大みみずの子崔冲

韓国

昔、ある郡に、新官の赴任する当夜、必ずその妻が攫われるという事件が続いた。ここに志願した男が赴任し、妻に丈夫で長い絹糸の糸巻きをつないで夜を待った。すると、真夜中に雷声霹靂が起こり、部屋の灯りがみな消えた。男が灯りをともすと妻は消えていた。

朝になり、男が絹糸をたどると、糸は山中の大岩に空いた小さな穴の中へ入っていた。これは子の時と午の時だけ二つに割れ開くという「子午石」ではないかと思った男が時を待つと、はたして昼午の時に岩は大きく割れた。中には別世界があり、彼の妻と多くの女たちが捕えられていた。

妻は、賊は今狩猟に出ていて、それは人間に見えるが、伏して見ると大みみずに見え、ある時には大豚に見えるのだ、といった。しばらくして賊が帰ってきたので男はこれを剣で斬り殺し、妻たちを助け連れ帰った。しかし、そのときすでに妻は賊の子を妊娠してしまっていた。

十一ヶ月がたって男の子が生まれたが、男は下吏に川に捨てるよう命じた。下吏は流すに忍びなく、路傍に捨てた。その時は雨で、路に一匹の大みみずが這っており、男の子はそれを見てにっこり笑ったという。そして、この赤ん坊は崔某という子のない老人に拾われ育てられ、後日非常に偉くなった。それが高麗の崔冲であったとか、新羅の崔致遠であったとかいわれている。

孫晋泰『朝鮮の民話』(岩崎書店)より要約


蚯蚓と猪豚のこと。『三国遺事』にあるように、後百済を建てた甄萱(キョンフォン)は大蚯蚓が人の男に化けて娘のもとに通った結果生まれた子であった。これが針糸型の話型なので、三輪山神話の型のアジアにおける分布という話題には鉄板で紹介されもする。そして、そのことそのものも重要なのだが、一方この蚯蚓には猪豚と置換されるイメージがあるらしい、というところが問題となる。

そもそも「みみず」というのが祖神的な存在となるのか、どこに畏怖の観があるのかと思うのだが、これは「地竜」というほどのイメージであるようだ。甄萱にしても、蚯蚓の子であるがゆえに土遁の戦法に長け、これをもって新羅軍を悩ませた、というような派生伝説が下って語られるようになる。韓国朝鮮では蚯蚓もそのような神性を時には持つ存在であるということで、このように甄氏でなくても、同様の話が始祖の伝として語られることになる。ちなみに、通う異類の男でなくて攫われる女の方に糸がつけられるという点は気にしておいた方がよい。

さて、針糸(糸巻)型の異類聟の話は韓国朝鮮にも多く、やはり最も多いのは竜蛇が「夜来者」であるという話だ。もっとも、正体が大かわうそであったり亀であったりと(そういうのは日本にも結構あるが)バリエーションに富む感じもある。が、やはりここは蚯蚓を地竜とみて、竜蛇伝説の一端と見たい。

そして、その蚯蚓が「匍いながら(或は伏して)見ると、大みみずになって見えます。またある時は大豚になって見えることもあります」というのはどういうことだろう、ということなのだ。わからないのだが、この話、慶州崔氏の大祖・崔致遠の伝説としては、金豚であるという方がもっぱらとなるらしい。これは崔仁鶴『朝鮮伝説集』(日本放送出版協会)の方の301話「崔致遠先生」に紹介されている。筋はまったく先の大蚯蚓の話に同じで、こちらは蚯蚓は全く出てこず、「金豚」が賊の正体であり崔致遠の父であった、故に慶州崔氏は金豚の子孫だという話が今に伝わるのだ、という内容となる。

現状では慶州崔氏の祖神が金の猪豚であるという伝説と甄萱の伝説の混同ではないかという気もし、直ちにこれを竜蛇と猪豚が互換可能な存在であった実例、とするには至らないが、少なくとも混同しても通る話だ、というイメージがあったのには違いない。なるほど「地竜」であったれば、水の性の竜蛇がなぜ猪と、という問題をクリアしてしまうというのもある。いずれにしても、この韓国朝鮮の蚯蚓祖伝説の持つ一面は、竜蛇と猪豚の関係を考える上では必ず参照される一件となるだろう。