河津行

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2010.10.11

10月9日

秋の連休スタートであるこの日、伊豆河津町からはこんなツイートが届いておりました。
「……3連休、伊豆はガラガラみたいです、、おまけに雨……」
……だがしかしあたしは朝八時前に河津駅に参上っ!行くのに三時間かかる河津!雨なのにっ。ヒーハー!(©ONE PIECE)

今日は河津の奥地を攻めるべく、まずは下佐ヶ野。いきなり正確な位置の分からない「天神社」へ。地元の方にあれこれ聞いてみると「いや道っつってもなぁ。どう説明したもんか」と困らせてしまった……そういう場所なのだ。
ちなみにこの下佐ヶ野天神社への道は、各種ネット上の地図では最大倍率でも出ない。本編での説明をどうしたもんか。うーむ。
もう完全に「山の中」である。周辺の斜面からぼこぼこと大岩が露出している。そういう所を祀ったのかもしれない。
この天神社の狛犬がとんでもなかった。顔から前脚が…。残念ながらいつの時代のものか刻まれていない。ひいひいじいちゃんくらいか(最近あたしは人間だったらどのくらいかで狛犬さんを見ている…笑)。
さらにこちらの方がすごそうなのだけれど、手前に樹木があって正面が撮れなかった。残念。しかし一体どういう発想がこの狛犬のデザインに繋がるのか。

そこからさらに奥へ。上佐ヶ野の方へと登って行きますと、観光案内に『河津町の神社』にも載っていないお稲荷さんが。行ってみますとさもありなんというひっそりとした「豊利(ほり)稲荷神社」さんでした。

そして本日第一目標の筏場三島神社へ。鬱蒼とした森の中。ちょうど地元の方がお手入れされておりまして、お話を聞くことができた。あ、本当は社殿の前にしめ縄があるのですな。これを取り替えるために外してしまった所に行きあわせたのです。
この三島神社は社殿の向って左と本殿真裏に大岩がある。写真は本殿真裏。単純に見て磐座である。んが、『河津町の神社』も、ここへ参拝された方のネット記事等もほとんど大岩の事を扱っていない。なんでだ?
河津の三島神社について。筏場上佐ヶ野と逆川(さかのがわ)に三島神社があり、双方式内:布佐乎宜神社の論社(逆川が最有力論社)……なのだが、web上の情報はあまり詳しくない。
『式内社調査報告』でまったく触れられていないせいなのだろうが、実はこの二社は元々一つの三島神社で、筏場河津川沿いの三養院の近くにあった。これが元亀年間に分かれ、上佐ヶ野と逆川に遷したと『河津町の神社』にある。
逆川には「布佐屋敷」という地名が残る事が布佐乎宜神社であるという論拠なら、三養院近くから三島神社が遷してくる以前に逆川にそれがあった、という話で進める必要があるし、三島神社そのものが論社だというなら当該地は三養院近くの地だという事になる。
いずれにしても戦前から『式内社調査報告』までの調査には河津三島神社分裂の情報がなかったようで、この辺り全面的に見直す必要があるだろう。
ところで手入れされてた方と話していたら「ここの神さんは、あれだ、あっちの白浜さんとおんなじやぞ」とのこと。三嶋神といったら三嶋大社じゃなくて白浜神社なのだ。
ここも狛犬さんが面白い。なんという困り顔(笑)。明治四十年生まれのひいじいちゃんだ。

下佐ヶ野の方へ戻ってきまして今度は七滝へ向って進行。湯ヶ野というところの「水神社」。ここも正確な位置が分からない神社な上にたずねたらまた「道と言っても…」と困られた奥まった所にある。ちなみにここもネット上の地図で道が出ない。
小さい神社ながら手水完備。水神社の面目だ。社殿のすぐ脇を清流が流れていて、あちこちに沢蟹がウロウロしているという所である。
その社殿脇の大岩の上に謎物件。う、片瀬白田の片菅神社の鳥居脇にあったものに似ている…ような。しかしどうなってるのだこれは。ただ立たせて立ち続けるわけはないし…組んであるのか(苔で根元が分からない)。

そしてやや大通りから外れて「小鍋神社」。ここがすげえ伝説のある所なのだ。文覚上人が源頼朝をそそのかしたのがここだと言う。文覚は頼朝の父義朝の「髑髏」を手に、父の汚名を晴らすべく平家を討てと頼朝に迫ったと。
そして義朝の髑髏を葬ったのがこの樫の根元だというのだ。髑髏樫という。これが他愛のないご当地伝説かというと室町期の棟札に既にその旨書かれているのだ。少なくともその時期に伝説はあったという事ではある。
さらにここでも地元の方の話を聞く事ができた。というかびっくり。「ここは昔はシラハタ神社と言ったんよ」とのこと。ぐぉ。そんな話はどこにも出ていねぇ。しかし神社の目の前にお住まいで、実際この神社の手入れをされてる方の話である。白旗神社。ますますもって「源氏の社」である。
さて昨日の続き。河津の奥地へ攻め入っておりまして、もうこんな感じ。なんだか釣りキチ三平の世界である。

小鍋神社から国道414号線に戻りまして(この辺は歩道がないのでオッカネエ)、梨本という所の「梨本神社」へ。地名を冠しているが、もとは「水神社」だった。
本社殿脇の境内社が「床浦神社」という駿河から伊豆にかけてまれに見られる独特な疱瘡神で、地元の人的には「疱瘡神さん」である。だがしかし、ナンだこの鳥の木像は。鷹か鷲か。嘴的に猛禽類に見えるが、そういう組み合わせがあるのか。
しかし「疱瘡神」というのも疱瘡(天然痘)が消滅したのだから消え行く存在ですな。おそらく過去と現代で祀られ方のギャップが最も大きな神さんじゃなかろうか。優先的にまとめておいた方が良いものだろうか。

そしていよいよ河津七滝近くまでやってまいりまして「子守神社」。「ねのかみじんじゃ」と読む。祭神は大己貴命で、要するに子神社である。
子守神社には実に立派な石祠があった。こんな立派なのははじめて見ましたよあたくしは。秋葉神社・地神社・津嶋宮となっていて、なんとそれぞれ棟札があるのだそうな。祠の中にあるのだろうか。
子神社・子守神社の由来も各地様々だけれど、河津のこのあたりは甲子講に由来する。この梨本の子守神社もかつては甲子神社だったという。甲子講というのは要するにダイコクさんを祀って富をゲットというものであり、ダイコクさんから祭神が大己貴命・大国主命になる。
そんな感じでここはもう河津七滝(ななたる)の入口なのだけれど、地図やweb情報では、この子守神社の前が「七滝観光案内所」となっている。あたしは信じていたね。えぇ、疑いもしませんでしたとも。だがしかし、現在そこは「コミュニティーセンター」とやらになっており、ひと気もなし。
ここで正確な位置の分からなかった梨本の二社について情報を仕入れるつもりだったのに…orz。しかも、一天にわかにかき曇り(いや、朝からずっと雨ですが)、雨じゃんじゃん降りに。どう見ても撮影続行は不可能。滝だけは行っておくか、しかしバスが来る。逃すと次のバスは1時間後…ぎゃーす!
まだ滝奥に神社もあるしまた来るわけだし、という事でここは滝を止めてバスに飛び乗ったのでした。もともと雨がひどくなったら速攻切り返して河津の図書館で資料を調べる腹づもりだったしね。ふっふっふ。ぬかりはねえのよ。
だがだがしかし!バスに乗って下佐ヶ野の方へと戻ってきましたら雨が小降りに!どうするオレ!まだ下佐ヶ野から下って峰の方に重要な神社があるんだぜ。とバスを飛び降り再度参拝モードへ。臨機応変!(雨に振り回されているだけとも言う)

そんなこんなのドタバタを経つつ、川津筏場へ戻ってきましての「天川(あまかわ)神社」。造化神系を祀り、弁天さんとかではない。もとは梵天宮と言ったそうな。鳥居が両部鳥居なのはこの辺でははじめて見た。手前の祠は道祖神さん。
んまあ明らかに水神社の雰囲気でして、この石段を沢蟹どもが右へ左へとうろちょろしてるわけです。踏んづけないように登るのが大変なほどに。

そこから県道の方へ戻りまして、先ほどの話の筏場三養院を通りまして(三島神社についてなんかないかと珍しくお寺へ赴いたものの、インタホン押しても返事無し…残念)、筏場「天神社」へ。鳥居脇の大岩の上の石祠がミステリアス。
この天神社さん脇には石祠がたくさんあるのだけれど、どれも由来は不明という事らしい。しかしかつて河津に入って初っ端に「石祠文化圏だ」と直感したあたしは正しかった。何で駅近の祠一つを見てあたしはそう思ったのだろう。
そして峰大橋の方へ下ってきますと河津川にこの大岩がそそり立つのであります。ここを「べざい淵(弁財淵の意)」といい、大岩も弁財岩というようだ。弁天岩とか弁天淵じゃなくて弁財とつけるのは珍しいですな。
この場所への信仰を式内:伊波乃比咩命神社論社と見る向きもある。大岩を半ばまで登ると「弁財天」があるとちず丸が言っている。たしかに通りに案内板があって、鳥居はあるのだけれど……
んまー、参道はヘビーデューティーな竹やぶ急斜面に続いていまして、しかもほとんど行く人がいないようで竹は倒れてるはあまりにも密集して生えてるはで、傘をさしながらでは入る事もできませんでしたのココロ。ここは晴れの日じゃないと登れないと判断。ていうかホントにあるのか弁天さん。
そんなところで上の方で降っていた大雨が追っかけてきまして、さすがにこれまでと撤収モードへ。ていうかまだ三時くらいだったのだけれど暗過ぎてまともに写真撮れなさそうだったし。近くの滝山神社も次回という事に。
ところでこの「べざい淵」は河童が住んでいたようで、さらに弁天さんそのものの大変面白い昔話もあるのだけれど、それは実際弁天さんの有無を確かめてからにしましょうかね。
おまけ。この淵の下の橋の袂が以前に河津出身のフォロワさんから教えていただいていた河童岩。なんとこの辺りの子どもらはこの橋から川に飛び込むらしい。タクマシ過ぎるだろ河津っ子。
10月11日

予告!ちょっと一時間ほどただひたすらにダラダラします(笑)。
さて、「草ぼーぼーな処は、冬場に再チャレンジするのが良さそうですね…」とまったくなアイデアを頂いたにも拘らず、結局気がつくと伊豆急に揺られているあたくしなのでした(笑)。
いやもうあれじゃないですか。そろそろ弁天さんが夢枕に立って「へー、あたしは後回しなんだ。アンタもエラくなったもんよねー」とか氷河期が来そうな目で睨まれそうな気がするわけですよ。えぇ、えぇ(笑)。
そんなこんなで中一日(笑)で河津へ。何たる上天気。一昨日のあの大雨は夢か。そして河津の海岸から……うをー!ついに神津島が見えましたのことよ!ちょっともやってるのか三宅島こそ見えなかったものの、大島〜神津島が並んだですよ。
そして懸案の筏場弁財淵再訪。いやね、こうやってちゃんと峰大橋のたもとには立派な案内板が出てはいるのです。弁財天。

だがしかし鳥居はこんななのだ。今日は上天気だからまだしも一昨日の雨中だとあなた潜ったら取り殺されそうな雰囲気でしたわよ(笑)。
そして傘をさしての突入は不可能と判断された参道登り口。上天気でもエンヤコラなのは変わらないので「行ってみよう」という方は(居るのか)すっ転ぶくらいはお覚悟の上で。
竹の密集が一段落ついてもこのノリが続く。しかも十重二十重に(誇張でなく)強靭なクモの巣が張り巡らされている。当然色鮮やかなジョロウグモさんもシャカシャカ走り回ってますという事で。しかし弁天の地に女郎蜘蛛の大群か。できすぎだ。
これで何もなかったら泣けるとこだけど……あ、ありましたー!
しかも祠自体そう古くない。手前の由緒書きのような板は寄付者の一覧で平成の年号である。大通り脇の標識といい、外の人が来る事を目指して整えたけれど誰も来なかった、という感じか。いや、あたしは来たが。

さてこれでまずなかっただろう式内:伊波乃比咩命神社論社としての河津筏場弁天もネットに載ったわけだ(本編はいずれ)。肩の荷が少し下りた所でお近くの「滝山神社」へ。こちらも式内:多祁伊志豆伎命神社論社の「滝権現」かと思われる。
もっとも本来はもっと山奥にあったそうな。写真は境内の石仏。十一面観音か。石仏で十一面観音をこんなに丁寧に造作してあるというのもあまり見ない。
この滝山神社もまた清流が脇を流れているのだけれど、境内一面見事に苔むしている。苔を傷つけたりしないように細心の注意を払っての参拝。そういえば苔寺とは言うけれど神社の場合はどうなるのだ?
そして河津七滝へ。見事なループ橋。なんかつい最近見た気もするが……オトコが小せえこと気にすんじゃねよ、ってな線で(笑)。

七滝巡りコースからはちょっと外れた方にある「山(さん)神社」。大きいホテルのすぐ脇にあるので見かけより分かり易い。
まーようやく河津と言えばの七滝で、わさびそばうめえとか心太うめえとか、先だっての大雨で滝が瀑布と化しているとか、色々あるのだけれどその辺は割愛。それよりも「七滝(ななたる)」という読み方が貴重だ。
滝は古く「垂・垂水(たる・たるみ)」と言われた。河津七滝はこの古い名前を受け継いでいるのだ。一番下の「大滝」も「おおだる」と読む。逆になぜ「たき」と読ませることにならなかったのだろう。古い地形の呼び名が残る場合と残らない場合というのはどういう差があるのだろう。
七滝でちょっと地元話を聞いてみようと思った所、どこそこの旅館のじいさんがくわしいとか、いや、こっちの旅館やってる誰それに聞いてみろとか騒ぎになってしまった(笑)。結構観光客の方も多くお忙しそうな所申し訳ない事でした。
で、歩道のない国道を歩いて来たと言ったら大笑いされてしまった。そして、下の里の方へ抜ける抜け道を教えてもらった。かつて伊豆の踊り子たちが通った道だそうな。ホントは帰りはバスで戻るつもりだったけれど、せっかくなので歩いてみた。
その道の傍らに寄り添う石祠。伊豆の踊り子たちが通った道と言われるとこの石祠もまた違って見えますなぁ。
そして河津の駅へ戻ってきましてその後は!どじゃーん!ついに伊豆神社行も最南端の地へ。下田へと突入したのであります。押忍っ!

補遺:

話題に上がっておりました伊豆河津町の弁天さん。河津川にそびえる大岩(弁財岩)の下の淵を「べざい(弁財)淵」といい、その淵に弁天さんがおわするという。

この大岩中央の割れ目は淵底で洞窟となり奥に続いており(という昔話)、下田の方まで続いているそうな。あるとき山仕事の男が鉈をこの淵に落としてしまった。河童が棲むという淵で恐ろしかったが大事な鉈なのでえいやっと淵に飛び込み探すことにした。

すると淵底には洞窟があり、泳いでいくとたいそう立派な御殿が建っており、中から弁天さんが現れ…云々。あとは類型のお話と一緒。この御殿は下田へ続く水中洞窟の中央辺りにあるとされるのだけれど、要するに龍宮である。そしてそこにお住まいなのが乙姫さんでなく弁天さんなのだ。

これはありそうでないパタンである。龍宮の乙姫と弁天さんは江戸くらいにはもう完全に混交しているが、滝の壷、川の淵、海の底の「龍宮」に行ったら「弁天さんが」出てくる、というところまで混交している例はあまり見ない。

実は、あたしの追うテーマのひとつに「鎌倉の弁天」がある。頼朝はここ一番で弁天に祈願する。この理由がわからない。この当時弁天信仰が広くあったとは思えない。頼朝が西にいる間に弁天に深く傾倒したとは思えない。では、どこが発端なのか。流された先の伊豆ではないのか。

河津逆川の三島神社に関して、この「三島」神社が、かつて河津筏場小川、現・三養院付近にあったという「三島明神」が上佐ヶ野と逆川に分かれて祀られるようになったものだという話をした。今回はそれぞれの現・三島神社はさておき、そのもとになった幻の河津筏場三島明神について少し。

もとよりこの筏場三島明神に関しては何の史料もないのだが、周辺に押さえておきたいことがある。まず筏場と峰の境の「弁財岩」。これを『静岡県神社志』は「式内:伊波乃比咩命神社」の論社にあげている。そしてもうひとつ三養院にほど近い「天神社」。ここが古い。

永享十年というから十五世紀半ばの管公の板絵が伝世している。筏場三島明神が分裂したのが元亀年間十六世紀と伝わるから、その際この天神は既に管公を祀る天神として存在したことになる。

伊豆の天神が古くは管公ではなく伊豆三嶋大神の御子神を祀るものであったケースがままあることは以前指摘したが、この筏場天神もそうではなかったか(『南豆神祇誌』)と考えると筏場三島明神を考える上で重要となってくるだろう。

この天神社には「三口明神」なる神社が合祀(大正元年)されているのも気になる。下田城主に由来するとも土豪三澤某に由来するとも言われるが、良く分からない。ところで新島にいます三嶋大神の后神は「みとのくちの大后」。三津之口御后明神、とも書かれる。はて、さて。

さらに、逆川三島神社はまた神階帳にいう「おさめいわかはのみこ」ではないかともされるが、これは周辺に「天川(あまかわ)」の小字があり、これが「おさめいわかは」の転訛であるとされることによる。んが、筏場にも「天川(あまかわ)」の小字があり、「天川神社」がある。さて、はて。

こんな「数え役満」みたいなので論社がきまったら世話ないのだけれど(笑)、伊豆の式内論社の中には有力論社でも根拠薄弱なものが少なくない。幻の筏場三島明神があるいは、とあれこれ比定してみるのも悪くはないだろう。

河津行 2010.10.11

惰竜抄: