて半分収穫しました状態。この藁の組み方積み方にもちょっとした地方色とかがあるのかもしれん。

2010年10月18日


さて本日は西相模は小田原をちょちょっと。
酒匂川の鴨さんたち。なんかこの「並び」でゲオマンシーみたいに占いができそうだ。このそばの飯泉観音内の八幡神社……は前にやったから良いか。

成田の「三島神社」。江戸時代の創建だが、同時期に小田原の八社が同じ宗我神社宮司によって勧請されている。それまで人の住めなかった酒匂川流域に進出していった流れと呼応しているのか。
勧請されたそれぞれの神社はそれぞれ祭神も違うのだけれどね。この辺をまとめてみるのも面白いか。ちなみに写真はレベル2見張り猫を探せの巻。
この三島さんのしめ縄。これは明らかに「頭と尻尾」を意図しているだろう。龍か、蛇か。
この辺の神社さんは子どもらの格好の遊び場になっている。実は手水のあたりに三人ほどいて噴水やらかして水浸しになっている(笑)。子どもらが遊んでいる神社は「現役の鎮守さん」という感じがしますな。

少し東の矢作(やはぎ)というところの「浅間神社」。ここも江戸時代の勧請だけれど(元仁年間・13Cとも)、少し由来が変わっている。
大概このあたりの浅間神社は江戸時代に流行った富士講に関して、富士山へ出立する前に道中の安全祈願を地元でしたい、という要望から建てられている。んが、ここの浅間さんは富士山の噴火で飛来した石を御神体として祀ったのがはじまりというのだ。
結構長くてちゃんとした参道があるのですな。明治に周辺の八幡・菅原・日枝神社を合祀している。
ところでこの西の方に「石神」というバス停があったが(小字だろう)、この浅間さんの御神体の噴火で飛来したという石の事だろうか。全国各地にやたらと石神の地名があるのはナンでなんだぜ?
由来に応じるように境内にも謎の石が。御神体は社殿内だろうから、こりゃ別物だろうが、なんでしょね。火山詳しい方、これ噴火で飛んできそうなものかしら?
今日はそんなちょこっと小田原篇でした。おまけに飯泉観音八幡神社の石祠。ここ数日言っていたゴロ石が石祠内に祀られていた。祠屋根には椀状穿痕も。オールインワンだ(違

2010年10月20日


本日は昨日より微妙に明るい(雲が薄い)感じがしたので、夕方だったけれど小田原に。下にも出た酒匂川(さかわがわ)中流域に鎮座する桑原の「三島神社」へ。場所はこの辺。
ここは神社から川の対岸にある地蔵堂の石造物群。中央と左の石祠が「水神」さんだ。このあたりは水神さんだらけ。酒匂川の洪水がかつてどれほど大変だったのかを物語る。
その片隅の丸石。天然の丸石ではないが。やはりこの手は水辺に多いような気がする。上のドングリは自然に落ちたのじゃないだろうなー。ま、そこに置きたくなる気は分かる(笑)。

そして三島神社。これまた江戸期に宗我神社宮司により勧請された小田原の神社の一つ。先だっての成田の三島神社もそう(徒歩十五分くらい)。同時期勧請の「三島さん」でも微妙に違う。
今日の桑原三島神社は事代主命を祀るが、成田の三島神社は大山祇命を祀る。はたしてこの別が江戸初期創建当時からなのか明治の神社改めの際そうしたのかが問題なのだが分からない。うーむ。宗我神社さんは知っているのかな。
ここにも秦野名物天社神さんが。本家の秦野でもこうしてしめ縄御幣付きで祀られているのは見てないような気がするな。ま、もっとも秦野の場合神社境内に移設されないで村辻で現役という理由がでかいのだが。
三島神社周辺にまたもや水神さん。酒匂川上流に三保ダムができて一応洪水の脅威が去ったのは1969年。この水神さんは古くないが、洪水の脅威の記憶もまたそれほど古いものではないのだ。
おまけで道祖神さん。小田原の道祖神さんはほぼ鉄板で双体道祖神だ。実によい造形とロケーション。もっとよい日差しでもう一度撮影したい。

2010年10月21日



本日もちょろっと小田原篇。中新田の神明神社。
ここも「村の有志宗我都比古神社主宗我播磨介広之に請いて…云々」という江戸初期の宗我神社宮司により勧請された一連の小田原の神社の一つ。ちなみにこの辺は現在宗我神社により一括で管理されている。
昨日の三島神社などと同じく酒匂川の畔。こちらの方が下流である分、かつての酒匂川の氾濫は予断を許さないものだったろう。境内の石造物。手前から三番目が水神さん。
今日はこの神明さんのすぐ隣りにある「かもめ図書館」に用があったのだ。結構でかい図書館である。平日19時まで普通に開いているというのもすばらしい。
この「かもめ図書館に」は『小田原の神社巡り』という私家版の資料があるのだ。西相模小田原市には神社庁管轄の神社が59社あるが、『小田原の神社巡り』には小田原134社の神社が網羅されている(屋敷神などを入れないで、である)。
『小田原の神社巡り』は在地のアマチュア愛好家の手による労作で、インクジェットプリンタでプリントしたものを簡易製本したという代物である。が、ちょっと他でこれだけのものは見た事が無い。
しかしその小社にまたすごい伝説のあるところもあるようなのだ。小田原東町にあるという「戎(えびす)神社」は、なんと壬申の乱で敗れた大友皇子に従っていた家来が流れて来て、戎として皇子を隠れ祀りつづけて来た社だというのだ。これはあたしも速やかに赴かねばならぬ。
また、同じ東町にある小社の「白山神社」にはどうやら河童状の狛犬さんがおるようだ。先だっての寿町今井八幡神社の河童狛から直線距離にして1キロほど。関係あるか、同一の由来かもしれない。これまた速やかに赴かねばならぬ。

2010年10月20日


本日はちょこっと神社巡りを早朝へとシフトしましての小田原篇。いつぞやあげました「河童狛犬」と「大友皇子の戎」を目指しまして酒匂川と山王川に挟まれましたところへ。この辺です。

道すがらに「山神社」発見。『新編相模国風土記稿』にこの辺りに鎮守の山神社があるとあるので、そうかも。小さくなっても残っていたりする。特にここは公民館脇、というケース。

そして河童の狛犬が居ると『小田原の神社巡り』にあった神社庁管轄外の「白山神社」へ。うを。小田原でこの規模で神社庁に登録してないってのは珍しいね。ていうか未登録社で最大規模じゃないのか。
そして狛犬さん。こりゃ明らかに頭を皿状に細工してますね。以前の今井八幡のくぼみとは違うが確かに意図的に何かを示してはいるようだ。台座裏に年号ありそうなんだけれどコンクリで固められてて読めない。むぅ。

お次は「大友皇子の従者が流れて来て皇子を戎として隠れ祀った」という「戎神社」へ。ホントに神社脇の由緒書きにそう書いてある。
ここでギョッとしたのがその従者の名が「小澤某」である事だ。ここから北東にある「宗我神社」は地主神として謎の「小澤大明神」なる神を祀っている。実際江戸期は「小澤明神社」とも記されている。これは、どうなのだ。
また、普通に「えべっさん」らしく、社殿脇にはこんな海の石が運ばれて置かれている。ちょっと海の神さんが海から離れると、どこも海の石を拾って来て置くものらしい。ていうか多分昔はこの辺海岸だったのだけれど。

そのまま酒匂川河口部にある「網一色八幡神社」へ。先の戎神社は、もとこの境内にあり、この八幡の社叢を「戎の森」と呼んだともある。また、ここは江戸期は「御霊八幡」でもあって、鎌倉権五郎も祀っていた。
ていうか写真の祠を覗いたら恵比寿さんがいた(笑)。まだこっちにもいらっしゃるらしい。はてさて、「小澤」のキーワード出現で「ご当地伝説」と軽く見てもいられなくなりました小田原戎の巻でした。

補遺:

小田原行 2010.10.26

惰竜抄: