甲賀三郎の妖怪退治

京都府京都市右京区内:旧京北町

和銅の昔、丹波の山中に十六本の角のある大鹿が居て、人を食う田畑を荒らす、果ては御所にまで侵入して種々の祟りをなした。当代の勇士香賀三郎(又は香野三郎)は、勅命を受けて丹波に乗り込み、山麓において弓を削った。ここが弓削村である。この強弓を持って山を狩り立てた。その時一童子が現れ道案内したと云う。彼が甲冑を着けた所が今の衣懸山である。たちまち巨鹿の躍り上がるのを見て、たった一矢で射殺した。そこが赤石ヶ谷で、鹿を切り殺した岩が俎岩である。そして今の鎧岩の上で甲冑を脱し、都に凱旋したと云う。この時報賽の意味で創立したのが、知井村の八幡神社である。巨鹿の話については、他村にもこれに似た話が伝えられている。

みずうみ書房『日本伝説大系8』より原文


極めて重要な伝承。諏訪縁起の甲賀三郎は概ね醍醐天皇や平将門の時代、平安前期から中期にかけての人とされるのだが、他にも色々な伝説があり、ここでは和銅の人ということになっている。類話でも文武天皇の頃とか元明天皇の頃などといい、随分と遡る。そもそも別の話ではないかという感じだが、三人兄弟である事が強調されたりと、全く別ということでもないようだ。

もっとも、ここでは諏訪縁起の甲賀三郎との関係というような点は割愛する。紹介したいのは「十六本の角のある大鹿」のことだ。これはひとつの頭に二本角があるのだから、すなわち八頭の大鹿、という意味であって、類話の方にはズバリ「八岐頭(やまた)の大鹿」として描かれている。話の筋としても、これはまったくのところ大蛇退治譚の結構であって、大鹿を大蛇に置換しても何ら違和感がない。

鹿と竜蛇は非常に接近するケースがあるのじゃないか、という問題は長らく課題となっているが、これほど近い有り様が描かれている伝説は珍しいだろう。